2015年11月15日日曜日

リヴァイアサン(ホッブズ著)第一部

リヴァイアサン(ホッブズ著)第一部
ジャスミーナ

テキストは、水田洋訳(岩波文庫1992年改訳版)。参考書は、『中公バックス世界の名著28ホッブズ(永井道雄編集19997)』以下『中公バックス』と略記、と『市民論(ホッブズ1641年著、本田裕志訳、京大学術出版Oct.18-2008)』以下『市民論』と略記。


感想】
この本は、イギリスにおいて、清教徒革命の頃(17世紀中頃)に書かれたものです。ホッブズは、人間を国家(リヴァイアサン)の素材であると認識し、まず人間の洞察から始めている。第一部はその箇所に該当しているが、有名なホッブズの政治哲学の考え方はこの第一部の十三章から十六章にかけて示されている。
その考え方は簡単に言うと次のようになる。人間は、自然状態においては、自身の生命を維持するためには何をしても許されるべきである。だが、人間というものは、相互不信に陥れば恐怖に囚われるものである。よって、自然状態において相互不信に陥れば、各人が各人に対して戦うという状況が起り、互いに殺し合い滅亡する。だからそれを回避するには、生存を保証するルールを守らせるだけの力を持った共通な権力(国家)を作る以外にはない。
注意しなければならないのは、よく引き合いに出される「万人の万人に対する戦い」が政治思想としてホッブズの一番基本的な考え方であると誤解することです。一番基本的な政治思想は「平和を希求すべし」(第一の自然法の基本部分)ということであって、そのことを可能にするものは、人間の理性である、という思想にあります。尚、「万人の万人に対する戦い」という言葉は『リヴァイアサン』より前に書かれた『市民論』で先に使われています。
やはり読み継がれてきた古典は、自分で原典に触れて、全部では無くても大事な箇所をゆっくりと読むと勉強になります。そこから、他の人の考え(先入見)になるべく惑わされずに、また当時の個別事情に惑わされずに、普遍的なものを読み取るところに面白さがあると思えます。なにしろ時代背景、現実条件が全然違うのですから。付け加えれば、その違いの理解は歴史の知識があればあるだけ深まることは容易に推測できます。

(凡例)
①【 】は題目ではなく文中に適宜挿入されている見出しだが、一応行の先頭に置いた。
太字はキーワードとして初めに出てきた頃を目処に印した。
③脚注は当該ページの下に挿入した。

序説
神がそれによって世界を創造した自然の技は、人間の技術によって模倣される。製作者の意図されたとおりに動く自動機械は生命を模倣した人工的動物ともいえる。更に技術が人間を模倣して、コモン-ウェルスあるいは国家と呼ばれる、あの偉大なリヴァイアサン、つまり人工的人間が創造される。
この人工的人間の本性を叙述するために、私は以下の四つの項目について考察したい。
第一:素材と製作者、つまり人間の考察。
第二:つくり方、諸信約。主権者の権利やその正当性及び維持・解体の原理。
第三:キリスト教的コモン-ウェルスとは何か
第四:暗黒の王国とは何か

第一部     人間について[1]
第一章     感覚(Sense)について
人間の諸思考について、まず単独で、その後系列において考察しようとおもう。
単独としての諸考察は、我々の外部にある物体の性質等の現われである。対象は、我々の人体の諸部分に作用し、その作用の多様性は多様な現象を生み出す。それらのすべての根源は、我々が感覚と呼ぶものである。
感覚の原因は対象であり、対象は外部の物体のようにみえるが、このみえることは想像であり、この想像が感覚と呼ぶものである。物体の色や音などの感覚しうるものはその物体の諸性質呼ばれ、その物体の中にあるが、それは運動であって、この運動が我々の諸機関に作用するが、それは我々の中においては運動である。感覚というものは、外部の事物の運動によって引き起こされる根源的な想像にほかならない。
しかし、スコラ学派の哲学者は、アリストテレースの学説を基にしてはいるが、それとは別の学説を教えていて、次のように言うのである。視覚の原因は、見られる側が、ある見られるものを送り出し、それを眼に受け止めることだ、というのである。それどころか、理解の原因は、理解されるものが可知的なものを送り出し、それが知性に到達して我々を理解させるのだ、と。無意味な言葉の連発は、訂正される物事の中の一つなのだ。

第二章     造影(Imagination)について
物体の運動は、何かそれを阻止するものが無ければ永久に続くが、阻止するものがあっても、その消滅は即座ではない。人間の内部の諸部分で起こされた運動についても同様に、対象が除去された後にもその対象の影像(Image)を保持するのである。造影とは、衰えつつある感覚にほかならず、眠っていても、目覚めていても見出されるものなのである。
【記憶】 時間や距離も感覚を衰えさせるが、感覚の衰えを表現したいとき,その造影は記憶と呼ばれる。
多くの物事についての記憶は経験と呼ばれる。記憶は、人が以前に見た人間または馬を造影することで、単純造影であるが、経験は複合されたもので、あるときに見た人の姿と他のときに見た馬の姿から、ケンタロウスを心に描くような場合である。複合造影は仮想にすぎない。
【夢】 眠っている人の造影は夢と呼ぶものである。感覚と夢を正確に区別することは困難である。
【幻または幻影】 人の夢を、目覚めているときの思考と区別することが最も困難なのは、何かの偶発事件によって我々が、自分が眠ったことに気づかない場合である。それは,何か恐ろしいことでいっぱいになって良心が非常に悩んでいる人や、何か異様で途方もない想像に囚われている人は、それを夢以外のものと考えることが容易に出来ないからである。マルクス・プルートゥスの史実、墓地の幽霊などがその例である。
夢やその他強い想像を、感覚から区分することの無知が異邦人の宗教や、今日では妖精、幽霊、妖鬼、魔女の力についての粗野な人々の見解を生じさせたのである。妖精および歩く幽霊については、私の考えでは、魔よけ等の、宗教人たちの発明品の効用に対する信用を維持するためのものである。だが、神が自然的でない幻をつくり得るということについては、疑いがない[2]
迷信的恐怖が取り除かれ、夢占いや偽の予言等々が除かれるならば、人々はより市民的服従に適したものとなったのだろう。これらのことを除去することがスコラ学派の仕事であるべきだが、彼らはむしろその様な教義を育成する。
理解】 人間或いは造影能力を与えられている被造物の中に、語あるいは他の意志に基づくしるしによって生じさせられる影像は、理解と呼ぶものである。人間に特有の理解は、概念や思考を、連続と組み立てをもって言葉の形式によって理解することである

第三章     影像の連続あるいは系列について
人が何か一つのものについて考えるときは、ある思考からある思考へと繋がっていくものである。諸思考の連続または系列とは、一つの思考が他の思考に継続することであり、語による説話と区別するために、「心の説話」と呼ばれる。
諸思考の基になる感覚の系列は、保持された影像の移行がもたらすものだが、この移行はなんら確実なものではないから、結局その造影も確実なものではなく、確実なのはただ、それが、いつかまえに、同一の物事に継続した、なにかであるだろう、と(思考すると)いうことである。
【導きのない思考系列】 心の説話には二つある。一つは、導きが無く、企図が無く、恒常的でないものである。そこでの諸思考は、夢の中のように相互に適合しないように見えるもので、仲間がいないだけでなく[3]、何事にも関心の無い人々のそれはふつうこのようなものである。このでたらめな心のさすらいにおいてさえも、人々は思考の道筋と思考の相互関連を知覚するであろう。例えば、現在の内乱[4]についての説話の中での、王を敵に引き渡すことについての思考がそうである。
【規制された思考系列】 心の説話にもう一つのものは、ある意欲及び企図によって規制されたもので、前者よりも恒常的である。なぜなら、意欲や恐怖によりつくられる印象は強力で永続的だからである。意欲から、ある手段についての思考が生じ、思考の系列は、自分の力の範囲内における結末を予測して、さまよえる思考を元の道に引き戻すのである。
規制された思考系列には二つある。一つは、ある造影された結果についての諸原因あるいはその結果を生む手段を探す場合で、これは人間と獣に共通である。もう一つは、何かあるものごと、例えば手段を造影して、それにより生み出されうるあらゆる可能な結果を探す、という造影をする場合である。これは人間だけが出来るものである。要するに、心の説話は、それが企図によって統治されている場合には探求能力にほかならない。それは、現在または過去における因果関係を探し出すことである。人はときどき、自分が失ったものを探求するが、その際に、探求すべき時と所やものごとの因果関係などについての諸思考をする。我々はこれを回想と呼ぶ。
【慎慮】 人はある行為の成果を知りたいという意欲を持つ。その場合に彼は過去の類似の行為とその結果について考える。この種の諸思考は予見慎慮、または先見、また時には知恵と呼ばれる。こういう推察は、あらゆる事情を観察することが困難であるために非常に間違えやすい。それでも次のことだけは確実である。即ち経験が多いほど慎慮に富むということである。現在だけが自然のかなに存在し、過去のものごとは記憶の中にのみ存在するが、未来は過去の諸行為の帰結を現在の諸行為に適用した、心の仮想にすぎない。来らんとするものごとの予見は神だけに属する先見であり、彼からのみ、そして超自然的に、予言が出てくる。最良の預言者は、当然最良の推測者であり、そして最良の推測者は、推測しようとする事柄について、最も精通した人である。なぜなら、かれは、推測のためのしるしをもっともおおくもつからである。
【しるし(Sign)】 しるしとは、帰結の前提事象[5]であり、類似の帰結が前に観察された場合には、反対に前提事象の帰結である。多くの経験を持つものは、未来のときを予測するためのしるしを最も多く持ち、その帰結として、最も慎慮を持つ。それにもかかわらず、人を獣から区別するのは慎慮ではない。一層の慎慮をもって利益を追求する獣もいるのである。
【過去についての推察】 未来の推察である慎慮が不確実であるのと同様に、過去についての推察も不確実である。なぜなら、どちらも経験だけに基づくものだからである。
人間固有の諸能力は、指導と訓練によって学習されるものであるが、すべては語の言葉の発明から生じる
我々が造影するものは限定的であり、不定の大きさ、不定の時間、不定の権力など不定的と呼ぶどのようなものについても、何の観念も概念も存在しない。人は、感覚の基に置かれないどのようなものごとを表現する思考も、持つことが出来ない。従ってだれでも、ある場所にあり、ある確定的なおおきさを与えられているものとしてでなければ、概念することは出来ない。概念できるものは、諸部分に分割することは出来る。どのようなものでも、同時に他の場所に存在できず、同一場所には同時には一つのものだけが存在する。そうでないものはスコラ学者から借りた背理的な言葉にすぎない。

