2021年2月11日木曜日

パイドロス プラトン著 (藤沢令夫訳 岩波文庫)

 

紀元前五世紀の終わり近く 真夏のある晴れわたった日の日ざかり アテナイの郊外 イリソス川のほとりにて

 

『パイドロス』は『饗宴』と並んでプラトンの恋愛論が展開されている代表的な作品と言われています。本文はその部分にフォーカスして要旨を纏めてみたものです。見出しは私が設定したもので、『』内は文献名または本文の引用、(⇒ )は小生の補記です。

ピンクパンサー
 

前振り

当時著名な弁論作家であったリュシアスのところからの帰路に、ソクラテスに呼び止められたパイドロスが、ちょうど今リュシアスから素晴らしい恋(エロース)についての話を聞いてきたところだと、ソクラテスに告げる。恋(エロース)の話が大好きなソクラテスは、パイドロスがリュシアスの話を聞くだけではなく書いたものを手に入れて熟読し、それを誰かと語り合いたいと願っていることを見抜き、それを読み聞かせるようにと言う。イリソス川沿いの良い香りのするアグノスの木陰に誘って。

 

(⇒以後の理解のためのいくつかの補足を下記してみた)

①ソクラテスに比べて、リュシアスは十歳ほど若くパイドロスは二回りほど若いから、パイドロスはリシュアスより一回り以上若い設定となっている

②ソクラテスは常日頃、恋(エロース)の話が大好きだと言いふらしていたが、それは恋(エロース)が、神にはなり得ない人間の生が生きるに値するものになりうるための一番大切なものだと考えていたから

③上記②の説明として、『饗宴』において、ディオティマという巫女がソクラテスに向かって語っている一節を引用してみた(プラトンは勿論ソクラテスの考えをディオティマに言わせている)

『いや、むしろこうは思わぬか。―――そのような生(=エロ-スの道を極めた段階にある人間の生)においてのみ、人間はしかるべき力を用いて美を見る。だから、そのような者が徳の幻影を生み出すようなことはない。なぜなら、彼が触れているのは、幻影ではないのだから。むしろ、彼は真実に触れているから、真実の徳を生み出すことができる。そして彼は、真実の徳を生み出して育むことにより、神に愛されるものとなり、また不死なる存在にすらなれるのだと―――もっとも、そんなことが人間に許されればの話だがな。』(中澤務訳、光文社文庫)

④『饗宴』(中澤務訳、光文社文庫)の解説によれば、『饗宴』に出てくる頃のパイドロスは20歳代後半くらいで、30歳代後半前半であったエリクシュマコスの恋人だった。本書でも成人男性の恋愛の対象が青少年に想定されているのは、当時のギリシャ市民社会の風習であったからに過ぎないだけのことで、そのことが恋(エロース)の本質を語ることの支障にはならない。そのことは、上記②③からも分かることだ

 

パイドロスの朗読するリュシアスの恋愛論の概要

 

『自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせよ』

 

上記は、リシュアスがその恋愛論で展開している物語の趣旨である。そして、その理由は下記のようなものであった。

・訳注:このリュシアスが書いた恋愛論の文章は、ソフィスト好みのパラドクスを弁論の力で正当化しようとする当時の弁論術の弱論強弁的傾向の一典型であり、また、同じようなことを繰り返し並べている駄文である点については、この箇所がリュシアスの文章ではなくてプラトンの創作とすれば相当に意地悪な意図が働いているとのこと

 

(⇒便宜上、以降の記述の全てにおいて、自分に恋している人たちをA、恋していない人たちをBと書いておく)

 

①Aは、欲望が冷めた後には相手にしてやった親切を後悔する。だがBはそのようなことはない。Bの親切は恋の力に強制されるのではなく自由な意思によるものであり、わが身の事柄について最善を図りうる仕方で、自分の能力に応じて尽くすものだ

②Aは、恋のために自分の一身上の処置を誤ったことや、相手によくしてやった数々のことを考え、また、それらのために背負った苦労も付け加えて計算に入れ、結局、相応の恩恵は恋人に返済したと信じるものだ。だがBは、恋のために自分のことがなおざりになったと主張することも、過ぎ去った苦労を勘定に入れることも、身内の者との仲違いの責任を相手に着せることもない。従って、これだけのよからぬ事柄が取り除かれるとすれば、残るのは、相手が喜ぶだろうことを、心を込めてすること以外にはない

