2016年2月2日火曜日

省察(デカルト)

アダン・タンヌリ版1641年。中公クラッシクス
〔 〕は原著補説、( )は小生記
ピース

■ソルボンヌにあてた書簡
神についての問題と精神についての問題との二つは、神学によってよりはむしろ、哲学によって論証されねばならない問題の最たるものである。なぜなら、私たち信仰あるものにとっては、人間の精神が身体とともに滅びるものではないということと、神が存在するということとは、信仰によって信ずるだけで十分なのだが、信仰なき人々の場合には、予めこの二つのことを自然的理性によって証明して見せた上でなければ、いかなる宗教も、また一般に、いかなる徳のすすめすらも、彼らに受け入れさせることはできないと思われるからです。

■読者へのまえおき
神と人間精神との問題については、少し前の1637年にフランス公刊した『方法序説』(注:『屈折光学』+『気象学』+『幾何学』の三試論が本論)の中で触れたことがあるが、そこでは、そういう問題を立ち入って論じようとしたのではない。
(注:デカルトは『省察』の出版に先立って、原稿を当時のヨーロッパの代表的な思想家に送り、論駁を書いてもらって、予めその答弁を書き、『省察』と同時に出版した。『論駁』は六部からなる)それゆえ私は、反論とそれらに対する答弁との全てに眼を通した上でなければ、これらの省察について判断を下されることのないよう、読者にお願いしておく。

■以下の六つの省察のあらまし
第一省察においては、我々が全てのものについて、とりわけ物質的なものについて、疑いうる理由がいくつか示される。かくも普遍的懐疑は、我々をあらゆる先入見から解放し、精神を感覚から引き離し、真であると見きわめるものについてはもはや疑い得ないようにしてくれる。
第二省察においては、自らに固有の自由を用いて、ほんの少しでもその存在が疑いうるものは存在しないのだと想定する精神というものが、自らは存在しなければならないということに気づく。この精神は、自らに属する知性的本性に属するものと物体に属するものとを区別する。
第三省察においては、神の存在を証明するための私の主要な論証の説明がなされる。この上なく完全な存在者の観念は、この上なく完全な存在者に由来するものであるというほかはない。
第四省察においては、我々が明晰に判明に認知するところのものは全て真であるということが証明される。同時にまた、虚偽の根拠はどこに存在するかが説明される(注:明証知への同意。意思の自由)。〔しかしながら、ここで問題とされるのは善悪における誤りではなく真偽における誤りであり、考察されるのは信仰や実生活に関する事柄ではなく思弁的な真理のみである〕
第五省察においては、一般的に解された物体的本性が説明され、なおまた、新しい根拠によって神の存在が論証される。最後に幾何学の証明そのものの確実性も神の認識に依存するということがどうして真であるかが示される。
第六省察においては、悟性の作用が想像力の作用から分かたれる。精神が身体から実在的に区別されることが証明され、にも拘らず、精神は身体と一体をなしていることが示される。最後に、物質的事物の存在の根拠が持ち出されるが、そのことは、この根拠が、世界が実際にあるということや人間が身体を持つということなどを証明するために有用だからと考えるからではなく、精神と神の認識に至らしめる根拠程には堅固でも明白でもないことが認められるからである。つまり、神と精神の認識に導く根拠こそ、人間精神によって知られうる全てのもののうち最も確実で明証的であるのであって、ただこの一事を証明することが、この六つの省察において私の意図したところであった。
(注:『省察』はデカルトの形而上学と認識論の主著といえる)

省察1 疑いをさしはさみうるものについて
私は(注:『省察』はデカルトが50歳位の時に出版された)何年も前から、年少の頃には真であるとして受け入れてきた多くのものが偽であり、その後にはそれらの上に築き上げてきたものがどれもみな疑わしいものであるか、とうことに気付いていた。もし私が学問においていつか堅固でゆるぎないものを打ちたてようと欲するなら、全てを根こそぎくつがえし、最初の土台から新たに始めなくてはならない。
すでに理性は、疑う余地があるものに対しては同意を差し控えるべきであると確信させている。私は、私がかって信じ込んだ全てのものの支えとなっていた原理そのものに、直ちに立ち向かうことにしよう。
さて、これまで私がこの上もなく真であると認めてきた全てのものを、私は、直接に、例えば視覚から、或は間接に、例えば親や教師に聞いて、感覚を介して受けとったのである。ところが、これら感覚が時として誤るものであることを私は経験している。
しかし、なるほど感覚から汲まれたものであっても、例えば、今私がこの紙を手にしていることなど、それについては全く疑うことのできないものが沢山ある。実際、この手そのもの、この身体全体が私のものであることを、どうして否定できよう。
私はこの手を、意識して伸ばすのであり、伸ばすことを感覚している。だが私は夢の中で、狂人たちが目覚めている時に経験するのと同じことを経験する。それらのことをさらに注意深く考えてみれば、覚醒と睡眠を区別しうる確かな印が全くないことが知らされる。
それでは、我々はいま夢を見ているのだとしよう。そして、例えば手を伸ばすことなどは真ではないのだとしよう。また、その様な手も、身体全体も、全然持っていないのだとしよう。しかしそれでも、眠っている間に見られるものは、真の事物を模してでなければ造ることの出来ないものであり、従って、手や身体など一般的なもの、また少なくともそれを構成している色などは、真なるものとして存在するということは認めなければならない。
そして同じ理由によって、たとえこれら一般的なものが幻のものでありうるとしても、少なくとも更にいっそう単純で普遍的なものは真であるということ、そして私の意識の内にある事物の像は全て、真であろうと偽であろうと、こういう普遍的なものによってつくられているのだということは、どうしても承認しなくてはならないのである。これに属すると思われるものは、物体的本性一般、それらの延長、延長をもつ事物の形、事物の大きさと数(=量)、事物の存在する場所、時間、等々である。
それゆえ、以上のことから、こう結論してもよいであろう。自然学、天文学、医学その他、全て複合的事物の考察に依存する学問は、確かに疑わしいものであるが、しかし、代数学、幾何学、その他この種の学問は、極めて単純で極めて一般的なものだけしか取り扱わず、しかも、こういうものが自然の内にあるかどうかには殆ど頓着しないのであるから、何か確実で疑い得ないものを含んでいる、と。なぜなら、例えば、二に三を加えたものは五である、ということは疑い得ないと思われるからである。
しかしながら、私の精神にはある古い意見が刻み込まれている。全てのことをなしうる神が存在し、この神によって私は、現にある様なものとしてつくられたのだ、という意見である。それならば、この神は、実際には地も天も、延長をもつものも、形も、大きさも、場所も、全くないにも拘らず、私には、これら全てが、現に見られるとおりに存在すると思われるようにしたかもしれないのである。そればかりではない。二に三を加えるたびごとに、神は私が誤るように仕向けたのではあるまいか。
しかし神は、私がそのように欺かれるのを欲しなかったはずである、とも考えられる。神はもっとも善なるものといわれているのであるから。けれども、私は時々誤るのであるから、神が私をして常に誤らしめていることも認めねばならない。