第四章     ことばについて
【ことばの起源】 アルファベット文字の発明についてはギリシャ神話に伝えられているが、本当のことはわからない。なかでも最も有益な発明は名辞とその結合からなることばの発明である。ことばの作者は神であり、アダムに諸被造物の名辞とことばを与えた。その後アダムとその子孫によって増やされた言語はバベルの塔で失われて世界中に分散した。現在のような多様な国語は、時が経つにつれ、必要によって前より豊富になったからに違いない。
【ことばの効用】 ことばの一般的な効用は、心の説話を音声にしたり、思考の系列を語の系列に移すことである。それらには二つの便益がある。一つは思考の連続の記録であって、それにより記憶から逸脱せず想起されうることである。従って、名辞の最初の効用は、回想の符号あるいは記号として役立つことである。もう一つの効用は、多くの人が同じ語をもちいて相互に交流が可能になる場合であり、それがためにことばはしるしと呼ばれる。ことばの特殊な効用は四つある。一つは、思索によりものごとの因果関係を見出し記録することで、つまり学芸の獲得である。二つ目は、知識を相互に教えあって助言しあうことである。三つ目は、意志や目的を知らせて相互援助を得られるようにすることである。四つ目は、言葉をあやつって、相互に楽しむことである。
【ことばの悪用】 ことばの四つの効用に対して、四つの悪用がある。一つは、思考や語の意味に一貫性がないために、間違った記録をして自らを欺くことである。二つ目は、語を比喩的用いて他の人々を欺くことである。三つ目は、自分たちの意志でないことを意志として表明することである。四つ目は、語をお互いに苦しめあうために使用する場合である。ことばが、原因と結果の連続の回想に役立つやり方は、諸名辞の付与とそれらの結合の中にある。
【固有名辞と共通名辞】 名辞には、この男、この木、のようなただひとつのものごとに固有で特有な名辞がある。また、男、木、のように多くのものごとに共通なただひとつの名辞がある。
【普遍的】 名辞のほかには普遍的なものは無い。なぜなら、名付けられたものごとは、それら一つ一つが個別的で特殊的だからである。
普遍名辞には、その意味において大小関係がある。体という名辞は人という名辞より広い意味を持つ。人と理性[6]的とは同等の広がりを持ち相互に包含する意味を持つ。名辞は文法的な一つの語としてではなく、多くの語をあわせて理解される。例えば「彼の諸行為において彼の国の諸法を遵守するもの」という語群は、一つの名辞をつくり、それは「ただしい」という一語の名辞と同等である。
三角形の内角の和が二直角であるということは、ある一つの三角形と直角の図形が与えられれば容易に理解できる[7]。しかし、三角形一般においてそのことを理解するには、ことばを必要とする[8]
数においては、そのことはより明確になる。一つということは理解できても、1,2,3、・・・・という数の順序は、思考の記録と回想なしには、つまりことばがなければ理解できないし、もちろん計算も出来ない。
二つの名辞が結合されて、たとえば「人間は生きた被造物である」という断定の場合に、これが真実か虚偽かはことばの属性であって、ものごとの属性ではない。ことばの無いところでは真実も虚偽も無い。だから、人間は間違えることはありうるが、それをもって人は真実ではないと非難されえない。
【定義の必要】 真実が、諸名辞の正しい対応と順序にあるのだから、幾何学においては語の意味を決定することからはじめる。これを定義と呼ぶ。
名辞の正しい定義に、ことばの最初の効用があり、それが科学[9]の獲得である。間違った定義或いは定義の欠如に、最初の悪用があり、そこから全ての虚偽で無意味な教説がでてくる。自然それ自体が誤謬を犯すことはありえないが、人々はおびただし言語を持っているから、その分だけ賢明にも狂気にもなる。
【諸名辞の主体】 名辞を与えられるものは、計算や考慮されうるすべてである。ギリシャ人はことばと推理に対して同一の語、ロゴス、しか持たなかった。彼らの呼ぶ三段論法は推理の行為であり、ことばとことばの連続を要約、合計することに等しい[10]。名辞を与えられるものは、多様な偶有性[11]により説明されうるから、名辞は多様性を持つが、それは四つの項目に分類される。
第一は、物質を理解することに対する名辞である。たとえば、生きている、熱い、など。第二は、我々がその対象の中にあるものとして捉えている何かに対する名辞である。たとえば、生きていることについては生命を、熱いことについては熱、など。第三は、我々の身体の諸感覚を介して受け取る何かに対する名辞で、想像の名辞である。たとえば、見え、聞こえ、などである。第四は、ことば自身を考察して与えられる名辞である。たとえば、一般的、普遍的、特殊的、多義的というのは名辞の名辞で、断定、三段論法、その他類似の多くの名辞は、ことばの名辞である。そして、これら四つのすべては肯定的名辞である。
【肯定的名辞の効用】 肯定的名辞は、自然の存在、心中の仮想、物体及びその固有性、推論される対象、をしるしづけるために使われる。
【否定的名辞とそれらの効用】 否定的とよばれる名辞がある。これは、問題になっているものごとの名辞ではないことをあらわす記号であり、正しい名辞を拒否するだけのものだから、なにものの名辞でもない。だが、この記号は訂正することに有用であり、過去の思索を心に呼び起こす。
【無意味な語】 他のすべての語は無意味な音にすぎず、それには二つの種類がある。一つは定義されていないもので、スコラ哲学者たちによって豊富に作られている。もう一つは意味が矛盾した二つの名辞から作られる名辞である。たとえば、丸い四角、など。
【理解】 ことばが、その本来の意味として捉えられて思考される場合に、理解といわれる。
【不確定名辞】 我々の感情を動かすものごとに対する名辞は、人によって同じように動かされるわけではないから不確定な意味を持つ。人は身体構造や先入観の違いでものごとの受け取り方が違うから、同じことに対して違った名辞を与えるので注意が必要である。特に徳や悪徳に関する名辞はそうである。たとえば、ある人が正義と呼ぶものを他の人は残酷と呼ぶ。したがってその様な名辞は、どんな理性推理にとっても決して真の根拠とはなりえない。

第五章     推理と科学について
【推理とは何か】 推理をするということは、諸部分を足したり引いたりして総額や残額を概念することである。名辞に関していえば、部分や全体の名辞およびそれらの連続を概念することである。
このことは、算術のみならず、幾何学、論理学、政治学等についても同じである。どのようなことがらにおいても、足したり引いたりする余地がある限り、推理は可能であり、そうでない場合には、推理は何も出来ない。
【推理の定義】 以上から、推理を定義することが出来る。推理とは、思考をしるし付け、あらわすために同意された一般的名辞の連続の計算にほかならない。しるし付けるのは自分の心の中での場合、あらわすのは他に対してそれを立証する場合である。
【正しい推理はどこにあるのか】 教授の算術でさえ誤ることがあるのだから、熟練者の推理も虚偽の結論を引き出し得る。算術の計算が無謬ではないからといって、推理自身が正しいとは限らないからではない。また、算術の結論の正しさが計算した人の数で決まらないのと同様に、推理の確かさも人数によるのではない。
論争がある場合には、当事者たちは自らすすんで、双方がその判決に従うべき仲介者の推理を、正しい推理として定めなければならない。そうしなければ、腕力沙汰になるか決定がなされなくなるかのどちらかになるに違いない。
人々が、裁判官としての正しい推理を要求しながら、実は彼ら以外の誰の推理によっても決定されるべきではないことを求めることは、人間社会では許されないことである。彼らがすることは、彼らの諸情念が彼らの中で支配的になるに応じて、正しい推理として受け取られるものとしたいということであり、それは彼らが推理を待たないことを暴露しているに過ぎないのである。
【推理の効用】 推理の効用と目的は、既に出された帰結の基となる出発点からはじめて、ほかの帰結へとすすむことを可能にすることである。そうでない場合には、真実を知ることは出来ず、ただ信じることが出来るだけである。
【誤謬と背理について】 人が語を利用しないで誤った推測をすることは誤謬と呼ばれ、最も慎慮ある人でもこれに陥る。しかし、語を用いた推測を行い誤った結論に至った場合は、誤謬ではなく背理と呼ばれる。背理は概念できず意味を成さないものであり、例えば丸い四角とか、自由な臣民[12]などである。
人間はほかの動物に優越して、概念及びその諸帰結と効果について探究する能力を持つことを既に述べたが、更にここで、同じ優越に対して、語によって見出した諸帰結を定理または定義と呼ばれる一般的な諸法則に帰結させるという優越度を付け加える。
だが、この優越した能力は、人間だけが支配を受ける背理性の特権によって弱められる。特に哲学者はそうであるが、その理由は明白である。つまり、彼らの理性推理を、諸名辞の定義あるいは説明から始めないからである。
【背理の諸原因】 1、理性推理を、語の定められた意味から始めないという方法の欠如に帰する。2、物体の名辞を遇有性に与えたり、遇有性の名辞を物体に与えたりすることに帰する。それは、信仰がつぎこまれた[13]、とか、延長[14]は物体であるとか、幻想は精神[15]であるとか、言われているようなことである。3、我々の外にある物体の遇有性の名辞を、我々自身の身体の遇有性に与えることに帰する。それは、色が物体の中にある、などのようなことである。4、物体の名辞を名辞あるいはことばに与えることである。それは、普遍的なものごとがある、たとえば生物には属がある、などのようなことである。5、遇有性の名辞を、名辞とことばに与えることに帰する。それは、ものごとの本性はその定義である、などのようなことである。6、比喩、隠喩、その他の修辞のあやを使用することに帰する。7、スコラ哲学派からとりだされて丸暗記された、何もあらわすことのない名辞に帰する。
これらのことを回避できる人は、容易には背理に陥ることはない。なぜなら、すべての人は生まれつき、同じように推理するからである。幾何学において誤謬を指摘されても尚それに固執するほど愚鈍な人はいないであろう。
【科学】 以上によって、推理は、感覚及び記憶のように生まれつきのものではなく、慎慮のように経験だけによるものでもなく、勤勉によって獲得されるものである、ということがわかる。科学とは、諸帰結や諸事実の関連や連続に関する、またそれらの間の因果関係に関する推理である。
科学を持たない人々は、背理の一般法則に出会った人々ほどには虚偽の道の近くにはいない。
【慎慮と学識、およびそれらの相違】 経験が慎慮であるように、科学は学識である。両者はともに有用であるが、後者は無謬である。
【科学のしるし】 科学のしるしは無謬でありうるがそうでない場合もある。無謬な場合は、それに対する真理を他人に対して証明できる場合である。慎慮のしるしはすべて不確実である。なぜならすべてのことを経験することは不可能だからである。無謬である科学を持たない人の場合、彼自身の生まれながらの判断を捨てて、著作者たちから読み取った一般的章句をたよりにするのは、衒学という名辞で軽蔑される。

第六章     ふつうに情念と呼ばれる、意志による運動の、内的端緒について。およびそれらが表現されることばについて
【生命的運動と動物的運動】 動物には二種類の運動がある。一つは生命的運動で、それは呼吸など一連の生理的運動のことである。もう一つは、動物的運動で、意志による運動である。意志による行為は思考に依存するから、造影力が、すべての意志による運動の、最初の内的端緒である。
【努力】 歩いたり話したりする諸行為が現われる前に、身体の中で起こっている運動の小さな端緒。
【欲求・意欲】 努力が、努力を引き起こす対象に向かっている場合、その努力のことを欲求あるいは意欲いう。意欲という言い方が一般的名辞。
【飢・渇】 食物についての欲求のことを飢えとか渇きという。
【嫌悪】 努力があるものから離れる場合、その努力のことを嫌悪という。
【愛好・憎悪】 愛好するとは意欲することであり、憎悪するとは嫌悪することであるが、意欲・嫌悪は対象の不在を表し、愛好・憎悪は対象の現存を表す。
【軽視】 意欲も憎悪もしない場合のことを軽視という。それは、対象に対する心の不動・不従順にほかならず、心が他の対象に捕らわれているか、経験が不足していることから生じる。
人間の身体構造[16]は絶えず変転しているから、同じものごとがいつも同じ欲求や嫌悪を引き起こすことは不可能である。まして、すべての人が同一対象に対して同じ意欲を持つことはありえない。
【善・悪】 その人にとっての、意欲の対象がで、憎悪の対象がと呼ばれるものである。軽視の対象は「とるにたりない」ものである。すなわち、善・悪・軽視という語は、それを使用する人の人格との関係において使用されるものであり、対象自体の本性から引き出される善・悪の共通の規則というものはない。
【美・醜】 美は善を、醜は悪を約束するものを意味する。しかし我々の国語には美・醜ほど一般的な名辞はなく、そのかわり多くの語、立派な、美しい、吐き気を催す、等々の語があるが、それらはすべて容貌以外のことは表していない。
【よろこばしい、有益な】 従って、我々の国においては、善には三つの種類がある。約束されたものとしての「美」、意欲された結果としての善である「よろこばしい」、手段としての善で「有用な」と呼ばれるものである。
【不快な、不利益な】 同様に、悪にも三つの種類があり、醜、不快な、無用な、悪である。
【よろこび、不快】 感覚は、既に述べたように、外部の諸対象によって引き起こされた身体の諸機関の運動に過ぎないが、現象としては色などとして現れる。それと同じように、外部の諸対象の行為が身体の諸機関から心[17]へと継続される場合、その結果は運動つまり努力にほかならないが、その現象は、われわれがよろこびあるいはなやみと呼ぶものである。
【快楽】 欲求の現象は快楽と呼ばれる。この運動は生命的運動の強化・援助であるように思われる。快楽は善の現象或いは感覚である。
【立腹】 快楽の反対は立腹と呼ばれる。
【感覚の快楽】 現存する対象の感覚から起こる身体的快楽は感覚の快楽という。食べたり、排泄したり、見たり、聞いたり、等々において愉快であることはすべてそうである。
【心の快楽】 その他の快楽は期待と予見から生じるもので、心の快楽という。これは、快、不快の何れであるかに関わらない。
【たのしみ】 帰結を引き出す心の快楽の一般的呼ばれ方をたのしみという。
【苦痛】 不快のうちの、感覚の中にあるもの苦痛という。
【悲嘆】 不快にうちの、帰結についての期待、予見、の中にあるものを悲嘆という。
欲求、意欲、嫌悪、憎悪、たのしみ、悲嘆とよばれる、これらの単純な情念は、さまざまに考察されるに従って、その名辞も多様化される。以下、羅列すると次のようになる。
【希望】 獲得できるという意見を伴った欲求を希望という。
【絶望】 希望の反対を絶望という。
【恐怖】 対象による害という意見を伴った嫌悪を恐怖という。
【勇気】 対象による害を抵抗によって回避する希望と伴うときは、恐怖ではなく勇気という。
【怒り】 突然の勇気を怒りという。
【確信】 我々自身に対する恒常的な希望を確信という。
【不信】 我々自身に対する恒常的な絶望を不信という。
【憤慨】 他人に対して行われる侵害に対する怒りを憤慨という。
【仁慈】 他人に善[18]を施すという意欲を仁慈という。善意慈恵、ともいう。
【善良な本性】 人間一般に対する仁慈は善良な本性という。
【貧欲】 財産についての意欲は貧欲という、非難の意味で使用される名辞である。
【野心】 地位に対する意欲は野心という。非難の意味で使用される名辞である。
【小心】 少ししか役立たないものごとへの意欲および殆ど妨げにならないものごとへの恐怖は小心という。
【度量】 わずかな援助と妨害に対する軽視は度量という。
【勇敢さ】 死傷の危険の中での度量を勇敢さという。剛毅ともいう。
【気前のよさ】 財産の使用における度量を気前のよさという。
【みじめさ】 財産の使用における小心をみじめさという。好き嫌いに応じて、窮乏、吝嗇、などとも呼ばれる。
【親切】 社交を求めての、人物への愛を親切という。
【自然の情欲[19]】 感覚だけを求めての、人物への愛を自然の情欲という。
【悦楽】 回想によって得られる、人物への愛を悦楽という。
【愛の情念】 単独に愛されたいという意欲を伴った、その人への愛を愛の情念という。
【嫉妬】 愛の情念と同一のものが、その愛が相互的ではないという恐怖を伴った場合は嫉妬という。
【復讐心】 相手に害を加えることによって、相手の行為を咎める意欲を復讐心という。
【好奇心】 根拠や因果関係を知ろうとする意欲を好奇心という。人間独特のもので、どんな肉体的快楽の激しさにも勝る心の情欲とも言える。
【宗教・迷信】 心によって仮想され、あるいは公共的に認められた物語から造影された、見えない力への恐怖は、宗教と呼ばれる。公共的に認められない物語からのものは迷信と呼ばれる。
【真の宗教】 そして、造影された力が、本当に我々が造影する通りのものである場合の宗教は真の宗教と呼ばれる。
【恐慌(パニック】 理由や対象について理解を伴わない恐怖を恐慌という。群集の中にだけ起こる。
【驚嘆】 目新しさの了解から来る楽しみを驚嘆という。
【得意】 自分の力、能力について造影することから生じるたのしみを得意という。それが、自身の経験に基づいているなら自信と同じである。
【うぬぼれ】 しかし、得意が、他人への追従に基づいていたり、自身の想定にすぎない場合にはうぬぼれという。
【失意】 力の欠如という意見からでてくる悲嘆を失意という。
【突然の得意・笑い】 突然の得意は、笑いと呼ばれる顔のゆがみをもたらす情念であり、それは自分のある突然の行為によろこぶことによって、あるいは他人の中に見つけた不恰好との比較において、突然自己を称賛することによって、引き起こされる。
【突然の失意・泣くこと】 反対に、突然の失意は、泣くことを引き起こす情念であり、それは希望或いは自分の力を支えていたあるものを、突然取り去るような偶発事件によって引き起こされる。
【恥・赤面】 能力の何かの欠陥を発見したための悲嘆、赤面に自己を表現する情念をという。
【生意気】 良い評判の軽視を生意気という。
【あわれみ】 他人の災厄についての悲嘆をあわれみという。類似の災厄が自身に降りかかるかもしれないという造影から生じる。それゆえ共感とも呼ばれる。
【冷酷】 他人の災厄を軽視する情念を冷酷という。それは、自分自身の運命の安全性から生じる。
【競争心・羨望】 競争相手の成功に対する悲嘆が、自身の向上努力と結びついている場合には競争心と呼ばれ、相手を押しのけたり妨害しようとする努力と結びついている場合には羨望と呼ばれる。
【熟慮】 ある一つのものごとについて、それが可能か否かが考えられるまでの、欲求、嫌悪、希望、恐怖の総計を熟慮という。
従って、過去のものごとやもともと不可能であることについての熟慮はない。しかし、不可能なものごとについて可能かもしれないと考える場合には熟慮するかもしれないが、それが熟慮(Deliberation)と呼ばれるのは、欲求や嫌悪に応じて何かをしたりしなかったりする自由(Liberty)に、終末を与えることだからである。獣もまた熟慮するのである。
【意志】 熟慮における、最後の欲求または嫌悪を意志という。意志は理性的欲求である、というスコラ学派の定義は適切ではない。なぜなら、理性に反する意志的行為がありえなくなるから。また、一見自発的行為には見えないが、ものごとの回避に伴う諸帰結についての嫌悪や恐怖を端緒とする行為も、意志による行為である。
【情念のおけることばの諸形態】 情念におけることばの諸形態は、直説法、仮定法、命令法、希求法、疑問法、である。しかし、ことばの形態は恣意的に使用されうるから確実なしるしではない。諸情念の最良のしるしは、顔つき、身体の動き、行為、および我々が別に知っているその人の目標・狙いである。
【外観上の善悪】 その行為の結果の善悪を見極めることは極めて難しい。なぜなら、善悪は、始めに決まっているのではなく、熟慮の長い成り行きにおける、欲求と嫌悪が引き起こす予見に依存するからである。しかし、その成り行きの中の善が悪より大きいと人が見る限り、外観上の善と言う。
【至福】 この世における、意欲するものごとの獲得の継続的成功を至福という。生命は運動であるから、意欲または恐怖なしではありえず、感覚なしではありえない。従って、この世においては、精神の永遠の静寂というような至福はありえない。
【称賛】 ある物事が良いという意味を表す場合のことばの形態を称賛という。
【賛美】 ある物事の力と大きさを表す場合の称賛を賛美という。
【マカリスモス】 「至福をもっている」という意味のギリシャ人の語をマカリモスという。それについての名辞は、我々の国語の中には持たないが、現在においてはこれまでの諸情念について述べてきたことで十分である。

