「私がここで調べたいと思ったのは、人間をそのあるがままの姿において捉え、考えられるかぎりで最善の法律を定めようとした場合に、市民の世界において、正当で確実な統治の規則というものがありうるかということである。」
第一章 第一篇の主題
人民が自由を回復するための根拠
l 人は自由な者として生まれ、そうでないときには自由を回復権利がある。この権利の根拠は社会秩序(人類の共存)である。なぜ人を支配することが、自分を自分自身の主人にすることであると勘違いするようになったのか、それはわからない。しかし、人を支配する権利を正当化する理由には答えられると思う。
「人は自由な者として生まれたのに、いたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思い込んでいる人も、じつはその人よりもさらに奴隷なのである。この逆転はどのようにして起こったのだろうか。それについては知らない。それではどうしてその逆転を正当化できたのだろう。私はこの問いには答えられると思う。」[1]
「社会秩序とは神聖なる権利であり、これが他のすべての権利の土台となるのである。しかしこの権利は自然から生まれたものではない。合意に基づいて生まれたものなのだ。」
第二章 最初の社会
家族という結びつき
l 家族は始めの共同体である。しかし、国家はそれが拡大したものではない。
「ところが国家においては支配者は人民を愛することはない。ただ命令する快楽から人民を支配するにすぎない。」
支配者の地位
l 最初の支配は暴力に基づく。これは事実であるが、正当性すなわち権利の根拠ではない。
「彼(グロチウス)は議論にあたっていつも、事実に依拠して権利を確立するという方法採用する。」
「最初に奴隷をつくり出したのは暴力であり、奴隷たちはその後は無気力になって、奴隷であり続けたのである。」
第三章 最強者の権利について
暴力が権利を作るか
l 正当な権利以外のものには服従する義務はない
「力から権利が生まれたのだとしたら、結果が原因と入れ替わってしまうのである。」
「だから力は権利を作り出さないこと、わたしたちには、正当な権利以外のものには服従する義務はないことを認めよう。こうして私が最初に提起し問いに、つねに立ち戻ることになるのである。」
第四章 奴隷制度について
奴隷になる利益
l 「ある人間が代償もなしに自らを与えるというのは不合理であり、考えがたいことである。」
自由の放棄
l 自由の放棄は人間であることの放棄である。
「自分の自由を放棄するということは、人間としての資格を放棄することであり、・・・自分の意思からすべての自由を放棄してしまった人の行為には、もはや如何なる道徳性もあり得なくなる。」
奴隷制が戦争から生まれるという主張
征服によって生まれる権利
l 人を奴隷にする権利は無効である。
「このように、どのような視点から考察しても、人を奴隷にする権利は無効である。・・・この二つの語、奴隷と権利という語は、矛盾しているのであり、互いに否定し合うのである。」
第五章 つねに最初の合意に溯るべきこと
l 最初の合意つまり一般意志に溯って考察せよ
「大衆を服従させることと、社会を統治することのあいだには、つねにきわめて大きな違いがあるものだ。」
「そもそも多数決という原則は、合意によって確立されるものであり、少なくとも一度は全員一致の合意があったことを前提するのである。」
第六章 社会契約について
社会契約の課題
l 自然状態から社会状態へ、滅亡せずに、秩序を維持しながら移行して行くには(あるいは、不完全ながらも秩序が維持されて滅亡してこなかったのには)、人間の本性に基づいた普遍的な理由があるはずである。それは、自他の自由を損なわずに共同体を創出維持する意思の合意、すなわち一般意志である。
「人々がもはや自然状態にあっては自己を保存できなくなる時点が訪れたと想定してみよう。・・・人類は生き方を変えなければ、滅びることになるだろう。」
「人間は[なにもないところから]新しい力をつくり出すことはできない。人間にできるのは、すでに存在しているさまざまな力を結びつけ、特定の方向に向けることだけである。だから人間が生存するためには、集まることによって、[自然状態に留まろうとする]抵抗を打破できる力をまとめ上げ、ただ一つの原動力によってこの力を働かせ、一致した方向に動かすほかに方法はないのである。」
「このまとめ上げられるべき力は、多数の人々が協力することでしか生まれない。しかし各人が自己を保存するために使える手段は、まず第一にそれぞれの人の力と自由である。だとすればこの力と自由を拘束して、しかも各人が害されず、自己への配慮の義務を怠らないようにするには、どうすればよいだろうか。」
「「どうすれば共同の力のすべてをもって、それぞれの成員の人格と財産を守り、保護できる結合の形式を見いだすことができるだろうか。この結合において、各人はすべての人々と結びつきながら、しかも自分にしか服従せず、それ以前と同じように自由であり続けることができなければならない」。これが根本問題であり、これを解決するのが社会契約である。」
社会契約の条項
l 社会契約の一番基本的な約束は、共同体の全構成員が、全ての人格と全ての力を一般意志の最高の指導の下に委ね、個々の成員を全体の不可分な一部として受け入れることである。国家(公民国家=エタ)、国民(シュジュ)、人民(プープル)、市民(シトワヤン)、の概念を正しく区別して理解すること。
「だからこの契約の条項は、これまで明文化されたことは一度もなかったかもしれないが、どこでも同じであり、誰もが暗黙のうちに受け入れ、認めていたものに違いない。社会契約が破られるならば、各人は自分の最初の権利を取り戻すまでのことである。その時には契約によって手にした自由は喪失するが、契約を締結するときに放棄したかっての自然の自由を回復することになる。」
「これらの条項は、正しく理解されるならば一つの条項に集約される。社会のすべての構成員は、自らと、自らのすべての権利を、共同体の全体に譲渡するのである。」
「この条項によるとまず、誰もがすべてを放棄するのだから、誰にも同じ条件が適用されることになる。そしてすべての人に同じ条件が適用されるのだから、誰も他人よりも重い条件を課すことには関心を持たないはずである。」
