2015年7月5日日曜日

『エミール』ルソー(戸部松実訳 中央公論社)---一つにまとめました

ピエール・ドゥ・ロンサール
ルソー『エミール』(戸部松実訳 中央公論社(抄訳))要約

「 」内は本文の引用。( )で括って小見出しを付けた 

序文

人間は、同時に二つの反対の目標に向かって進むことはできない。
計画には考えるべきことが二つある。第一は善であること、第二は実行できること。
子供の中に大人を求めてはいけない。
「この本の体系的部分とも称せられるであろうもの、それはここでは自然の歩みにほかならない」。 

第一篇

教育は、自然か、人間か、事物によってなされる。自然の教育とは能力や器官の内部成長のこと、人間の教育とは自然の成長を目的に活用すること、事物の教育とは経験によって学ぶこと。
自然と人間と事物の三つの教育が一致している場合だけが正しい教育である。われわれは、自然の教育はどうすることもできず、事物の教育はその一部だけでき、人間の教育だけが真に思い通りにできる唯一の教育なのである。
だが、人間の教育が人為であるかぎり、それが成功することはまず不可能で、できることは多少なりとも目標に近づくことである。
教育の目標とは自然の目的そのものである。なぜなら、自然と人間と事物の教育は一致しなければならず、後の二つには人為が関与するから。
自然とは、我々の感覚の本来の傾向のことである。感覚の傾向とは、快不快から理性が与える概念(幸福や完全など)にいたるまで、それらに基づいて、それを生じさせる事物や事柄を求めたり避けたりすること。本来とは、生まれてから次第に分別がつくようになるに従って変質してくる前の感覚の傾向。本来の傾向が変質する原因は、良くない習慣によって束縛され、またわれわれの誤った考えにある、とされる。
さきの三つの教育が相矛盾する場合はどうするのだろうか。例えば、自然か社会制度かのどちらかを選択することが強いられるとき、より具体的な例としては人間を作るか市民を作るかの選択を余儀なくされる場合。ローマやスパルタの市民という概念には、市民という共同体はあっても個人はないので、市民と個人は必然的に矛盾する。
必然的に対立する二つの目的から、二つの相反した教育形態が生じることになる。公民的・社会的教育と個人的・家庭的教育である。
われわれが目指している二つの目的が、一人の人間の中で一致することが可能だとしたら、人間の幸福から大きな障害を取り除くことになるだろう。その可能性を判断するには完全な人間になっていく人間、一言で言えば、自然人というものを知らねばならないだろう。
ここから、ルソーがエミールという子供の教育をしていくという思考実験が始まる。以降、子供が生まれてから口をきくようになる前までの教育方法について述べられているが省略する。 

第二篇

(身体の苦痛)
口をきくようになると、子供はあまり泣かなくなる。この進歩は自然なものだ。泣くことが、言葉で表現できないからでない限り、泣くのは周りの大人のせいである。
子供の怪我は、苦痛に耐えること、勇気を育てることに必要な経験なのだ。 

(自己の意識)
子供が力を持ち始めると、泣くことはそんなに必要ではなくなる。それは、子供が自己という意識を持ち始めるからである。この時期になったら、子供にとっての現在を犠牲にしてはならない。そうでないと、子どもたちは未来において、たとえ受けた教育が目的においては合理的であろうとも、決っして幸福を享受することがないであろうから。
「人間よ、人間的でありなさい。それがあなたたちの第一の義務なのだ。すべての身分、すべての年齢、人間に無縁でないすべてのものに対して、人間としての愛を持ちなさい。」「子供が生きている喜びを味わえるようになったら、すぐに彼らがその喜びを味わえるようにしてやりなさい。」 

(欲望)
自然が人間に直接与えるのは、自己保存に必要な欲望と、それを満足させるに足る能力だけである。その他の能力は潜在的なものに過ぎず、必要に応じて発達するようになっている。この潜在的能力の中で、先ず初めに想像力が目覚め、良きにつけ悪しきにつけわれわれに自身の可能性を広げて見せ、そして欲望をかき立てる。
人間たるものの身分に相応したことを忘れず、われわれの欲望と能力の不均衡がないようにすること、これが幸福のためになし得るすべてだ。 

(自由)
自由は幸福の中の第一のものであり、自由な行為は自分の意思(好きなこと)に基づく行為である。自由な行為を妨げるものは人間の弱さである。人間の弱さとは、一人では自分の欲望を達成する能力がないことである。人間の欲望はその弱さとともに増大するものであり、現実の社会は自然から乖離しているので人間を一層弱くしている。このような考察を基礎にして、先ず子供は人間である、しかし大人より弱いものであり、自然の中にあるとともに現実社会の中にもまたあるものと捉え、自然(=我々の感覚の本来の傾向)に戻って、教育の目標を達成するというのがルソーのプラン。そこで、各場面における子供の教育の処方箋が書かれている。
「真に自由な人間は、自分のできることしか望まず、自分の好きな事を行う。それがわたし(ルソー)の行動基準だ。これを子供に適用しさえすればよいのであって、教育のあらゆる規則はそれから自然に導き出されるだろう。」
依存関係には、自然に由来する事物への依存と、社会に由来する人間への依存の二つがある。前者は悪徳も生まないし、少しも自由を損なうことはないが、後者はあらゆる悪徳を生み出す。人間への依存は(今のところ)無秩序なものであるからだ。社会において自由を確保するには、人間の代わりに法(この法は、自然法則と同じように人間の恣意に左右されない)を置き、個別意思ではなく一般意思(ルソー『社会契約論』参照)を現実の力によって武装することだ。そうすれば人間への依存は事物への依存に変わるだろう。
「子供をただ事物にだけ依存している状態に保ちなさい。そうすれば、子供の教育の進行において、自然の秩序に従ったことになろう。」 