第七章     論究の終末すなわち解決について
論究は知識への意欲に基づくものだが、熟慮と同様に、その連鎖が中断されたところに終末即ち結論がある。
善悪[20]の問題における熟慮に対する、その時々の欲求に相当するものが、過去と未来についての真実の究明に対する、その時々の意見なのである。
【判断すなわち最終判決】 熟慮における最後の欲求が意志と呼ばれるように、真実の探求、つまり論究における最後の意見が、論究する人の判断と呼ばれる。
【疑問】 真偽の問題における意見の連鎖を疑問という。
【科学】 どんな論究であっても、事実についての絶対的知識に至る結論を得ることは出来ない。科学は、知識について条件的に知ることが出来るだけである。論究によって知りうるのは、ものごと自体間の連続ではなく、名辞から名辞への連続なのである。論究がことばにされて、その語の連続についての知識が科学と呼ばれる。
【意見】 最初に定義がなかったり、途中の三段論法が誤っている場合の結論は、やはり意見である。
【共知】 複数の人々が同じ事柄を知っている場合、彼らはそのことについて共知(Conscious)であるといわれる。共知であることは相互に、あるいは第三者に対する最適の証人であるので、共知に反することは良心Conscience)に反することであり、悪い行為であると評価されたし、今後もそうであろう。後に、この良心という同じことばを、自分たちの秘密の事実と思考についての知識に対して比喩的に使用し、ついには自分たちの意見に、それが背理的であっても真実であると称して、良心と言う名辞を与えた。
【信頼・信仰】 論究が定義から始まらないときは、何か別の瞑想から始まるのだが、それも意見と呼ばれる。他人の言辞から始まる論究は物事に関するよりも人格に関するものであり、その結論は、信頼および信仰と呼ばれる。信仰は人に対するものであり、信頼は人及びその人の言辞に対するものである。
信仰箇条[21]と同じく「に信頼する(I believe in)=信じる」ということの意味は、それを言った人の人格への信用ではなく、その信仰の告白と教義の承認である。キリスト教徒だけではなくあらゆる人々は、神が彼らに言ったことを理解しなくても、神が言ったということが真実なのである。しかし、信仰箇条は必ずしも信頼されているわけではない。
するとこう推論される。つまり、ある言辞が真実であることを、そのものごと自身や自然理性の原理に基づく論証ではなく、それを言った人の人格を信頼することに基づいている場合には、それは、その人が神から遣わされたかどうかには関わらず、その人に対する信仰であると。従って、我々が、直接に神の啓示を受けることなく、聖書が神の語であることを信頼するならば、我々の信頼・信仰の対象は教会である。そして、このことは他のすべての歴史についても同様である。

第八章     ふつうに知的とよばれる諸特性と、それらと反対の諸欠陥について
【知的徳性の定義】 徳性とは卓越によって評価される何かである。知的な諸徳性は、人々が称賛し評価し、自分自身の中にあることを意欲するような、精神の諸能力として理解され、ふつうよい知力と呼ばれる。知力という語は、特定の能力を他のものから区別するためにも使用される。
【自然の、および獲得された知力】 知的徳性には自然のものと獲得されたものの二種類がある。自然のものとは、生まれながら持っている[22]という意味ではなく、方法、訓練、指導なしに、その使用と経験だけによって得られる知力のことである。
【自然の知力】 自然の知力は主に二つのものからなっていて、それは、「造影の迅速」と「ある承認された終末への確固たる指向」である。この迅速さの違いは、人々の諸情念の違いによって引き起こされる。
【よい知力または想像力】 思考するということは、ものごとが、相互に類似しているか否か、役立つか否か、目的に対してどのように役立つか、ということを観察することである。類似性を観察することに優れた人々は、よい知力を持つと呼ばれるが、その意味は「よい想像力」を持つということである。
【よい判断力】 非類似性の観察に優れた人々は、区別、識別、判断に優れているが、それは、よい判断力を持つと呼ばれる。
【分別】 とくに、時と所と人格が識別されなければならない交際と事業のことがらにおいては、よい判断力という徳性は、分別と呼ばれる。
想像力は判断力の助けが無ければ徳性として推称されないが、判断力と分別は想像力の助けがなくてもそれだけで推称される。
よい想像力には、分別とともに、その想像力によってもたらされる終末をも思考することが求められる。もしそうでない場合には、想像力は一種の狂乱ともいえ、その原因は経験の欠如であり、ときには小心である。あたらしく、おおきく、それゆえに語られるに相応しいものごとは、論究の意図された道から人を離れさせるものである。
優れた詩においては、想像力が判断力に勝っていなければならない。歴史叙述においては、判断力が卓越していなければならない。称賛の演説および罵言においては想像力が支配する。勧告及び弁護においては、真実と擬装のどちらが当面の企図に役立つかにより、判断力と想像力のどちらが必要とされるかが決まる。論証においては、判断力がすべてといえるが、理解の糸口を探るためには想像力の効用はある。
どんな論究においても、分別の欠陥が明らかであれば、想像力がどれほど過大であっても、論究の全体は、知力の欠如のしるしと受け取られるであろう。
知力が欠如している場合に、欠如しているのは想像力ではなくて分別なのだ。従って、判断力は、想像力を伴わなくても知力であるけれども、判断力を伴わない想像力は、そうではない。
【慎慮】 人がある企図を持ってする思考が、ものごとを通常以上に優れて観察する場合、その知力も慎慮と呼ばれる。だが、この慎慮は、人々においては、想像力や判断力ほどの大きな違いはない。なぜなら、経験の量には大きな違いはなくても、経験の機会は個人的な企図により違うからである。家族の統治と国家の統治の違いは、慎慮の程度の違いではなく、事業の種類の違いにある。
【奸知】 恐怖や欠乏が人々に思いつかせるような不正を慎慮に付け加えるならば、それは奸知と呼ばれ、小心のしるしである。
【獲得された知力】 方法と指導によって獲得された知力についていえば、それは推理のほかにはない。知力の違いの諸原因は諸情念にあり、その諸情念の違いは、身体構造の違いと教育の違いからでてくる。
もっとも多くの違いを引き起こす諸情念は、主として、力、財産、知識、名誉、に対する意欲、即ち、力への意欲[23]である。
それゆえ、これらのうちのどれに対しても大きな情念を持たない人は、人に不快を与えないという意味で善良な人ではあるかもしれないが、大きな想像力や豊かな判断力を持っていることは、まずありえない。
【眩惑】 なにも意欲を持たないことが死んでいることであるように、弱い情念を持つことは遅鈍であり、何事に対しても差別なく情念を持つことは眩惑つまり移り気である。
【狂乱】 何事に対しても、他の人々より激しい情念を持つことは、人々が狂乱と呼ぶものである。それについては、諸情念自体についてと同じくらいの種類があるだろう。狂乱を作り出す情念は、誇りおよび自負心と呼ばれる大きなうぬぼれであるか、大きな失意である。
【憤怒】 過度の怒りは憤怒という狂乱である。憤怒は、復讐への過度の意欲、嫉妬を伴う過度の愛、により引き起こされ、また、自身の、神からの霊感、知恵、学識、容姿、などについての過度の意見がもたらす眩惑が、羨望と結びつくことにより、また、真実であるという激しい意見が他人によって反対される、などにより引き起こされる。
【憂鬱】 失意は人を、原因のない恐怖に陥れる。それは、憂鬱と呼ばれる狂乱である。要するに、通常でない態度を生み出す、すべての情念は狂乱という一般的名辞で呼ばれる。だが、狂乱と、それを引き起こす情念自体は、同一のものであるが程度が違うのだということは疑いがない。
たとえば、霊感を受けたという意見に囚われた人々一人一人についてはさほど異常な行為が見られなくても、群衆として一つになるときには、憤怒という狂乱として見えるものとなる。すなわち、友人たちに対して、騒ぎ立て、殴りつけ、投石すること以上におおきな、狂乱の証拠はありえないだろう。群集はさらに、これまで自分たちを他からの侵害から守ってくれた人々に対しても戦い滅ぼすであろう。
群集の狂乱の事情は個人においても同様なのである。あたかも海の咆哮のように、国民の騒乱的な咆哮の、その一部分としての扇動者の狂乱は、彼らがその様な霊感を持ったと僭称することだけで十分に確信することが出来るのである。
霊感は一般に神学の誤謬から始まる。推理の導きによって考えることをしない彼らは、自分たちが全能の神の特別な恩寵をうけているので、神が真理を超自然的に彼らに啓示したのだと称賛する。
更に、狂乱が過剰な情念に他ならないことは、ぶどう酒の効果からも推定できる。ぶどう酒の効果は、偽装を除去し、自身の情念の過剰を見ることを出来なくすることである。また、謹厳な人でも、気遣いもなく、精神的仕事もなくて一人で歩いているときの、空しく途方もない思考を見られたくはないであろう。この事は、導きのない諸情念が、大抵は狂乱にすぎないことの告白なのである。
狂乱の原因についての意見は二つあった。ある人々はそれを諸情念から引き出して狂人と呼び、またある人々はそれを魔物すなわち善悪何れかの霊から引き出して魔物つきあるいは預言者、と呼んだ。ギリシャ人は狂乱を情念のせいにしたり神々や精霊のせいにしたいりした。ローマ人やユダヤ人は、狂人を預言者あるいは魔物つきと呼んだ。
聖書の記述には霊が取り付くという考えは見当たらないし、儀礼的法の中には熱狂も神がかりもないので、ユダヤ人がその様な意見を持つのはいくらかは奇妙である。だが、この疑問は、ギリシャ人、ローマ人、ユダヤ人全ての人々に共通にある理由を造影すれば解ける。それは、すなわち、自然的諸原因を探求しようとする好奇心の欠如であり、また、かれらが至福を、感覚の粗野な快楽およびそれに最も直接役立つものごとの獲得に置くことである。なぜなら、ある人の精神に何か通常でない能力または欠陥を見る人々は、それとともに、その原因を見ようとしないならば、それが自然なものだとは、なかなか考えられないからであり、つまり超自然的なもの、例えば神とか悪鬼とか、と考えないわけにはいかないからである。
【意味をなさないことば】 語の悪用については、第五章で背理という名辞で述べておいたが、それもまた狂乱の種類のうちに数えられていいだろう。このことは、スコラ学派の人々のように、理解し得ない事柄についての諸問題で会話する人々、或いは深遠な哲学の諸問題で会話する人々だけに起こりやすい。それを確かめるには、例えばスコラ哲学の三位一体、神性、キリストの本性、化体、自由意志などに関する何処かの一章を、近代国語のどれかに翻訳してみればよい。それは意味不明な語の羅列であり、狂乱である。

