『資本論』カール・マルクス著(第三巻 資本主義的精算の総過程)
岡崎次郎訳 大月文庫
原則「 」は本文引用、( )は小生補記
(「資本論」の第一部は「資本の生産過程」第二部は「資本の流通過程」と名付けられている。「資本主義的生産の総過程」と名付けられている第三部の最後の篇である第七篇「諸収入とそれらの源泉」でのポイントは、諸収入つまり、労賃、利潤、地代の源泉は、それぞれ別々に、労働力、資本、土地であるという考えは誤りであって、収入の源泉はただ一つ、労働であるということである。しかし、この最終篇は、単にその名称通りの項目の説明ではなく、それまで展開していたマルクスの経済理論と、第一部と二部においてその都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観と社会批判とを、この最後の篇において纏めてあるように思える、と同時にマルクスがこの篇で主題にしたかったのは恐らく階級社会についてであったのだと思う。つまり、西欧近代以降に人類がはじめて気づいた自由という普遍的価値が、次第に共有されて実現していくはずであったにもかかわらず、19世紀における最先進国だったイギリスにおいてさえも、物質的配分についても人権の尊重についても著しい格差が存在するということ、この篇に即して言えばすべての人にとって収入の源が同一であるにもかかわらず賃金労働者、資本家、土地所有者という三大階級が存在するということの理由を主題にしたかったのだと思う。しかし、最後の五十二章「諸階級」の書き始めのところで絶筆となっている。)
第四十八章 三位一体的定式
(それまで展開していたマルクスの経済理論と、その都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観や社会批判のポイントが述べられているとともに、諸収入は地代と利潤と労賃という三位一体から成るという古典派経済学の誤った定式が提示される)
〔以下の断片は第六篇のための原稿の所々にあったものである〕とエンゲルスは述べている。その断片はⅠ、Ⅱ、Ⅲの項目に分けられているが、一言で言えば次のようなことである。
資本と土地と労働から、それぞれ利潤(企業者利得と利子の合計)、地代、労賃という形態で、それぞれ資本家、地主、労働者の収入が、あたかも自然に与えられているものとして把握されている。ブルジョワ経済学・俗流経済学者はそのように把握している。しかし、この三位一体的形態は「社会的生産過程のあらゆる秘密を包括している形態」である。つまり、利潤と地代と労賃の合計の価値は労働者の労働によってもたらされた価値と等しいのに、俗流経済学者たちは利潤も地代も資本家と地主にとっての当然の収入として理解しているのは、資本主義社会における社会的生産関係の秘密が理解できないからである、と。
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(ここからこの四十八章の書き出しが始まる。その内容は基本的に第一部から三部までに述べられていることの再提示であるが、以下に要点をなるべく短い命題の形で箇条書きにしてみた。)
・資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。
・社会的生産過程は、人間生活の物質的存在条件の生産過程であるとともに、特定の経済的社会形態を生産し再生産する過程でもある。
・剰余労働は、資本が等価なしで手に入れるものであり、どんなにそれが自由な契約的な合意の結果として現れようとも、その本質から見ればやはり強制労働なのである。
・剰余労働は剰余価値において現れ、この剰余価値は剰余生産物において存在する。
・剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。
・資本主義的制度や奴隷制度などのもとでは、剰余労働はただ敵対的な形態だけを持つのであって、社会の一部分の全く不労によって補足される。
・一定量の剰余労働は、災害に対する保険のために必要であり、欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的な拡張のために必要である。
・再生産過程における必然的で累進的な拡張は、資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。
・資本の文明的な面の一つは、資本がこの剰余労働を以前の奴隷制や農奴制などの諸形態のもとでよりもより有利な仕方と条件のもとで強要するということである。
・社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっている。
・自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。
・未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならない。
・自由は、自然必然性の領域の中では、人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで、力の最小限の消費によってこの物質代謝を行うということにおいてのみあり得る。
・この必然の国の彼方で、自己目的として認められた人間の力の発展が、真の自由の国が、始まる。
・真の自由の国は、必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのであり、労働日の短縮こそは根本条件である。