(憎しみ、立腹、支配、臆病、卑屈)
子供を不幸にする一番確実な方法は、望むものは何でも手に入れることができるという習慣を付けさせることだ。
「自分の力の範囲内に或るものをすべて自分のものだと見なすのは、人間の本来の傾向である。」(ホッブズの言い分には一理ある、とルソーは言う)だから、手に入れるためにはほしがりさえすればよい子供にとっては、宇宙は自分のものであり、すべての人間は自分の奴隷と見なす。
 そのような子供にとっては、拒絶は謀反であり、いたるところに悪意が満ちているから、そのような子供は人を憎み、してもらうことには決して感謝せず、あらゆる障害に対して立腹し、怒りに支配され、癇癖にさいなまされる。
しかし、やがて自分の実力がないことに思い知らされるはめになって、出合ったことのない障害に尻込みをし、結局、臆病で卑屈な人間となってしまう。だから人為的ではない自然の教育を忘れてはならない。

(理性)
人間のあらゆる能力の中で、理性は、いわばすべての他の能力の総合されたものなので、一番発達するのが難しく、また遅いものだ。だから、子供にとってその意味が理解できない言葉で教育してしまうと、子供はその言葉を、自分の本当の動機(ものほしさ、恐れ、見栄など)ではない理由づけとして誤用してしまうから良くないことだ。
「良い教育たるものの最高の作品は、理性的な人間をつくることである。それなのにみんな子供を理性によって育てると言い張るのだ。それではおしまいから始めるようなものだ。」

(時間)
12歳までの幼年期における、その最初の教育は純粋に消極的なもの、つまり、心を悪徳から、精神を誤謬から守るものでなければならない。なぜなら、魂はまだ理性の光を見ることはできず、習慣や偏見や盲目の魂は心に悪徳を精神に誤謬を招くからだ。
逆説的にいえば、この間の時間は(大人にとって目的に適ったと考える時間としては)無駄にすることこそ、教育における最も根本的な、最も重要で有用な法則である。
「彼に肉体を、肉体の諸器官を、感覚を、力を鍛錬しなさい。しかし魂のほうはできるだけ長い間遊ばせておくのだ。・・・・子供のなかで、幼年期を成熟させなさい。」

(所有)
われわれにとって、原始の行為は自分自身の生命保存と生活の安泰に基づいており、原始の感情は自分自身に対するものだけである。従って、正義に対する最初の感情は、われわれの果たすべき正義ではなく、われわれに対して果たされる正義から生まれるのである。そうすると、「子供に与えなければならない最初の観念は自由の観念であるよりも、むしろ所有の観念である。」
間違えてはならないことは、子供に何かを与えることは、所有の観念を理解させることにはならないということである。なぜなら、与えるということは約束事であり、子供はまだ約束事とはなんであるかを理解していないから。
子供に所有の観念を理解させるには、一緒に楽しく畑を耕し、子供が自らの身体と時間を用いて苦心して作物を育てて喜びを感じている頃合いに、この作物はあなたに所属するのだよ、と言って聞かせるのだ。そうすれば、自ら自然に働きかけて作物を作るという喜びに所有という観念が結びつく。
更に、ある日この畑が誰かに荒らされていることを経験させる。するとそこで子供の幼い心は怒りに燃え上がる。不正(正義の反対)に対する最初の感情であり、このことによって正義の観念が理解される。実は、畑を荒らしたのは、その畑を既に耕し作物の種を植えていた園丁であった、という話が続く。そこでルソーと園丁と子供の話し合いが行われ、今後、園丁の土地を借りて作物を作り、収穫物の半分を園丁に与えるということになる(交換の観念も理解される)。
「所有の観念が、労働による最初の占有者の権利にまで自然にさかのぼる。」

(うそ)
嘘には二つある。過去に関する事実上の嘘と未来に対する権利上の嘘である。前者は意識的に事実に反したことを語るもの、後者は守る意思のない約束をすることである。
他人の助けを必要としていることを感じ取り、しかもいつも他人の好意を経験しているものにとっては、他人を欺いても、また他人がありのままに事実見ないで思い違いをすることは、なんの得にもならない。だから、事実に関する嘘は子供にとって自然なものではない。
将来において守る意思のない約束をするという権利上の嘘は、子供にとって尚更不自然なものである。子供が約束したとしても、子供には自分のしていることが分かっていないのだから、約束が守られなくても嘘をついているのではない。
約束を守ることは、自然状態の外にあるものだから、子供にとっては自由に背く行為なのである。
「子供のうそはすべて教師のさせたことであり、子供に本当のことをいうように教え込むのは、うそをつくことを教え込んでいることにほかならない、という結論に達する。」