③Aは、他の人びとの憎しみをかってでも恋人達を喜ばせようとするものだが、後に新しい恋人が出来たときには、新しい恋人の方を今の恋人よりも大事にするだけでなく、新しい恋人の気に入るのなら今の恋人にひどい仕打ちもする

④Aは以上のように、もともと心に災いを持っている男なので、かくも貴重なもの(青春の美しさ)を捧げる理由はない。実際、A自身も自分が正気であるより病気であり、精神の乱脈ぶりを知りながらも自己を支配することができないことを認めている。とすれば、彼等が正気に返った後で、自分が正気でない時に考えて決めた事柄を善しとすることはできない

⑤人数から言えばAはBにくらべてはるかに少数だから、君の愛情に値する人物が見出される公算はBの中からの方がはるかに大きい

⑥世間に認められている掟を恐れ、恋人同士の関係を世間に知られて非難されることを心配するなら、Aを恋人にしてはならない。Aは虚栄心に駆られて恋人との関係を他人に言いふらすからだ。従って、欲望を充たす相手としてはBしかない

⑦Aは恋人に付き纏うから沢山の人びとの耳目に触れる。そこで人びとは、彼等が一緒にいて話をしているだけでも恋の欲望を遂げたか、あるいは遂げようとしているに違いないと思うだろう。しかしBは恋人に付き纏わないからその懸念はない

⑧君が友愛の心を大切にするならAに身を捧げてはならない。Aは嫉妬心から君が何か優れたものを持っている人びと(財産家や教養人など)と交わるのを阻止しようとするので、君はそれらの人びとを敵に回すことになる。これに反してBが徳の力によって君に対する望みを遂げる人たちならば、君と交わる人びとに嫉妬はせず、かえって君と交わろうとしない人びとを憎むことになるのだから、彼等(優れた人びと)との間に友愛が生まれるだろう。なぜなら、Bは君との交わりを望まない人びと対しては、自分が軽蔑されているものと見なし(⇒だから憎む)、君と交わる人びとからは利益をうける(⇒だから嫉妬しない)と考えるからだ。従って、君とBとの結びつきからの方が、Aとの結びつきからよりも、友愛(⇒優れた人との)が生まれる望みがはるかに大きくなる

Aは、まず恋人の肉体を欲しがるから、その欲望が充たされた後にもなおも親しくすることを望むかは疑問だ。Bは、すでにその前から互いに親しい間柄にありながら、そういった想い(⇒肉体への欲望)を遂げるのだから、思いを遂げたことが互いの愛情を減退させることもなく、むしろそれは将来を約束する記念として心に残るだろう

⑩君はAよりもぼく(リュシアス=Bのような人)の言うことに従う方が、優れた人間になる。なぜなら、Aは恋人の機嫌を損ねることを恐れ、欲望に目が曇らされて、恋人の言うこと為すことを、ほめそやす。そして、ことがうまく運ばぬ時は、さしたる苦しみでもないことでも心の痛手と感じさせ、ことがうまく進んでいるときには、喜ぶ値打ちのないことまでもよしと思わせるものだから。それに反してぼく(=リュシアス)は恋の奴隷ではなく、自分自身の支配者であるから、現在の快楽にかしずくことなく、将来のためをもおもんばかりながら君と交わり、つまらぬことに腹を立てて憎しみを掻き立てることもなく、重大な事柄のためには徐々に軽く怒るだけで、心ならずも犯した過ちはこれを許し、故意の過誤はこれを払いのける努力をするから

⑪君の心に、人が恋をするのでなければ強い愛情は生まれ得ないという考えが浮かんだとするならば、次のことに留意すべきである。もしそれが本当なら、息子や父母を大切に思うことも、信ずべき友を持つこともあり得ないだろう、と

⑫もし最も切に求める者たちにこそ身をまかせなければならないとするならば、他の場合一般において言えば、よくしてやらねばならないのは、最も優れた人びとにではなく、最も無能で無策の人びとに対してだということになる。だから、身をまかせてしかるべき相手は、君を切に求める人びとであるAではなく、恩返しをする能力がある人たちBとなる