ところで、全てが不確実であると信じるぐらいなら、いっそのこと神があることを否定しようとする人びともいるであろう。しかし、彼ら(=ストア派、エピクロス、古代アリストテレス派、など)の想定するなんらかの仕方によって、現にあるとおりになったというこの私が、誤ったり間違ったりするということは、一種の不完全性であると思われるゆえ、その諸説もまた不完全なものとなるであろう。
結局、私は次のように告白せざるを得ない。即ち、私がかって真であると思ったものの内には、それについて疑うことを許されない様なものは何もない、と。
そこで私は、真理の源泉である最善の神が、ではなく、狡猾な極めて狡猾な欺き手が、あらゆる策を凝らして私を誤らせようとしているのだ、と想定してみよう。天も、空気も、地も、色も、形も、音も、その他一切の外的事物は、極めて狡猾な欺き手の計略に他ならない、と考えよう。また、私自身、身体も持たず、いかなる感覚器官も持たず、誤って、これ等全てのものを持っていると思い込んでいるだけだ、と考えよう

省察2 人間の精神の本性について。精神は身体よりも容易に知られること。
ほんの僅かの疑いでもかけうるものは、ことごとくはらいのけることにしよう。そして、遂にはなんらかの確実なものを認識するまで、或は、何ら確実なものがないにしても、少なくとも、確実なものは何もないというこのこと自体を確実なこととして認識するまでは。
しかし、疑う余地が少しもない様なものは何もないということを、私は一体どこから知るのであろうか。なにか神のごとき全能者がいて、それが私にそういう考えを注ぎ込むのではあるまいか。しかし、どうして神などを持ち出すのか。恐らくは私自身がそういう考えの作者でありうるのに。
それならば、少なくともこの私は何者かであるはずではないか。けれども私は、私がなんらかの感覚器官を持つこと、なんらかの身体を持つことを、すでに否定したのである。しかし私は身体や感覚器官にしっかりと繋がれていて、それなしには存在し得ないのではないか。けれども私は、世には全く何ものもない、天も地もなく、精神も物体もないと、自らを説得したのである。それならば、私もまたない、と説得したのではなかったか。
いな、そうではない。私が自らになにかを説得したのであれば、私は確かに存在したのである。また、誰か知らぬが、極めて狡猾な欺き手がいて、いつも私を欺いているとしよう。だがそうであるならば、疑いなく私は存在することになる。
このようにして、私は、全てのことを余すところなく考えつくした挙句、遂に結論せざるを得ない。「私はある、私は存在する」というこの命題は、私がこれを精神によってとらえるたびごとに、必然的に真である、と。
しかしながら私は、いまや必然的に存在するところの私が、一体いかなるものであるかは、未だ十分には理解していない。そこで私は、この様な思索を始める前に自分を何であると思っていたのかを、改めて考察してみよう。それから少しでも異議を唱えることのできるものを、ことごとく取り除いてゆくことにしよう。そうすれば、結局、残るところは、まさしく、確実でゆるぎないものだけとなるはずである。
さてそれでは、以前私は自分を何であると考えたのか。もちろん、人間であると考えたのである。しかし人間とは何であるか。理性的動物というべきであろうか。そうではない。なぜなら、そうすると、その後で、動物とはなにか、理性的とはなにか、と問わなければならなくなり、こうして一つの問題からいくつもの一層困難な問題へ、はまり込んでしまうからである。ここではむしろ、以前に私が、私とは何であるかを考察した時に、そのつど自然に導かれて、私の意識に浮かんできたものは何であったか、に注意を向けよう。
その際、最初に浮かんできたものは、私が顔やもろもろの肢体からなる全機構を持っているということである。この機構は死体においても認められるものであって、身体(物体)の名で呼んでいた。次に浮かんできたものは、私は栄養を採り、歩行し、感覚し、考えるということであった。私はこれらの活動の源は精神にあると考えていた(注:アリストテレスやスコラ哲学の説)。しかし、その精神とは何であるかについては、せいぜいそれが何か微細なもの(注:認識しにくいがある物質的なもの、位の意味だろう)であると想像する位の注意しか払わなかった。
身体すなわち物体についてなら、私は少しも疑わず、その本性をはっきり知っていると思っていた。物体とは、空間を満たし、知覚される様なもので、自分自身によって動くことはない様なものであり、自分を動かす力、また、感覚する力、或は、考える力を持つことは、決して物体の本性には属しない、と私は判断していた。しかし、いま私は、極めて狡猾な欺き手が私を欺いているのだと想定している。そうだとしたらどういうことになるであろうか。私は、何度も立ち返って考えてみるが、私が持っていると主張しうる様な物質的本性は何も見つからない(注:私は身体を持っていないのだから)。
それでは、精神に帰したものの内に何かないであろうか。栄養を取ること、感覚することは、私が身体を持っていないのであるから、これらは作り事以外の何ものでもない(注:アリストテレスやスコラ哲学の説の批判)。
では、考えることはどうか。これだけは私から切り離すことができない。もし私が考えることをやめてしまうならば、恐らくその瞬間に私は、存在することをやめてしまうことになるだろう。私とはただ、考えるもの以外の何ものでもない。言い換えれば、精神、即ち知性、即ち悟性、即ち理性、に他ならない。私は真に存在するものである、しかし、どの様なものであるのか。私は考えるものである(注:この段階では、わたしの本質が「考えるもの」だけであるとは確定していない。以下参照。次の段階は「省察6」参照)。
そのほかには私は何であるか。想像力を働かせてみよう。私は、人体と称せられるあの組成ではなかった。私は、私が知らないもの、ただ思い描くだけのもの、つまり想像するものに依存しないのは確実なことであった。想像するとは、物体的なものの形、像、を眺めることにほかならない。私は、私が存在するということを確かに知っているが、同時に、それらの物体的なものの像が、全て幻にすぎないかも知れぬということをも、確かに知っている。これら二つのことによく注意するならば、私とはいかなるものであるかをもっとはっきり知るために想像力を用いようなどというのは、ばかげていると思われる。
それでは、考えるものとは何であるのか。すなわち、疑い、理解し、肯定し、否定し、意思し、意思しない、なおまた、想像し、感覚するものである。私が、疑い、理解し、意思するものであることは、極めて明白であって、このことを更に一層明らかにする様なものは何一つとして見当たらない。また私は想像するものでもある。なぜなら、その対象とされた事物が真でないとしても、想像する力そのものは私の意識の一部をなしているからである。また私は感覚するものでもある。物体的なものを、感覚器官を介したものとして認めるものである。だが、これらは夢かもしれないから虚偽である、といえるかもしれない。しかし、感じると思っていること自体は虚偽ではないから、厳格に解するならば、これは考えることにほかならない。
これらのことから私は確かに、私がいかなるものであるかということを、かなりの程度にまでよく知り始める。しかし、いまなお私には、物体的な事物(=心の内にそれらの像を描き出すことができ、感覚そのものによってじかにつかまえることのできる事物)の方が、かのもの(=私自身に属するなんらかのものでありながら、想像力によっては捉えられないもの)よりは、遥かにはっきりと知られるように思われる。そこで、全てのもののうちで最もはっきり理解される、と一般に思われているもの、すなわち物体、を考察してみよう。例えば、この蜜蝋をとってみよう。