「要するに、各人がすべての者に自らを与えるのだから、自らを如何なる個人に与えることもない。」
「われわれ各人は、われわれのすべての人格とすべての力を、一般意志の最高の指導の下に委ねる。われわれ全員が、それぞれの成員を、全体の不可分な一部として受け取るのである」
「これ(社会契約によって結合した団体、公的な人格)は受動的な意味では成員から国家(エタ)と呼ばれ、能動的な意味では成員から主権者(スヴラン)と呼ばれる。さらに同じような公的な人格と比較する場合には、この人格は主権国家と呼ばれる。」
「構成員は集合的には人民(プープル)と呼ばれるが、主権に参加する者としては市民(シトワヤン)と呼ばれ、国家の法律に従う者としては国民(シュジュ)と呼ばれる。」
第七章 主権者について
国民と主権者の関係
l 国家(公民国家)の構成員である各個人は、その国家という結合体を創出するにあたり社会契約を結んだ(契約書の有無とかいう問題ではなく、その個人にとって疑い得ない根拠に基づく共同体の一員であるという意思の合意が始めにあった)。この契約すなわち約束は、各個人と主権者のあいだに結ばれたものだが、実は個人は主権者の一員でもあることがポイントとなる。いわば、個人は自分自身と約束することでもあるのだが、単に自分が自分にルールを課したのではなく、自分と自分がその一部を構成する全体と約束するのである。国民と主権者の関係は二重の関係で結ばれている、換言すれば、国家において個人は私的であると同時に公的立場を持ち、公的立場からは、他の個人に対しては主権者の立場を、主権者に対しては国家の構成員という個人の立場を持っている、ということである。
l 約束した個々人の集合体である主権者は、始めの普遍的意思の合意に基づいた自我と人格をもつもので、したがって、丁度自分が自分で自分を束縛するルールを作ることは道徳的かもしれないが他の全ての人にとって納得性はない。それと同じように、主権者が主権者を規定するルールは原理的に作れないのである。これは、社会契約であってもそうである。つまり、どうしてもそうしたいときには、別の社会契約を作ってこれに賛成する人びとが分離する以外にはないことになろう。
「結合の行為は、公衆[2]とそれぞれの個人のあいだで結ばれる相互の約束を含むものであること、それぞれの個人はいわば自分自身と契約を結ぶのであるから、二重の関係で約束するものであることがわかる。この二重な関係とは、個人に対しては主権者の一員として約束し、主権者に対しては国家の成員として約束するということだ。」
「この二重の関係に基づいてすべての国民は、公的な決議(社会契約)によって主権者に義務を負う。」
「しかし、この理由を裏返して主権者を主権者自身に義務づけることはできないのである。だから主権者が違反することのできないような法律を自らに課すことは、政治体の本性に反するものなのである。主権者はみずからとのあいだで、同一で単一の関係を結ぶことができるだけである。主権者が自らと契約を結んだ場合には、それは個人が自己と結んだ契約と同じ意味を持ってしまうのである。」[3]
「こうして、すべての人民で構成された団体には、如何なる種類の基本的な法律を負わせることもできないし、社会契約すら負わせることができないのは明らかである。」[4]
自由であることの強制
l 社会契約を可能とするものは、個々人に対するいわば自由であることの国家からの強制である(面白い言い方)
「この契約(社会契約)には、一般意志への服従を拒むすべての者は、団体全体によって服従を強制されるという約束が暗黙の内に含まれるのであり、この約束だけが、他のすべての約束に効力を与えることができるのである。ただこれは、各人が自由であるよう強制されるということを意味するにすぎない。」
「この条件のもとでこそ、政治機構の装置と運動が生み出される。そしてこの条件だけが、市民のさまざまな約束を合法的なものとする。」
第八章 社会状態について
社会状態のもたらす変化
l 自然状態から社会状態に移行すると、人間の行動はそれまでの本能的な欲動ではなく、正義に基づくようになり、人間の行動に道徳性が与えられ、力による占有や先占有による所有から、法律で認められた権原に基づいた所有へと移っていく。なぜならば、人間が真の意味で自らの主人になるのは、道徳的自由によってだけなので、欲望だけに動かされるのは奴隷状態であり、自ら定めた法に服従するのが自由だからである。
「このように自然状態から社会状態に移行すると、人間の内にきわめて大きな変化が生じることになる。人間はそれまでは本能的な欲動によって行動していたのだが、これからは正義に基づいて行動するようになり、人間の行動にそれまで欠けていた道徳性が与えられるのである。」
「・・・人間はこの瞬間をずっと祝福し続けることになるだろう。その時人間は、元の自然状態から永久に離脱し、そのことによって愚かで視野の狭い動物から、人間に、知的な存在になったのであるから。」
社会状態のもたらす利益と不利益
「まず人間が社会契約によって失ったものは、自然状態のもとで享受していた自由であり、・・・獲得したもの、それは社会的自由であり、彼が所有しているすべてのものに対する所有権である。」
第九章 土地の支配権について
l 土地などの先占権は、所有権が確立されるまでは真の権利とはならない。共同体が形成された瞬間に、成員は自らと占有している財産を含むすべての力を共同体に与える。
先占権の根拠
l 要するに、先占権には正当な根拠が無いということ
土地の所有権の成立
l 占有者は主権者への依存をさらに強める・・・土地を支配することで、住民も確実に支配できる・・・
l 社会契約による譲渡は、個人から財産を奪い取るのではなく、土地の合法的な所有を個人に保証する・・・個人はいわば、自分が与えたすべてのものをそのまま手に入れることになるのである。
l 社会契約、自然の平等を破壊するのではなく、自然が人間にもたらすことのある自然の不平等の代わりに、道徳的および法律的な平等を確立するものである。
l 人間は体力や才能では不平等でありうるが、取り決めと権利によってすべて平等になるのである。
第二篇
第一章 主権は譲渡し得ないことについて