(学問・知識)
子供は、理性の年齢に達するまでに理解ができるのは、感覚で捉えられることのできる事物だけであり、他のことと関係がなくそのまま映し出されているもの(映像)だけである。だから、関係のなかで観念として捉えることが求められる学問を子供に教えるのは無駄であるどころか、有害である。有害である事例に枚挙の暇はないが、例えば今の歴史学は子供に楽しみも教訓も与えないものとなってしまっている。
「なんでもやすやすと学んでしまうように見えるために、子供はだいなしにされてしまう。・・・子供の言うことを聞いている人には、その意味がわかるが、当の子供だけには、さっぱりわかっていないのだ。」
何故そう言えるのかは、人間が認識するということについてのルソーの考えに基づいている。
「記憶と推理は本質的に異なった二つの能力であるが、一方は、他方なしではほんとうに発達するわけにはいかない。」(記憶と推理は、判断する能力に必須となる二大要素と考えているようだ)
「観念は、いろいろな関係から規定される、事物についての知識である。・・・およそ観念たるものは、必ず他の観念のあることを想定している。」(関係性がわからないと観念というものは持つことができない)
「われわれの感覚というものは純粋に受け身のものであるが、それに反して、われわれの知覚ないし観念は、判断を下す能動的な原理から生まれる。」(感覚は、人間が始めに受け取ることができる能力だが、知覚は後から経験によって獲得できるもので観念に含まれる)
判断には真の記憶が必要となる(真の記憶とは何かのはっきりした説明はないが、単なる丸暗記ではなく、推理と相俟って観念として捉えられている記憶のことらしい。子供は判断できないから真の記憶はないと言う言い方になっている)
推理といっても色々あって、目の前の利益に関する推理は動物でもできるレベルの低いもので、将来についての推理はレベルが高くものだが子供には理解できない。
「言語は記号を変えることによって、その表現している観念も変形させる。頭脳はさまざまな言語に応じて形作られ、思想は各国語においてその特有な形を持つ。その相違は、ある程度までさまざまな国民性の原因または結果となっていることだろう。そして、このような推測を支持するように思われるものは、世界のあらゆる国々において、言語が習俗の変化を追い、習俗とともに維持され、あるいは乱れているということだ。」(ルソーの言語論が述べられて、それに基づいた外国語教育批判)
「慣例は一つの形を子供に与える。そして、それだけが、理性の年齢に達するまで子供の持ち続ける唯一の形なのだ。」
「一つ一つの物は、子供にとって、無数の違った姿をとりうる。しかし一つ一つの観念は、たった一つの形しか持ちえないのだ。」(個別から普遍を取り出す)
「単語を変えただけで、言語を変えたわけではないのだ、彼ら(子供)はけっして一カ国語しか覚えはしないだろう。」
「どんな学問であれ、表象されている事物についての観念がなければ、表象している記号には全く意味がない。それなのに、人々はいつも記号のみを子供に注意させて、けっしてその記号の表象している事物を理解させるには至らない。」(事例として地球儀による地理教育批判)
歴史における事実(史実)は、他のいろいろな史実関係の中にあり、史実に対する観念は人間の行動の背後にある精神的なものと深く関係しながら形成されるのであるから、子供に歴史上の事実のかき集めて覚えさせても意味がない。「更にまたとてつもない思い違いから、人々は子供に歴史を学ばせる。歴史は事実のかき集めに過ぎないから、子供の能力に適したものだと考えているのだ。しかし、事実とは何を言うのか。」

(運動)
身体運動の感覚を通して得られるものは、人間が最初に学び始めるものである。運動は、自分の身体とまわりの物体との関係を、身体の力の及ぶ範囲やふさわしい使い方を教えてくれる。人間の最初の理性は感覚的理性であり、それは知的理性の基礎をなしている。(だから、子供の教育には、自然の環境の中で身体を動かして遊ばせることが大事)

(夜)
「夜の遊びをたくさんさせること。この忠告は想像以上に大切なことだ。夜が人間を、そしてときには動物を怯えさせるのは自然なことだ。理性も、知識も分別も、勇気も、このような運命から人々を解き放つことは殆どない。」
感覚の訓練の目的は、それによって良く判断する力を身に付けることにある。運動の目的は身体を丈夫にすることにあるが、身体の力を導く感覚を訓練することにもなる。身体を動かすことによって自分の誤りを経験によって正すと言う習慣を付けさせる。これは理性の始まりだ。だから、子供は動けば動くほど正しい判断力を持つようになるのである。
感覚は、使用され、鍛えられればそれだけ鋭くなり、必要に応じて使用される。触覚は、普通は特に訓練はしない。しかし盲人は、その必要性から視力を補う分だけ常人よりも鋭い触覚を持っている。逆に言えば、常人は視力を有するがゆえに、人間の一番基本的な感覚である触覚という感覚の力を失っているのである。
暗闇の中で人は不安や恐怖を感じる。だが、そもそも不安や恐怖を抱くのは自分のまわりで生じていることに対する無知によるものである。知らないから想像力を働かせるほかはなく、やがてこの想像力を自分で制御できなくなる。
習慣は想像力を殺し、新しいものだけが想像力を目覚めさせ、想像力が目覚めていないときには記憶が働くだけである。想像の炎によってはじめて情念は燃え上がるのだから、暗闇に怯える人を直そうと思えば、その人に言って聞かせても無駄であって、暗闇に連れて行ってそれを経験させるしかない。

(触覚と視覚)
触覚は人間の一番基本的な感覚なので、視覚だけではなく聴覚も補う、例えば音楽「チェロの胴に手を置いてみれば、・・・その内一曲全体を指で聞くことができるようにまでになる、とわたしは信じて疑わない。」
触覚の作用は身近にしか及ばないが視覚の働きは遠くにまで及ぶ。しかし視覚というものは、われわれの持っているすべての感覚のうちで一番間違えやすいものである(例えば錯覚現象)。それは、視覚が迅速で広い範囲に及び他の感覚によってすぐには修正されることができないからである。このことは、視覚はわれわれの精神の判断と最も密接に繋がっている、ともいえる。
視覚によって空間の認識をする場合を考えてみよう。視覚は、空間としては見ている事物の大きさ(長さ、距離なども)ではなく、目から事物に至る二本の直線で作られる角度を認識しているだけである。事物の大きさや明るさが変化しなかったら、われわれは視覚によって距離を推定することができないどころか、距離というものを考えることができないだろう。
「遠近による錯覚そのものも、わたしたちにとって必要である。実物とは違って外観というものがなかったら、われわれは何も遠くに見えないことになるだろう。」
距離の目測は普通不正確だが、それは視覚のせいではなく視覚の使い方(知識)のせいである(測量術の知識は角度と既知の長さを用いて遠方までの正確な距離を計算する)。
「空間や、物体の大きさを正しく判断することを学ぶためには、同時にそれらの形を知り、更にそれを写生することを学ばないわけにはいかない。・・・わたしの意図は、彼が物体を写生できることよりも、むしろ物体をよく知ることなのである。」
(空間の認識は身体を通して感じ取る感性を基本として、それに判断が加えられて観念となっている知覚に基づいている、ということを、ルソーはこの時代に既に言っている。)

