2016年9月13日火曜日

ヘーゲル『精神現象学』③(A意識 Ⅱ知覚、或は物と錯覚)

これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。



ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳(A意識)


 知覚、或いは物と錯覚

感覚的確信は、物をこの物として捉えようとするだけだが、知覚は物を自分にとって存在する、ある普遍的なものとして捉えようとする。言い換えれば、知覚は、対象化した物から現象してくる感覚的なものを区別して反省(考察)することで、普遍的なもの、つまり真なるものを捉えようとする。



 [一 物の簡単な概念]

知覚は、感覚的確信のように単に今ここにあるこの物としてではなく、この物が持っているいろいろな性質によって、この物であること、普遍的にこの物であることを知る。例えば、塩という物は、白いということも亦、辛いということも亦、結晶が立方体であるということも亦、その物の性質であるということにおいて、その物が塩であることを知る。真は個別ではなくて普遍にあるのだから、物の真理は物の方に多様なものとしてある、ヘーゲル流にいえば物とは多である(肯定的普遍態)。物とは多様な普遍性が統一されたもの、と捉えることが出来る。



『かくてこのも亦が純粋に普遍的なもの自身であり、言いかえると、媒体であり、諸性質を総括せる物たることなのである。』



だが、物というのはそれが持っている諸性質の統一という側面だけではなく、それ自身が他と区別される一者であるという側面を持っている。諸性質自身は普遍的であっても、この物に備わっているのは、他の物にも備わっているという関係において備わっていると知覚されているのだから、(限定されたものとして)他の物の性質ではなくこの物の性質であり、その限りにおいて個別的なものである。観察されたのは、同じ白色でも砂糖の白ではなくて塩の白であった。塩は白かったのであって、白いから塩なのではない。ヘーゲル流にいえば物とは「一」である。性質の限定的な否定性もまた物の本質に属している(否定的普遍態)。



『・・・媒体(物)もただ単にも亦という諸性質を没交渉にしておく統一であるにとどまらず、一者であり、排他的統一でもあることになる。』



だが、知覚によってこの物が他の物と区別されたものであることを知ることができるのは、他の物と共通な性質という普遍的なものによってである、ということは、考えてみれば不思議なことで、物を対象とした意識の反省的運動としての知覚にはまだ知られていないナゾがありそう(このナゾ解きは、対象が物ではない場合にも役立つはず)。ヘーゲル流にいえば、知覚によって物が物として統一されていくのは、上述の肯定と否定の二契機が関係していくことで成し遂げられる、ということになる。



[二 物に対する知覚の態度]

知覚における意識の基本的態度は、対象を意識に生じてくるがまま捉えることであるが、そうすると、物は一であり多であるということになり、自己同一性という真理の基準に反することになった。

だが、物を知覚するという経験をよく見てみれば、自己同一性という物の真理は対象の側にあるのでもなく意識の側にあるのでもなく、意識と対象が交互に訂正し続ける運動にある。ヘーゲル語でいえば、物は「対自存在」かつ「対他存在」なのであり、実は同じことなのだが、これを意識の側からの言い方では、意識のありかたによって物は「一」でもあり「多」でもあると受け取ることが出来るようなものなのである。

言い換えれば、他とは独立してありながら他との関係においてあるという物の二重性は、多様な性質を持つことで他と区分されているのだ、とも、それらを一つに統一する媒体であるのだ、とも受け取れる意識の二重性と同じなのである。

『・・・物は補足する意識に対して或る一定の仕方において現れてくるが、しかし同時に物はいま現れてくる、そのしかたから出て己のうちに還帰しもすること、言いかえると、物がそれ自身において相互に対立した真理を具えているという経験がえられることになる。』

実は、物というものは物質の集まりなのであって、だから性質もまた物質の集まりであり、これが意識において一者として引き受けられる理由である。しかし、意識は己も物も一者であるとすると同時に、物は独立した物質に分解することも亦とし、即ち物が一と多との二重の仕方で現れてくることを経験する(自然の法則と共に、究極の物質をどこまでも追求したがる人間の精神的営みの哲学的原理の契機が述べられているようにも思える。観測手段が高度化すれば知覚で捉えることの出来る性質の内容も豊富となり、多と一の運動が果てしなく続くのだが、これは自己同一性の追求、同じことだが物を構成する究極物質、つまり一の追求なのである、と)。



 [三 制約せられぬ普遍性という悟性の領域への移行]

ここまで感覚的確信から知覚に進み、物を捉える意識の経験が対象と意識の弁証法的運動によって展開してきて、物とは一であり多である、とか、物は独立でありながら他との関係においてあるという二重性の下にあり、それは意識の二重性を同じである、言い換えれば、物は対自存在であり且つ対他存在であるなどと述べられてきた。