l 主権は一般意志に基づいているから、主権者は、権力は譲渡できても主権を譲渡することはできない
「最も重要な帰結は、国家は公益を目的として設立されたものであり、この国家のさまざまな力を指導できるのは、一般意志だけであるということである。」
l 社会の設立が必要となったのは個人の利害の対立だが、それでも社会が設立できたのは、異なった利害のうちにある共通な要素が存在したからで、これが社会の絆となる。
l 社会を統治するには、この共通の利益だけを目指すべき
l (このことをさらに説明すると)主権者である人民が、他の人と相互の望みが一致することはあり得るが、それは将来のことについては分からないことであるから。
l (このことをさらに説明すると)主権を譲渡するということは、服従するということであり、主権者がいなくなり同時に人民もいなくなり政治体は破壊されることだから
第二章 主権は分割できないことについて
l 主権を譲渡できないことの同じ理由によって主権は分割できない。もし分割したら一般意志ではなくなるから
l 主権が分割できると誤解する人は、主権の行使にすぎないものを主権の一部と考える過ちを犯している
第三章 一般意志は過ちうるか
一般意志と全体意思の違い
l 一般意志は共同の利益だけを目的とする。全体意思は全員の個別意思が一致したもので私的な利益を目指すものである
結社の否定
l 「人民が十分な情報を持って議論を尽くし、互いに前もって根回ししていいなければ、わずかな違いが多く集まって、そこに一般意志が生まれるので有り、その決議はつねに善いものであるだろう。」
第四章 主権の限界について
主権とは
l 国家(公民国家)が配慮すべき最重要課題は己の維持であり、それには普遍的で強制的な力の行使が必須。この力を主権という。
「社会契約は政治体に、そのすべての構成員に対する絶対的な力を与えているのである。この一般意志によって導かれている力こそが、すでに述べたように主権と呼ばれる。」
一般意志が正しい理由
l 一般意志は相互的なもの、各人の意思は他の人の意思でもあるという意思だからそれは原理的に正しいのである。
「権利の平等と、これから生まれる正義という観念は、各人がまず自らを優先するということ、すなわち人間の本性から生まれたものである。次に一般意志は、・・・すべての人から生まれたものでなければならない。最後に、一般意志は、ある特定の個人的な対象に向けられた場合には、自分にかかわりのないものについて判断するのであるから、わたしたちを導いてくれる公正さについての原則が働かなくなるのである。」
一般意志が変質する理由
l 個別意思は一般意志を代表できない。このことは、一般意志は個別なものを対象とする場合にはその判断の根拠にはなることができない(というという風に変質する)。なぜならば、個別の利益が問題になるときには、平等でありながら共通の利益を引き出すことができないからである[6]。
「ある意思が一般的なものになるのは投票の数であるよりも、投票者を結びつける共通の利益であることが理解されよう。」[7]
主権者の行為の性格
l 主権者の行為とは、個人が社会契約によって平等にその主権者として参加している団体(国家)が、その個々人と結ぶ協約(約束)である。
「国民がこのような協約だけに服従する場合には、自分自身の意思だけに服従する。主権者と市民のそれぞれの権利が適用される範囲を問うことは、市民たちはどこまで自分自身と約束することができるか、各人がどこまで全員と、全員がどこまで各人と約束することができるかを問うことである。」[8]
「そのことから明らかになるのは、主権がどれほど絶対的であり、どれほど神聖であり、どれほど不可侵なものであったとしても、主権は一般的な協約の範囲を超えることがなく、こえることもできないということである。」[9]
社会契約で市民が獲得したもの
l 主権の限界が明確になったところで、再度言えば、社会契約によって市民が獲得したものは、不確実で危うい生活の代わりに、確実でよりよい生活である。個人は国家に生命を捧げたが、この生命は国家によってつねに保護されている。このことは割の合わないことではない。
第五章 生と死の権利について
死の権利について
「市民の生命は単に自然の恵みであるだけではなく、国家からの条件付きの贈り物だったからである。」
罪人の死刑
l 社会的な権利(国家を維持するのに必要な権利)を侵害した人は、国家の成員となることを自らやめたのであるから、たとえその罪人を殺害しても市民を殺すのではなくて敵を殺すのだから正当なことである。犯罪者の処刑は個別の行為なので主権が関わることは出来ず、他者に委ねることなのである[12]。
特赦について
l 特赦は法より上位の判断だから、それを与える権利は主権者だけにある。しかし、この権限は明確ではない。
第六章 法について
法ななぜ必要か
l 法によって政治体ははじめて活動と意思が与えられる。秩序に適った善なるもの、すなわち正義は神に由来するものであるから、神から正義を受け取る術を人間が知っているなら法はいらない。
「人間たちのあいだでは正義の法は空しいものである。・・・この正義の法なるものは悪人を善とし、正義を悪とするものにすぎない。」
l 法は、社会状態において権利と義務を結びつけ、正義にその目的を実現させるために必要なものである。法によって全ての権利が定められる。
法の定義
l 法は(市民の合意によって作られる)国家の法のことであり、一般意志の外にある対象とは無縁なもので、国内における部分を対象にしたものではなく全体を対象にしたものである。
「しかし一部を取り除かれた全体はもはや全体ではない。だからこの関係が続くかぎり、もはや全体は存在しない。・・・だからどちらの意思も、他方に関しては一般的なものではありえない。」
l 法律を定めるとき、人民は自分のことしか考えていないのだが、個別ではなく全体を対象としているならば、法で定められる対象も、法を制定する意思も、一般的なものとなる。
「私は法の対象はつねに一般的なものであると主張するが、それは法が[対象である]国民を一つの全体として扱い、ここの行為を抽象的なものとして扱うと言うことである。・・・だから法は新たな特権を定めることはできるが、特定の人物を名指して特権を与えることはできない。・・・要するに立法権には、個別の対象にかかわる機能は全くないのである。」
