2022年8月19日金曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋③ 第一篇 第二章 第23節と第24節

    パパメイアン

 第二章 自然主義的誤解

23節 理念を見てとる働きの自発性。本質と虚構物

  以上(22節)のように言うと、赤とか家とかという色や事物が存在するのは明らかであるのに、それとは別に、それらを実際に見るという経験から抽象された赤とか家とか言う概念を本質と呼んで実体化するのは、心の働きによって創り出される概念、例えばギリシャ神話に出てくる半人半馬の怪物が実在すると考えるようなもので、何の意味があるというのか、という人が出てくるかもしれない。想像という経験(空想体験)から生み出される怪物は虚構物ではある。だが、例えば色や事物を見る場合には、今そこにあるのは、想像から生み出された虚構ではなく、感性によって知覚されたもの、および、赤とか家とかの言葉で抽象された概念である。ここにおける概念は本質なのではあるが、より詳しく言えば、本質が産出されているのではなくて、本質についての原的に与える働きをする意識(理念を観てとる働き)と、感性的に与える働きをする意識(経験的な意識)が生じているのである。そして、理念を観てとる働きの方は、必然的に一つの自発的な意識であり、一方経験的な意識の方は、自発性とは無縁に個的対象が「現出する」ことができるようなものであり、統握によって意識されることが出来るようなものなのである。

 このように、虚構意識と本質意識を、自発性の点から似たものとして並べると、本質の「現実存在」に関する疑念が生じるかもしれない。けれども、その疑念は、虚構と知覚を並列に「直観的意識」のもとに置くならば、知覚的に与えられる対象の「現実存在」が損なわれてしまうのと同様である。事物は、知覚されたり、想起されたりできるから「現実的」なものと意識されることができるし、幻覚的なものや「単に眼前に思い浮かべられているだけ」意識されることもできる。本質に関しても事情はよく似ていて、本質もまた、他の対象と同じく、あるときは正しく、またあるときは間違って認識される(数学の計算間違いは誰でもわかる)のだが、本質を認識する作用(本質観取)は、感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである。(⇒意識の認識作用に原的に与えるものは直観であり、直観には事物や論理などを対象とした個的直観と意味や価値などを対象とした意味直観の二つがある、と言いたい)。

24節 一切の諸原理の、原理

 さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分自身を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。

自然研究者が、自然の事実に関する認識は経験(実験や観察という経験)によって基礎づけられているという「原理」に従おうとするのは、完全に正当である。というのは、当の事柄を最初から掴み取るゆえんの原理だからであり、普遍的洞察(意識経験によって直接得られる直感に基づく)のうちから直接的汲み取ることのできるやり方だからである。この点については、われわれはいつでも確信することができる。本質研究者も、普遍的命題を利用しまた言明するものは誰でも、自然研究者のやり方に並行的な一つの原理に従わねばならない。というのも(並行的な、というのは)、すべての事実認識を経験によって基礎づけるという原理自身が、経験によっては洞察しえないからである。

(⇒並行的とは、自然研究者と本質研究者には、異なる二つの原理がある、というように見えるが、言いたいことはそうではない。自然科学の理論は、拡張されていく経験によって得られるデータによって判明する矛盾を、誰でも納得するような、より包括的な理論に変遷し続けるによって克服されていく。そのプロセスが可能となる原理は経験によって得られるデータだけでは説明できない。本質研究者も自然研究者と原理的には同じプロセスが踏めるはずだというフッサールの直観がある)。