蜂の巣から取り出されたばかりの蜜蝋は自身の蜜の味を全くは失っておらず、香り、色、形、大きさをもっており、指でたたけば音を発し、固く冷たくてたやすく触れることができる。しかし、この蜜蝋を火に近づけると、味は抜け、香りは消え、色は変わり、形は崩れ、大きさは増し、液状となり、熱くなり、ほとんど触れることが出来ず、もはや打っても音を発しない。これでも同じ蜜蝋であることは誰も否定しない。
それでは、この蜜蝋においてあれ程はっきり理解されたものは、一体何であったのか。確かにそれは、私が感覚によって捉えたもののいずれでもなかった。なぜなら、味覚その他は、いまや全て変わってしまったが、元の蜜蝋は存続しているのであるから。恐らく、それは、いま私が考えているもの、すなわち、少し前にはあのように、今はしかしこのように、私に現れるところの物体だったのである。
しかし、私がこのように想像するところのものは、厳密に言えば、なんであるのか注意してみよう。それは、広がりを持った、曲がりやすい、変化しやすいあるものであるだけである(注:感覚を介する味等は物体自体には属さないから)。しかし、曲がりやすい、変化しやすいというのは、どういうことであるのか。私が想像することであるのか。決してそうではない。なぜなら、これらは無数であるからその全てを想像力によって捉えることが出来ないから。広がりを持つことはどうか。これも私が捉えるよりももっと広がり持つと考えなければならないから同様である。結局、こう認めるほかはない、この蜜蝋が何であるかを、私は、決して想像するのではなく、もっぱら精神によって捉えるのである、と。
しかし、精神によってしか捉えられないこの蜜蝋とは、一体どういうものであるか。もとより、私が最初から蜜蝋だと見なしていたものと同じものである。しかし、注意しなければならないことは、それを把握するはたらきそのものは、視覚の作用でも想像力の作用でもなく、また、以前にはそう思われたものでもなく、精神による洞見なのである。そしてこの洞見が、それの内容に向けられる私の注意の程度に応じて、以前のように、不完全で混乱したものであったり、或は、現在のように、明晰で判明なものであったりするわけである。
しかし、精神そのものについて、すなわち私自身について、私はなんというべきであろうか。この蜜蝋をかくもはっきり把握するように思われる私、その私は、蜜蝋よりも私自身を、更に一層判明に、更に一層明証的に認識するのではあるまいか。なぜなら、もし私が、蜜蝋をみるということから、蜜蝋が存在するということを判断するのであれば、私が蜜蝋を見るというまさしくそのことから、私自身もまた存在するということが、更に一層明証的に帰結するに相違ないからである。そればかりではない。蜜蝋が、視覚や触覚からだけではなく、もっと多くの原因からも私に知られるに至り、私が把握するところが一層判明になったとするならば、いまや私自身も私によっていよいよ判明に認識されるのだ、といわなくてはならない。なぜなら、蜜蝋の認識に、あるいは、他のなんらかの物体の認識に役立ちうる理由であれば、それらは全て、同時に私の精神の本性を一層明らかにしないではおかないからである。
かくて、物体ですら、感覚や想像によって把握されるのではなく、ただ悟性によってのみ把握されること、また、触れたり見たりすることによって把握されるのではなく、もっぱら理解することによって把握されるのだということが、今や私に知られたのである。従って、私は、私の精神程容易に、また明証的に、私によって把握されるものは他にありえないということを、明らかに認識するのである。

省察3 神について。神は存在すること(注:アポステリオリな証明)
今私は、あらゆる感覚を退けよう。さらに、物体的事物の像をも、少なくともそれらの像を空虚で偽なるものとして無視することにしよう。そして、私自身を、私にとって一層良く知られたものとするように努めよう。
私は考えるものである。さらには想像し感覚するものである(注:ここではまだ、想像、感覚は私から区分されず)。これで、少なくともこれまでに私が知っていると気付いたものを、全て列挙したわけである。そこでこれから、まだ他になお私の内にありはしないかどうか、もっと注意深く見渡してみよう。
私は考えるものであるということを、私は確信している。それならば私は、ある事柄について確信を抱くために必要な条件をもまた、知っているのではあるまいか。この最初の認識の内には、私が肯定するする事柄についての、明晰で判明な認知以外の何ものもない。それゆえ、今や私は、私が極めて明晰に判明に認知するところのものは全て真であるということを、一般的な規則として確立することができるように思われる(注:この証明は省察4を待たねばならない)。
しかしながら、以前に私が全く確実で明白であると受け入れていたもので、後になって疑わしいと気づくに至ったもの、例えば天や地や星そのほか私が感覚によって捉えたもの全て、について、何を私は明晰に認知していたのであろうか。それはその観念が私の内に現れる、ということであった。そして、観念それ自体が私の内にあるということなら、今なお私は否定しないのである。
しかし、これとは別に、やはり私が肯定していた事柄で、実際には認知していなかったのに、〔それを信じる習慣があったために〕明晰に認知しているのだと思い込んだ事柄があったのである。すなわち、私の外部に観念を送り出したものがあり、それらの観念が、私が明晰に認識していると思い込んだ事柄と全く相似ている、ということであった。この全く相似ている、という点において、私の判断が正しかったとしても、私は誤っていたのである。この誤りは、私のうちなる認識作用に基づくものではなかった(注:私の内なる認識作用に基づいた判断をすれば誤らないということ)。
いかにも私は、なにか極めて単純で容易な事柄、例えば2+3=5、についても疑うべきだと判断したのであるが、それは、神のごとき全能者ならば、この上なく明白であると思われる事柄に関してさえ欺くことができる様な本性を、私に賦与することもできたはずであると考えたからである。しかしまた、私は、例えば2+3=5、の様に私が極めて明晰に把握すると思っている事柄自体のほうに向き直ると、そのつど、そういう事柄を全く確信してしまう。
そして、そもそも、神というものがあるのかどうかさえ、まだ十分に知られていないのであるから、欺く神に基づく疑いの理由は、いわばこじつけである。しかしその様な理由すら取り除くことができるように、神はあるかどうか、また、もしあるとするなら、欺瞞者でありうるかどうか、を吟味しなくてはならない。この二つのことが知られない限り、ほかの何事についても私は、全く確信を持つわけにはゆかないと思われるからである(注:私は存在し、その私は考えるもの、ということさえ)。
先ず私のあらゆる意識(=観念)を区分し、そのいずれの類において本来真理、あるいは虚偽は存するのかを探究しなくてはならない。私の意識の内にあるものは、いわばものの像(=似姿、例えば人間や怪獣や天使や神など)であって、これのみ、本来、観念という名に当てはまる。ところが他のものは、そのほかに、なにか違った形相(=当の事物の似姿以上の何ものかを意識させるもの)をもっている。こういうもののうち、あるものは意思、或は感情と呼ばれ、他のものは判断と呼ばれる。観念は、それが他のものと関係させられないならば、本来、偽ではありえない。意思も感情も、それ自体においては真でないわけではない。それゆえ、(私の内なる認識作用において偽であるかどうかを確かめる対象として)残るのは判断だけであり、ここにおいてこそ、私は、誤ることのないように用心しなくてはならないのである。