以降、スポーツ、聴覚、味覚、臭覚、第六感(=五感の総合として感じ取られる感覚―知覚)などが語られた後に、完成した子供というモデルの説明がなされるが省略する。

第三篇
(勉強の時期)
幼年期の第三の状態というのは人生に一度だけしかない、自分の欲望が自分の力に及ばない特殊な状態、従って非常に強い状態にあり、まさにその時期こそは勉強の時期である。
勉強の対象には、真理であっても子供に理解できないもの、例えば人間関係についての知識を前提とするようなものは除かれるが、肝心なのは誤りを教えてはならないことだ。
「彼の目の前に自然の神聖な幕を開けて見せようとするものよ、恐れおののけ。・・・たえず思い出すのだ、無知はいまだかって害を与えたことがないことを、誤謬だけが不吉であることを、人はけっして自分の知らないことによって道を踏み外すのではなく、知っているつもりのことによって迷うのだということを。」

(少しずつ感覚を観念に変える)
感覚を観念に変えよう。ただし、一足飛びにではなく感覚の道案内によって、また、勉強が言葉を覚えることではない風に。
自然の諸現象に目を向けさせよう。この時、彼自身で理解することだけが理解することであり、彼が感じ取ったことだけが自然の諸現象(例えば日の出や日の入り)に目を向けさせることができる。
自分が感じている感覚に生徒の注意を向けさせるのは愚かである。なぜなら、生徒自身の心が感じ取らなくてはならないのであって、感じ取ることができるかどうかは事物経験の有無によるからである。
描写も雄弁も比喩も詩も無用「ただ明快で、単純で、冷静でありなさい。他のことばを使うときは、もうすぐにでもやって来るのだ。」

(好奇心を満たすのではなく育てよ)
間違いを犯さねば良いのだから、沢山の事実を教えるのは事実の代わりに誤謬が詰め込まれるのを防ぐためである。「理性、判断はゆっくりやって来る、偏見は群れをなして走り寄る。」
幼年期のはじめには間違って使うことを恐れて時間を無駄にすることが大切であったが、今は逆だ。有用なことをすべてするに必要な時間は限られている。というのは「情欲が近づいていることを、そして情欲が戸口をたたけば、あなたの生徒はもうそれにしか注意を向けなくなるのだ・・・学問を学ぶための方法を与えること・・・それこそ、確かに、あらゆる教育の基本的な原則だ。」
子供の質問には、彼の好奇心を十分満たすのではなく、それを育てるのに必要な分だけ答えるのがよい。考慮しなければならないのは、子供が口にする言葉ではなくその(好奇心に基づいた)動機の方である。
それによって原理に結びつけられるという、哲学者の方法である一般的な真理の連鎖とは別な、それによって個別のものが次々と現れてくるという、普通の人のやり方である好奇心の連鎖というものがあり、こちらの方は特に子供にとっては必要なのである。

(実験器械=方法、を自分で作ることが大切)
実験に用いる器械は、正確なものではなくても一度自分で作ってみるのが良い。例えば重さを測る天秤。というのは、その器械の目的や、器械の作用、使用結果予測などについての、自分自身で明確な観念を持てるようになるから。
「そして、自分の理性を卑屈に権威に従わせるくせをつけないだけでなく、関連を見出したり、概念を結びつけたり、道具をつくり出したりすることがもっと上手になる。」

(先見の明を教える)
子供が次第に、自分自身や幸福や関係を理解し、自分の適不適や時間の使い道を判断できるようになると、仕事と遊びの区別が出来るようになって来る。そうなれば、先のことを考えて今について判断すること(先見の明)を教えることができる。
「この先を見るということをうまく行うか悪く行うかによって、人間のあらゆる智恵、あるいはあらゆる不幸が生まれてくるのだ。」

(子供にとって役に立つことだけを教える)
子供には、その年頃に役立つことだけを教えなさい。「彼(子供)の能力の範囲を超えた観念については、全く無知でなければならないのだ。わたしの本は、初めから終わりまでこの教育の原則をたえず証明しているにすぎない。」
ある観念を与えることが出来るようになると、それが教育に大きな手段を与えることになる。しかし、観念はその子供に相応した意味しか持たず、それが自分の幸福と明確な関係を持っているときにだけ、その言葉は彼に強い印象を与える。だから、その子供に役に立つことを他の人がしてくれている子供は、あなたの言うところの役に立つ言葉には耳を傾けない。
『それは何の役に立つの』という言葉は、今後わたしと彼との間で、どちらが正しいのかを決定する神聖な言葉となる。それは、子供の立場で考えることのできない大人が良く用いる言葉なのだが、子供はあなた方に習って、後になってから大人に対して返される言葉、しかもそれに対して子供の役に立つ言葉として返すことをできなくするような言葉、なのである。

(役に立つ経験をさせる)
地理の勉強をしているときに、エミールが例の質問『それは何の役に立つの』と言った。そこで地理の勉強はやめて、翌日の朝食前にエミールと二人で森に散歩に出掛けて道に迷い、エミールが困惑したところで、森が町の北にあることと、方角を知ること(正午に太陽がある方向は南であること)ができれば、町へ着くことができることを教える。このように、子供にとって役に立つということを実感させることが、役立つことを教えることなのだ。