立法の権限
l 立法権原は一般意思にある(したがって立法の権限は人民にある)
l どのような政治形態であっても、法により統治われている国家を全て、私は共和国と呼ぶ。
立法の条件
l 法とは、社会的結合をつくり出すための条件、約束事にほかならない。この条件を定めるのは法に従う人民であり、法は予め定めておかねばならない。しかし、大衆には先見の明がないし、一般意思を導く判断が啓蒙されているとは限らない。個人は自分の幸福が何であるかは理解できても公衆[13]のそれは理解できない。
l ではどうすりゃ良いのかと言えば、啓蒙し、自覚させることしかない。
「一般意思に対象をありのままに眺めさせること、場合によってはあるべき姿で眺めさせること、・・・個別意思の誘惑から守り、・・・目前の利益の魅力と、遠く離れて隠されている危険を、秤量させることである。」
「しかし公衆が啓蒙されると、社会対の知性と意思が一致するようになり、さまざまな部分がきちんと調和するようになり、ついには全体が最大の力を発揮するようになる。だからこそ立法者が必要なのである。」[14]
第七章 立法者について
立法者に求められる資格
l 立法者に求められる資格は、いわば神であることだが、これは無いものねだりであって、可能性を追求するほかはない。この可能性は、市民が協力し、自分たちの力を発揮した結果が個々人の力の総計を上回るときに訪れる。
「それぞれの国民には、すでにそれぞれに最も相応しい社会的規範があり、それを見つけ出すためには優れた叡智が必要とされる。・・・こうした叡智を持つものは、・・・人間に法を与えるのは、神々でなければならないだろう。」
「要するに立法者は、人間からその固有の力を取り上げて、その代わりに人間にとってこれまで無縁だった力を与えねばならないのであり、人間は他人の手助けなしには、この力を働かせることはできないのである。」
「立法者はあらゆる点において、国家における(異例な人)である。・・・立法者とは、行政機関でも、主権者でもない。立法者の任務は、共和国を創設すると言うことであり、これは作られた制度には含まれていないものである。その任務は卓越した特別な仕事であり、人間の世界[15]とは如何なる共通点もない。」
立法権の根拠
l 立法権を所有するのは人民である。なぜなら、この権利は一般意思に基づいてるものだからで、譲渡も廃棄もできない権利である。
l 立法とは個別意思が一般意思と一致することであり、それができるのは人民の投票による決定以外にはない。
立法の逆説とその解決方法
l 立法には、立法という仕事とは両立しがたい二つのことがある。一つは神しかできぬ企てであり、もう一つはこの企てに必要な権威である。
l (ではどうするのか?それに必要なことを考えてみることであって)本来は政治的制度によって生まれるべき社会的精神が、政治的制度を創設することが一つ、もう一つは、法が生まれる前から法によってつくり出されるべき人間になっていることである。つまり、立法者は、強制力も説得力もなくても人々を導き納得させるような、別の秩序の権威に依拠せざるを得ない。それには神を持ち出すことであった。
「諸国民が誕生する際には、宗教は政治の道具として役立つものだと結論すべきなのである。」
第八章 人民について
法に適した人民
l 抜粋だけ
「恐怖の念から過去は忘却され、国家は内乱で焼かれ、いわばその灰の中から蘇り、死の腕から抜け出して、若さを取り戻すことがある。これこそ・・・現代では暴君を追放したオランダとスイスの姿である。」
「しかしこうしたことはごく希である。・・・人民が自由になることができるのは、まだ未開な状態にあるときであり、社会の活力が消耗した後では、もはや自由になることはできないからだ。・・・自由な人民よ、次の原則を記憶しておくが良い。人は自由を獲得することはできるが、[ひとたび自由を失うと]もはや二度と回復することはできないのだ。」
ロシアの実例
l 抜粋だけ
「ロシアの隣人にして臣民であるタタール人こそが、ロシアの主人になり、ヨーロッパの主人となるだろう。」
第九章 人民について(続き)
国家の規模
l 抜粋だけ
「何より求めるべきなのは、健全で強固な体制である。そして広い領土によって得られる資源よりも、善き統治によって生まれる活力に頼るべきなのである。」
第十章 人民について(続き)
領土と人口の関係
姿勢の影響
建国の時期
立法に適した人民の特性
l 抜粋だけ
「それは起源が同じであったり、利害が同じであったり、約束によって結びついていたりするために、すでにある結びつきを持っていて、・・・全ての構成員が互いに顔見知りになることができ、・・・」
「ヨーロッパにはまだ立法が可能な国が一つだけある。それはコルシカ島である。この勇敢な人民は・・・」
第十一章 立法のさまざまな体系について
立法の目的
l 立法の目的は、全ての人々の最大の幸福である。最大の幸福は二つの目標、自由と平等に帰着する。なぜなら、国民が自由を失えば国家という政治体から力が失われ、平等が寝蹴れば自由が存続できないから。
l 平等について。平等とは、全ての人々の権力と富の大きさが絶対的に同じにすることではない。権力の平等とは、一市民の権力が大きくなることで暴力にまで強まることがないこと、富の平等とは、いかなる市民も身売りするほど貧乏にならないことと解するべきである。
「確かに、平等が破壊されるのは、自然の成り行きというものである。だからこそ、立法の力で、平等を維持するように努めるべきなのである。」
国の状況にふさわしい制度
l 抜粋だけ
「要するに、全ての人民に共通の原則というものはあるが、それぞれの人民に固有の違いのために、こうした原則をある個別的なやり方で調整し、その人民に相応しい立法を定めるべきなのである。」
環境と法の関係
l 抜粋だけ
「法は自然の状態をいわば保証し、これに同伴し、それを修正するだけにとどめるようにするのが望ましい。」
第十二章 法の分類
基本法、民法、刑法
l 第一は、主権者と国家との関係を規制する法律で、国家法あるいは基本法と呼ばれる。