第九章     知識のさまざまな主題について
知識にはふたつの種類があって、その一つは事実についての知識であり、もうひとつは、一つの断定の他の断定への帰結についての知識である。前者は絶対的な知識であって、証人において必要とされる知識である。後者は科学と呼ばれるもので、条件的であり、推理するひとにとって必要とされる知識である。
事実についての知識の記録は歴史と呼ばれ、二つの種類があって、人間の意志に依存しない自然の歴史と、コモン-ウェルスの中の人々の意志による諸行為の歴史、即ち社会史である。
科学の記録は、一つの断定の他の断定への帰結についての、証明を内容とする書物であり、ふつうは哲学書と呼ばれる。それは多くの種類があり、次の図に示す(テキスト参照)。

第十章     力、値打ち、位階、名誉、ふさわしさについて
【力】 (Power)とは、善つまり利益だと思われる将来のなにものかを獲得するために、彼が現在持っている道具である。力は本源的であるか手段的であるかである。
人間の力の中で最大のものは、多数の人々の力の合成であって、それは合意によって社会的な一人格に合一され、その意志に基づいて使用し得る。
財産もまた、力である。なぜなら、それは友人と召使をもたらすからである。但し気前がよいことが必要である。
力があるという評判は力である。なぜなら、それは保護を必要とする人々を引き付けるからである。自国を愛するという評判も同様な理由で力である。
人に愛される、あるいは恐れられる、ものや性質を持っているという評判は力である。なぜなら、それは助力や奉仕を手に入れる道具だから。
成功は力である。それは、賢明または幸運であるという評判を作り出し、人々が彼を恐れたり頼りにしたりするからである。
既に力を持っている人々の愛想のよさは、力を増大させる。それは愛を得るからである。
和戦の処理において慎慮を有するという評判は、力である。なぜなら、我々はその様な人々に統治を委ねるからである。
高貴の身分であることは、そのことが諸特権を持っているコモンーウェルスにおいてのみ、力である。力はその様な諸特権のうちにあるから。
雄弁は力である。なぜなら、それは慎慮に見えるから。
容姿は力である。なぜなら、それは、善を予期させるので、女性や見知らぬ人々の好意を向けさせるから。
科学は、小さい力である。なぜなら、科学というものは、それを持っている人自体が少数で、持っていたとしても目立たないもので、また持っているとしても部分的なものであり、その人達自身も相当習得しないとそれを持っていること自体理解しにくい性質だから。
技術は、城や兵器など公共に役立つ物をつくるから力である。その母は数学なのだが、役立つ力を引き出した技術家が生んだものとみなされるのである。
【値打ち】 人の価値は値打ちと呼ばれ、それは彼の力の使用に対して与えられる額である。従ってそれは、絶対的なものではなく、相手の必要と判断に依存するものである。
我々が互いに附け合う価値の表明は、名誉を与えることおよび不名誉にすること、と呼ばれる。
【位階】 ある人の公共的な値打ちは、コモンーウェルスによって附けられ、位階と呼ばれる。この価値は、指揮や司法や公共業務の諸職務に対し導入される。
【名誉を与えることおよび不名誉にすること】 名誉を与えることは次のようなことをすることである。それらは、我々が、相手が使用に値する力を保持していることを認めることである。不名誉にすることはその反対である。
他人に懇願すること、服従すること、大きな贈り物をすること[24]、相手の利益促進に努めること、へつらうこと、道や場所を譲ること、愛情や恐怖のしるしを示すこと、褒め称えあるいは相手が幸福だと言うこと[25]、よく考えながら話すこと[26]、礼儀と謙遜を持って現われること、信頼し頼りにすること、忠告や説話に耳を傾けること、相手の法律や習慣が名誉であるとしている名誉をうけとること、意見に同意すること、模倣すること、相手が名誉を与える人に名誉を与えること、忠告や困難な行為に際して用いること。以上はコモンーウェルスの内外に関わらず成り立つもので、自然的なものである。
コモンーウェルスの中では、最高権威を持つ人または人々が、どのようなものでも名誉のしるしとすることが出来る。それらは、現世的であり、社会的名誉と呼ばれ、その源泉はコモンーウェルスの人格にあり、主権者の意志に依存するものである。為政者職、職務、称号、紋章や彩色された盾飾りなどがそうである。人々はその様なものを持っている人に、コモンーウェルスの支持のしるしを持つ者として名誉を与えるのである。コモンーウェルスの支持は力なのだ。
【名誉なこと】 名誉なというのは、力の証拠としるしであるような、所有、行為、性質である。
【不名誉なこと】 支配と勝利は力によって獲得されるから名誉なことであるから、困窮や恐怖による隷属は不名誉なことである。
名誉なこと、のリストを以下に記す。継続する幸運、財産、度量、気前よさ、希望、勇気、確信、適時の決断、経験・科学・分別・知力から出てくる、あるいはそのように見える行為と話、重々しさ[27]、著名であること、著名な両親から出たこと、公正から出た行為が損失を伴う場合[28]、大財産への貧欲と大きな名誉への野心。(注:不名誉なことについてのリストは省略する。)
ある行為が正しいか不正かは、それが多くの力のしるしであるならば、名誉に関する事情を変更するものではない。それは、古代の歴史やコモンーウェルスが設立するまでの人々の考えから明らかなことである。
【紋章】 盾飾りと世襲の紋章は、ふつう名門と呼ばれる名誉であって、古代ゲルマン人に由来する。ローマ人は、彼らの家族の標章を伝えたが、それらは、彼らの祖先たちの影像であって図柄ではなかった。
【名誉の称号】 公爵、伯爵、侯爵、男爵というような称号は、コモンーウェルスの主権者権力によって与えられる名誉あるものである。これらは、昔は職務と指揮の称号であって、ローマ人やゲルマン人やガリア人に由来する。公爵は将軍で、伯爵は友誼によって将軍に同伴した同僚、侯爵は辺境地を統治する伯爵のことで、これらはコンスタンティヌス帝の時代のゲルマン人に由来する。男爵はガリア人の称号であった様に思われ、王などが戦争時に身辺に使用する優れた部下を意味する。
【ふさわしさ。適任性】 その事柄についてふさわしい、と言われる特殊な能力は、人の価値とは別のもので、適任性と言われる。財産、職務、業務にふさわしいと言うことは、功労に値すると言うことではない。値する、とは権利を前提とし、値するものごとは約束によるものだからである。これについては、後に諸契約についてのところで、更に述べるであろう。

第十一章 さまざまな態度について
【ここで態度というのは何を意味するか】 ここで態度というのは、行儀作法ではなく、人類が一緒に、平和と統一の中に生活するということに関する、人類の性質のことである。
この態度と言うものを考察するために、我々は、全ての人にとってこの世の至福と言うものは、意欲するものを獲得して満足した精神の平安にあるのではなく、ある対象から他の対象への意欲の継続的な進行にある、ということを考慮すべきである。そして、態度が多様なのは、それが意欲の継続的な進行の経路においてであり、人々の情念が様々で、また意欲された効果を生む諸原因についての知識や意見が様々であるからである。
【すべての人において、やむことのない、力への意欲】 そこで第一に、私は、全人類の一般的性向としての、止むことのない力への意欲、をとりあげる。次から次へと力を求めて行くということの原因は、既に取得したよりも強い喜びを求めるということではなく、既に取得している、よく生きるための力と手段を確保しうるためには、それ以上の力や手段を獲得しなければならないからである[29]。王たちは、最大の力を持っていながら、国内においては法によって、国外では戦争によって、よく生きる力と手段を確保する努力をし、それがなされると、新たに様々な力へ向かって意欲するのである。
【競争からくる争論への愛好】 財産、名誉、等々、力についての競争は、争論、反目、戦争になりがちである。なぜなら、それに勝つことは相手を抹殺することだから。称賛を巡る競争は、古代崇拝になりがちであるが、それは、生者の栄光を薄めるために死者を不当に称賛するからである。
【安楽への愛好から生じる社会的服従】 安楽と感覚的喜びへの意欲は、人々を共通の力に従おうと言う気持ちにさせる。なぜなら、その様な意欲は、勤勉と労働によって自身で獲得出来たかもしれない保護の可能性を放棄するから。
【死や傷への恐怖から】 死や傷への恐怖も、同様の理由から社会的服従の気持ちにさせる。
反対に、現状不満の人々は、紛争と騒乱を掻き立てたいという気持ちになる。なぜなら、そこに希望を見出すから。
【そして、技芸への愛好から】 知識と平和的な諸技芸への意欲は、人々を共通の力に従おうと言う気持ちにさせる。なぜなら、そういう意欲は、閑暇への意欲を含み、他の力により保護されたいと言う意欲を含むから。
【称賛への愛好から生じる徳性への愛好】 称賛への意欲は、自分が高く評価している人々を喜ばせて褒められたいという行為をしたいという気持ちを起こさせる。死後の名声への意欲も同じである。なぜなら、人々は予見することから現在の喜びを持つのだから。
【おおきな恩恵に報いることの困難さから生じる憎悪】 恩恵は債務を与えるものであり、債務は負担である。報いる希望のない債務は、それが同等者に対するものである場合には、人を絶望的状態に置き、憎悪すべきものとなる。しかし、自分より優れていると認める人に対する場合には、恩恵を受けるということになり、愛したいと言う気持ちを起こさせ、相手に感謝という名誉を与え、一般に返礼と考えられることになる。同等または下位の者に対する場合でも、報いる希望がある限り愛情を起こさせる。というのは、恩恵を受ける方は、この債務を相互援助と奉仕であると考えるので、そこからは恩恵を与える高貴で有益な競争が始まるだけだから。
【また、憎悪されるに値すると言う意識から】 ある人に対して、加害者が償いうる以上の、あるいは償う意志がある以上の、害が与えられることは、加害者に、被害者を憎悪する気持ちを起こさせる。なぜなら、それは、加害者にとって復讐されるとか赦免を願うという、憎悪すべきことを想起させるから。
【恐怖から、傷つけたがること】 抑圧への恐怖は、先手を打つか、社会の助けを求めるか、何れかの気持ちを起こさせる。なぜなら、ひとは自分の生命と自由を確保できる道は、他にないからである。
【また、彼ら自身の知力への不信から】 動乱や騒乱において、自らの賢明さや狡猾さを信じていない人々の方が、賢明で狡猾だと思っている人々よりも勝利しがちである。なぜなら、前者は話し合いをしようとするが、後者は策略を恐れてすぐに打ちかかろうとするから。また、騒乱の現場においては、団結して力をあわせるほうが、知力の巧妙さから引き出されるどのようなことよりも、優れた戦略である。
【有能だという意見からでる野心】 自分が統治についての知恵を持っているという意見の人は、野心を抱きがちである。なぜなら公的に登用されない限り彼らの知恵についての名誉は失われるから。
【ちいさなことがらを過大評価することからくる不決断】 小心は人々を不決断にし、その結果チャンスを失わせる。決断のときに最善策が明白でないならば、それはどちらの動機も大差がないのである。その時に決断をしないのは、小差を測るから、つまり小心だからである[30]
【知恵と親切のしるしについての無知からくる、他人への信任】 へつらいをともなう雄弁は、人々を、その雄弁をもつ人を信任しようという気持ちにする。なぜなら、雄弁は知恵に見え、へつらいは親切に見えるから。
【また、自然的諸原因についての無知から】 科学の欠如、即ち自然的諸原因についての無知は、人を、他人の忠告と権威に頼ろうという気持ちにするか、あるいはむしろ、そうするように拘束する。なぜなら、自分自身の意見は、自然的諸原因にたいする知識に頼るほかはないからである。
【また、理解力の欠如から】 語の意味についての無知、即ち理解力の欠如は、人々を、自分たちが知らない真理だけでなく、誤謬をも信用しようという気持ちにする。その上、彼らが信用する人々が持つ無意味なことを信用しようとする気持ちにするのである。というのは、誤謬も無意味も、語についての理解なしには探知されえないから。
同一のものごとに対して、情念の違いによって別の名辞を与えるということも、理解力の欠如のためである。例えば、ある意見に対して、それを意見ではなく異端と呼ぶのは、それに怒気を含んで反対していると言う、理解力の欠如した私的意見以上のものではない。
更に、次のようなことも理解力の欠如を原因とする。それは、多くの人の一つの行為と、一つの群集の多くの行為とを、区別し得ないということである。歴史上の例えでは、ローマ元老院によるカティリーナ殺害(前者の例)とカエサルの暗殺(後者の例)があるが、その結果、扇動者に扇動された群衆の行為を国民の行為と考えるようになるのである。
【正邪の本性についての無知からくる慣習への執着】 権利、公正、法、正義の諸原因と本源的構造についての無知は、人を、慣習と先例を自分の諸行為の規則にしたいという気持ちにする。この態度は素直な子供たちと同じだが、大人の人々は自己の利益の都合によって、慣習と先例に従う態度と理性に従う態度を使い分ける。幾何学の法則が利害に関われば、法則自体の真偽についての論争は起こらないとしても、関係者たちは出来る限り幾何学を抑圧するだろうことを、私は疑わない。
【平和の原因についての無知から、私人たちにつきしたがうこと】 遠い諸原因[31]についての無知は、すべての出来事を直接で手段的な諸原因に帰着させたいという気持ちを、人々に起こさせる。税金の支払いに悩まされる人は、収税吏に対して怒りを注ぎ、統治の欠陥を探す人につきしたがう。
【自然についての無知からくる軽信】 自然的諸原因についての無知は、人々に、不可能なことを軽信させる。そして、人は同席者に傾聴されたいと思うから、軽信はウソをつくようにしむける。従って、無知は悪意がなくても人にウソを信じさせるとともに、ウソを言わせ、更にウソを発明させることも出来る。
【未来に対する配慮からくる、知ろうとする好奇心】 未来に対する懸念は、人々をものごとの諸原因を探求したいと言う気持ちにさせる。つまり好奇心を持つようになる。
【おなじものからくる、自然宗教】 好奇心は、人を、効果についての考察から、原因の探求へ、更には原因の原因へと引き寄せて、必然的に彼らは、最後には次のような思考に到達するに違いない。即ちそれ以上の前には何の原因もなく、永遠であるような、ある原因が存在し、それは人々が神と呼ぶものである、という思考である。従って、自然的諸原因についての深遠な探求は、一つの神があることを信仰させずにはおかない。だが、人々は、神についての観念または映像をなにも持つことは出来ないのである[32]
自然的諸原因についての探求をあまりやらない人々は、自分たちに利害を与える見えない力に対する恐怖から、様々な種類の見えない力を想定して、沢山の神々を作り出す。これは宗教或いは迷信と呼ばれるが、自然的種子、つまり宗教の種子、とも言うべきもので、多くの人々により観察されて、統治に役立つよう利用された。