⑬君はBであれば誰に対しても身をまかせるようにと、ぼくが勧めていると思うかもしれないが、それは違う。そのようなことをするならば、その厚情を受け取る者にとっては等しい感謝に値するものではないし、君にとってもそのことを他の人に気づかれぬようには出来ないから。要するに、どちらの側にとっても害になることは生じないで、為になることが生じなければならないのだ

 

リシュアスの恋愛論に対するパイドロスとソクラテスの対話

 

『リシュアスの話した内容とは別に、あれより見劣りのしないようなことを話せるような気がするのだ』(ソクラテス)

 

リシュアスの恋愛論をパイドロスが朗読した後、パイドロスがリシュアスの話しぶりに感激して、同じ主題についてもっと沢山のことを話すことが出来るギリシャ人が他にはいないのでは、とソクラテスに言う。

ソクラテスは、リシュアスの物語について、注意を引かれる点は修辞的な面だけで、この種の主題についてリシュアスはあまり話の種をもっていないかのように、また関心もないようだ、と言う。

ソクラテスが言わんとすることが腑に落ちないパイドロスに対して、ソクラテスは、君の主張を認めれば、昔の賢人達からぼくは徹底的に反駁されるだろうと言いつつ、リシュアスの恋愛論の趣旨に沿った物語を、よりその本質から語り直してみようと言う。

 

ソクラテスの第一話(リシュアスの物語の趣旨に沿った)

 

『むかしむかしあるところに、大変美しい一人の子ども―――というよりも若者がおりました。この若者には、たくさんの求愛者がありましたが、その中にひとり、口の上手なのがいて、ほんとうは誰にも負けないくらい、その子を恋しているくせに、自分は恋してはいないのだと、その子に信じ込ませておいたのでした。そして、ある日のこと、彼に言い寄るのに、ひとは自分を恋している者よりも、恋していない者に身をまかせなければいけないのだという、まさにこのことをかれに説得しようとして、次のように語ったのでした。』

 

はじめに恋とは何であるのかを定義して、その上で、恋とは有益をもたらすものなのか、それとも、有害をもたらすものなのかを、考えよう、と。

 

『つまり、こういうことなのだ。―――盲目的な欲望が、正しいものへ向かって進む分別の心に打ち勝って、美の快楽へと導かれ、それがさらに自分と同族のさまざまの欲望に助けられて、肉体の美しさを目指し、指導権を握りつつ勝利を得ることによって、いきおい盛んに(エローメノース)強められる(ローステイサ)時、この欲望はまさにこの力(ローメー)という言葉から名前をとって、恋(エロース)と呼ばれるに至った、と』

 

恋とは一つの欲望であることは誰にも明らかな事実であるが、人は美しいものに対しても欲望をもつことを知っている。すると、恋している者と恋していない者との区別はどうしたらよいだろう(⇒この部分の意味は不明だが、次のソクラテスの第二話に述べられている「想起説」に基づいて「美」を観照できるか否かがその区別をもたらすのだろう)。

一人ひとりの中には、われわれを支配し導く二つの力ある。一つは生まれながらに具わっている快楽への欲望で、もう一つは最善のものを目指す後天的な分別の心である。この二つの力が相争う場合、分別の心が理性の声によってわれわれを最善のものへ導いて勝利したときには、この勝利は「節制」と呼ばれ、欲望がわれわれを快楽の方へと引き寄せ支配権を握るときは、この支配権は「放縦」と呼ばれる。

 

(⇒お互いに合意したこの恋の定義に基づいて、恋される側にとって、身を任せることが有益になるのか有害になるのかを考えてみようとして、精神面や肉体面、自分の所有物を巡っての検討などをする物語が語られるが、それは省略して、リシュアスの論旨に添ってソクラテスが出した結論の一節を引用する。)

 

『されば、いとしき子よ、君はこういったこと(恋する者に身を捧げることがもたらすだろう有害で不快な諸事実のこと)を、心に留めておかなければならない。そして、恋する者の愛情とは、けっしてまごころからのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを、知らなければならない。』