しかし、その間に還帰したり止揚されたりした普遍的なものは感覚的なものから出て来るものだから、結局それに制約されていることになる。物の真理を問うことの本質態は、この制約から離れた世界(悟性の世界)から考え直さなければならない。



『(他者に対する存在に囚われている対自存在にすぎないとしても)対自存在と対他存在との両者が本質的に一つの統一においてあるのだから、いまや制約せられず物ではない絶対的な普遍態が出来上がっており、意識はここに初めて真に悟性の国へ歩み入るのである。』



[四 総括]

(省略)


2016年9月10日土曜日

ヘーゲル『精神現象学』②(A意識 Ⅰ感覚的確信)

これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。

ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳(A意識)
2016/9/10改訂
 感覚的確信、或いは「このもの」と私念

「我々」にとっての対象の知は、はじめは直接的なもの或いは存在するものの知以外にはない。「我々」としても、現れてくるがままのこの知を、概念的理解から遠ざけて、感覚的確信において受け取るほかはない。
この感覚的確信は、最も豊かで無限の内容を持ち、最も真実であるかのように見える。しかし実際には、この確信は、対象を区別することも関係づけることもなく、ただ純粋な個別的な「このもの」としか言えないようなものであり、また、そう受け取る意識の方も、同じようにただ純粋な個別的な「このひと」という自我・私にすぎない。
だが「我々」がよく見てみると、感覚的確信は純粋な直接態に留まることは出来ずに、ただちに自我としてのこのひとと対象としてのこのものとの区分が出現し、直接態としての無数の実例の区別も出現している。「我々」がこの区別について反省すると、対象も自我も単に無媒介にあるのではなく、双方を介して確信の内にあることも分かる。

『・・・「我々」がいかなる場合にも主要の区別として見いだすものは・・・自我としてのこのひとと対象としてのこのものとが離れ落ちるということである。』

『もしこのさい「我々」にしてこの区別について反省して見れば、一方も他方も感覚的確信においてもただ単に無媒介にのみあるのではなくして、同時に媒介されたものとしてもあることがわかるのであって、自我は他者を介して即ち事柄を介して確信を持っているのであり、そうして事柄も全く同様に他者を介して即ち自我を介して確信の内にあるのである。』

[一 この確信の対象]
感覚的確信は、対象こそが本質的実在であると思っているのが実状であるのだが、「我々」に言わせれば、この対象とは知としての概念である。この実状としての対象と概念としての対象が一致するかどうか確かめなければならないのだが、そのためには、今のところあくまでも「我々」が反省したり考察するのではなく、感覚的確信が具えているあるがままの姿において対象を受け取る他はない。

『そこで感覚的確信自身に向かって「このものとはなんであるか」と問われるべきである。』

「このものとはなんであるか」という問いにおける「このもの」を、存在の二重形態としての「今として」「此処として」として考察してみる。「今として」の場合、「このものとはなんであるか」という問いの例は「今とはなんであるか」となり、その答えが「今は夜である」と答えたとしよう。昼間になって同じ問いを発したら、その答えは「今は昼である」となって、夜に答えた答えとは違っている。夜は否定されて昼となっている。しかし、「今とはなんであるか」という問いに対しての答えとしての今は、昼でもあり夜でもある今である。否定されて持続するもの、無媒介にではなくて媒介されて(知によって対象が概念として捉えられ)持続するものをして、我々はこれを普遍的なものと呼ぶ。普遍的なものが感覚的確信にとっての真なるものなのである。「このもの」のもう一つの形式である「此処」についても同様である。例えば、私は樹を見ているが次に振り返って家を見ている、という場合に、此処は樹であったが家となったとしても、「このものとはなんであるか」という問いに対する答えは、それが樹ではなくて家であるとか、家ではなくて樹である、ではなくて、樹でもあり家でもある「此処」が普遍的なものなのである。

『かく否定によって存在し、「このもの」でも「かのもの」でもなく、このものならぬものでありながら、それでいて全く一様に「このもの」でも「かのもの」でもあるところの単純なもの、我々はこれを普遍的なものと呼ぶのである。だから普遍的なものが実際には感覚的確信にとっての真なるものなのである。』

我々が感覚的確信において真なるもの、普遍的なものを言い表すのは言葉をもってするのであり、言い換えれば言葉は普遍的なものなのである。
ここに至ると、知と対象がはじめとは反対になっていることが分かる。感覚的確信において真なるものは、はじめとは反対に、自我がこれについて知ることのうちにあるもの、私念のうちにあるものとなっており、自我や知が媒介しない無媒介なもの、自体的なものではない。