・資本主義社会では、剰余価値は、資本家たちの間で、社会的資本のうちから各資本家に属する持ち分に比例して、配当として分配される。
・資本主義社会では、剰余価値は資本の手に入る平均利潤として現れ、平均利潤は企業者利得と利子とに分かれる。
・資本は、剰余価値および剰余生産物に表される剰余労働を直接に労働者から汲み出し、土地の所有者は剰余価値の一部分を資本家の手から地代という形態として汲み出す。
・労働者は、自分自身の労働力の所有者および売り手として、労賃という名のもとに生産物の一部分を受け取る。
・労賃には必要労働が現れている。必要労働は、条件が貧弱か豊かとか有利とか不利とかにかかわらず、労働力の維持と再生産に必要な労働である。
・資本家にとっては資本が、土地所有者にとっては土地が、労働者にとっては労働力が、利潤、地代、労賃という独自な収入の三つの違った源泉として現れる。
・労働の価値は、利潤、地代、労賃という形で固定される。この固定が労働の価値を収入という形に転化する。
・賃労働が労働の社会的に規定された一形態として現れるのではなくて、全ての労働がその性質上賃労働として現れるように見える。
・労働および労働の価値は社会的形態にかかわらず普遍的なものであり、したがって労働の条件もまた労働および労働の価値に則して普遍的なものである。(煩雑なマルクス言い回しを、端的なテーゼとして取り出してみた)
・労働から疎外された労働条件の姿は、生産された生産手段および土地の定在およびそれらの機能と一致する。
・労働一般と賃労働との一致が自明のように見えるなら、資本も独占された土地も労働一般に対立して労働条件の自然的形態として現れる。
・労働そのものが関係するのは素材的実体における生産手段である。
・生産手段は使用価値としてのみ区分される。生産手段のうち土地は生産されたのではない労働手段として、その他のものは生産された労働手段として区分される。
・賃労働と労働一般とが一致するならば、利潤や地代も労働には依存しない固有の源泉、すなわち資本の素材的要素と土地から生ずるものでなければならなくなる。(労賃は自分の労働の価値の一部分に過ぎず、他の部分は利潤や地代となっている、の言い換え)
・引用50:「賃金、利潤、地代は、全ての収入の三つの本源的な源泉であり、また全ての交換価値のそれでもある。」(アダム・スミス『国富論』)
・資本主義的生産様式では、社会的な諸関係を商品に、さらに一つの物である貨幣に転化させる。
・資本主義的生産様式における直接的生産過程においてでさえ、労働の全ての社会的生産力が、労働そのものではなくて資本に属する力として現れる。
・資本の流通過程こそは、元来の価値生産の諸関係が全く背景に退いてしまう部面である。商品に含まれている価値も剰余価値も流通過程で実現されなければならず、したがって、それらがこの部面から発生するように見えるからである。
・商品に含まれている剰余価値が流通から発生するように見えるのは、一つには、譲渡のさいの利潤が詐欺や奸策や専門知識や技能や無数の市況依存しているからであり、次には労働時間以外の規定的な要素としての時間すなわち流通期間のためである。
・流通の部面は、各個の場合を見れば競争という偶然の部面であるから、この偶然を規制する内的法則は、この偶然が大量に総括されてはじめて見えるようになる。従って、生産の当事者たちには貫かれている法則は何も見えない。
・現実の生産過程は、直接の生産過程と流通過程との統一としていろいろな新たな姿を生み出し、従ってますます内的な関連の道筋は見えなくなり、いろいろな生産関係は互いに独立しているように見えて、価値の諸成分は互いに独立な形態に(企業者利得、利子、地代として)骨化する。
・剰余価値の利潤への転化は、生産過程によって規定されているとともに流通過程によっても規定されている。
・剰余価値は、利潤という形態では、もはや、それの源泉である労働に投ぜられた資本部分にではなく総資本に関係させられる。(ここではすでに資本は物質的なものから社会関係的なものへと変態を遂げつつある)
・利潤率は固有の諸法則によって規制され、この諸法則は、剰余価値率が変わらなくても利潤率が変動することを許し、またこの変動を引き起こしさえもする。(固有の諸法則とは、本質を隠蔽しながら現実に人々をして従わざるを得なくする規制だろう)
・すべてこれらのこと(直前の二つのテーゼ)は、剰余価値の真の性質を、従ってまた資本の現実の機構を覆い隠す。
・(上記テーゼに加えて)さらに、利潤が平均利潤に転化し、価格が生産価格、すなわち市場価格の規制的平均価格に転化すれば、なおさらそれ(隠蔽)はひどくなる。
・企業者利得と利子への利潤の分裂は、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体あるいは本質に対する剰余価値の骨化を、完成する。
・利潤の一部分は、利潤の他の部分に対立して、資本関係そのものから引き離されて、資本家自身の賃労働から発生するものとして現れる。
・(上記テーゼに対立して)次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわらない、自分固有な独立な源泉としての資本から発生するように見える。
・資本が最初は、流通の表面で価値を生む価値として現れ、今では利子生み資本という形でその最も疎外された独特な形態にあるものとして現れる。
・「資本-利子」という形態は、「土地-地代」および「労働-労賃」に対する第三のものとしては、「資本-利潤」よりも本質的表現である。