(一人で働くこととみんなで働くこと)
「(一般に出回っている)書物は、知らないことについて語ることを教えるだけだ。」人間としての自然の要求が、子供にとって理解できる形で示されて、それに興味を持たせ、それを実行する方法も順次展開されているという、そのような状況は作り出せないものだろうか。もしそれができれば、子供の想像力を育てる最初の訓練になる。
ロビンソンクルーソー(1719年)は、そのような子供の想像力を訓練するに適した唯一の書物である。「偏見を乗り超えて、事物の真の関係に基づいて自分の判断を秩序づける最も確実な方法は、孤立した人間の立場に自分をおいてみて、すべてのことを、そういう人間が自己の利益という観点からそう判断するに違いないと思われるように自分も判断してみることである。」
やがて一人が生きて行くに必要な自然の技術だけではなく、多くの人と協力した工業的技術を追求するようになる。「人間の相互依存を彼に示さなければならないときには、それをその道徳的な面から示すことはせずに、まず彼の全注意力を、人間を互いに他人にとって有用なものにしている産業や、機械技術に向けさせることだ。」

(自由と平等の教え方)
「あらゆる技術のなかで第一の、そして最も尊敬に値するものは農業である。わたしは鍛冶屋を第二位に、大工を第三位に、といったふうに並べていくだろう。」
「技術が、ただ細分化し、それの道具を無限に増やしてゆくことによってのみ完成するのを見て、彼(エミール)はどう考えるだろう。きっとこう考えるに違いない。あの人たちはみんな愚かしく巧妙だ。まるで、自分の腕が何かの役に立ちはしないかと恐れているみたいだ。それらを使わずにすませるために、あんなに沢山の道具を考え出すなんて。たった一つ技術を用いるため、彼らは他の無数の技術に縛り付けられている。」
本書で省略されている、この箇所で面白いところの岩波訳の引用。―――「読者よ、・・・感覚を、創造に富む精神を、先見の明を考えていただきたい。かれのためにわたしたちがどんな頭脳をつくりあげようとしているかを考えていただきたい。・・・(かれは)あらゆることの理由を知ろうとするだろう。道具から道具へ、彼はいつも最初の道具に溯ろうとするだろう。・・・自分がつかう一つ一つの道具を見て、必ずこう考えるだろう。もしこの道具がなかったとしたら、これと同じ道具を作るには、あるいは、こういう道具を使わないですませるには、どうしたらいいのか。」―――ルソーは、一人で、自然を材料にして、自分の手足及び自分で作った道具を用いて、食べ物や日用品を作ることが、子供にとってリアルであることの重要性を強調している。なぜならばそのことが、一人だけではなくみんなで生活する、それでいてお互いに従属しない社会(=自由な社会)を作る場合には、特に道具としての社会制度を創り、あるいは既にある慣習がそのような社会に適しているかどうかを判断できる人、そのような人になるためにとても重要なことだと、ルソーは言いたいからなのだろう。
どんな社会も交換なくして成り立たず、交換は平等なくして成り立たず、自然とは異なり社会においての平等には合意が必要であり、その合意には政府と法律が必要である。だが、「政府一般について、子供の知らなければならないのは、所有権に関することだけであり、それに関しては、彼は既にいくらかの観念を持っている。」(第二篇)。
事物の間の合意による平等は貨幣であり、この意味で貨幣は社会の絆である。貨幣は共通尺度で、持ち運びに便利なある金属で、刻印は重さを表し、鋳造件は君主だけである、と説明されれば、貨幣の利用は子供でもできる。それより先へ行ってはならない。「(貨幣の)誤用を示す前に、正しい使用を十分に説明することが必要である。」
「教師の技術は、・・・他日彼が市民社会の秩序の善悪を正しく判断するために、知っていなければならない重大な関係に、子供を近づけるようにすることだ。彼に与えられた精神の働き方につり合わせることを知らなければならない。」

(分業と協業の準備)
幼年期の第二期~第三期にかけて、先ずは自身の道具、能力を培ってきた。これからはそれを使い、自分の持っているものを自分の使用に適するものに変え、生活水準を向上させることだ。この段階になると、社会の能動的な一員になる前であっても、社会関係の諸観念が形作られている。
自然の第一法則は自己保存のための配慮であり、われわれは自然状態から外へ出なければ生きていけないのだから、各自が道具や能力を交換し合い社会を作っていくことになる。

(革命の時代が近づいている)
「自然は、君主も、金持ちも、貴族も作らない。(人為的なものが)何もかもなくなってしまったとき、自分の存在を、ただ自分の外にあるもののなかにのみ置いている、あの贅沢三昧のばか者はどうするというのか。」
「人間であり、市民であるものは、誰であろうと、自分以外には、社会に供すべき財産を持たない。彼のその他の財産はすべて、彼の意思にかかわらず社会のものである。・・・そしていかなる父親も、その同胞に対して無益な人間である(という)権利を息子に譲り渡すことはできないのだ。・・・社会のなかでは、必然的に他人の犠牲によって生活しているのであるから、人間は、労働によって、自分の生活費を支払わなければならないのだ。」
職人は自分の労働にしか依存していないから、一番自由な身分であり、農業は最も有用で高貴な職業だが土地に縛られている分だけ不自由である。だからエミールには次のように言おう。「おまえの父さんの残した土地を耕しなさい。しかしそれをなくしてしまったら、あるいはそれを持っていなかったとしたら、どうしたらよいだろう。仕事を一つ覚えるのだ。」