l 第二は、政治体の構成員の相互的な関係、または構成員と政治体の関係を規制する法律で、民法と呼ばれる。この法律においては、構成員相互の関係は緩やかに、構成員と政治体との関係は強めにするのがよい。なぜなら、国民の自由は公民国家の力によって確立されているからである。
l 第三は、人間と法の関係を規制する法律、刑法である。これは法に服従しないものを制裁するもので、全ての法への違反に対する制裁である。
習俗
l 習俗、慣習、とくに世論は、真の意味で国家を作り出すものとして、最も重要な法であると言える。
「ほかの法が古くない、滅びてゆくときに、こうした法に新たな生気を与え、あるいはこれに代わるものである。人民のうちにその建国の精神を保たせるものであり、知らず知らずのうちに権威の力を習慣の力としてゆくものである。」
l 私の主題に関わるのは国家法だけである。
第三篇
第一章 政府一般について
政府の定義
l 政治体を動かす原動力は力と意思であり、力は執行権、意思は立法権と呼ばれる。立法権は人民以外の誰にも属し得ない。執行権は個別の行為にだけ関わるもので、立法者にも主権者にも属し得ないから適切な代行機関が必要となる。この代行機関が政府である。
l 政府は国家と主権者を結びつけるもの、政府は主権者の執行人、国民と主権者のあいだで意思を伝達する中間団体であり、その任務は法律の執行と、社会的な自由と政治的な自由の確保である。
l この団体(政府)は統治者と総称され、その構成員は、行政官、王、あるいは支配者と呼ばれる[16]。
「このように私は、執行権の合法的な行使を、統治または最高行政と呼ぶ。そして行政を委任された人間または団体を、統治者または行政官と呼ぶのである。」
政府の比例計算
l (主権者):(政府)=(政府):(人民)。というモデルデリカが進む
政府の特殊な位置
l 政府が主権者の意思とは別に、個別意思を持って公的な力を行使するときには、社会の結びつきが消滅し政治体は解体する。
l 他方、政府がその設立目的を果たすためには、政府の構成員のすべてが一致して行動をして、ある特殊な自我、自己保存を目指した独自の意思、が必要となる。
「要するに、政府は人民のためにつねに自らを犠牲にするよう心がけ、自らのために人民を犠牲にすることがないようにしなければならない。」
政府と国家の関係
第二章 さまざまな形態の政府が作られる原理について
統治者と政府の違い
l 多様な政府が生まれることを理解するには、国家と主権者を区別したのと同じように統治者と政府を区別することが必要となる。
l 政府の総力は国家の総力であり、政府の総力を行政官に使用するだけ国家は弱くなる。したがって行政官の数が多いほど政府は弱くなる。
行政官の三つの意思
l 行政官の意思は、その意思が追求する利益の目的にしたがって三つに区分される。行政官個人の利益、統治者の利益、人民の利益を目的にするものである。自然の秩序に放任すると、この順で活動的になるが、それは社会秩序の要求とは真逆である。
政府の規模と国家
l この章では、政府の多様な種類と形態の相違を決めるのは、政府の構成員の数である、ということ?
第三章 政府の分類
三つの政体
l 貴族制:主権者が、政府を少数の人々に委託する形態。
l 君主制(王制):主権者が政府の任務を一人の行政官に委託する形態。
最善の政体
l 抜粋だけ
「一般に民主政は小国にふさわしく、貴族制は中程度の国にふさわしく、君主制は大国にふさわしいということになる。この規則はすでに述べた原理から直ぐに引き出すことができる。しかし、例外をつくり出すさまざまな状況があり、それらを全て検討することはできないのである。」
第四章 民主政について
第五章 貴族制について
第六章 君主制について
第七章 混合政体について
第八章 すべての国にすべての政治形態がふさわしいものではないこと
第九章 善き政府の特徴について
第十章 政府の悪弊と堕落の傾向
第十一章 政治体の死について
第十二章 主権を維持する方法
人民集会
l 主権を維持するには、人民の集会を開くことができなければならない。なぜなら、主権とは、社会契約によってつくられた政治体に、一般意志に基づいて、そのすべての構成員に対して行使することのできる、絶対的な力である。一方、主権者を構成している人民には、立法権のほかにはいかなる力も、その人民に対する絶対的な力をふくめて、与えられていない。したがって、政治体に与えられている自らに対するその絶対的な力を消滅させて、自らの主権を維持するには、人民の集会を開いて立法権を行使することができなければならない。
「人民の集会!とんでもない妄想だというかもしれない。今日ではそれは妄想であるが、二千年前(ローマ時代)にはそれは妄想などではなかったのである。それでは人間の本性が変わったとでもいうのだろうか。」
第十三章 主権を維持する方法(続き)
定期集会
l 人民集会において、はじめに一連の法を作っても、それだけでは十分ではない。定期的に開催される定例集会と予想外の出来事が起きたときの臨時集会が開催されなければならない。定例集会は、法律の定めによって、定められた日に正規に召集されなければならない。臨時集会には召集の手続きは不用とすることが必要であり、定例集会以外の国民のあらゆる集会は、集会の召集を任務とする行政官が、予め定められた手続きに従って開催したものでなければならない。
l 合法的な集会を召集する頻度については、一般的にいえば政府の力が強いほど頻繁出あるべきだろう。
首都の問題
l 多くの都市を擁する国家においては、各都市に同じ権限を与えるべきであり、国家の主権を分割したり一つの都市に集中させるべきではない。
「政治体の本質は、服従と自由が一致することである。だから国民と主権者という言葉は、コインの裏表のようなものであり、この二つの語の意味は市民という単一の語によって統一されているからである。」
l 多くの都市を一つの公民国家に統合するのは正しくはない。統合しなくても他国に抵抗する力を持つことができる。そのことは、かってのギリシャの諸都市のペルシャに対する抵抗や、最近ではオランダやスイスのオーストリアのハプスブルグ家に対する抵抗を見ればわかる。
l 主権を維持するために国家自体の規模を縮小しなくても、首都を作らなければそれは可能だ。