第十二章 宗教について
【宗教は人間のなかにだけある】 人間だけを除けば、宗教のしるしも果実も、どこにもないことを知るならば、宗教の種子もまた、人間の中にだけある。
【第一に、諸原因を知ろうとする彼の意欲から】 第一に、人間の本性に特有なのは、観察により、ものごとには何か原因があると意欲することである。
【ものごとのはじまりについての考察から】 第二に、観察により、ものごとには始まりがあると考えることである。
【ものごとの連続についての、彼の観察から】 第三に、観察により、ものごととものごとに間に、前提と帰結を想定することである。そして、見えないものの諸原因については、自分自身の想像が暗示するとおりのものか、彼が賢明な味方と思う他の人の権威を信用するとおりのものと、想定するのである。
【宗教の自然的原因、きたるべき時についての懸念】 原因探求の意欲と、はじまりについての考察は懸念を生み出す。なぜなら、人間は、将来における、害悪から身を守り、望む善を獲得しようと絶えず努力しているから。
【それは彼等に、見えないものごとの力を恐怖させる】 暗闇が恐怖をもたらすように、原因に対する無知は恐怖をもたらす。見えるものがなにもなければ、きたるべき運命に対する恐怖の原因としての責を帰すべきものは、ある見えない力しかない。それが異邦人の多くの神々を創造した。しかし、永遠・無限・全能である唯一の神という考えは、自然的諸物体・能力・作用の原因、更にその原因と、次々に追求していく推理によって到達したものだろう。
【そして、それらを無形のものと想定させる】 そして、このように想像された見えない力の実体は、現実にある外部の実体であり、人間の魂と同じものである、という以外のどんな概念にも到達しなかった。それが幽霊と呼ばれるものである。
【しかし、それらがどのようにして、なにをもたらすのかを知らない】 これらの見えない力が、その効果を作り出すのに使用した直接の原因が何であるのかを知らない人々は、過去の類似の効果に先行する出来事を想起する他には、推測の規則を持たないから、先行事象と後続事象との間に、何の依存も結合も見ないのである。
【しかし、彼らは、人間に名誉を与えるように、それらに名誉を与える】 人々が見えない力に対して示す崇拝は、人々に対して使うような表現以外のものはありえない。
【そして、すべての異常なできごとを、それらに帰する】 人々は、これらの見えない力が、これから来るであろうものごとの良し悪しをどのように宣告するのかわからない。しかし、過去によって未来を推測することは出来るので、過去の偶然のできごとを、ある類似の出会いの前兆とみなしがちである。
【宗教の自然の種子である四つのものごと】 幽霊についての意見、諸原因についての無知、恐怖するものへの帰依、偶然のものごとを前兆とみなすこと、この四つのことの中に、宗教の自然の種子がある。
【育成によってさまざまなものになった】 これらの種子は、彼ら自身の創意に従う人々と、神の命令と服従に従う人々の、二種類の人々によって育成されてきた。双方の人々はともに、服従、法、平和、慈恵、及び市民社会に、それだけ相応しいものとするために、そうしたのである。前者の宗教は人間の政治の一部であり、異邦人のコモンーウェルスの創始者および立法者はこれに属し、後者の宗教は神の政治であり、アブラハム、モーゼ、我々の祝福された救世主はこちらに属する。
【異邦人流の背理的な意見】 異邦人にとって、見えない力の本性に関する意見は、あれこれの場所のあれこれの神や霊たちに属するものなのである。例を挙げれば、世界の素材である混沌と呼ばれる神、天・地・海・火・風などの神々、男・女・鳥・鰐・子牛・犬・蛇・玉葱・韮の神化、野・森・海・川・泉などの精・妖精・幽霊、家の家神、人の守護神、地獄・すべての夜に充ちる霊的役人や死者たちの幽霊や妖怪たち。更に、単なる遇有性や性質に神性を帰属させ、それらのために神殿を築いた[33]。人々は、これらの神や霊達が、人々が求めたり避けたりする善悪をコントロールしているかのように考えて、それらに対して祈ったのである。更に、人々は、自分たちの知力・無知・情欲・憤怒・陰部などについて、神か悪魔の様々な名称を与えた。
異邦人の宗教の創設者たちは、諸原因に対する人々の無知に付け込んで、二次的原因の代行者的な神々を押し付けた。こうして、生殖・芸術・技巧・嵐・等々の諸効果の原因となる神々が創られた。そして立法者たちは、人々を恐れさせるために、それらの神々が住んでいると称する画像や彫像などの影像を持ち込んだ上、それらの神々に、土地・家屋・役人・収入・その他すべてを人間の使用から切り離してし、供与し、洞穴・木立・森・山・島全体を、その神々の偶像であるものに奉納して聖化した。そして、神々に対して、人間や獣や怪物の形態を帰属させただけではなく、能力と情念を帰属させた。例えば、感覚・ことば・性・情欲・生殖(神同士及び神と人)・怒り・復讐などの諸情念、詐欺・窃盗・姦通・男色など、それらの情念が原因と考えられるあらゆる行為や名誉というより違法な悪徳をも神々に帰属させた。
最後に、未来の予言は、自然的には過去の経験に基づく推測、超自然的には神の啓示に他ならないが、異邦人の宗教の創設者たちは、その様な予言に対して他の迷信的なやり方を付け加え、人々にそれらを信じさせた。それは、デルフォイなどの託宣所の神官たちの曖昧なあるいは無意味な神がかりの予言、星占い、自身の予感・予見、魔女の予報、鳥占い、等々である。あるときには、その予兆と呼ばれるものは、獣の内臓・夢の中・鳥の鳴き声・顔の相貌・手相・日月食・彗星・稀な流星・地震・洪水・異常出産・貨幣の表裏・ザルの目数・ホロメスの詩の拾い読み・その他限りない思いつきや単なるくじの中に見出されると言い、前兆、予示とも呼んだ。人々はかくも容易に、巧妙に彼らの恐怖と無知を捉えることが出来る人々によって、何でも信じるようにされてしまうのである。
【異教徒の宗教の創始者たちのもくろみ】 民衆を従順と平和にしておくことだけを目標とした、異邦人のなかのコモンーウェルスの創始者や立法者達は、共通して次のことに注意を払った。第一には、彼らの考えた戒律は神や霊の命令であり、また彼らは単なる人間より高い本性を持つと、人々に信じさせること、第二に、法で禁じられたことは神々にとって不快であると信じさせること、第三に、儀式・祈願・犠牲献納・祝祭を定めて、それにより人々が神の怒りをなだめられると、また敗戦・疫病・地震・私的不幸等々、の理由は神の怒りであり、神の怒りの理由は、儀式等の実施の不備にある、と信じさせること、である。
これらのこと及び諸制度によって、一般民衆が不幸に出会ったときに、その原因が一般民衆自身にあると考える分だけ、統治者たちへの反抗が少なくなったのである。また、神々を讃える祭礼や公衆競技は国家に対する民衆の不満を和らげるのに役立った。従って、当時の世界の大部分を征服したローマにおいては、どんな宗教にも寛容であった。但し、ユダヤ人は、自身の国を特別な神の王国と考えていて、現世の王や国家に対して、臣従を承認しなかったため、その限りではなかった。
以上より、異邦人の宗教が、彼らの政策の一部をなしていたことを知ることが出来る。
【真の宗教と神の法とは、同じものである】 神自身が、超自然的な啓示によって宗教を創設したところでは、神自身の王国も創設したのであり、そこでは政策と市民法すなわち神の実定法とは宗教の一部なのである。このことについては、三十五章で詳しく述べる。
【宗教における変化の諸原因】 宗教が普及する理由、諸原理は、神性と超自然的な力についての、一つの意見にすぎないのだが、人間の本性からそれを廃棄してしまうことは決して出来ないものである。
それは、宗教を統治する人々は、賢明、誠実で民衆の幸福を願って骨をおる愛情があり、かつ神聖な啓示のしるしを示すことが出来るということのうちに含まれている。つまり、それらが出来なくなる時が、その宗教が疑われ拒否される時である。
【不可能なものごとについての信仰をしいること】 宗教を司る人が、矛盾するものごとについての信仰を強いることがあると、その人の評判を失う。なぜなら、それは無知の証拠だから。人は確かに自然理性を超えた多くのものごとに対する啓示を持つことはありうるが、自然理性に反するものごとについてではないのである。
【彼らが樹立する宗教に反する行いをすること】 誠実だと言う評判を失うのは、他人に対して信仰するように求めているものごとが、彼ら自身によって信仰されていないということの、しるしに見えるような言動である。それらは、躓きのもとと呼ばれ、不正義・残酷・涜神・貧欲・奢侈などがある。
愛情があると言う評判を失うのは、私的な目的を探知されることである。例えば、彼らが他人に対して要求する信仰が、彼ら自身の支配・財産・位階・快楽に役立つためであり、他の人々への愛のためではないと考えられる場合である。
【奇蹟についての証拠の不足】 最後に、人々が神の召命について提示しうる証拠は、奇蹟の作用か真の予言か異常な至福より他のものはありえない。従って、それらを示すことが出来なければ、人々から信仰を得ることは出来ない。
人々の信仰を弱めるこれらの原因のすべては、次の諸実例のなかに明白に現われている(ここで旧約聖書内の諸例が出てくるが省略する)。
そして、キリスト教が普及していく中で、ローマ帝国において神託が消滅し、異邦人の祭司たちがその宗教の支持を失っていく。また、ローマ教会の宗教も、スコラ学派も同様の道を辿った。それだから私は、この世における宗教のあらゆる変化を、同一の原因に帰着させる。それは、不快な祭司たちであり、かれらはカソリック教徒の中だけではなく、宗教改革に最も積極的な教会の中にも居るのである。