 

ソクラテスは、リシュアスの話も自分がリシュアスの主旨に則って作った話も、愚かで不敬虔だとして、この話しの続きをやめ、それとは反対の趣旨の恋愛論を語ることになる(⇒愚かな点=恋については語られずに愚かな連中の喝采を浴びようとする点。不敬虔=アプロディテの子であるエロース神を信じない点)。

 

・ソクラテス:『ぼくが話しかけていた子はどこにいる? この話もあの子に聞かせてやらなければ。そして聞かない前に、早まって恋していない者に身をまかすようなこととのないようにしてやらなければ。』

・パイドロス:『あの子ならここに、お望みのときにはいつでも、あなたのすぐ傍らに控えています。』

 

ソクラテスの第二話(ソクラテスの恋愛論)

 

ここから、リシュアスの物語の趣旨、つまり『自分を恋している者(=A)よりも恋していない者(=B)にこそむしろ身をまかせよ』を否定したソクラテスの恋愛論が語られる。

そのソクラテスの恋愛論の根底には、ゼウスを最高神とするギリシャ時代の神話が置かれている(⇒われわれは比喩として語られていると捉えれば良いと思う)。

 

1)先の二つの物語の前提には、Aは狂気でありBは正気だから、AよりもBの方に身をまかせるべきであるという主張があったが、ソクラテスはこの主張がまず誤りであることを指摘する。つまり狂気が悪であることが退けられる。

 

『われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。』

 

・神々から授かった狂気に憑かれた人びとがもたらしてきた数々の輝かしい功績として、予言術、疾病や厄災を避ける儀式、心の糧となる詩の三つが挙げられる(⇒四つ目の狂気である「恋という狂気」こそ本書の主題で、それは以下(2)以降に述べられる。因みに、この四つの狂気とその神を並べてはっきり述べられるのはかなり後の方で、本文庫版の109p、ステファヌス版の慣用表示では265Bとなっている)

 

2)次に、われわれがすべきは次の主張の証明である

 

『この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。その証明は単なる才人には信じられないが、しかし真の知者には信じられるであろう。』

 

3)上記主張の証明には、はじめに神や人間の魂とは何かを知らねばならない。以下は魂とは何であるかの説明(⇒ナルホド)

 

①魂はすべて不死なるものである

・自己自身を動かすもの(⇒魂)のみが動かされるものの動の源泉であり始原である

・始原は生じることがなく必然的に滅びないものである

②魂の本来の相(すがた)は神のみぞ知る。人間にとってそれは、翼をもった一組の馬と手綱をとる翼をもった馭者が一体になった姿として思い浮かべることができる

③神々の魂の場合には馬も馭者もすべて善きものばかりだが、神以外の魂の場合には善いものと悪いものとが混じり合っている

④人間の魂の場合には、手綱を取る二頭の馬のうちの一頭は美しく善い馬で、もう一頭の方はこれと反対の性格だから、馭者の仕事は困難となる

⑤翼のそろった完全な魂は、天空高く翔(かけ)上がって、宇宙の秩序を支配する

⑥翼を失った魂は地上に落ちて、土の要素からなる肉体を捕まえてそこに棲み着き、「生けるもの」と呼ばれ、「死すべき」という名がつけられる(⇒人間以外の動物の魂もある)

⑦われわれは神の姿を不死なる生き物として作り上げる。つまり魂と肉体を持ちしかも両者は永遠に結合したままでいるものというかたちで

⑧神にゆかりある性質は、美しきもの、智なるもの、善なるものであり、醜きもの、悪しきものなどは神にゆかりある性質とは反対のものである

⑨魂は、神にゆかりある性質によって育まれ、その反対の性質によって衰退する

⑩魂が翼を失うのは、神にゆかりある性質とは逆の性質によって衰退するからである

⑪天界においては、ゼウス神が万物を秩序づけ、また配慮しながら、翼のある馬車を先駆けて行進する。それに続くのは十二神のうちの十一神(炉を守る女神ヘスティアは神々のすみかに留まっている)とダイモーンが率いる部隊である(訳注:ダイモーンはおそらく地上に落ちて人間の肉体に宿る魂を指す)