ところで、観念とは、今のところ、生得のもの(例えば真理の理解など)であるとも、外来のもの(例えば物体)であるとも、私自身の作り出したもの(例えば架空の怪物)であるとも、考えることが出来る。私はまだ、これらの観念の真の起源を明らかにして見きわめてはいないからである。
ここでは外来の観念を問題にしよう。これらの観念が外物に似ていると私が考えるのはどうしてなのだろうか。それは、私が自然によってそう教えられたからであり、またそれらの観念は私の意志に依存せず、従ってまた私自身に依存しないからでもある。例えば火の熱の観念は、私の意思などには無関係にやって来る火の熱によるのだから、そのような観念は火が自分の似姿を私に送り込むと私が判断するにはもっともなことだろう。
それでは、上述の様な理由が十分なものであるかどうか調べてみよう。「私が自然によってそう教えられた」というの自然的傾向(=善を選ぶべきであったのにしばしば悪を選ぶという人間の傾向)によってそれを信じるようになったことを意味するのであって、自然の光(=理性、神)によって私に明示されたこと(例えば、私が考えていること自体は疑えない、など)を意味するのではない。だから(善悪でさえそうなのだから)他の問題においても自然的傾向を信頼する理由は無い。
次に、なるほどそれらの観念は私の意志に依存しないとはいえ、だからといって、それらがどうしても私の外にある事物から出てこなければならぬ、とは限らない。例えば上述の傾向性や夢のように、私の内にはなにかまた別の能力があって、それらの観念を生み出すことができるのかもしれないからである(注:ここではまだ、私の本質の範囲が確定していない。省察6で確定する)。
そして、最後に、たとえそれらの観念が私とは違った事物からでてきたとしても、だからといって、それらの観念が当の事物に似ていなくてはならぬ、ということにはならない。例えば、太陽は私にとって極めて小さく見えるが、天文学上の推理からとってこられた観念では、太陽は地球よりも何倍も大きいものとして示される。しかし、これら二つの観念のいずれもが、私の外にある同一の太陽に似ているなどとはいえない。理性は、太陽そのものから出てきたと思われる観念がもっとも太陽に似ていない、ということを私に確信させるのである。
さて、これらによって次のことが論証される。これまで私が、なにか私とは違ったものが存在し、これが私の感覚器官を通じて、或はなんらかの他の仕方によって、自らの観念或は形象(似姿)を私の内に送り込むのだ、と信じてきたのは、確かな判断によってではなく、単に、ある盲目的な衝動によってであった、ということを。
(注:ここまででは、コギトの地平からは外的事物の存在を導けない、ということになる)。
しかしながら、その観念が私のうちにある事物のうち、なんらかの事物が本当に私の外に存在するかどうかを探究するには、なおもう一つ別の方法がある(注:自らの存在とその本質の認識だけに基づいて考察するのではなく、観念の表現する内容を逐一吟味する方法)。
私に実体を表示する観念は、ただ様態すなわち偶有性のみを表現する観念よりも、一層大きなものであり、いわば、より多くの表現的実在性(=観念において表現されている限りの実在性)をそれ自身の内に含んでいる。さらに、それによって私が、永遠で、無限で、全知で、全能で、自己以外の一切のものの創造者である神を理解するところの観念は、有限な実体を表示するところの観念よりも、明らかに一層多くの表現的実在性をそれ自身の内に含んでいる。
ところで、原因の内には、少なくとも、この原因の結果の内にあるものと同等のものがなくてはならない。また原因は、自らが実在性を有するのでなければ結果を導くことは出来ない。こうして、無からは何も生じ得ないこと、より完全なものはより不完全なものからは生じ得ない、ということが帰結する。しかもこのことは、形相的実在性(=ものがそれ自体において持つところの実在性)を有する結果についてばかりではなく、ただ表現的実在性のみが考慮されるところの観念についても真である。もう少し説明するとこうなる。例えば一つの石が出現してそこにあるとすると、この石のうちにおかれるすべてのものを、形相的(=原因と結果が持つ実在性が同等)に、あるいは優勝的(=原因の持つ実在性の方が、結果が持つ実在性よりも多い)に、自己のうちに有するところのあるものによって、それが作り出されたと考えるほかはない。同じように、石の観念が私のうちにあるということについても、石のうちにおかれるすべてのものという私の観念を、形相的に、あるいは優勝的に、自己のうちに有するところのあるものによって、それが作り出されたと考えるほかはない。
なお、観念において考慮する実在性は(表現的実在性であるが)、この観念の原因においても表現的にあればよいと考えてはならず、形相的実在性でなければならない。観念は私の意識のあり方(=様態)であり、私の意識から形相的実在性を借りてくるものであり、他の形相的実在性を要求しない。これらは観念の本性である。
観念は、その観念が含んでいる特定の表現的実在性と少なくとも同等の実在性を形相的に含んでいる原因を持つ。もしそうでなければ、観念は無から生じる部分を持つことになる。ものの観念によって表現的に悟性のうちにある観念は、無から生じることは出来ない。
一つの観念が他の観念から生まれることがあり得るとしても、無限に溯ることは出来ず、第一の観念に至らなくてはならず、この第一の観念の原因は、原型とも言うべきものであって、観念において単に表現的にあるところの実在性のすべてが、そこでは形相的に含まれている。
かくて、自然の光によって、私には次のことが明らかである。私の内にある観念は、あたかも映像の様なものであって、それがとってこられたもとの事物の完全性を失うことはたやすいが、もとの事物よりも一層完全なものを含むことは決してできない。
私はこれらのことから、次のような結論に至る。私の有する観念のうち、あるものの表現的実在性が極めて大きくて、その実在性は形相的にも優勝的にも私のうちにはなく、従って、私自身が私の有する観念の原因ではありえないことを、私が確信しうるなら、必然的に、その観念の原因であるところの私以外の何か他のものが存在するという、そのような観念が私のうちにあるという結論である(注:一例として、数学の論理的整合性の原因が完全なる神にあると考えれば分かりやすい)。
ところで私の有する観念の内には、私自身、神、物体的事物、天使、動物、他の人間、を表現するものがあるが、私自身については何の困難も無く(注:私が存在し、私は思惟するもの以外ではないことは明晰判明)、動物、天使、他の人間については、それらがこの世界に存在しないとしても、それらは、私自身と物体的事物と神について私が有する観念から複合できる。
そこで、物体的事物の観念について考えてみると、私自身から生起しえたとは思われない程のものは何も見当たらない。物体的事物を構成しているすべてのもの、延長と形、位置、運動、位置の変化などは明晰且つ判明であり、私が考えるものだから私のうちに含まれる。実体、持続、数、その他これに類するものは、私自身の観念から取り出されたように思われる。例えば、実体について言えば、私は延長をもつものではなくて考えるものであり、石は考えるものではなく延長をもつものであるから、私と石は事物の観念としては相違があっても、実体という観念においては同じである。持続(注:時間が経過しても、例えば同一の事物と認識する)、数(注:複数の違う事物があっても、例えば個数が同じ)なども同様である。残りのもの、例えば、光、色、音、香り、味、熱と冷、その他触覚的な性質などは、混乱した不明瞭なしかたでしか私には意識されず、これらについて私の有する観念が、何か存在するのものの観念なのかどうかもすら分からないのだから、それらの観念には、何か私とは違った作者を想定したりする必要がない。