(われわれの子供はここまで来ている)
われわれの子供は、個人としての自分を認めることができるようになり、もう子供ではなくなろうとしている。完成した人間となるためには、愛情を持った、感受性のある存在になること、つまり理性を感情によって仕上げることが残っているだけだ。しかし、この新しい段階に行く前に、われわれの子供がどこまできているのかを見ていこう。
はじめは感覚しか持っておらず、感じることしかできなかったわれわれの生徒は、いまは観念を持っており、能動的な判断ができるようになっている。ここで観念というのは、複数の感覚の比較や判断によって、複合感覚が生まれていることを言い、能動的判断とは、単に感覚の比較に基づく受動的なものではなく、知覚あるいは観念、即ち複合感覚に基づく判断のことである。
現実の社会においては、知識というものを知れば知るほど間違った判断を下すものである。なぜならば、判断する必要性が、知識よりも先にどんどん大きくなる虚栄心にあるからである。「ヨーロッパの諸学術団体が、うそを公然と教える学校にすぎないと言うことは誰の目にも明らかだ。」
「事物がわれわれに対して持っているきわめてはっきりした、きわめてわずかな直接的関係を除けば、その他すべてのものに対して、われわれには本来深い無関心があるだけなのだ。」しかし、われわれは未開人のように他と関係を持たない自然状態においてではなく、相互依存の関係にある社会状態において暮らしている。だから「エミールは荒野に追いやるべき未開人ではない。彼は都会に住むようにつくられた未開人だ。・・・彼に正しく判断することを教えようではないか。」
エミールはわずかな知識しか持っていないが、知識を獲得する能力において、普遍的な精神を持っている。彼は物理的知識しか持っておらず、歴史、形而上学、倫理学も知らない。人間の事物に対する本質的な関係を知っているが、人間の人間に対する道徳的関係は一切知らない。観念を一般化することも殆ど知らない。ある種の物体に共通した性質は知っていても、その性質自体について考えることはない。空間や数の抽象化を幾何や代数が示す図形や記号によって知ることができる。事物をその本質によって知ろうとはせず、自分との利害関係によってだけ知ろうとする。自分の外にあるものを自分の関連においてしか評価せず、その評価は正確であり、気まぐれや慣例に左右されず、自分に有用なものほど評価し、自分の評価の仕方を変えることがないから他人意見によって左右されない。
エミールは勤勉で、節制を守り、我慢強く、確固として、勇気にあふれている。想像力が燃え上がるようなことがないから、危険を拡大して見せようとしたりはしない。運命に抗うことは学ばなかったから、苦しみをあまり感じず耐え忍ぶことができる。死についてはそれが何であるか分かっていないとしても、必然の掟を受け入れることに慣れているから、死ななければならないときには、従容としてそれに従うであろう。「これらを一言で言えば、エミールは自分に関係する徳はすべて持っている。しかし、社会的な徳を持つことができるために必要ないろいろな関係を知ることだけが欠けている。彼の精神が、今や受け入れようとしている知識だけが欠けているのである。」

第四篇(本抄訳では殆どさくじょされているから「サヴォア人司祭の信仰告白」を除く)

(情念の変遷、自己愛、恋愛、自尊心)
人間は思春期に達するまでの子供の間は、男女に区別はなくてともに子供である。思春期こそ人間が真に人生に対して生まれるとき、まさにわれわれの教育の始まるべきときである。しかしその前に、それに関係する事柄についてもっと前に溯って考えてみよう。
自然から湧き出てくる情念は、自己保存のための手段であり、自由の手段である。だがそれは、途中から流入してくる無数の流れによってわれわれを破滅させる情念の奔流と化す。人間の唯一の根源的情念は自己愛である。すべての情念はこの根源的情念が外部的要因によって変形したものである。
子供の最初の感情は自己愛であり、そこから第二の感情として、自分の生存に役立つ者に対して抱く執着が生まれる。この執着は習慣であり、好意ではなく単なる認知である。乳母などが有用であるだけでなく、彼のために有用でありたいと願っていることを彼が理解し、愛を知るには長い年月が必要である。
子供が他人への依存を拡張していくにつれて、他人との関係についての様々な感情が目覚め、義務や好悪の感情が生み出される。自己愛には満足する限度があるが、自尊心には満足の限度がない。なせなら、自己愛は自分自身しか考えに入れないものなので、自分の欲求が満たされれば満足するが、自尊心は、他人と自分を比較して、他人もまた彼ら自身よりも自分の方を大切にすることを要求するので、満足することはないからである。自尊心からは、憎しみに満ちた、怒りの感情が生まれる。従って、人間を本質的に善良にするのは、欲求をあまり持たず、人と比較しないことであり、人間の心が悪へと導かれることを防ぐ技術が不可欠である。
人間にふさわしい研究は、人間関係の研究である。その研究はわれわれが今到達したところから始まり、人生全体をとおして続けられる。異性に引かれること自体は自然な本能によるものだが、恋をする能力を持つには習慣や知識や理性が必要である。誰に恋をするのかという選択は理性に反しているどころか理性に由来している。恋は自然の傾向を抑制するものであり、だから恋愛をすれば他の異性に興味を持たなくなる。
愛は相互的なものであり、愛されるためには、自分が愛するに値する者、少なくとも自分の愛する人にとって愛するに値する者でなければならない。そこで始めて、自分と同じような人間に注目するようになり、競争心や嫉妬心が生まれる条件が整えられる。愛人を必要とする気持ちと同じように、友人を必要とする気持ちも生まれ、不和、敵対、憎悪の気持ちも生まれてくる。
そこに自尊心も生まれ、それは強い者には傲慢となり弱い者には虚栄となり、他人の犠牲により自分が利することを良しとする。子供の心にはこうした情念の種はないから、大人が持ち込まない限り芽生えることはない。しかし、青年期には人間関係に目覚め、自尊心が生まれてくるから、思春期までとは教育の方法を変えねばならない。