第十三章 人類の至福と悲惨に関する彼らの自然状態について
【人々は生まれながらにして平等である】 自然は人々を、心身の諸能力において平等につくった。すなわち、肉体の強さについて言えば、最も弱いものでも、密かな企みにより、或いは彼自身と同じ危険に晒されている他の人々との共謀によって、最も強いものを殺すだけの、強さを持つからである。
精神の諸能力[34]については、肉体的強さについてよりも更に平等性があるのを見出す[35]。というのは、熟慮は経験に他ならず、経験をする時間はすべての人に等しく与えられるからである。その様な平等性を信じ難くするかもしれないものは、自分の賢明さに対する自惚れである。多くの人は、自分より賢明な人がいることを認めることが出来たとしても、自分たちと同じく賢明な人が多くいることは、なかなか認めることが出来ない。それは、彼らが、自分たちの知力を手もとに見て、他の人々のそれを、距離をおいて見るからである。しかしこのことはむしろ、人々が本性上平等である証拠である。なぜなら、人間が自分の分け前に満足していること以上に、人々が平等であることのおおきなしるしはないのであるから[36]
【平等から不信が生じる】 能力の平等から、目的を達成することへの希望の平等が生じ、双方ともに目的が達成できない場合には争いが起こる。その目的とは主に自身の保存であるが、時には歓楽だけである。すると、人々が力を合わせて、他者の労働の果実や生命、自由を奪い取ること、更に、この侵入者は別の侵入者による同様の危険に晒される、ということが生じるであろうと予想される。ここに、侵略に対する不信が生じる。
【不信から戦争が生じる】 侵略に対する相互不信がある限り、自己を守るには暴力や奸計によって先手を打つほど妥当な方法はなく、そうすることにより他者を支配することは一般に許されている。また、自分たちの安全が必要とする以上のことを求めて征服行為が行われる状況の中においては、その様なことが無ければ謙虚な限界の中で安楽を楽しんでいられたであろう人々が、自身の保存のために、征服による力の増大を図ることは許容されるべきなのである。
人々は、彼らすべてを威圧しうる権力がないところでは、仲間を作ることを喜ばないが、それは、人は、自身についての自他の評価が同じであることを求めるからである。そして、軽視や過小評価のしるしは、彼らを互いに滅ぼしあうのに十分な理由となるのである。軽視のしるしに対しては加害への努力をし、過小評価のしるしに対しては加害の実例によるより大きな評価の強奪への努力をするのが自然であり、そこに争いが起こるのである。
それであるから我々は、人間の本性の中に、三つの主要な争いの種を見出す。第一は競争、第二は不信、第三は誇りである。競争は利得を求めて、不信は安全を求めて、誇りは評判を求めて、侵略し、暴力を使用する。
【諸政治国家のそとには、各人に対する戦争がつねに存在する】 これによって明らかなのは、人々が彼らすべてを威圧しておく共通の権力なしに生活しているときには、彼らは戦争状態にあり、そういう戦争は、各人の各人に対する戦争である、ということである。戦争の本性は闘争への明らかな志向にある。戦争状態とは、ある意味では天候と同じで、戦闘意志がある一連の時間にある。その他の全ての時は平和である。
【そのような戦争の諸不便】 各人の各人に対する戦争の時代においては、勤労のための余地はない。なぜなら、勤労の果実を得られる保証がないからである。従って農耕も、通商による経済も、便利な建築も、力を必要とするものを動かす道具も、地表についての知識も、時間の計算も、学芸も文字も社会も無く、そして最も悪いことに、継続的な恐怖と暴力による死への危険がある。人間の生活は、孤独で貧しく辛く残忍で短い。
情念からなされた、戦争状態における人々の行為についてのこの推論は信じられないかもしれないが、自身の生活の中における諸行為の経験、例えば金庫に鍵をかけることなどを思い出せば納得するであろう。
人を疑うことは、人間の本性を非難しているのではなく、人間の諸意欲及びその他の情念が、それ自体が罪であるということでもない。それらの情念からでてくる諸行為も、人々が、それらを禁止する法を知るまでは罪ではなく、どんな法も、それを作るべき人格について彼らが同意するまでは、作られえないのである。
このような戦争の時代も状態も存在しなかったとも考えられるし、全世界が普遍的にそうだったのではないとも信じる。しかし、今日においても、例えばアメリカの多くの地方における野蛮人のように、その様な生活をしている多くの地方があるのだ。恐怖すべき共通の権力が無いところでの生活様式がどのようなものなのかは、平和な統治のもとで暮らしていた人々が、内乱によって陥る生活様式から見て取ることが出来る。
しかし、個々人が戦争状態にあったときが無かったとしても、すべての時代に王たちは絶えざる嫉妬[37]のうちにあり、互いに武器をつき合わせていた。だが、そうすることによって彼らの臣民の勤労を維持しているのだから、個々人の自由に伴う悲惨が生じてこなかったのである。
【このような戦争においては、なにごとも不正ではない】 各人の各人に対するこの戦争からは、何事も不正ではあり得ないということも、帰結される。共通の権力の無いところには、法は無く、法が無いところには不正は無い。正義と不正は、感覚や情念のように個人としての人間に属するものではなく、社会の中の人々に関係する性質である。
更に、その様な状況においては、私のものとあなたのものとの区別も無くて、各人が獲得しうるものだけが、それを保持しうる限り、彼のものなのである。
人が自然によって置かれる不幸な状態については以上にしておくが、そこからの脱却の可能性はあって、その可能性の一部は諸情念に、一部は理性にある。
【人びとを平和にむかわせる諸情念】 人々を平和に向かわせる諸情念は、死への恐怖と快適な生活に必要なものごとに対する意欲であり、それらを彼らの勤労によって獲得する希望である。理性は平和の諸条項を示唆し、人々は協定へと導かれうる。これらの条項は、自然の諸法と呼ばれるものであって、次の二章で詳しく述べる。

第十四章 第一と第二の自然法について、および契約について
【自然の権利とは何か】 自然の権利とは、各人が、彼自身の生命を維持するために、彼自身の意志する通りに、彼自身の力を使用することについて、各人が持っている自由である。
従って、それは、彼自身の判断力と理性において、彼がそれに対する最適の手段と考えるどのようなことでも行うことが出来るという自由である。
【自由とは何か】[38] 自由とは、外的障害が存在しないことだと理解されるが、この障害は、現実には存在して、彼の意志によって行おうとする力の一部を取り去るのだが、それでも、彼に残された力を、彼の判断力と理性において使用することを妨げ得ない。
【自然の法とは何か】[39] 自然の法とは、理性によって発見された一般法則であって、それによって人は、彼の生命を維持する手段を除去するようなことを行うのを禁じられ、また、彼の生命を最もよく維持しうると彼が考えることを、回避する(怠る)のを禁じられる。この主題に関しては、権利と法は混同されやすい。
【権利と法の違い】 権利[40]は行ったり差し控えたりすることの自由に存し、法は行ったり差し控えたりすることを決定し拘束するものである。法と権利は、義務と自由が違うように違うのであり、同一の事柄については両立しない[41]
【各人は自然的に、あらゆるものに対して権利を持つ】 自然状態、即ち各人の各人に対する戦争状態においては、自らの生命を維持するために必要なものはすべて利用してよいのだから、その様な状態においては、各人は、相互の身体を含めてあらゆるものに権利を持つ。従って、この自然権がある限り、どんな人も、自然に許されている以上を生き抜く保証は得られない。
【基本的自然法】 従って、「各人は、平和を獲得する希望がある限り、それに向かって努力すべきであり、そして、彼がそれを獲得できないときには、彼は戦争のあらゆる援助と利点を、求め且つ利用していい」というのが、理性の規律すなわち一般法則である(第一の自然法)。これは、「平和を求め、それに従え」という自然法の基本的な部分に、「我々がなしうるすべての手段によって、我々自身を防衛する」権利という自然権の要約の部分が付け加わったものである。
【第二の自然法】 平和への努力を命じる第一の自然法から、第二の自然法が導かれる。それは「人は、平和と自己防衛のために彼が必要だと思う限り、他の人々もまたそうである場合には、すべてのものに対するこの権利を、すすんで捨てるべきであり、他の人々に対しては、彼らが彼自身に対して持つことを彼が許すであろうのと同じ大きさの、自由を持つことで満足すべきである。」というものである。なぜなら、この権利を保持している限り、人々は戦争状態であるから。しかし、この権利の放棄が相互に行われない場合には、この法に拘束されえない。なぜならば、それは第一の自然法に拘束されるから。
第二の自然法は、「他人が自分に対してしてくれるように、あなたが求めるすべてのことを、あなたが他人に対して行え」という福音書の法である。
【権利を放棄するとは何か】[42] ある人のあるものに対する権利を放棄するとは、あるひとが、他人がその権利から得られる便益を、妨げる自由を捨てることである。
【権利を放置[43]するとは何か】 権利は放置されることで除去される。その放置とは、権利を保持している人が、その権利に伴う便益が誰に帰するのかを顧慮しないことをいう。
【権利を譲渡するとは何か】 権利は他人に譲渡されることによって除去される。その譲渡とは、権利を保持している人が、その権利に伴う便益をある特定の他人に帰するものとする意図をもっていることをいう。
【義務づけ】 権利の譲渡または放棄をした人は、その相手がその権利の便益を得るのを妨げないように、拘束される。それを義務付けられる、といわれる。
【義務】 義務は、それを負う人の意志による行為であり、無効にしてはならない。
【不正義】 義務の行為を無効にすることは、相手の権利の妨害であり、そういう妨害を不正義といい、無権利であるからそれは侵害である。
権利の放棄や譲渡の方法は、何かの意志的なしるしによる、言明または表示である。そして、これらのしるしは、ことばだけか、行為だけか、その双方であるか、の何れかであり、証文も同じことだが、それによって人々は拘束され義務付けられる。証文はその力を、それを破ることからくる何か悪い帰結への恐怖によって持つのである。
【すべての権利が委譲可能なのではない】 権利の譲渡、放棄、放置をするときはいつでも、それと交換される権利への考慮か、期待される利益のためかの何れかの場合である。なぜなら、それは意志による行為であり、意志による行為の目的は、彼自身に対する何かの利益なのだからである。従って、放棄や譲渡として理解できない権利が存在する。それは、生命、身体の安全が奪われることや拘束、投獄などに対して抵抗する権利である。
【契約とは何か】 権利の相互的な譲渡は、人々が契約と呼ぶものである。権利の譲渡と、そのもの自体の譲渡との間には違いがある。それは、時間差である。
【信約とは何か】 契約の履行までの間、相手を信頼して放任しておくという内容を持つ契約は、信約と呼ばれる。
【無償贈与】 権利の譲渡が相互的ではない場合には、契約ではなく贈与(無償贈与)と呼ばれる。
【表現された契約のしるし】 契約のしるしは、表現されたものであるか推測によるものである。表現されたものとは、理解をともなって語られることばであり、現在、過去、未来形があり、未来についてのそれらのことばは約束と呼ばれる。
【推測による契約のしるし】 推測によるしるしは、ことばの帰結、沈黙の帰結、行為の実施や不実施の帰結等々何らかの帰結であって、契約者の意志を十分に証拠立てるもののことである。
【無償贈与は、現在または過去のことばによって転移する】 無償贈与の約束は、それに対する不完全なしるしであり、したがって義務的ではない。「私はこれが明日あなたのものになることを欲する」と「私はそれを明日あなたに与えることを欲する」とのあいだには、大きな意味の違いがある。前者のことばは、現在のものなので未来の権利を譲渡し、後者のことばは、未来についてのものなので、なにも譲渡されていないのである。
【契約のしるしは、過去、現在、未来についてのことばである】 諸契約において権利が移転するのは、ことばが現在や過去の時についてのものである場合だけではなく、未来についてのものである場合も、そうである。なぜなら、権利の相互的な移行である契約においては、約束は信約に等しいのであり、従って義務的なのである。
【あたいするとは何か】 契約でも贈与でも、前者は先に履行した人が、後者はもらう人が、受け取るべきものにあたいする、と呼ばれるが、その意味には相違がある。即ち、契約においては、私は私自身の力と契約相手の必要とによって、贈与においては、授与者の仁慈によって、あたいする。契約においては、私は相手が権利を手放すことにあたいするが、贈与においては、私は授与者がその権利を手放すことにあたいするのではなくて、他の人々のものになるよりもむしろ私のものになるということにあたいするのである。このことは、スコラ学派における、承認によってあたいする、と価値によってあたいするとの、あの区別の意味なのだと思う[44]。私が言いたいのは、例えば贈与が、競争の賞であっても、当然受けるべきものとして請求できるということである。
【相互の信頼による信約が、無効な場合】 自然状態においては、双方の間で疑いが生じれば信約は無効になる。しかし、双方の上に、履行を強制する力を持った共通の権力が設定されていれば、信約は無効ではない。なぜなら、自然状態においては、はじめに履行するものは、相手が後で履行するであろうという保証は何も持たず、ことばの束縛は、何か強制的な力への恐怖なしには、人々の野心、貧欲、怒り、及びその他の諸情念を抑制するには弱すぎるからである。
【目的への権利は手段への権利を含む】 どんな権利でも、譲渡する者は、それを享受する手段をも、彼の力のうちにある限りで譲渡しなければならない。例えば、土地の売却には牧草なども含まれる。
【獣との信約は無い】 信約は約定が前提で、約定は権利が前提で、権利はことばの理解が前提だから、獣との信約はない。
【神との信約も、特別な啓示がなければ、ない】[45] 神と信約を結ぶには、神が話しかけてくるものの媒介なしにはできない。したがって、自然法に反する誓いは無駄あるから不正であり、自然法の命令であるなら、拘束するのは誓いではなく法である。
【可能でかつ未来のものでないような信約なない】 不可能だと知られていることを約束するのは信約ではない。しかし、はじめは可能だと思われていたことが後で不可能であるとわかった場合は、その信約は、その対価に対する拘束があるという意味において有効である。あるいは、可能な限り履行しようとの偽らない努力によっても、それがやはり不可能であるならば、だれもそれ以上に対して義務付けられない。
【信約はどのようにして無効とされるか】 人々は履行と免除という二つの仕方で信約から解放される。履行は義務づけの自然の終末で、免除は義務づけの根拠である権利の再譲渡、即ち自由の回復である。
【恐怖によって強要された信約は、有効である】[46] 自然状態で、恐怖によって結ばれた信約は、義務的である。例えば、敵に対する身代金の支払いの信約は、生命についての便宜と貨幣や役務とに対する権利の相互譲渡を行う契約であるから、自然状態においてのように、他にその履行を禁止する法がないところでは、有効である。何事であれ、合法的であるならば、恐怖によって信約しても合法的なのである。
【ある人に対するまえの信約は、別の人に対するあとの信約を無効にする】 なぜなら、後の信約をしようとするときには、既に権利が転移して保有していないから。
【人が、彼自身を防衛しないという信約は、無効である】 なぜなら、前述のごとく、自身を防衛する権利は譲渡も放棄も出来ないから。
【だれも自分を告訴することを義務付けられない】 同様の理由で、自分を告訴することも義務付けられない。自然状態では告訴はあり得ず、社会状態では告訴は処罰即ち力を伴うから、それに抵抗する権利は放棄できず、つまり抵抗しないことを義務付けられないから告訴することを義務付けられない。父や妻や恩人などのように、彼らを有罪にすることが当人を悲惨に陥れるような人々を告訴することについても同様である。
すなわち、その様な告訴人の証言は自発的でなければ受容されるべきではなく、証言が信用されるべきでない場合には、それを与えるように拘束されない。従って、拷問による告訴も証言でない。
【宣誓の目的】 信約を履行するように拘束する手段の中で、当てにされるべき情念は恐怖であり、それについては二つのきわめて一般的な対象がある。一つは見えない霊の力、もう一つは、信約を破ることによって立腹させるであろう人々の力である。前者は宗教に基づいていて市民社会以前の人間社会の中ではその力を発揮することが出来るが、後者は戦闘の結果が出るまでその力が発揮できない。従って、市民社会以前か戦争の中断において、平和への信約を強化しうるものは、互いに相手を、彼が恐怖する神によって宣誓させることがすべてである。
【宣誓の形式】 宣誓は、約束に付け加えられることばの形式で、これによって、約束する人は、彼が履行しなければ、彼は彼の神様の慈悲をあきらめること、あるいは、彼自身に復讐するように神に求めることを、あらわすのである。そして、それは儀礼と儀式をともなって、誠実破棄への恐怖を増大させるためのものである。
【神によるのではない宣誓はない】 従って、神によるのではない宣誓は存在しない。
【宣誓は義務になにもつけくわえない】 信約は、合法的なものであれば宣誓をともなってもともなわなくても拘束するものだし、合法的でなければ、宣誓によって確認されたにしても、まったく拘束しないのだから。