(注:以上で、神を除いた諸観念の内容は私自身を原因として私のほうから生起するという考え方が提起されている)。
従って、残るところただ一つ神の観念だけであって、この観念の内に、何か私自身からは生起し得なかったものがありはせぬかを考察しなければならない。神という名で私が意味するものは、ある無限な、独立な、全知かつ全能な、そして私自身をも、他の全てをも、もしあるなら、創造した、実体である。これらの全ての性質は、私が細心な注意を払えば払う程、私のみから生起してきたものであるなどとはますます思えなくなる様なものである。それゆえ、神は必然的に存在する、と結論しなくてはならないのである(注:神の存在証明No.1。理由は以下。私が考えるものであるということの根拠が与えられた)。
なぜなら、私は実体であっても有限であるから、私の内にある実体の観念は、無限の実体から生起されない限り、無限の観念ではありえないから。
なおまた、無限の実体の内には有限な実体の内によりも多くの実在性があること、従って、無限者の認識は有限者の認識よりも、すなわち神の認識は私自身の認識よりも、先なるものとして私の内にあることを、私は明白に理解するからである。なぜなら、私が疑うということ、つまり何ものかが私に欠けていることを私が理解するのは、より完全な存在者の観念が(先に)私のうちあって、それと比較するのでなければ不可能であるから。
(注:このあとに四つの理由が述べられているが省略)
しかし、もしかすると私は、私が神に帰している全ての完全性は、可能的には何らかのしかたで私の内に含まれているかもしれない。事実私は、私の認識が少しずつ増大してゆくのを経験している。しかしながら、そういうことは何一つありえないのである。なぜならば、神の観念の内には単なる可能的である様なものは全く含まれず、現実的に無限であって、その完全性には何ものをも付け加えることができないからである(注:神の無限性は「現実無限性」であって、人間の無限性は可能的つまり、不完全性や未到達性を含むものであるから、神のそれとは質が異なる)。
さらに進んで、無限で完全な存在者の観念を持っている私自身は、何らその様な存在者が存在しなかったとするなら、存在することができるかどうか、これを探究したいと思う(注:神の存在証明No.2の始まり)。もしそうなら、私の存在は何から生まれたのであろうか。もちろん、私自身から、あるいは両親から、あるいは何かそのほか神より不完全なものからだろう。というのは、神より完全なものは考えることも想像することもできないからである。
私の存在が私自身から生まれたとするならば、私は疑うことも欲することもなかったであろうし、結局私にはなんら欠けるところはなかったであろう。なぜなら、私の内にそれについてのなんらかの観念があるところの完全性の全てについて、私は私自身に与えたであろうし、かくて私自身が神であったろうから。
なおまた私は、現にあるように、常にあったのだと想定することはできない。なぜなら、時間は無数の部分に分割されることができ、しかも各々の部分は残りの部分にいささかも依存しないのであるから(注:デカルトの時間の観念)。いま私が存在するには、そのつどある原因が私を創造する、いいかえれば私を保存するということ、がなければならないのである。私は現に存在するところの私をすぐ後にもまた存在せしめうる様な、ある力を持っているのだろうか。私は、私にその様な力があるという経験をしていない。この事実から、私が私とは違ったある存在者に依存するということを、極めて明証的に認識するのである。
そしてさらに、この原因について、それはそれ自身からでてくるのか、それとも他の原因からでてくるのか、と問うことができる。もし、それ自身からでてくるのであれば、その原因そのものが神であることは明らかである(注:自己原因としての神という考えが示されている)。もしそうではないとしても、問いを遡行していけば最後は神に達するであろう。この場合でも、無限遡行はあり得ない、というのは、かって私を生み出した原因ではなく現在私を保存している原因が問題になっているのだから(注:現実無限としての神)。
なおまた、いくつもの部分的原因(各々が、神の完全性を部分的に持っている)が私をつくりあげていると想像することもできない。なぜなら、不可分離性(=統一性)こそは、神の内に在る主要な完全性の一つだからである。統一性の観念は、他のもろもろの完全性の観念を私に抱かしめる原因によってでなければ、私の内には置かれ得ない。
最後に両親に関していうなら、彼らは私を保存していないから、私が考えるものである限り、けっして私をつくりだしたものではない。彼らはただ、私、すなわち精神がその内に内在していると私が判断するところのあの質料の中に、ある種の資質を置いたに過ぎない。
どうしても次のように結論しなくてはならない。私が存在し、もっとも完全な存在者の、すなわち神の、ある観念が私の内にあるというただこのことだけから、神もまた存在するということがこの上もなく明証的に論証される、と。
あとに残るのは、どういう仕方で私がその観念を受け取ったかを吟味することだけである。私はその観念を感覚から汲んできたのではない、つくりあげたのでもない。なぜなら、そこに付け加えることも引き去ることも出来ないから。だから、ちょうど私自身の観念が私に生得であると同じように、この観念は私に生得であるということなのである。実際、神が私を創造するにあたって、あたかも工匠が彼の作品に印を刻印するように。自らの観念を私の中に植え付けたということは、なんらあやしむべきことではない。
結局、上述の論証の力は、かかって次の点に存するのである。すなわち、私が現にあるがごとき本性のもの、神の観念をもつもの、として存在することは、実際に神もまた存在するのでなくては、不可能なのだと私が承認することである(注:神の存在証明No.2。私が存在する、ということの根拠が与えられた)。ここに私が神というのは、その観念が私のうちあるその神であり、私は、把握は出来ないが思惟することはできるところの、全ての完全性を持っており、いかなる欠陥からの全く免れている神である。従って、神が欺瞞者ではありえないことは明らかである(注:ここで、欺く神という疑いは晴れた)。

省察4 真と偽とについて
確かに私は、人間の精神について、それが考えるものであってなんら物体に由来するものをもたないものである限り、いかなる物体的事物の観念よりも、はっきりした観念を持っているのである。また、私が疑うということ、すなわち私が不完全なものであるということに注意する時、完全な神の観念が、私の心に明晰判明に浮かんでくる。そして、その様な観念を有する私が存在する、というこの一つのことからして、私は、神もまた存在するということを、極めて明証的に結論する。
そしてすでに私は、真なる神のかかる観想から、そのほかのものの認識に至るある道が見通せるように思われる。すなわち、第一に神は私を欺かない。次に、私のうちある判断能力(=知性が呈示するものに対して肯定か否定かを決定すること)は神から授かったものであり(注:神は私の創造者だから当然そうなる)、その限りで、私がそれを正しく用いれば私が誤ることはない。