(情念に秩序を与える)
情念に秩序を与えようとするなら、それが自然に生まれ出てくるにつれて、それにふさわしい速さで教育をすればよい。しかし、社会の中で奔流のごとく押し寄せる偏見は、子どもたちを押し流し、彼らの想像力をかき立てる。情念の源泉である感受性から湧き出る感情によって想像力を縛り付け、理性の判断によって他人の意見を黙らせなければならない。情念を悪徳に変えるのは想像力の生む過ち(あやまち)である。他人との関係が悪くなったとき、それは自分の本性に適った関係ではないからだと想像するが、自分の本性に適った関係を知るには、あらゆる存在の本性を知らなければならないからこれは出来ないことである。だから想像力は過ちを生みうるのである。
情念の利用法には二つの智恵が必要である。一つは、人類全体における、また個人における、人間の真の関係を感じ取ること。二つ目は、この関係に従って、魂のすべての感情を秩序づけること。
生徒の感受性が自分の外に広がってはじめて、まずは善悪の感情を、次にその観念を持つようになる。善悪の観念が、生徒を真の人間として、人類全体の中の一部として、作り上げる。だから、われわれの観察はこの第一の点に絞らなければならない。
この観察を行うにふさわしい実例を見つけるのは難しい。早熟な子供は自分の欲望の本当の対象を感じ取る前からそれを知っているから、本当の教育を受けることができなくなっている。自然の本当の歩みはもっと緩やかである。長い間の焦燥が、最初の欲望に先立つ長い間の無知が、その欲望をなだめすかしている。やがて自分は一人で生きるために作られているのではないことを感じ始め、心は情愛に向かって開かれるようになる。
注意深く育てられた青年の抱きやすい感情は恋ではなくて友情である。想像力はまず同胞の存在を教え、異性よりも先に人類全体の方に彼の心を動かすのである。早熟を避けること、無知であることには、人類愛の種を育てることに対しての利点がある。

(憐愍という情念の出現)
社会性は人間の弱さに由来し、心を人間愛に向かわせるのは共通の不幸である。何も必要としない人が、何かを愛しうるとは思われない。何も愛さない人が、幸福でありうるとは思われない。共通の必要が利害によってわれわれを結びつけ、共通の不幸は情愛によってわれわれを結びつける。
幸福な人に対しては愛情より羨望を抱くとともに、幸福な人がわれわれを必要としないことを感じ取るからわれわれの自尊心は傷つく。しかし、不幸な人に対しては同情し憐憫の情を抱く。それは、われわれは不幸な人の立場にだけ自分の身を置いて見ることができるからであり、不幸な人の立場に身を置いてみても、実際には自分は不幸ではないという喜びを感じるからである。羨望は辛い。なぜなら、自分は幸福な人の立場に身を置くことは出来ず、幸福を享受できないことを残念に思うからである。哀れみは他人の不幸から逃れさせ、羨望は幸福が奪われているように感じさせる。
だから、青年の心の中に生まれつつある感受性を育み、彼の性格を善の方向に向けるには、偽りの幸福の姿(華麗な宮廷、魅惑的な劇場、きらびやかな社交界など)によって自尊心や虚栄心や羨望を芽生えさせてはならない。人間を知る前に社会を見せても、彼を教育することにはならず、堕落させるだけである。
人間は生まれながらに王でもなければ金持ちでもない。裸で生まれ、人生において様々な苦しみにさらされ、最後には死ぬ。これが真に人間的なものであるのだから、まず最も普遍的に人間を構成しているものから研究し始めるがよい。
16歳になれば自分が苦しむこと自体は理解できていても、他の人もまた苦しむと言うことは殆ど理解していない。しかし、官能の最初の目覚めが想像力の火を点ずると、自分を自分の同胞のうちに感じ始める。その時こそ、他人の苦しみを自らの苦しみと捉えることが出来るようになり、心の中に最初の憐愍が生じるはずである。

(憐愍は関係性から生まれる)
憐愍は想像力が自分を自分の外に連れ出すことによって、始めて感じ取ることが出来る。憐愍は、苦しんでいる動物を自分と同一視するように、自分の存在が他の存在と同じとなることによって生じる情念である。
憐愍を感じ取れるようになるという感受性を育むということは、彼の心に善意、人間愛、憐愍、親切等の本来的に快い感情をかき立て、羨望、貪欲、憎悪等の、感受性を無にするどころか、苦しみとなるような忌まわしく冷酷な感情を妨げる。

(憐愍の内容---ここは中公版では省略されているので、岩波版による)
以上の考察は以下の三つの格率に要約できる(憐愍の内容が説明されているのだと思う)。
第一の格率
「人間の心は自分より幸福な人の地位に自分を置いて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分を置いて考えることができるだけである。」
だから、青年に人間愛を感じさせるには、他の人たちの輝かしい身分を感嘆させるようなことはしないで、それを惨めな側面から示してやるのが良い。
第二の格率
「人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。」
だから、家柄も健康も富も当てにならないように教えるのが良い。
第三の格率
「他人の不幸に対して感じる同情は、その不幸の大きさの大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。」
一言で言えば、あなた方の生徒に、あらゆる人間を愛すること、・・・あらゆる階級に自分を見出させるようにするが良い。