⑫天球の内側では、神々の種族がそれぞれの任務を果たしつつ祝福された行路を行進し、誰でもこの行進に参加することは出来る。しかし、饗宴におもむき、聖餐にのぞむときには天球の果てまで登らねばならないので、神以外の馬車にとっては苦難の道のりとなる

⑬このとき『魂には、世にもはげしい労苦と抗争とが課せられることになる。』

(⇒ここで魂の説明が終了して次のステップに入ることになる)

 

4)次に神々の魂の道行きが語られる。それは穹窿(⇒丸天井)まで登り詰めた後、天外に出て天球の背面に立ち、天球の運動に乗って一巡りする。その間に天の外の世界を観照し、それから神々の住処へ帰る。その旅路の様子は下記

 

①天の外の領域は《実有》である(⇒プラトンの「イデア」はこの領域に属する理念なのだろう)

・『真の意味において「ある」ところの存在、色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である』

②真実なる知識はすべて実有についての知識である

③神の精神は、真なるものを観照し、それにより育まれるので、天外の世界を観照することに幸福を感じる(⇒自分を育むもの触れると幸福を感じると)

・自己に本来適したものを摂取しよう心がけるかぎりの全ての魂においても同じ

④魂が観得するものは、《正義》《節制》《知識》(⇒徳は魂によって観得されると)

・この《知識》は生成流転するようなものではなく真実在の中にある知識

 

5)次に神々以外の魂の道行きが語られる。それぞれの魂がどのような道行きを辿るのかは、立法の神であるアドラスティアの掟によって定められていて、その概略は下記

 

①神に随行した回遊中に、真実在のうちの何かを観得した魂は、地上に落ちない

②地上に落ちた魂は、はじめは動物ではなくて人間へと植え付けられる。魂には順位があって、それぞれに相応しい人達は以下の九種類

・(⇒一番目の魂)。真実在を最も多く見た魂。知を求める人、あるいは美を愛する者、あるいは楽を好むムゥサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人

・二番目の魂。法を守り、あるいは戦いと統治に秀でる王者となるべき人

・三番目の魂。政治に携わり、あるいは家を斉(ととのえ)、あるいは財をなす人

・四番目の魂。体育家、あるいは肉体の治療に携わる人

・五番目の魂。占い師、あるいは宗教的儀式に携わる人

・六番目の魂。創作家、あるいは他の人の模倣を仕事とする人

・七番目の魂。職人あるいは農夫

・八番目の魂。ソフィストあるいは民衆煽動家

・九番目の魂。僭主

③正しい生活を送った者はよい運命に、不正な生活を送った者は悪い運命にあずかる

④普通の魂が元のところへ帰り着くまでは一万年かかるが、特別の魂は三千年で済む。特別な魂とは、一回千年の生(⇒一回の生=生前+死後)を三回続けて誠心誠意、知を愛し求め、あるいは、知を愛する心と美しい人を恋する想いを一つにした熱情の中に送った魂

⑤特別な魂以外は、最初の生涯を終えると裁きにかけられ、地下の世界で正当な罰を受けるか、天上の世界で生前の生き方にふさわしい生を送る

⑥はじめの千年が終わるとそれぞれが欲する二回目の生を選ぶが、選択の順番はくじ引きで、以下同様に繰り返される。人間の魂と動物の魂の交換はこの際行われうる

 

6)人間の魂は、かつて神の行進に随行したときに垣間見た天外の真実在を想起することが可能である(⇒「想起説」の説明)。だが、多くの人はそのような人を狂人と呼ぶ

 

①一度も真実在を見たことがない魂は、地上に落ちるときに人間の姿形がわからないので、人間の中には宿れない

・これを哲学的に言えば、人間がものを知る働きは、形相(エイドス)に則して行われる働きであり、雑多な感覚が純粋思考によって単一なものへとなる働きである

②天外の真実在を想起するには、知を愛し求める哲人の精神が力の限りを尽くして神との回遊の記憶を呼び起こし、想起の根拠となるものを正しく用いなければならない(⇒大地母神デメテルの「秘儀」の比喩での説明)