それにも拘わらず私が無数の誤謬にさらされているのを経験するが、これらの誤謬の原因は神に依存する何か実在的なものではなくて単なる欠陥(=否定)にすぎないということ、むしろ、私が誤るという事態は、神から得ているところの、真を判断する能力が私において無限ではないことに起因するのだということを、私は確かに理解するのである。
しかし、誤謬とはたんなる否定(ただ無い)ではなく、むしろ欠如(本来あるものが無い)であるから、神が完全でない様な能力を私の内においたとは思われないし、その様なことを神は欲しないはずだが、それでも私が誤るのは、誤らないことが誤るよりよいことなのだろうか。
これらのことを考えて見る場合、最初に心に浮かぶのは、神に由来するもののうち、その理由が私には理解出来ないものがあってもそれは当然であるということである。なぜなら、神の本性ははかりしれず、把握しがたく、無限であるということを、私はすでに知っているから。ここからまた、私にはその原因が分からぬことを神は無数になしうるのだということを私は知るが、このただ一つの理由からして私は、目的という観点から引き出されるのを常とする原因の類の全体は、自然的事物においては何の役にも立たぬと断定するのである(注:目的論的神の存在証明の否定)。
なおまた、こういうことにも思いあたる。神の被造物を切り離して観察してはならず、あらゆる事物を全体として考察しなければならないということ、私が、全てのものを疑おうと欲して以来、これまでに確実に知ったことは、私と神とが存在することだけであるが、神のはかりしれない力に気付いて以来、他の多くのものが神によってつくられうるはずであること、従って私は事物の総体のうちでは部分の役割をになうにすぎないということ。
それから、私の誤謬が、いかなる性質のものであるかを調べてみると、私は、その誤謬が、同時にはたらく二つの原因に依存すること、すなわち、私の内にある認識能力と選択の能力つまり意思の自由とに、言い換えれば、悟性と同時に意思とに、依存することに気付くのである(注:コギトの地平を開いた「無制限の自由」の段階から、「行為の自由」の段階へと移り始めるところ)。というのは、悟性のみによっては、私は観念を捉えるだけであり、観念が無いということは否定であって欠如ではなく、従って、厳格に見られた悟性の内には本来の意味での誤謬は見出されないからである。
理解の能力や記憶の能力あるいは想像の能力、あるいは他のどんな能力とは異なって、意思の自由だけは、もはやこれ以上完全な、大きなものを考えることができない、ということは、私には極めて注目すべきことだと思われる。私が神のある似姿を宿していることを理解するのは、主として意思の点からである。もちろん、意思も神においてのほうが、認識の力や対象の点においては比較にならない程大きいとはいえ、形相的にかつ厳格に見るならば、意思は神においてのほうが私におけるより大きいとは思われないのである。それというのも、意思の本質は、我々が、あることを肯定することも否定することも出来る、というところにのみ存するから、あるいはむしろ、悟性によって我々に呈示されるものを肯定あるいは否定する際、我々が、なんら外的な力によって決定されてはいないと感じてそうする、というところにのみ存するからである。神の恩寵も、自然本性的な認識も、決して自由を減少させるのではなく、むしろ増大強化するのである。これに対して、私が経験するあの非決定(=選択自体をしないこと)は、最も低い段階の自由(=無差別の自由)であって、意思における完全性を証するものではなく、ただ、認識における欠陥を証するにすぎないものである。
私の誤謬は、私が意志を、悟性と同じ限界内に留めおかずに、私の理解していない事柄にまで広く及ぼす、というこの一つのことから生じるのである。何が真であるかを明晰にかつ判明に認知していない場合に、私が判断を下すならば、その時私は意思の自由を正しく用いてはいないのである。意思の決定には常に悟性の把握が先行しなくてはならず、自由意志の正しくない使用の内にこそ、かの欠如が内在するのである。欠如は、私から出てくる限りの活動の内に内在するもので、私の内における不完全性である。私は、物事の真理が明白でない時にはいつも、判断を下すこと控えることを想起する仕方で、誤謬を防ぐことが出来る。また、もはやその様な誤謬に陥らない習慣を手に入れることが出来る。まさにこの点にこそ、人間の最大のそして主要な完全性が存する。実際、判断を下すにあたって、悟性によって明晰判明に示されるものだけにしか及ぼさぬように意思を制限しさえするなら、私が誤るということは全く起こり得ないのである。なぜなら、全て明晰で判明な知識は、疑いも無く実在的なものであり、必然的にかの最高に完全なものであって、誠実な神を作者として持っており、それゆえ、疑いも無く、真なのであるから(注:ここで「明晰判明な知識は真である」ことが保証された)。
私は今日、誤らないための方法ばかりではなく、真理に達する方法をも学んだ。それは、不明瞭なものから完全に理解するものを区別しさえすれば、私は真理に到達するはずだから。

省察5 物質的事物の本質について。そしてふたたび神は存在するということ(存在論的証明、アプリオリな証明)
今一番さしせまった仕事は、物質的な物事について何か確実なものを手に入れることが出来るかどうか調べること、であるように思われる。
私は、連続量や延長を判明に想像し、この量のうちの部分を数え、部分に形や位置や運動を帰属させ、運動に任意の持続を帰属させる。これらのものについての真理は、あまりにも明らかである。注目すべきと思われるのは、私の外には恐らくどこにも存在しないであろうが、しかし、それでも、無であるとはいえないもの、こういうものの観念を私が、私の内に無数に見出すという事実である。例えば、私が三角形を想像する時、多分この様な図形は私の思惟の外の世界のどこにも存在しないだろうが、しかし、不変で永遠で、私の精神に依存しないある本性を持っている。そのことは、三角形の内角の和が二直角であることなど、三角形についてのさまざまな特性が論証されるから明らかである。なおまた、その三角形の観念は感覚器官を介して外部から私の内部にやってきたものではない(注:アリストテレス経験論における数学観の否定)。なぜなら、私は無数の図形を考えだすことができ、しかもこういう図形について、さまざまな特性を論証することが出来るからである。
ところでいま、私があるものの観念を私の思惟から取り出しうるということだけから、そのものに属すると私が明晰にかつ判明に認知する全てのものが、実際にそのものに属するということに帰結するなら、ここからまた、神の存在を証明する論証が得られはしないだろうか(注:以下、神の存在証明No.3、が始まる)。
確かに私は、神の観念を、形や数の観念にも劣らず私の内に見出す。さらに私は、存在するということが神の本性に属することを、形や数について私が論証することがその形や数の本性に属することを理解する場合に劣らず、明晰かつ判明に理解するのである。従って、神の存在は私の内において、これまで数学の真理が確実であったのと、少なくとも同じ程度には確実でなければならない。
この証明は、一見したところ詭弁であるかのようにも見える。というのも、私は、神以外の全てのものにおいて、存在を本質から区別することに慣れているため、神の存在もまた神の本質から切り離されうるのだから、神は存在しないものと考えられうるのだ、と信じやすいから。