「政府の所在地を各都市に持ち回りで移動させ、各都市で順番に国家の会議を招集すれば良いのだ。」
「住民は全土にむらなく分散させ、国家のどの都市にも同一の権利を所有させ、至る所に豊かさと活力をもたらすのである。そうすれば国家は最大の力を所有するようになり、最も善く統治されるようになるだろう。」
第十四章 主権を維持する方法(続き)
政府権限の停止
l 人民集会が合法的に開かれた瞬間に、政府の裁判権もすべての執行権も停止する。
「代表される者[すべての人民]が自ら出席している場には、代表する者[行政官]というものはもはや存在しないからである。」
l 人民集会は、政治体を庇護し、政府に軛をはたすものである。
「いつの時代にも支配者が恐れるものであった。・・・市民たちが貪欲で、怠慢で、臆病で、自由よりも急速を好む人々であった場合には、政府の抵抗力はますます強まり、主権はついに消滅する結果となり、古代の多くの都市国家は、寿命が尽きる前から崩壊し、滅んでいったのである。」
第十五章 代議士または代表者
代議士
l 市民としての権利を代行する者、代議士の存在はあってはならない。
「市民たちが自分の身体を使って奉仕するよりも、自分の財布から支払って奉仕することを好むようになるとともに、国家は滅亡に瀕しているのである。」
「商業や工芸に熱中し、貪欲に利益を求め、軟弱になり、安楽を愛する。こうして市民たちは身をもってなすべき奉仕を、金銭で代用しようとするのである。」
「国事について、誰かが「それが私に何の関係があるのか」と言い出すようになった、すでに国は滅んだと考えるべきなのである。」
主権は譲渡されえず、代表されない
l 主権は代表されえない。
「主権は譲渡されえない。同じ理由から、主権は代表されえない。主権は本質的に一般意思のうちにあり、そして意思というものは代表されるものではない。」
「イギリスの人民は自らを自由だと考えているが、それは大きな思い違いである。自由なのは、議会の議員を選挙するあいだだけであり、議員の選挙が終われば人民はもはや奴隷であり、無に等しいものになる。」
「代表という考えは近代になってから生まれたものだ。それは封建政治から、あの不正で非合理的な政府から受け継いだものなのだ。・・・古代の共和国でも、君主制においてすら、人民には代表者はいなかった。・・・ローマでは護民官はきわめて神聖なものとされていたが、これが人民の役割を簒奪することができるなどとは、想像もされていなかった。」
「権利と自由だけが大切なものであるときには、不便など問題にはならない。この懸命な人民(ローマ市民)の下では、すべてのことが適切に配慮されていた。」
「ギリシャのポリスでは、人民がなすべきすべての事を、人民自身が行っていた。人民は絶えず広場に集まってきた。ギリシャ人たちは貪欲ではなかったし、すんでいる土地も温暖だった。市民の代わりにどれが労働をしていたし、市民が大きい関心を持っていたのは、自分たちの自由だった。」
奴隷問題
l 奴隷がいなければ自由は維持できないと言いたいのではない。スパルタは奴隷がいたからこそ自由であった不幸な状況であっただけで、近代人は自らの自由を売って、奴隷の自由を買っているのだ。私は奴隷所有する権利は合法的ではないことをすでに証明している。
「私は自らが自由だと信じている近代人が、なぜ代表者を持つようになったのか、古代人がなぜ代表なるものを認めなかったのかという理由を説明しただけだ。」
「何れにしても、人民が代表を持った瞬間から、人民は自由ではなくなる。人民は存在しなくなるのだ。」
「すべての事柄を考慮に入れると、公民国家がごく小規模でないと、わたしたちの国で主権者がその権利の行使を続けることは、今後は不可能だと思われる。」
「しかし、国が小さいと征服される恐れはないだろうか。その様なことはない。私はいずれ、大国がもつ対外的な力と。小国の持つたやすい統治と優れた秩序を結びつける方法を示したいと思う。」
第十六章 政府の設立はけっして契約ではない
立法権と執行権の問題
l 執行権は個別的な行為によってしか機能しないから立法権とは異なる(立法権は個別ではなくすべてのひとに当てはまる法を作る権利)。市民は平等だから、すべての人がなすべきことはすべての人が決定できるが、この決定できる権利が執行権である(執行権はすべての人がなすべき、すなわち合法的な行為でなければならない)。
執行権と契約
l 政府の設立という行為は、元首と人民の契約であると言う考えは、言い換えれば、元首は命令する義務があり、人民は服従する義務を負うという契約を結ぶということであり、間違いである。主権は譲渡できないから服従する契約は無効であり、また法は個別的規定はできないから、この契約は不法であるからである。
第十七章 政府の設立について
民主政体への移行
l 政府の設立という行為は、法の制定と法の執行という二つの行為で構成される。はじめに法の制定という行為において政府という団体が設置される。次に法の執行という行為において政府をになう指導者(行政官、統治者)が政府の機能として指名され、政府が設立される。しかしここで、政府ができる前になぜ政府しかできない法の執行ができるのかという問題が発生する。しかし、行政官(統治者)を政府の機能として指名する人民の会議が主権者の会議ではなくても、その結果が主権者の会議である人民の会議において承認されることで合法となる[19]。
「このように一般意思の単一の行為によって、現実に政治を設立できるというのが、民主政体に固有の利点である。この仮の政府は次に、採用される政体が民主政であれば、そのまま政権を掌握する。」
第十八章 政府の越権を防止する方法
公僕としての為政者
l 以上より、執行権を委ねられた人々は、人民の主人ではなく公僕であること、すなわち彼らの任命権は人民にあり、彼らの役割は契約を結ぶことではなく市民としての義務果たすことである、ということが確認された。このことは、どのような形態の政府(世襲性、君主制など)についてもあてはまる。
「[こうしたさまざまな統治形態は]人民が別の統治形態を採用したいと考えるまでに定められた仮の統治形態にすぎないのである。」
政体の変革