(他人の経験を自分の経験とする)
道徳的秩序を考える段取りとなった。良心の最初の声が、愛と憎しみの感情から善と悪の観念が生まれるのか考えてみたい。正義と善悪は理知(悟性)によって形成された抽象的な道徳ではなく、理性によって導かれた魂の情愛、原始的な情愛が秩序に従って進歩したものである。良心にかかわりなくして理性のみではいかなる自然の掟を成立せず、自然の権利も、人間の心にとって自然な要求に基づいていなければ妄想にすぎない。
自分のことしか考えられなかったエミールが、他との比較を始めたときの最初の感情は一位を望むことである。そのときが、自己愛が自尊心に変わる転換点である。だから、彼は社会における自分の位置を感じ取り、また自分の望む位置を獲得するために、打ち勝たねばならぬ障害を知らねばならない。
彼を導いていくには「人間に共通の偶有性によって人々の姿を示してやったのちに、今度は、互いに違う点によって人々の姿を示してやらなければならない。ここで、自然的な、また社会的な不平等の程度が示され、社会秩序ぜんたいの一覧表が示されることになる。(今野訳)」
社会は人間によって、人間は社会によって研究しなければならない。先ず人間の原始的な関係に着目する。そこに生じている情念がどのようなものであるかを知る。情念が発達すると関係が複雑で緊密になることがわかる。人間を自由独立にするのは腕力ではなく(欲望に対して)節度ある心である。社会の基礎は生理的欲求にあるのに、無益な欲望にあると考える人は原因と結果を取り違えて混乱している。
自然状態においては、人間同士の差異が一方を他方に隷属させるほどには大きくはない(平等)。(現実の)社会状態においての平等は、それを保つ手段自体がそれを破壊するものとなっているので架空のものである。多数の人が常少数の人の犠牲にされ、公衆の利益が個人の利益の犠牲にされ、正義という言葉が暴力の道具となり不正の武器となっている。われわれは正義と理性にしたがって、一部の指導階級の人々にどの程度の尊敬を払うべきか、彼らが自らに与えた地位が彼らの幸福に好都合なものかどうかを見て、われわれ一人一人が、自分の状態についての評価を自分で判断することが今一番重要な研究である。だが、そのためには先ず人間の心を知ることから始めなければならない。
若い人たちには、仮面をかぶった人間ではなく、あるがままの人間を見せてやるのがよい。それは人間を嫌いにするのではなく、人間を哀れみ、反面教師として人間を考えさせるためである。「これは、わたしの考えでは、人間が人類に対して持つことのできる一番筋の通った考え方だ。(今野訳)」
この見地からすると、今までとは違って、青年の教育は自分の経験だけではなく他人の経験によってなされることになる。もし青年がだまされたときには、そのだました人を憎むだろうが、だました人々がその青年を尊重しつつお互いにだまし合っている様を見れば、そこに同情(哀れみ)を感じ取るだろう。
青年には、人間は生まれながらにして善であること、そして社会が人間を堕落させることを教えるのだ。悪徳の源泉が偏見にあること、尊敬できる個人と軽蔑すべき群集の存在、仮面の下の顔は仮面よりも美しいこと。これらを見せるのだ。
その実行は難しい。一つは見せる時期、一つは見せる程度、一つは見せる善悪のバランス。そして、他人経験を自分の経験に置き換える際に用いざるを得ない形而上学を誤用。これらの問題が含む危険を避けるには、この時期に歴史を学ぶことが大切となる。

(歴史の研究には伝記が良い)
一般の歴史は表面的で形式的な事実に終始し、人間ではなくて人間の行為しか扱わず、それらの意味内容や原因を取り扱わないから不備である。哲学は体系を重視して物事のあるがままの姿に着目しないからダメである。だから、人間の歴史を研究には伝記によるのが良い。

(自尊心と憐愍の一般化)
自尊心を他人にまで押し広げると美徳となる。美徳は既に人間の心の底にある。利害を一般化すれば公正となる。人類愛は人間の正義に対する愛にほかならない。各人は種族の一部であって個人の一部ではないから、求めるのはすべての人の最大幸福であり特定の個人のそれではない。
憐愍を人類全体に一般化しなければならない。われわれは憐愍が正義と一致する限りにおいてしか、感情をそれに委ねない。あらゆる美徳のうちで、正義が一番人々利益に貢献する(正義は一般的でなければならない)。理性と自己愛によって、われわれは人類全体に対して憐愍を持たねばならない。私の生徒は、それらに対して内心の喜びを得るし、他人の利益ともなる。
わたしの与えた手段(教育)の結果は次のようなものとなるだろう。広範囲な対象に整理された自分の意見を持っている。崇高な感情がこせこせした情欲を押しつぶしている。明快な判断力と的確な理性を持っている。それらは、己の偉大な魂の願いを少ないチャンスの中に集約する経験や、他人を自分のレベルに引き上げることができないときには自分で低いレベルに降りていく経験によって作り上げられている。正義の真の原理、美の真の原形、いろんな存在の精神的関係、秩序に関するあらゆる観念が彼の悟性に刻みつけられている。善をなしうるものと妨げるものを見る。情欲を感じなくてもその幻影とその手の内を見る。

(哲学の抽象的概念は、ほとんど何も手がかりを与えない)
人間は考えるということを、容易にし始めるものではない。しかし、一旦考えることをし始めると、もう考えることをやめない。読者は、わたしが人間の精神について、ときにはその発達を買いかぶりすぎ、またときにはその能力よりも狭い範囲に閉じ込めすぎるのではないかと思うかもしれない。

(しかし上記の懸念は的外れである。というのは)自然人を作るからといって、彼を森の奥へ追いやろうとするのではない。要するに、社会に渦中にあっても、情念にも世論にも流されなければよいのである。自分の目で見、自分の心で感じ、自分の理性に従っていかなる権威にも支配されなければそれで十分なのである。また、哲学の抽象的概念は、ほとんど何も手がかりを与えない(そのような懸念を持つ人は哲学の抽象的概念に基づいて考えるから)。それらを手がかりにするには、肉体から抜け出るか、対象から対象へとゆっくり上っていくか、巨人のように一跨ぎするかだが、子供にはどれもできない。哲学の抽象的概念を手がかりにするためには、大人でも特別な梯子が必要だが、抽象的概念はこの梯子の第一歩なのだから、どのようにして人々がその梯子を作ることを思いつくのか、わたしは理解に苦しむ(ルソーが本当に理解に苦しむとしたら、哲学者とは言えないが)。世界に存在する事物や運動を与える存在は、感覚で捉えることができない不可解な存在であって、どう考えてよいかわからないものである(この記述の意図はよくわからない。ルソーが本当にどう考えてよいかわからない、というか、そのことについて考えること自体に価値を認めないとすれば、哲学者とは言えないが)。