・想起の根拠となる数々のものを正しく用いてこそ完全な秘儀にあずかることができる。そのような人の心は神の世界とともにあるから、多くの人たちからは狂える者と思われて非難され、神から霊感を受けているという事実の方は理解されない

・(⇒西研は『哲学は対話する』において、神話的に語られている「想起説」を、「徳などの探究はまったくの無知から始まるのではなく、体験的にわかっていること(実感)を明確化することだ、と私としては読んでみたいところである(p140 L5)」と述べているが私も同感だ。そのことは、ヘーゲルの『精神現象学』では「意識経験の学」という言い方に示唆されており、フッサールの「超越論的主観性」と言う概念に含まれていると思う)

 

7)神の第四番目の狂気である「恋(エロース)の狂気」こそもっとも善きものである。人がこの世の美を見て真実の美を想起できるなら、この善きものにあずかることが出来る

 

『この話全体が言おうとする結論はこうだ。―――この狂気こそは、全ての神がかりの状態の中で、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕うものがこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ、と。』

 

①魂にとって貴重なもの、例えば《正義》《節制》などはこの地上における似像から原像なるものを観得するに過ぎない。だが、天外の真実在の中で燦然と輝いていた《美》は、地上においては、われわれのもっている知覚を通じて鮮明に輝いている姿のままに捉えることができる

・《美》は、神々に従いつつ、たぐいなく祝福された秘儀に参与したときの清らかな光景がわれわれに燦然と輝いていたものであった

・その秘儀を祝うわれわれ自身も清らかであり、肉体と呼ぶべき魂の墓にはまだ葬られずにいた

・『思い出よ、これらの言葉にたたえられてあれ。この思い出ゆえに、われわれは、過ぎし日々への憧れにうながされて、いま、あまりにも多くの言葉を費やしてしまった。』(⇒「思い出」=「想起」への憧れなくして「言葉」=「知」は育たない、と)

②天上界における秘儀の光景を忘れたり、堕落した者は、地上において美しい人の顔立ちや肉体の姿を見ても畏敬の念を抱けず、放縦になじみながら快楽に身を委ねることを恐れたり恥じたりもしない

③天上界に居たとき、そこでの秘儀の光景を想起できる者、多くの真実在を観得した者は、地上において、美をさながらにうつした神々しいばかりの顔立ちや肉体の姿を目にすると、まず畏怖の情が幾分か蘇り、身は神の前に在るかのように恐れ慎み、かの翼に潤いを与える美の流れが彼の目を通して注がれて、その翼の根は成長しようと躍動をはじめる

・かくして、魂は熱っぽく沸き立ち、はげしく鼓動し、美の流れが「愛の情念」として受け入れられれば、魂はそのもだえから救われて喜びに充たされる

・魂が相手から引き離されれば、翼の生え口は乾燥して塞がり、その根は情念とともに閉じ込められて、飛び跳ねる一方、美しい面影の記憶(⇒想起)は魂に喜びをもたらす。こうして、喜びと苦しみが混じり合って、魂は不思議な感情に惑乱し、狂気に苛まれる

④『恋する人びとがなぜ恋をするのか、またその心情はどのようなものなのかといえば、それはまさに、ぼく(ソクラテス)が話したような者なのだ。』(⇒以下参照)

・『その身に美をそなえた人こそは、この魂の畏敬のまとであるのみならず、最大の苦悩を癒やしてくれる人としてこの世に見出すことのできた、たったひとりの医者なのである。』

・せつない憧れに駆られて、夜は眠れず昼もじっとしておられず、美しいその人を見ることができると思っている方へ走っていく

・その姿を目に捉え、愛の情念に身を潤すや、魂は、それまですっかり塞がれていた翼の生え口を解き開き、生気を取り戻して苦悩から救われ、他方更に、比べるものとてない甘い快楽を、その瞬間に味わう

・だからこそ、出来ることなら離ればなれになろうとはしないし、また、この世の何人をも、この美しい人よりも大切に思うようなことはない

・彼は母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れ、財産を顧みずにこれを失っても、少しも意に介さない

・それまで自分が誇りにしていた諸事、規則に則ったことも、体裁の良いことも、全てこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、許されるならばどのようなところにでも横になって、恋い焦がれているその人のできるだけ近くで夜を過ごそうとする