l 統治形態の変更は危険なものだから慎重を期すべきで、できればやらないのが良い。しかし、それは政治的な原則であり法的な規則ではない。統治者がこの政治的な原則を悪用して、人民の意思に反して権力を維持しながら人民の権力を簒奪していることを隠蔽することがままある[20]。人民の定期集会、とくに手続き不要な人民集会はこれらの防止に有効である。
社会契約を確認する二つの議案
l 社会契約の維持だけを目的とした集会においては、次の二つの議案は必須でありまた同時に採決しなければならない。
「第一議案 主権者は政府の現在の形態を保持したいと思うか。」
「第二義案 人民は、今の行政を委託されている人々に、今後も委託したいと思うか。」
第四篇
第一章 一般意思は破壊できないこと
素朴な国家の理想
l 抜粋だけ
「正直で単純な人は、その単純さゆえに欺かれにくいものである。作術や巧みな口実も、こうした人々をだますことはできない。欺かれるためにはずるさが必要なのだが、そのずるさに欠けているのである。」
衰退した国家の状況
l 国家が衰退すると、一般意思がもはや全体意思ではなくなり、一般意思はもはや口をつぐみ、あたかも国家などは存在しないかのように、もう市民としては意見を述べず、個人的な利益だけを目的とした不正な命令が法律と言う名のもとに承認されるようになる。
個別意思と一般意思
l 衰退した国家の状況においても、一般意思は消滅してはいない。人間は自分だけで独占する自分だけの幸福を別にすると、自分の幸福のためにも、全体が幸福になることを強く望んでいる。
l 主権の行為そのものである投票という行為、市民が意見を表明し討議する権利、この重要な問題についてはここではすべてを語ることはできない
第二章 投票
全員一致
l 抜粋だけ
「全員一致が見られることがある。それは市民たちが奴隷状態に陥っていて、もはや市民たちは自由も意思もない場合である。」
投票方法の原則
l 全員一致が必要な法は一つしまない。社会契約である。決議に反対した人々も自由であるのに、同意していない法律に従わねばならない理由は、すでに社会契約によって可決された法律には従うことに同意していたからである。
一般意思となりうる投票比率
l 抜粋だけ
「この比率を決めるために役立つ二つの一般的な原則がある。一つは討議する問題が重要で重大なものであればあるほど、全員一致に近い比率でなければ、その議決を可決できないようにすべきだと言うことである。第二は、討議する問題の決定が急を要するものであればあるほど、その議決のために必要な票差を小さくすべきだということである。」
第三章 選挙
選挙と抽選
l 抜粋だけ
「まず指導者の選出は、主権者ではなく、政府の職務であることに留意するならば、抽選が民主政の本性に適っている理由は理解できるはずだ。・・・行政官の地位は特権ではなく、(市民の義務として課せられている)やっかいな重荷である。・・・この条件はすべての人にとって平等なものであり、・・・」
「貴族政においては、統治者が統治者を選出し、政府が自らを維持している。だからこの政体では投票による選出が適しているのである。」
第四章 ローマの民会
第五章 護民府について
第六章 独裁について
第七章 監察制度について
第八章 公民宗教について
宗教と政治
l 「人間は原初において神のほかに王を持たず、神政のほかに政体を持たなかった。」
l さまざまな国の数だけの神がいて、つまり多神教が生まれ、多神教からは神学的な、公的な不寛容が生まれる。
l 多神教の時代に宗教戦争が起こらなかったのは、政治的な戦争は同時に宗教的戦争であり、神々の支配する境界に国境が定められていたからである。
l だから、ある人民を改宗させるには隷属させるしかなかった。
l ローマ人は征服した民に彼らの法律と神々を残しておいた。この帝国の住民たちはやがて知らず知らずうちにほぼ同じ神々と礼拝を持つようになった。
キリスト教の到来
l キリスト教は彼岸の帝国であり、それは宗教の体系と政治の体系の分離をもたらした。現世の国には統治者も市民も法も存在したから、この二重の権力のあいだで果てしない管轄争いが起こることになった。国家にとっては、キリスト教徒は反逆者と見なされて迫害の対象となり、人々にとっては、君主に服従すべきか聖職者に服従すべきか知り得ないことであった。キリスト教の国においては、善き政治体制というものがそもそも不可能になったのである。
l ヨーロッパやその周辺においては、キリスト教の精神がすべてに打ち勝ち、神聖な信仰は主権者から独立して国家とは必然的な絆を持たなかった。
l イギリスやロシアでは、主権者(国王や皇帝が教会の長となった。しかし、それは国家における主権者が教会における統治者になっただけであり、立法者[23]になったのではないので、これらの国においても二人の主権者が存在したのである。
l ホッブズは、この悪とその治療法を明確に認識していたが、キリスト教の精神が彼の思想体系と対立したものであり、司祭の利害が国家の利害よりもつねに強いことを認識すべきであった。
三つの宗教
l 社会との関係では宗教は二種類ある。一般社会のための人間の宗教と特殊社会のための国家の宗教である。前者は(第一の宗教)純粋で素朴な福音の宗教、真の有神論、自然の神法で神殿も祭壇も儀礼もなく、至高の神への内的礼拝と道徳への永遠の義務があるだけ。後者は(第二の宗教)その国特有の守護神と、独自の教義と儀礼と法で定められた礼拝があり、これを信奉しない人々は不信の徒、異邦人、野蛮人である。
l 第三の宗教がある。この宗教からは混淆した反社会的な法が生まれる。この宗教は人間に二つの法律、二つの首長、二つの祖国を与え、人々に矛盾した義務を負わせ、信者であるかぎり市民であり得ず、市民であるかぎり信者ではあり得ない。
l これらの三つの宗教を政治的視点で考察してみる。第三の宗教は、社会的な統一を破るものだから悪しきことが明確であるのでこれ以上論じない。たとえばラマ教、日本の宗教、ローマ教皇庁のキリスト教などがそうである。第二の宗教は神政の一種で、祖国を国民崇敬の対象とするという点では善き宗教である。ここでは国家への奉仕は守護神への奉仕(主権者は守護神)、統治者は一人で司祭はいない(権力者が一つ)、祖国のために死ぬのは殉教で法の違反は不信仰で犯罪人を公共の非難の根拠は神々の怒りである(法は宗教の教義)。しかし、この第二の宗教は誤謬と虚偽に基礎付けられているもので、人々を軽信で迷信の徒とするから悪しきものである。さらに排他的で圧倒的で人民を残忍で不寛容にするときには、虐殺を神聖な行為と思い込むようになるから、この人民は他のすべての人民と戦うこととなり、人民自身の安全のためにもきわめて有害である。