しかし、神の存在が神の本質から分離されえないのは、三角形の本質からその内角の和が二直角であることが分離されえないこと、あるいは、山の観念から谷の観念が分離されえないのと同様である。これは、山を谷とともにでなければ考えられないからといって、ある山が存在するという帰結が出てこないのと同様に神が存在するという帰結も出てこない、と考える様なことではなく、私が神を存在するものとしてでなければ考えることができないということからは、存在が神から不可分離であること、従って、神は実際に存在するということ、が帰結するのである。これは、私の思惟によってもたらされる事態ではない。事がら自体の必然性が、すなわち、神の存在の必然性が、私をしてそのように考えさせるのである。というのは、存在を欠いた神〔言い換えれば、最高の完全性を欠いた、もっとも完全な存在者〕を考えることは私の自由にならないからである。
神の観念は、私に生まれつき具わっている真の観念のうちの第一に主要なものである。というのは、実際私は、神の観念が、私の思惟に依存するものではなく、真実で不変な本性の像であることを、多くの仕方で理解するからである。すなわち、第一に、その本質に存在が属するものを、私は、ひとり神を除いてほかには何も考えだすことが出来ぬからである。次に、こういった神を、二つあるいはそれ以上考えることができぬからであり、また、そういう一なる神が現に存在するとするなら、当然永遠の昔から存在したのであり、かつ永遠の未来にわたって存続するであろうことを、明らかに知るからである。そして最後に、そのほかにも私は、私が何一つ引き去ることも加えることも出来ないものを数多く、神の内に認めるからである。
そして、私にはこのことを認知するのに注意深い考察が必要であったけれども、いまや私はこのことについて、他の極めて確実と思われることについてと同じくらいに確信を抱いているばかりではなく、他の事物の確実性がほかならぬこのことに全く依存しており、このことなくしては何ごとも決して完全には知られえないのだと、ということにも気付いているのである。
いまや私は神があることを知っている。同時にまた、他の全てのものが神に依存すること、神が欺瞞者ではないこと、を理解しており、これらのことから、私が明晰判明に認知するものは全て必然的に真である、との結論も得ている。それゆえ、ただ私が、明晰に判明に理解したということを覚えていさえすれば、どの様な反対の理由が持ち出されても、私を疑いに陥れることは出来ず、かえって私はそのことについて確実な知識を有するのである。
かくて私は、あらゆる知識の確実性と真理性とが、もっぱら、真なる神の認識に依存することを明らかに見るのである。いまや私には、神そのものや他の知性的なものについても、純粋数学の対象であるところの物体的な本性全てについても、無数の事柄が明らかに知られうるのであり、確実でありうるのである(注:神は、物体的な本性すべて、例えば延長とか運動とか、に関する真理及び数学に関する真理を同じレベルで創造した。だから、数学で世界が説明できることになった!)。

省察6 物質的事物の存在、および精神と身体との実在的な区別について
もはや残るところは、物質的事物が存在するかどうか吟味することだけである。私はすでに、少なくとも次のことを知っている。物質的事物は、純粋数学の対象である限り、存在することが可能である、私はそれらを明晰に判明に認識するのだから。
さらに私は、想像の能力を用いることによって、物質的事物は存在するという帰結がでてくるように思われる。このことをはっきりさせるために、私はまず第一に、想像のはたらきと純粋な悟性のはたらきとの間にある相違を検討することにする。
例えば、私が三角形を想像する時、それを図形として理解するばかりではなく、その形が現前しているもののように、精神の眼で直観するが、これこそ私が想像と名付けるはたらきである。ところが、千角形の場合には、それが万角形と区別できないことが示す様に、図形として理解することが出来たとしても、その形が現前しているもののように直観することは出来ない。
理解する時には、自己を自己自身に向け、精神に内在している観念を考察するのである。想像する時には反対に、自己を物体に向け、物体の内にある、精神自身によって理解された観念なり、感覚に知覚された観念なりに対応するあるものを、直観するのである。
もし物体が存在するのならば、その様な想像のはたらきを理解することにより、私は蓋然的には物体は存在すると推測するが、物体的本性についての判明な観念からは、必然的な物体の存在を論証できるようにはどうしても思えないのである(注:主観が介入するので)。
私は、物体的本性のほかに、それよりも判明ではないもの、色や音や苦痛などといったものを想像するが、これらのものは、むしろ感覚によってよりよく知覚されるものなので、感覚によって知覚されるものから、物体的事物の存在の証明に役立つ、何か確実な論証をうることが出来るかどうかを見なければならない(注:ここで感覚のはたらきが再考される)。
(注:デカルトは当初、普遍的懐疑により感覚の認識能力や神の誠実性を疑っていた。このあと、その疑いの理由を振り返るが、その部分は省略する)
しかしながら、いま、私自身と私の起源の作者とをよりよく知るにおよんで、私は、感覚の全てに疑いをかけるべきでもない、と考えるのである。
そして、第一に私は、明晰に判明に理解するものは全て真であることを知っているのだから、一つのものをもう一つのものなしに明晰に判明に理解することが出来さえすれば、それだけで、この二つのものが異なったものであることを確信しうるのである。なぜなら、それらは、少なくとも神によって、別々に定立されうるからである。
従って、私が、私は存在するということ、を知っていること、そして私の本質に属するとはっきり認めうるのはただ、私が思惟するものであるということだけであること、このことからして私は、私の本質が、私は思惟するものである、というこの一つのことに存するのだ、と正しく結論する。そして、私は、一方で、私がただ思惟するものであって延長を持つものでない限りにおいて、私自身の明晰で判明な観念を持っているし、他方では、身体がただ延長を持つものであって思惟するものではない限りにおいて、身体の判明な観念を持っているのであるから、私が私の身体から実際に分かたれたものであり、身体なしにも存在しうることは確かなことである(注:心身が区別された。心身二元論)。
さらに私は、私の内に想像する能力および感覚する能力を見出す。ところで私は、これらの能力なしにも私を、明晰に判明に理解することが出来るが、しかし逆に、それらの能力を私、いいかえると、それらが内在する悟性的実体なしに理解することは出来ない。ここからして私は、ちょうど様態が事物から区別されるように、それら二つの能力が私から区別されることを知るのである(注:想像力と感覚という能力は私に属してはいても、実体としては私から区別された。)
なおまた私は、ほかのある種の能力をわが内に認める。たとえば、さまざまな姿勢をとる能力といった類のものである。これらの能力も、先に述べた、想像や感覚の能力と同じように、それが内在するなんらかの実体なしには存在することは出来ないが、そのなんらかの実体は延長を持つものであって、悟性的実体ではないことは明白である。なぜなら、それらの能力の明晰で判明な概念にはいかなる悟性作用も全く含まれていないからである(注:その能力を含めた身体が私から区別されて物体として確定した)。
