これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。
ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳(A意識)
Ⅱ 知覚、或いは物と錯覚
感覚的確信は、物をこの物として捉えようとするだけだが、知覚は物を自分にとって存在する、ある普遍的なものとして捉えようとする。言い換えれば、知覚は、対象化した物から現象してくる感覚的なものを区別して反省(考察)することで、普遍的なもの、つまり真なるものを捉えようとする。
[一 物の簡単な概念]
知覚は、感覚的確信のように単に今ここにあるこの物としてではなく、この物が持っているいろいろな性質によって、この物であること、普遍的にこの物であることを知る。例えば、塩という物は、白いということも亦、辛いということも亦、結晶が立方体であるということも亦、その物の性質であるということにおいて、その物が塩であることを知る。真は個別ではなくて普遍にあるのだから、物の真理は物の方に多様なものとしてある、ヘーゲル流にいえば物とは多である(肯定的普遍態)。物とは多様な普遍性が統一されたもの、と捉えることが出来る。
『かくてこのも亦が純粋に普遍的なもの自身であり、言いかえると、媒体であり、諸性質を総括せる物たることなのである。』
だが、物というのはそれが持っている諸性質の統一という側面だけではなく、それ自身が他と区別される一者であるという側面を持っている。諸性質自身は普遍的であっても、この物に備わっているのは、他の物にも備わっているという関係において備わっていると知覚されているのだから、(限定されたものとして)他の物の性質ではなくこの物の性質であり、その限りにおいて個別的なものである。観察されたのは、同じ白色でも砂糖の白ではなくて塩の白であった。塩は白かったのであって、白いから塩なのではない。ヘーゲル流にいえば物とは「一」である。性質の限定的な否定性もまた物の本質に属している(否定的普遍態)。
『・・・媒体(物)もただ単にも亦という諸性質を没交渉にしておく統一であるにとどまらず、一者であり、排他的統一でもあることになる。』
だが、知覚によってこの物が他の物と区別されたものであることを知ることができるのは、他の物と共通な性質という普遍的なものによってである、ということは、考えてみれば不思議なことで、物を対象とした意識の反省的運動としての知覚にはまだ知られていないナゾがありそう(このナゾ解きは、対象が物ではない場合にも役立つはず)。ヘーゲル流にいえば、知覚によって物が物として統一されていくのは、上述の肯定と否定の二契機が関係していくことで成し遂げられる、ということになる。
[二 物に対する知覚の態度]
知覚における意識の基本的態度は、対象を意識に生じてくるがまま捉えることであるが、そうすると、物は一であり多であるということになり、自己同一性という真理の基準に反することになった。
だが、物を知覚するという経験をよく見てみれば、自己同一性という物の真理は対象の側にあるのでもなく意識の側にあるのでもなく、意識と対象が交互に訂正し続ける運動にある。ヘーゲル語でいえば、物は「対自存在」かつ「対他存在」なのであり、実は同じことなのだが、これを意識の側からの言い方では、意識のありかたによって物は「一」でもあり「多」でもあると受け取ることが出来るようなものなのである。
言い換えれば、他とは独立してありながら他との関係においてあるという物の二重性は、多様な性質を持つことで他と区分されているのだ、とも、それらを一つに統一する媒体であるのだ、とも受け取れる意識の二重性と同じなのである。
『・・・物は補足する意識に対して或る一定の仕方において現れてくるが、しかし同時に物はいま現れてくる、そのしかたから出て己のうちに還帰しもすること、言いかえると、物がそれ自身において相互に対立した真理を具えているという経験がえられることになる。』
実は、物というものは物質の集まりなのであって、だから性質もまた物質の集まりであり、これが意識において一者として引き受けられる理由である。しかし、意識は己も物も一者であるとすると同時に、物は独立した物質に分解することも亦とし、即ち物が一と多との二重の仕方で現れてくることを経験する(自然の法則と共に、究極の物質をどこまでも追求したがる人間の精神的営みの哲学的原理の契機が述べられているようにも思える。観測手段が高度化すれば知覚で捉えることの出来る性質の内容も豊富となり、多と一の運動が果てしなく続くのだが、これは自己同一性の追求、同じことだが物を構成する究極物質、つまり一の追求なのである、と)。
[三 制約せられぬ普遍性という悟性の領域への移行]
ここまで感覚的確信から知覚に進み、物を捉える意識の経験が対象と意識の弁証法的運動によって展開してきて、物とは一であり多である、とか、物は独立でありながら他との関係においてあるという二重性の下にあり、それは意識の二重性を同じである、言い換えれば、物は対自存在であり且つ対他存在であるなどと述べられてきた。
しかし、その間に還帰したり止揚されたりした普遍的なものは感覚的なものから出て来るものだから、結局それに制約されていることになる。物の真理を問うことの本質態は、この制約から離れた世界(悟性の世界)から考え直さなければならない。
『(他者に対する存在に囚われている対自存在にすぎないとしても)対自存在と対他存在との両者が本質的に一つの統一においてあるのだから、いまや制約せられず物ではない絶対的な普遍態が出来上がっており、意識はここに初めて真に悟性の国へ歩み入るのである。』
[四 総括]
(省略)
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