・(利潤という言葉には、資本家も才覚を用いて働いて利を得る、という剰余価値の起源つまり労働を思わせるニュアンスが残っているが、利子にはそのニュアンスはないどころか、高利貸しなどとして労働と対立する形態になっている。)
・ここまでで剰余価値の独立な源泉としての資本については明確になったが、最後に土地所有が平均利潤の制限として、剰余価値の一部分を地代という形態で土地所有者という一階級へ引き渡すものとして現れる。
・地代は自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化は完成されており、内的な関連は引き裂かれている。
・(土地の所有が収入の源泉になっているという意識においては、剰余価値の本来の源泉である労働というものは完全に埋没させられている)
・資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労賃という経済的三位一体では、資本主義的生産方式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接適合性が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界である。
・俗流経済学は、一切の内的関連の消し去られている三位一体のうちに、一切の疑惑を超えた基礎を見いだす。
・この三位一体の定式は支配的諸階級の利益にも一致している。なぜならば、それは支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠性の正当化理由となるからである。
・「以前のいろいろな社会形態では、この経済的神秘化は、ただ、主に貨幣と利子生み資本とに関連して入ってくるだけである。<中略>資本主義的生産様式においてはじめて・・・(エンゲルス:ここで原稿は中断している)
第四十九章 生産過程の分析のために
(諸商品の価値は結局、三つの独立した収入源である地代と利潤と労賃に分解できるというアダム・スミス以来の古典派経済学による生産過程の分析理論が誤りであることが示される。その根拠については既に第一部と二部によって述べられているが、簡単に言えば、地代と利潤と労賃が商品価値の源泉であるなら、収入すなわち消費には含まれないが再生産には必須である生産手段を購入するための収入としての価値の源泉がどこに存在するのかも、またその生産手段という商品を生産するための労働力がどこに存在するのかも説明できないからである。たとえば、「不変資本として現れるものは労賃と利潤と地代とに分解できるが、労賃と利潤と地代とがそのなかに現れる商品価値はそれ自身また労賃と利潤と地代とによって規定されており、こうして無限にこれが繰り返されていく、というわけである。」と記述されているように。
マルクスとしては、誤った理論に基づく政治や経済を理解しようとするには動機があるとも言いたいのだろうが、はっきりしていることは、そのことによって社会の階級関係もその階級関係を再生産するからくりも隠蔽されるということだろう。
「要するに、ここで提起されている問題は、既に社会的総資本の再生産の考察にさいして、第二部第三篇(社会的総資本の再生産と流通)で、解決されているものである。われわれがここでこの問題に立ち返るのは、第一には、前のところでは剰余価値がまだ利潤と地代というその収入形態では展開されていなかったからであり、したがってまたそれをこれらの形態で取り扱うことはできなかったからである。また第二には、まさにこの労賃、利潤、地代という形態には、アダム・スミス以来全経済学を一貫している信じられないような分析上の大間違いが結びついているからである。」
そういうことなので、以下に要点をなるべく短い命題の形で箇条書きにしてみた。)
・利潤と地代は、実現された剰余価値であり、したがって、一般に、商品の価格に入る剰余価値である。
・(収入の第三の独特な形態をなしている労賃は、労働者から見れば収入のように見えるかもしれないが、可変資本という資本の一成分である。)
・収入の支出にさいして支払われる労働は、それ自身、労賃や利潤や地代によって支払われるのだから、その労働の支払いに用いられる商品価値部分を形成するものではない。
・年間生産物の価値のうち、一年に新たに付け加えられる彼の労働を表す部分は、可変資本の価値プラス剰余価値に等しく、この剰余価値がさらに利潤と地代という形態に分割される。
・年間生産物の価値のうち労働者が一年間につくりだす全価値は、三つの収入の年間価値総額に、労賃、利潤、地代の価値に、表されている。それゆえ年間生産物価値のうちには不変資本部分の価値は再生産されていない。
・労賃はただ生産に前貸しされた可変資本部分の価値に等しいだけであり、また、地代と利潤は、不変資本の価値と可変資本の価値の合計に等しい前貸し資本の総価値を超えて生産された価値超過分(剰余価値)に、等しい。
・商品の価値の源泉が地代と利潤と労賃の合計とすれば、二つの困難が生じる。一つは、年間の収入の合計は年間の商品の合計よりも、年間の不変資本の消費分だけ不足すること、もう一つは、この年間の不変資本の消費分を現物で生産する労働が存在しなくなること、である。
・(不変資本のうちの固定資本分は、労働の二重性によって価値の移動がなされることとは別に、不変資本分の年間消費は発生するから、収入にてこれを賄わなければならないのだが、商品の価値の源泉が地代と利潤と労賃であるとすれば、すくなくともこれは不可能となる)