ところが、確かにいま私の内には、ある種の受動的な能力がある、すなわち感覚する能力、詳しく言えば、感覚的事物の観念を受容し認識するという受動的な能力である。受動的能力を私が用いうるのは、ある種の能動的な能力が存在する場合に限られるであろう。しかるに、その能動的能力は私自身の内にはありえない。なぜなら、感覚的事物の概念は、私の意に反してさえ、生み出されるのであるから。ゆえに、その能動的な能力は私とは違った実体の内にあることになる。この実体の内には、その能力によって生み出される観念のなかに表現的に存する全実在性が、形相的にあるいは優勝的に内在せねばならない。そこで、この実体は、物体(形相的に内在)か神か天使(優勝的に内在)であるかのいずれかになる。神は欺瞞者ではないからそのような実体ではない。かくして、この実体は物体的事物にある、すなわち物体的事物は存在する(注:ここで、「身体の操作能力」と「感覚の受動能力」を介して、延長を本質とする物質的事物、すなわち、身体と外的事物が精神の外に現に存在することが証明された)。
けれども恐らく、それら物体的事物の全ては、私が感覚で把握するとおりのものとして存在するのではないであろう。しかし、一般的にいって、純粋数学の対象の内に把握される事柄は全て、それらの内にそのとおりにあるのである。
このほかの、感覚的事物の事がらについても、神は欺瞞者でないことからして、私が自然から教えられる事がらが全て、何程かの真理を持っていることは、全く疑いのないところである。なぜなら、いま私が一般的な意味で自然というのは、神そのもの、あるいは、神によって定められた、被造物の秩序にほかならず、また、個別的に私の自然というのは、神によって私に賦与された全てのものの複合体にほかならないから。
こういう自然が私になにより明らかに教えることは、私が身体を持っており、そしてこの身体は、私が痛みを感じる時には具合が悪く、飢えている時には食べ物を必要としている、などのことである。こういう教えの内に何程かの真理のあることを、わたしは疑ってはならないのである。自然はまた、それらの痛み、飢え等々の感覚によって、私が自分の身体に、水夫が船に乗っている様な具合にただ宿っているだけなのではなく、私がこの身体と極めて密接に結ばれ、いわば混合しており、かくて身体とある一体をなしていることをも教えるのである(注:「心身合一」の考え方が提示された。デカルトは「心身二元論」なので、これは心身問題のアポリアを構成するが、『省察』ではこれに対する回答は示されておらず、ただ以下に、デカルトなりの解決のヒントが示されているだけである)。
さらにまた私は、私の身体のまわりに他のさまざまな物体が存在していることを、自然によって教えられる。確かに私が、多種多様な色や香りその他を感覚することから、私はこれらさまざまな感覚がやってくるもとの物体の内には、これらの知覚とは似てはいないにしても、それらに対応する多様性が存在する、と正しく結論するのである。
なお、それらの知覚は私にとって快いものもそうでないものもあるから、私の身体が、あるいはむしろ、身体と精神とから合成されている限りにおける私全体が、身のまわりの物体から、都合の良い影響を、あるいは都合の悪い影響を与えられているということは、全く確実である(注:自然が私に追求すべきもの、あるいは忌避すべきものとして示す、ともいえる)。
しかしながら、このほかに、自然によって教えられたように思われてはいるが、実は間違っている事がらが沢山ある。すなわち、私の感覚に刺激を与えるものが全く見当たらない空間は全て空虚であるとか、緑の物体の内には私が感覚するとおりの緑があるとか、その他こういった類の事がらがそうである。しかしこの点について十分把握するためには、「自然によって教えられる」という場合の自然の意味をもっと厳密に定義しなければならない。すなわち、ここで私は自然という語を、神によって私に賦与された全てのものの複合体、という意味よりもさらに狭い意味に解しているのである。この複合体には、ただ精神にのみに属する事がら、ただ物体だけにかかわる事柄、も含まれているが、いま問題にしているのはその様な事がらではなく、精神と身体との合成体としての私に神によって賦与されたものだけなのである(注:心身問題への解答へ繋がるヒント?)。
従って、この意味の自然は、精神と身体との合成体としての私に、私の外にある事物がなにか都合の良い影響を、あるいは都合の悪い影響を与えることを教えはするが、しかし、なおその上に、悟性の吟味を待たずに何かを結論してよい、とまで教えることはないはずである。なぜなら、それらの事物について真実を知ることは、ただ精神のみに属することであって、合成体には属していないと思われるからである(注:感覚内容は物質的事物の客観的認識には使えないことを念押ししている)。
ところで、ここに新たな困難が現れる。それは、自然が私に追求すべきもの、あるいは忌避すべきものとして示す物自体に関してであり、かつまた、内部感覚(注:感覚内容のうちで飢えなどの身体的なものを指す)に関してであり、これらにおいて私は誤謬を発見したように思う。例えば、病気にかかっている人々が、自分に害を与えると分かっている飲み物などをほしがる様な場合に、病人が神から欺く自然を与えられているということは、健康な人がそうであるというに劣らず、矛盾であるように思われるからである。
時計は、たとえ出来損ないで時を正しく告げなくても、自然の全法則に従っている。それと同じように、身体を機械と考えれば、飲み物をとると悪化する病人の喉が渇くのは、病人でない時に有益な飲み物をとるよう促されるのと同様に自然なことである。この自然は実際に事物の内に見出されるもののことであり、従ってなんらかの真理を有するものなのであるから、どうして神の善性は、この様な自然が欺くものであることを妨げないのかを探究することが、なお残されているわけである。
ところで、私は先ず第一に気づくことは、精神と身体との間には、身体はその本性上常に可分的であり、精神のほうは、全く不可分であるという点で、大きな差異が存することである。
(注:以降、身体の感覚が、神経を通して脳(特に松果腺)に伝わる事実に関することを説明しているが省略する)
さて、以上に述べたところによって、神の広大な善性にも拘わらず、精神と身体との構成体としての人間に備わる自然(本性)が、時として我々を欺くものであらざるを得ないことは、全く明白である。というのは、もしなんらかの原因によって、足が傷を受けた場合に引き起こされるのと全く同じ運動が、足においてではなく、足から脳にまで走っている神経の途中の部分において、引き起こされるならば、痛みはあたかも足にあるように感ぜられ、感覚は自然的に欺かれることになるからである(注:神が欺くよう見えたことの理由が解明されて、3段落上の矛盾も解消された)。
さて以上の考察は、私の本性の陥りがちな全ての誤謬に気がつくのに役立つはかりでなく、それらの誤謬をたやすく正したり避けたりするためにも役立つのである。すなわち、私は、全ての感覚が、身体の保全に関する事柄については、偽を示す場合よりも真を示す場合の方が遥かに多いことを明らかに知り、なおまた、同一のものを吟味するために、ほとんど常にこれらの感覚の多くを用いることが出来、その上、現在と過去とを結びつける記憶を用いることも、すでにあらゆる誤謬の原因を見極めた悟性を用いることも出来るのであるから、もはや私は、日々感覚が私に示すところのものが偽でありはしないかなどと気遣う必要はないのである。
しかしながら、実生活の必要は猶予を許さず、いつでもこれ程厳密な吟味を行うわけには行かぬゆえに、我々は、人間の生活が個々の事物についてはしばしば誤りを犯しやすいことを告白しなければならず、結局我々の本性の弱さを承認しなければならないのである(注:デカルトは省察6の最後で、感覚内容は、身体との合成体である精神には独自の意味機能を持つことを付記し、心身問題のアポリアへの回答と道徳論への道を示唆しているように思われる)。

おわり