『確信の真理は対象のうちにはあっても、この「対象」は私の対象としての対象であり、言い換えると、確信は私念のうちにあり、対象は自我がこれについて知るから存在するのである。』

したがって、感覚的確信の対象は自我のうちに押し戻されたのだが、この意識の経験が我々に示すものを、次に考察しよう。

[二 この確信の主観]
感覚的確信の真理は今や私(自我)のうちにある。言い換えれば、真理というものは、私の外に客観的にあるものではなく、個別的なこの私が、私の感覚において、私の知を媒介として捉えたものとしてある、ということになった。しかし、個別的なこの私も、普遍的な私というものがあってはじめて、この私であることができる、ということも分かってくる。
例えば、樹を見ていた私が、次に後ろを振り返って家を見ていた場合、それぞれの場面は個別的なことである。しかし、見るものが違っていても、それぞれの場面における私が「見ること」自体は普遍的なことであり、更に「見ること」自体はこの私にとっても、他の人にとっても、個別的なことではなくて普遍的なことである。そうすると、真理というものは個別的なこの私にではなく、普遍的な私一般があってこそあったことになる。

『・・・私が私、この個別的な私と言うときにも、私の言っているのは総じてすべての私のことであって、各人が私の言うところのもの即ち私であり、この個別的な私なのである。』

[ 主客関係としての確信]
ここまでの意識の歩みにおいて、感覚的確信は、その確信の本質(直接態)が対象のうちだけに、また私のうちだけにあるものではないことになるから、感覚的確信自身の全体そのものをもってこの確信の本質であると捉えるほかはない。そうすると、この直接態の真理は、私は私一般であり対象も個々のこれや今ではなくて、今・ここ一般であることが普遍態となる。そうすると他と関わることも、すべての区別もできない状況において、自己同一性を保っていることになるが、そうするとどうなるかを次に見てみよう。
この場合には、感覚的確信は、言葉も使えずに(すべての区別はないから言葉も使えない)、ひたすら「今ここ」において対象と直接的な関係にあるだけなので、「我々」がその直接的なるものを言葉によって「指摘」してみると、例えばこうなる。我々が「今」を指示すると、「今」は既に「存在する」ことをやめているから、我々が指示した「今」は「存在した」ものであるということが真理であることになるが、しかし真理は「存在する」ものであるから「存在した」というこの真理は本質(=実在)ではない。結局このような感覚的確信においては、自己同一性自体があり得ないことになる(ヘラクレイトスは「誰も同じ川に二度入ることはできない」と万物流転を唱えたことなどを引き合いに出して、場所や時間が違っても、「今」や「此処」の「私」も「それ」も自己同一性を持続していることが真理であることを言いたいのだと思うが、その説明はいまいちピンとこない)。
(「我々」のコトバによる上述のような「指摘」は、ヘーゲル風にいえば、感覚的確信という側面における弁証法的運動であり、その結果において自己内に真理が還帰し、意識・自我・私が普遍的なものを経験したことになる。そのことが、この節については、今(時間)も此処(空間)も、個別的な「多」なる今と此処を経験することによってはじめて意識の上で「一」なる今とか此処を理解することが出来るということにおいて述べられている。)

(今を今と)指摘することがそれ自身運動であり、そうしてこの運動が今の真実には何であるかを、すなわち結果であること、言いかえると、集合された今の数多性であることを示すのである。そこで指摘するということは、今が普遍的なものであることを経験するゆえんである。』

[四 総括]
かくて、感覚的確信は、この確信の経験の歴史であって、外部にあるこのものの実在性が意識に対して絶対的真理であるから生じるのではない。個別的なこのものは、普遍的なこのものとの関係においてこのものなのである。動物でさえも、目の前のこのものは個別的なこのものではあるが、食べられるという普遍的な関係においてのこのものでもある、ということを知っている。

『この「此処」(=これ)は他のもろもろの此処のうちのひとつの此処であり、言いかえると、ひとつの此処でありながら、それ自身において多くの此処の単純な集合であるが、これは、普遍的なものであることを意味している。』

外部にあるこのものの実在性が意識に対して絶対的真理であると唱える人にとって、この外部の実在性とは、『現実的な、絶対に個別的な、全然個人的な、個別的な物であり、おのおのがもはや絶対に同一のものをもたぬ諸物と規定せられうるであろう。』ようなもの(私念されたもの)である。たとえば目の前のこの紙片がそうである、と。しかし、それではそのものを真に捉えたことにはならない(例えばコトバで説明できない)。私がものを真にあるとおりに受け取ることができるのは、普遍性においての個別的なものであるかぎりであって、言い換えれば知覚によってである。