・年間商品生産物の価値は、前貸不変資本の価値を補填する成分A(生産手段としての生産物価値)と、労賃、利潤、地代として収入の形態をとって現れる成分B(消費手段としての生産物価値)の二つの価値成分に分解される。
・上記成分Aは収入の形態をとり得ない、不変資本の形態で還流するという限りにおいて資本に対立する資本の形態である。
・上記成分Bは、その三つの形態が収入という共通の形態を持っているが、利潤と地代には剰余価値すなわち不払い労働が表され、労賃には支払い労働が表される、という点においてその内部に対立を持っている。
・上記成分Bのうちで労賃の形態に転化する資本すなわち可変資本は二重に機能する。第一には資本として労働と交換され、第二に労働者の収入となって生活手段に転化される。
・総収益または総生産物は、再生産された生産物全体であり、その価値は前貸しされて生産に消費された不変資本と可変資本との価値に、利潤と地代すなわち剰余価値を加えた価値に等しい。
・総収入は総収益から、前貸しされて生産で消費された不変資本を補填する部分を差し引いたもので、賃金と利潤と地代の合計に等しい。
・純収入は総収入から労賃を引き去った後に残る剰余生産物であり、利潤と地代に分解できる。
・社会全体の収入を見れば、国民的収入=労賃+利潤+地代なので総収入から成っており、純収入ではない点においては資本家的立場に立った理解である。
・諸商品の価値は、結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに分解するというというのは、アダム・スミス以来全経済学を一貫している馬鹿げた説である。
・商品の価値の源泉は、地代、利潤(企業家利益+利子)、労賃であるという、根本的に間違った説を唱える理由は要するに以下のようなものである。
(1)
「不変資本と可変資本との根本関係、したがって剰余価値の性質、したがってまた資本主義的生産様式の全基礎が理解されていないこと。」
(この章について言えば、労賃と利潤と地代という三つの収入源泉を合計した価値総額で、これにもう一つ余分な価値成分である不変資本を含んでいる商品を買うことはできない、と言うことが理解されていない。)
(この章について言えば、労賃と利潤と地代という三つの収入源泉を合計した価値総額で、これにもう一つ余分な価値成分である不変資本を含んでいる商品を買うことはできない、と言うことが理解されていない。)
(2)
労働は、新たな価値を創る能力の他に、古い価値(生きている労働の価値に対比されている死んだ労働の蓄積である固定資本に代表される)を移動させる、あるいは新たな形態で保存する、という能力を持っていることが理解されていない
(3)
「再生産過程の関連が、個別資本の立場からではなく総資本の立場から見た場合に、どのように現れるか、ということが理解されていないこと。」
(理解されていないことによって発生するいくつかの困難があげられているが、いずれも重複した説明の繰り返しに見えるので省略する)。
(理解されていないことによって発生するいくつかの困難があげられているが、いずれも重複した説明の繰り返しに見えるので省略する)。
(4)
「さらにもう一つの困難が加わってきて、それは、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立ないろいろな収入の形で現れるようになれば、いっそうひどくなるのである。」
(5)
「剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態すなわち利潤と地代に転化するということによって、もう一つの混乱が起きる。」
・「困難のすべては次のことから生じる。・・・(以下の記述は、第一部から三部のなかで、マルクスの主張に対する俗流経済学者の無理解の記述がほぼ繰り返されているので省略する)」
第五十章 競争の外観
(省略)
第五十一章 分配関係と生産関係
(ここで述べられていることを一言で言えば、分配関係は生産関係と同じことである、というものである。なぜそうなのかという理由は、すべて既に述べられたことではあるが、本文の引用を中心に箇条書き風に羅列してみた。)
・「こういうわけで、年々新たに付け加えられた労働によって新たに付け加えられる価値は、<中略>三つの違った収入形態をとる三つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者に属するもの、一部分を資本の所有者に属するもの、そして第三の一部分を土地所有権の所有者に属するものとして、または彼らのそれぞれの手に落ちるものとして、表しているのである。つまり、これらは分配の諸関係または諸形態である。なぜならば、それらは、新たに生産された総価値がいろいろな生産要因の所有者たちの間に分配される諸関係を表しているからである。」
・「普通の見方にとっては、これらの分配関係は、自然的関係として、あらゆる社会的生産の本性から生じ人間的生産そのものの諸法則から生ずる関係として、現れる。」
・どんな社会においても労働は二つの部分に区分できる。つまり生産者やその家族が生存するに必要な生産物を生産する労働と剰余生産物を生産する労働である。
・剰余労働が生産する剰余生産物は一般的な社会的欲望の充足に役立つものであって、剰余生産物の配分様式や形態の相違が問題となるのは、誰が欲望の充足をすることができるかが問題となる社会においてだけであるから、分配の問題は歴史的には無視されてきた。