第十五章 その他の自然法について
【第三の自然法】[47] 第二の自然法から第三の自然法が導かれる。それは、「人々は、結ばれた信約を履行すべきだ」というものである。信約が履行されなければ権利は残り、それは戦争状態であり平和ではないからだ。
【正義、不正義とは何か】 この第三の自然法の中に、正義の源泉と起源がある。不正義とは信約の不履行にほかならない。不正でないものごとは、何でも正しいのである[48]
【正義と所有権は、コモン-ウェルスの設立とともにはじまる】 正と不正という名辞が場所をもつためには、その前に、ある強制権力が存在して、人々が彼らの信約の破棄によって期待するよりも大きな、何らかの処罰の恐怖によって、彼らが自分たちの信約を履行するように、平等に強制しなければならない。
また、所有権は、人々が信約を履行するために必要となる普遍的権利[49]の償いとして、人々の相互契約によって確保しなければならないもの年理解されるのである。従って、所有権はコモン-ウェルスの設立とともに始まるのである。
【正義は理性に反しない】 愚か者が、正義はないといって次のような主張をした。理性は自身の便宜に役立つべきものだから、約定を履行しないことが自身の便宜に役立つなら、それは理性的であり、約定を履行しないのだから正義はないのであり、正義は理性に反する、と。成功した邪悪さが、能力という名称を得てきたのであり、他のすべてのことについては誠実の破棄を許さなかった人々も、それが王国を獲得するためであれば、許してきたのである。
すなわち、問題は約束する当事者の一方が既に履行していたか、彼に履行させる権力がある場合に、他方が履行することが理性に反するかどうかであり、私は、それは理性に反しないと言うのだ。このことは次の考察から明らかである。第一に、あることをして破滅に向かっている人に偶発事件がおきて、それが彼の便宜に転じたところで、その事件は前に行っていたあることが理性的になされたとは言わない[50]。第二に、戦争状態において、同盟の信約を破棄することが理性的だと思うと言明する人は、孤立して滅亡するほかはなく、それは彼の便益に役立つはずのものとしての理性、に反するのである。
反乱によって主権を獲得するという例については、結果が得られたとしてもそのことは合理的に期待し得るものではなく[51]、そのやり方は人々に教えられるから理性に反する。
自然法を死後の永遠の至福にするのに役立つ規則として考え、信約の破棄がそれに役立つと、即ち合理的であるかもしれないと考える人達[52]がいるが、死後の世界の自然的知識はないし、誠実の破棄について与えられる報酬についての知識はさらになく、それは他人の言うことに基づく信仰に過ぎないので、誠実の破棄、即ちここでは正義の破棄は理性とは呼べない。従って、正義は理性に反しない。
【信約は、それがむすばれた相手の人物の悪徳によって、解除されるものではない】 もし解除が妥当なら、その信約を結ぶのを妨げるのも妥当であっただろうから。
【人間の正義および行為の正義とは何か】 正、不正という名辞は、それらが人間に帰属させられる時と、行為に帰属させられる時とでは、別のことを表す。前者については、態度の理性に対する一致と不一致を表し、後者は個々の行為の理性に対する一致と不一致を表す。正義が徳と呼ばれ、不正義が悪徳と呼ばれる場合は、この態度の正義が意味されている。行為の正義は、正しいという名称ではなく「罪がない」という名称を与え、不正義は彼等に「罪ある」という名称だけを与える[53]
【態度の正義と行為の正義】 態度の不正義とは、侵害をしようとする性向或いは傾向であって、それが行為にすすむ前に不正義なのである。行為の不正義は、損害が信約の当事者以外に及ぶから、コモン-ウェルスにおいては強盗や暴力はその意味で許されない。言い換えると、それらはコモン-ウェルスの人格に対する侵害である。
【ある人に対して、かれの同意によってなされることは、なにごとも侵害ではありえない】 これは、したいことをするという彼の本源的な権利を、ある先行的な信約によって手放していない場合には侵害ではありえないし、手放しているのなら、それをさせるという彼の意志表示は、その信約の解除だから。
【交換的正義と分配的正義】 交換的正義とは、契約されるものごとの価値の等しさに基づく契約者の正義を言い、売買、賃貸借などについての信約の履行のことである。分配的正義とは、各人に各人のものを各人が満足するような便宜において分配する仲介者の正義のことである。従って、買うよりも高く売ることや、ある人にかれの値打ち以上に与えることが不正義であるかのように思うのは、この区分けを理解していないからである。
【第四の自然法 報恩】 正義が先行の信約に依存するように、報恩は先行の恩恵即ち先行の無償贈与に依存する。それは第四の自然法であって、次のように考えることが出来る。「他人から、まったくの恩恵から出た便宜を受けた人は、それを与えた人が自分の善意を後悔するもっともな理由を持たないように、努力すること。」もし、それが裏切られるだろうと知るならば、仁慈や信用の始まりはないであろうし、したがって相互援助も人々の和解の始まりもないであろう。そうすれば戦争状態に留まることとなり、それは人々に平和を求めよと命令する泰一の自然法に反する。この法の破棄は忘恩と呼ばれ、恩恵に対して、不正義が信約に対して持つのと、同じ関係を持つ。
【第五、相互の順応、あるいは従順】 第五の自然法は、従順である。「各人は自分を、残余の人々に順応させるように、努力すること」である。各人は、権利だけではなく自然の必要によっても、彼の保存のために必要なものを獲得すべく、また、彼には必要がないが他の人には必要であるものを頑固に保持しないように、努力することが想定されている。この想定に反対することからも戦争は生じるから、それは基本的自然法に反する。
【第六、許容の容易さ[54]】 第六は、「将来についての保証にもとづいて、ひとは、過去に罪を犯したものが悔い改めて許容を望むならば、その罪を許容すべきである。」である。許容は平和を与えることであり、敵意に固執する人々を許容することは恐怖であるが、将来について平和の保証を与える人々にそれを与えないのは平和を嫌悪するしるしであって、従って自然法に反する。
【第七、復讐において人びとは将来の善だけを顧慮するということ】 第七は、「復讐(それは悪に悪を報いることである)において、人々は、過ぎ去った悪の大きさにではなく、これからくる善の大きさに、注目すること」である。この法は第六の自然法の帰結である。復讐は、相手を傷つけることについての勝ち誇りあるいは誇りであって、来るべき何物かである目的に向かっていないもの、つまり目的なく誇ること、即ち虚栄であるから理性に反し、理由なく傷つけることであり、戦争へとつながる。従って自然法に反する。これは、残酷という名称で呼ばれる。
【第八、反傲慢】 憎悪あるいは軽蔑のあらゆるしるしは、闘争を挑発するものであるから、第八は、「誰も、行為、ことば、表情、身ぶりによって、相手に対する憎悪または軽蔑を表明しないこと。」この法の破棄は傲慢と呼ばれる。
【第九、反自慢】 自然状態においては、すべての人は平等である。現実の不平等性は、市民法によって導入されたのである。もし自然が、人々を不平等に作っておいたとしても、自分たちが平等だと思う人々は、平等な条件でなければ平和の状態に入ろうとしないだろう。従って、第九の自然法は、「各人は他人を、自然によって彼と平等なものとして、みとめること」である。この戒律の破棄は自慢である。
【第十、反尊大】 第九の自然法から第十の自然法が導かれる。それは「平和の状態に入るにあたって、だれも、他の各人が留保することに自分が満足しないような、いかなる権利をも、自分が留保することを求めないこと。」である。平和のためには自然権の放棄が必要であるが、人間の生命にとっては、いくつかの権利を留保することが必要なのであって、自身の身体を統治する権利、空気、水、運動、移動の道、などである。しかし、他人に与えられることを望まないようなものを、自分たちが求めることは第九の自然法に反する。これを破棄するものは、尊大な人々である。
【第十一、公正】 ある人が仲介を信託されるときの自然法の戒律は、公正で、「かれはかれらの間を平等にとりあつかうこと」である。なぜなら、それなしには、人々の論争は戦争によってしか決定されないから。それの蹂躙はえこひいきと呼ばれる。
【第十二、共有物の平等な使用】 これからもうひとつの法が引き出される。「分割できないようなものは、できるならば共同で享受すること、そして、もしそのものの量が許すならば制限なしに、そうでなければ、権利を持つ人々の数に応じて、そうすること」。なぜなら、そうしなければ分配は不平等であり、公正に反するから。
【第十三、くじについて】 分割も共同使用もできないときには、公正を規定する自然法は、「その権利の全体、そうでなければ(交換して使用するとして)最初の占有が、くじによって決定されること」を求める。なぜなら、このばあいに平等な分配手段は他にないから。
【第十四、長子相続と先占について】 くじには、任意的なものと自然的なものとの二種類がある。前者は競争者たちによって協定されたものであり、後者は長子相続あるいは先占である。
【第十五、仲介者について】 「平和を仲介するすべての人々には、行動の安全が許容されること」もまた、自然法である。なぜなら、目的としての平和を命令する法は、手段として仲介を命令し、仲介のためには行動の安全が手段なのだから。
【第十六、仲裁への服従について】 人々がいくらこれらの法を守ろうとしても、人の行為については次のような問題が起こりうる。第一に、その行為がなされたか否か、第二に、もしそれがなされたなら、法に反するか否か、である。前者は、事実の問題と呼ばれ、後者は権利の問題、と呼ばれる。その問題を争う当事者たちが、別の他人の判決を守ることを互いに信約しない限り、彼らは平和から遠いのである。彼らがその判決に服従する他人は仲裁者と呼ばれる。従って、「争論している人々は、彼らの権利を、仲裁者の判断に服従させること」が、自然法に属するのである。
【第十七、だれも自分自身についての裁判官ではない】 各人は自分の便宜を図るものと想定されるから、自分自身の訴訟事件においては適切な仲裁者ではない。また、かれが自分の訴訟事件においても己の便宜を図らないほど適切であっても、公正は各当事者に等しい便宜を許すのだから、一方が裁判官であることを許容されるならば、他方もまた許容されるべきであり、こうして争論すなわち戦争の原因は、自然法に反して存続する。
【第十八、不公平であることの自然の原因を自分のなかにもつものは、誰でも、裁判官であるべきではない】 同じ理由によって、これも自然法である。その様な人は、避けられないとしても賄賂をもらっているのと同じだから、誰も彼を信用するように義務づけられないのである。
【第十九、証人について】[55] 事実についての論争において、裁判官は、一方を他方より信用することはないから、他に証拠がないならば、第三者と第四者を、あるいはさらに多くを、信用しなければならない。なぜならば問題は決定されず、自然法に反して力に委ねられるから。
以上が、群衆としての人間の保存の手段として、平和を指示する、自然法である。
【自然法を容易に検査することができる法則】 以上は、諸自然法の精緻な演繹なので、もっとも乏しい能力にさえ理解できるような、わかりやすく要約するとこうである。「あなたが自分自身に対してしてもらいたくないことを、他人に対してしてはならない」。
【自然法は、良心においてつねに義務づけが、結果については、安全保証があるときにのみ義務づけられる】 自然法は、内面の法廷において義務づける[56]、しかし、外面の法廷において、即ちそれらを行動に移すことには、常に拘束するのではない。なぜならば、そうでなければ、謙虚で従順で約束を遵守する人が、そうでない人の餌食になって、自身が破滅することになり、それは自然法の基礎の反するから。
【自然法は永遠である】 自然法は永遠である。すなわち、不正義、忘恩、尊大、自慢、不公正、えこひいき、等々のことは、決して合法的とされ得ない。なぜなら、戦争が生命を保持し、平和がそれを破壊するということは、決してあり得ないからである。
【しかもやさしい】 自然法を遵守することは簡単である。なぜなら、それは、遵守の意欲と不断の努力以外のことは要求しないから。
【これらの法についての科学が、真実の道徳哲学である】 自然法についての科学が、真実で唯一の道徳哲学である。なぜなら、道徳哲学は、人間の社会において何が善で何が悪であるかについての科学に他ならないからである。善と悪は、我々の欲求と嫌悪を表す名辞であるから、それが私的な尺度である限り、人は全くの自然状態即ち戦争状態にある。その結果、人々は平和が善であること、即ち自然法が善であること、従ってそれへの手段即ち正義、報恩、謙虚、公正、慈悲およびその他の自然法が善であり、言い換えれば道徳的な徳であり、それらの反対が悪徳であることに同意する。
だが、道徳哲学の著作者たちは、同じように徳と悪徳を認めているが、その善性が、平和な生活への手段としてのそれである、ということがわからず、それらを諸情念の中庸性にあるものとするのである。
これらの理性[57]の指示を「法」と呼ぶのは適切ではない。なぜなら、「法」とは権利によって他を支配するもののことばなのだからである。しかし、それでも、「法」を権利によってすべのものを支配する神のことばとして考察するならば、法と呼ばれるのが適切である。