⑤この心情を、人間達は恋(エロース)名付けているのだが、神々のもとではそれは以下のホロメス語りの人たちの詩に示されている(訳注:プラトンの創作だろう)

 

『翼もてるエロース そはまこと 死すべきものどもの呼べる名なり

されど不死なる神々は、これをプテロースとこそ呼べれ 翼(プテロン)おいしむるその力ゆえに』(⇒不死なる神々の間では、翼を生やすこの力のことをプテロースと呼ぶが、死すべき人間達の間では、これをエロースと呼ぶ)

 

8)人間達が地上の生を送る間、かって天界で回遊に従った神々の流儀に従って生きることになり、愛人に対してもその神の姿に近づくよう導いていく

①ゼウスの従者であった人びとは、エロースの神の重荷に、他の人びとよりも耐えることが出来、生まれつき知を愛し人の長たる天性を持つ相手を恋人に選び、その天性の実現に努め、自らもまたそう努める。つまりゼウスの本性を探究しようと努めることができる。『それはほかでもない、自分の神に対して、熱烈なまなざしを向けずにはいられないからである』

・記憶のうちにその神に到達して霊感に充たされるや、神に参与することが可能な限りで神の習性と生き方とを我が物にすることができる。しかも、それも恋人のお陰だと考えて益々愛情を高め、ゼウスからくみ取ったものを恋人の魂に注ぐ

②オリュンポスの12神の一つで、戦いの神であるアレスの従者であった人びとは、恋する相手から悪い仕打ちを受けたと思い込むと、殺気だって、恋人をわが身もろともに犠牲の血祭りに捧げることも辞さない

③ヘラはゼウスの妻なので、ヘラの従者であった人たちは、相手が王の性格を持ったものであることを求める、つまりゼウスの従者と同じ特徴をもつ

④アポロンやその他の神々の従者だった人たちは、それぞれの神にならった道を歩む

 

9)真に恋する者が抱く情熱と、その秘儀は、恋のなせる狂気に憑かれたこの人によって、愛される者の身に与えられ、愛人はこの人のものとなり、愛人は恋する者にとらえられる

・愛人がどのようにしてとらえられるのか、その次第が例によって善い馬と悪い馬と馭者で構成された魂という構図で語られる

10)かくして、恋に陥ったこの愛人の状況が語られる

・自分の心を動かしているものが何であるか説明が出来ない

・自分を恋している人の中に自分自身を認めているのだと言うことに気づかない

・恋している人が側に居れば、その人と同様に自分のもだえはやみ、離れていれば、またしても同じように、互いにせつなく求め合う

・だがそれは恋ではなく友情だと思って、そう呼んではいるものの、心に宿るものは、映って出来た恋の影、こたえ(返答)の恋(アンテロース)なのだ(⇒アンテロースはギリシャ神話に出てくる返愛の神で、エロースの弟)

・自分を恋している人の欲望と影の欲望に添うがごとき、しかしそれよりやや力の弱い欲望、つまり、その姿を見たい、その体に触れたい、くちづけをしたい、ともに寝たい、という欲望を感じ、程なくそのようなことすることになる

・ここで、情事の様子も語られるが、それもまた例の良い馬と悪い馬と馭者で構成される魂、今度は、恋する人と恋される人の魂の比喩として表現される

11)恋に陥った者たちには、知を愛し求める生活をおくる場合と、そうではないものの愛欲を達成して互いに愛によって結ばれている場合の二つがあるが、何れの場合もその生涯を終えた後は地下の旅路に行くことはない(⇒それぞれがどのような旅路を辿るかの物語は既に語られている)

12)恋に陥らない者たちは次のようになる(⇒リシュアスのようなソフィストへの強烈な批判)

『恋していない者たちによってはじめられた親しい関係は、この世だけの正気とまじり合って、この世だけのけちくさい施しをするだけのものであり、それは愛人の魂の中に、世の多くの人びとが徳(⇒卓越した力=アレテー=名誉、富、技能、弁論術、etc)としてたたえるところの、けちくさい奴隷根性を産み付けるだけなのだ。』(訳注:リシュアスに対する締めくくりとしての痛烈反駁)

<以下省略>