・J・S・ミルのようにより批判的な意識は、分配関係の歴史的発展形態は承認する。しかし、生産関係については、人間の本性なのだから不変であると、その不変性に固執する。
・資本主義的生産様式の科学的な分析は次のことを証明している。
*ある特定の生産様式は、社会的生産力とその発展形態の段階を自分の歴史的条件として前提している。
*資本主義的生産様式は、どんな生産様式とも同様に、特別な種類の、独自な歴史的規定を持つ生産様式である。
*この独自な歴史的に規定された生産様式に対応する生産関係は、一つの独自な、歴史的な、一時的な性格を持っている。ここで生産関係とは「人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ関係」である。
*「そして最後に、分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両方とも同じ歴史的な一時的な性格を共通に持っているということ。」
・年間生産物が労賃、利潤、地代として分配されるという捉え方は間違いであって、生産物は二つに分かれて、一方では資本となり他方では収入の形態で戻ってくるのである。
・労働条件および労働生産物一般が資本として直接生産者に相対するのだから、そのような生産過程には労働者に対する物的労働条件についての社会的性格が反映され、労働者と労働条件の所有者や労働者同士の関係が反映されている。
・労働条件の資本への転化は、資本自身や生産者からの土地の収奪を含み、したがってまた土地所有の形態を含んでいる。
・もし生産物の一方の部分が資本に転化しないのであれば、他方の部分も労賃、利潤、地代という形態をとりはしない。
・資本主義的生産様式は、物質的生産物だけではなく、物質的生産物が生産される生産関係を絶えず再生産し、したがってまたこれに対応する分配関係も絶えず再生産する。
・資本は本源的蓄積に関する章(第一部第二十四章)で展開された諸関係を前提している分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。
・生産関係に対立させた分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合、その分配関係は、生産物のうちの個人的消費に入る部分に対するいろいろな権利を意味している。
・資本主義的生産様式を際立たせるものは、次の二つの特徴である。ひとつは、この生産様式はその生産物を商品として生産することであり、もう一つは、生産の直接目的および規定的(生産関係によって規定されている)動機としての剰余価値の生産である。
・商品としての生産物の性格と、資本の生産物としての商品の性格とは、すでにすべての流通関係を含んでいる。
・商品としての生産物の性格と、資本の生産物としての商品の性格からは、「価値規定の全体が、また価値による総生産の規制が生ずる。<中略>ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者に対しては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸活動(=競争の下で相対しながら、商品の所有者たちがとる諸活動)のただ中を通じて維持するのである。」
・資本は本質的に資本を生産する、というのはただ、資本が剰余価値を生産する限りのことである。
・価値と剰余価値とのための生産は、費用価格低減の衝動を生み、労働の社会的生産の増大をもたらす最も強力な槓桿(=梃子)である。
・資本家が資本の人格化として直接的生産過程で持つ権威は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
*資本主義的生産の基礎の上では、資本家は、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程における階層性として編成された社会的な機構の形態をとって、直接生産者である大衆に相対している。
*権威の担い手は、労働に対立する労働条件の人格化としてのみ権威を持つのであって、以前の生産形態のように政治的なまたは神政的支配者として権威を持つのではない。
・「ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展との間の矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態との間に衝突が起きるのである。」
第五十二章 諸階級
「労賃、利潤、地代をそれぞれの収入源線とする単なる労働力の所有者、資本の所有者、土地所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている。」
「まず答えられなければならないのは、何が階級を形成するのか?という問いである。そして、その答えは、なにが賃金労働者、資本家、土地所有者と三つの大きな社会階級にするのか?という別の問いに答えることによって、おのずから明らかになるのである。」
マルクスは、収入の源泉は一つしかなくて、それは労働であると考えているから、同じ収入源に基づいて生活している人々が近代では三つの大きな階級に分かれ、この階級の間、とくに賃金労働者と他の二つの階級の間には生活の著しい格差が存在すること、この現実が生じる理由を問い、それをこれから述べようとするところで、絶筆となっている。
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