第十六章 人格、本人、および人格化されたものについて
【人格とは何か】 人格とは、「かれのことばまたは行為が、かれ自身のものと見なされるか、あるいはそれらのことばまたは行為が帰せられる他人または他のもののことばまたは行為を、真実にまたは擬制的に代表するものとみなされる」人のことである。
【自然的人格と人為的人格】 前者なら自然的人格、後者なら人為的人格という。
【人格という語はどこからきたか】 人格(Person)という語はラテン語である。ギリシャ人は、プロソーボンという語を持っていて、それは顔を現し、ラテン語のペルソナ即ち舞台の仮面と同じである。そして、劇場から法廷でのことばと行為を代表するすべてのものに転化し、代表者等々のいろいろなことばで呼ばれる。
【行為者と本人】 人為的人格において、彼らが帰属するものを代表してのことばや行為をする場合には、彼らは行為者であり、帰属するものが本人Author)である。
【権威[58]】 所有物に対する権利が支配権と呼ばれるように、何かの行為をする権利は権威と呼ばれる。権威Authority)によってなされるとは、その権利を持つ者の委任または許可によってなされることである。
【権威にもとづく信約は、本人を拘束する】 行為者が権威に基づいて信約するときは、本人から権威を受け取った範囲内において、本人を拘束し、その拘束は、自然的人格においてのそれと同じである。
【しかし行為者をではない】 行為者が本人の命令によって、自然法に反することを行う場合、もしその行為者が、すでに信約によって本人に服従することを義務づけられていたならば、自然法を破棄するのは行為者ではなく本人である。なぜなら、その行為は行為者のものではなく、行為者がそれを拒否すること自体が信約の破棄を禁じた自然法に反することになるから。
【権威は示されるべきである】 権威が明白ならば、行為者との信約は本人を義務づけるが、権威が明示されない場合の行為者との信約には本人は義務づけられない。その権威が虚偽なら、行為者の他には本人はいないのだからその信約は行為者だけを義務づける。すなわち本人と結ばれる信約は、かれの対応保証なしには無効なのである。
【人格化された無生物】 擬制によって代表されることができないものは、ほとんどない。例えば教会は教区長によって人格化されうる。教会は無生物だから本人であることはできないし、行為者に権威を与えることもできないが、それの統治者である人々によって権威を持つことができる。従って、市民政府の何らかの状態が存在するより前には、そのように人格化されることはできない。
【非理性的なもの】 同様に、子供、愚人、狂人、すなわち理性を使用できない者は、後見人や管理人によって、人格化されうる。だがこれもまた、社会状態の中にしか、場所を持たない。
【虚偽の神々】 偶像即ち頭脳の単なる虚構は人格化されうる。それらの神々は、国家が任命した役人たちによって人格化されるから、その権威は国家に由来する。従って、市民政府の導入前には、異教徒の神々は人格化されえなかったのである。
【真実の神】 真実の神は人格化されうる。例えば先ずモーゼによって人格化された。彼はイスラエル人たちを、かれ自身の名においてではなく神の名において「これを神が言う」と言って統治した。第二には、人の子であり且つ神自身の子であるイエス・キリストによって人格化された。彼は彼の父によって使わされた、ユダヤ人たちの救世主であった。第三に、使徒達の内で語り働く聖霊によって人格化された。その聖霊は父と子によって使わされたのである。
【人間の群衆がどのようにしてひとつの人格となるか】 群衆は、各人の個別的な同意によって代表される、一つの人格によって、人格化される。
【各人が本人である】 群衆は当然多数であるから、彼らの代表者は多くの本人として理解される。つまり、代表者は委任された範囲において権威を与えられているのである。
【行為者は、意見の多数性によってひとつにされた、おおくの人びとでありうる】 もし代表が多くの人々からなっているならば、比較的多数の意見が、彼らすべての意見と見なされるべきである。
【代表は、偶数であるときは利益[59]がない】 偶数の代表は、特に、数が多くなくてそのため対立意見が同数な場合には、行為出来なくなる。それでも問題を解決できる場合もあって、同数なら施行を宣告しないなら、それは延期の宣告なのである。
【否定的意見】 もし、人々や会議体の数が三以上の奇数であるとして、一つの否定意見によって、残りの肯定的意見のすべてを無効にする権威を持つ場合には、この数は代表ではない。
本人には二種類ある。一つは他人の行為を単純に自己のものとする人であり、もう一つは、他人の行為または信約を、その他人がその信約を一定期日まで履行しないときには、それを引き受ける人であり、保証人と呼ばれる。




[1]『市民論』序文→「----まず第一に次のことを、(中略)原理として立てる。それはすなわち、人間の生来の気質はその本性上、何かある共通の権力に対する恐怖によって強制されなければ、互いに恐怖と疑惑と抱きあって、めいめいが自力で身の安全をはかることが権利上可能な場合は、必ずそうしたいと望むであろうような種類のものだ、ということである。(中略)しかし右の原理から「人間は本性上邪悪である」ということは帰結しない。(中略)ほかならぬ邪悪な人々が本性上からして邪悪にできている、などという結論はなおさら出てこない。」
[2] ホッブズは神の奇跡を完全には否定することは出来なかった
[3] 『中公バックス』では「人がひとりでいるときにかぎらず」と訳されている。
[4] ピューリタン革命
[5] 『中公バックス』では「前兆」と訳されている。
[6] ホッブズは、理性、理性推理、推理を大体同じ意味に使っている。しかし、「理性」という言葉には、人間が、社会的存在として生存していく根本法則に、自ら気付くことの出来る本性的能力という意味が含まれていて、ここでの理性はそういうニュアンス。第十四、十五章参照。
[7] 相似の三角形を三個持ってきて、別々の三個の角を直角の場所に並べ合わせばすぐ分かる
[8] 幾何の証明
[9] 科学とは現代の科学ではなく、学問のこと。以下同様。
[10] だから推理によって名辞を与えられるものも、ことばとして可能となる。
[11] 偶有性→非本質的な諸事情
[12] この「自由」は「反対によって妨げられることからの自由以外のなんらかの自由」のこと。このような「自由」という名辞を、ホッブズは背理、つまり概念できず意味をなさないものと考えている。第14章参照。
[13] つぎこまれ得るのは物体だけ。
[14] ホッブズは、延長は偶有性ととらえていることになる。
[15] ホッブズは、ここでは精神は物体であると考えていることになる。
[16] ホッブズは、「身体」の中に「心」が含まれると考えているように見える。「努力」のところでもそうであった。
[17] ホッブズの身体と心の関係の捉え方を、同世代のデカルトと比べると面白いかも。
[18] この善は利益
[19] 『中公バックス』では欲情と訳している。
[20] 善悪は道徳的概念ではない
[21] 『中公バックス』では「信条」と訳してある。
[22] 生まれながら持っているのは感覚以外にはなく、それは徳性には含まれない。
[23] ニーチェを連想する
[24] 贈り物は施すのではなく購買することである
[25] 力は善の獲得の道具でもある
[26] 軽視は力を認めていないこと
[27] 但し、他の事に没頭している精神から出てくるように見える限り重々しく見える
[28] 度量のしるしだから
[29] よく生きる=力への意欲、ということになり、ニーチェを連想する
[30] 大差なら決断は容易だが小差での決断は小心者には出来ず、その結果チャンスを逃す
[31] 平和が将来なので遠いことになる
[32] ホッブズは五感で感覚できないものは造影できず、観念も持てないと考えている。
[33] 時・夜・昼・平和・和合・愛・争い・徳性・名誉・健康・遅鈍・熱などの神殿
[34] 『市民論』第一章三(人間は本性上互いに平等である)では、精神の諸能力については記述されていない。
[35] 但し書きで、学問の技量は平等ではあり得ないと言っている。
[36] この部分の意味は判然としない。素直に読むと、精神の諸機能に関しては自惚れが自己満足を生み、それが平等である証拠だと言っているように思える。すると、人間は、肉体については自惚れようがなく精神については自惚れると言う本性を持つが、何れの本性も人間は平等であることの証しである、と言っていることになるが、正解だろうか?。
[37] すると、王達は、愛が相互的ではないという恐怖、から戦争をしたのだ。
[38] 『市民論』第九章九→「----一般には、私たちの意のままにあらゆることを行って、しかも罰せられずに済むことが自由であり、そうすることが出来ないことが隷属であると考えられているが、こういう自由が国家の中で、また人類の平和を保ちながら生じることは不可能である。----私たちが定義するような自由とは、運動の妨害の不在に他ならない。----人が運動できる仕方が多くあればあるほど、彼の持つ自由も多くなる。」
[39] 『市民論』第二章一→「----したがって自然法とは、私の定義するところでは、生命と肢体の可能な限り永続的な保持のために行うべき、もしくは止めておくべきことに関しての、正しい理の命令のことである」。ここで、“正しい理”とは不可謬のことではなくて、他人の利害に繋がる己の行為に関する、固有で真なる推論のこと。固有とは、国家外での個々人という意味で、真とは、これから述べられる自然法各論で説明される己に課せられた義務に基づく正しい推論を意味する。
[40] 『市民論』第一章七→「---権利と言う名辞が意味するのは、各人が有する、正しい理に従って自然的能力を行使する自由にほかならない-----」。
『市民論』第一章十→「---自然状態のおける権利の規準は有用性である」
[41] 例えば、自殺は自然法で禁じられることになるから、自殺の権利は無く、従って自殺の自由ということばは背理である(蛇足)。
[42] 権利、権利の放棄、義務、契約、について詳述するホッブズの意図は、『市民論』の序文の記述からよく伺える。→「----しかしこの離脱(自然状態からの)は、彼らが約定を結んで万物に対する自己の権利を手放すのでなければ、行われえないということ。さらに私は、約定の本性とはいかなるものか、約定が有効になるためには権利がどのような仕方である人から他の人へと委譲されなければならないか、また約定を堅固なものとするためにはどのような権利が、どのような人々に必然的に承認されなければならないかを、ということはつまり、自然法と本来的に呼ぶことのできる理性の命令とはどのようなものかを、説明し確認する。
[43] 『中公バックス』では、放棄と放置を区別していない。
[44] 承認のほうは贈与に、価値のほうは契約に対応する。楽園に入れるのは権利ではなく恩恵によるのである。
[45] この項の意味不明。神とは利益に基づいている権利関係は無いから約定も無く、従って信約も無いこと、自然法が誓約に取り替わるものであること、それでも超自然的啓示はあること、などが記述されているのだろうか。
[46] 『市民論』第二章十六→「恐怖によって無理強いされた約定には拘束力があるか否か、ということが常々問題となっている。----しかしそれは恐怖から生じたものだから、という名目によって無効であるわけではないだろう。なぜなら、それでは人々を結合して市民生活へ入らせ、かつ法を制定させる約定は、無効であることになってしまう(というのは、ある人が他の人の統治に服することは、互いに殺しあうことの恐怖から生じるのであるから)------」。尚、ここで言っている「法」は市民法のこと。
[47] 平和を求めよという第一の自然法から、自然状態における各自の無制限の権利を放棄せよという第二の自然法が導かれた。だから、この権利の放棄という信約を履行すべきと言う第三の自然法が出てくる。ここまでが自然法の根本的部分。
[48] 自然状態では正義も不正義もなく、なんでもありである。
[49] 自らの生命を維持するための自然権
[50] 理性は推論に基づくもので、偶然に基づくものではない。
[51] この説明はよくわからない。
[52] ホッブズは、「同意の上で設立した主権を、暴力により侵害することが値打ちのある仕事であると考える人々」であるとのべているが、それだけだと意味が通じない。命を大切にしない狂信的な主権簒奪者という意味が加わると少しわかる。
[53] 『市民論』三章五→「正しい人の行為にも無数な不正な行為がありうるし、不正な人の行為にも無数の正しい行為がありうるのである」
[54]『中公バックス』では「許容にやぶさかでないこと」となっている。
[55] 『市民論』三章二十三→「----それゆえ、第十八の自然法は、事実についての仲裁者および裁判官に対して、「事実の確実な証拠が現れない場合には、双方の当事者に対して公平とみられる証人たちに従って判決を下すべきである」と命じるものである。」
[56] 「内面の法廷」とは「良心」のことで、良心のもとでは、行動が適法でも、ほんとは違法なことを考えている人は義務違反となる。
[57] この「理性」の意味は、自然法あるいは道徳哲学のことだと思うが、そのニュアンスは、今は戦争状態にあっても、将来は平和を希求する、つまりそのことを意欲し、手段即ち徳を推理する人間の本性という感じ。
[58] 『中公バックス』では「権限」と訳している
[59] 『中公バックス』では、「利益がない」のかわりに「役に立たない」と訳してある。