真のキリスト教
l 残されたのは第一の宗教であるが、それは福音書のキリスト教である(現在のキリスト教ではない。これはまったく異なる宗教である)。この宗教は同じ神の子である点において兄弟で、その社会は人が死んでも解体しない。しかし、政治体とは関係を持たず、国民の心を国家と結びつけないどころか引き離す。つまり社会的な精神に反する宗教である。
l 真のキリスト徒で構成された社会には社会を結びつける紐帯がなく、その様な社会はもはや人間の社会ではない。
キリスト教の無世界性
l 真のキリスト教徒の世界があったとすると、もしそこにたった一人の野心家あるいは偽善者がいたとしたら、その社会は圧制下におかれ人民はただ隷属することになるだろう。キリスト教徒は、この権力者に服従することが神の欲し給うことであり、暴力を持って追放することには良心が咎めるだろうし、結局のところ地上の悲しみの谷にあって自由であろうと奴隷であろうとその違いに差異はなく、大切なのは天国に行くことであると思うだろう。
「キリスト教が教えるのは、服従することと依存することだけである。キリスト教の精神は圧政にはきわめて好都合である。」
「キリスト教の十字架がローマの軍隊の鷲を追放すると、ローマ人の勇気は完全に消滅したのである。」
公民宗教
l 国家とその構成員にとって、ある宗教の教義が問題になるのは、その教義を信仰する市民が他人に果たすべき義務と道徳に関わるかぎりにおいてである。
l 公民的な信仰告白が必要で、その箇条を公民宗教として定めるのは主権者の役割である。それは宗教的教義としてではなく社会性の感情としてである。主権者は、この箇条を強制することはできないが、これを信じないものは、非社会的人物として、法と正義を真摯に愛することができない人物として追放することができる。
l 公民宗教の教義は単純である。肯定的なものとしては、強く、賢く、慈愛に満ち、将来を予見し、配慮する力のある神が存在すること、来世が存在すること、正しきものが幸福になること、悪人は罰せられること、社会契約途方が神聖なものであること、である。否定的な教義としては、ただ一つだけ指摘する。それは不寛容を斥けること。
寛容
l 公的な不寛容と神学的な不寛容は分離することはできない。どちらも他を排除して国家の主権者も統治者も人民も一体であることはできない。
第九章 結論
まだ残されている問題は、外交関係によって国家を支えることである。
[1] 作田訳(白水社)注:次のテキストを参照。「支配そのものですら、世論に服している場合は、奴隷的である。君が偏見によって支配している人々の偏見に、君自身が依存しているからだ」(『エミール』第二篇・・・)。「自由は、自分自身の意思を行使することよりもむしろ、他人の意思に屈服させられないこと、引いては他人の意思を自分の意思に屈服させないことに存するのです。支配者である者は誰も自由であることはできません。支配するとは服従することなのです」(『山からの手紙』第八の手紙・・・)
[2] 公衆は人民(作田訳)、公共(桑原訳)
[3] この文章は意味が判明でない。作田訳では「その理由を逆に使って、この議決が主権者を主権者自身に対して義務づけることはできない、ということ、したがってまた、主権者が自ら破ることのできない法を自分に課するのは、政治体の本性に反する、ということである。主権者は一つの同じ関係からしか自分自身を考えることができないのだから、その状況は、自分自身と契約する個々人の場合と同じである。」となっている。
[4] 少しわかりにくいが、要するに自分で自分に都合が良いようなルールを作ることは無意味かつ弊害があるのと同じように、主権者(国家)が主権者(国家)にとって都合がよいような法を作ることは許されぬ行為であると言うことが説明されている。
[5] 主権の譲渡が不可能というのは、意思の譲渡が不可能ということ、つまり人間は自分の主人でなくなれば人間でなくなるという原理を共同体に適用している考えだと思うが
[6] 個別意思の対立を解消する原理は、その場合の解消方法(ルール)を一般意志に基づいて予め決めておくことなのだろう。しかし、この原理を有効にするには、予めの法を誰がどうやって作るかという難問が横たわっている。
[7] なんらかのルールによる投票で意思決定することが一般意志なのであり、投票の結果は個別意思となる。
[8] 市民と各人と分けて繰り返しているが、この意味は何だろうか?各人とは国民ではなく人民という意味だとしたら、そこに何かがあるのだろうか?
[9] この念押しは、当時の社会状態を背景にしたものあろうが、現代にも適用出来る
[10] ここで権利というのは、正当性とか正義みたいな意味だろう
[11] これはルソーの理論から言理解するには、個人と国家との二重の関係に基づいて考えるとよいのだろう、つまり自分は自分であると同時に国家であるのだ。
[12] ではこの他者とは何ものなのだろう?この理屈はよく分からないが
[13] ここでの公衆とは理性により行動することがで、公的な立場から考えることのできる人々のことで、それができずに欲動により行動する人々換言すると私的な立場でしか行動できない人々、大衆、と区別しているのかと思うのだが・・・?
[14] ここはルソーの希望と循環論法でほとんど説明になっていないが、気持ちは分かる。
[15] 人間の世界とは、人間の本性として、それぞれに最も相応しい社会的規範を持った人々の世界という面ではなく、自分だけのことしか考えない人間の世界を指しているのだろう
[16] 後の第三篇第二章で、政府と統治者は区別される
[17] 歴史考察から導いた考え方だろう
[18] 選挙権を持っている人は行政官ということだろう
[19] ルソーはイギリス議会の下院が、委員会決議を審議するという方法を実例に挙げている
[20] 誤魔化して権利を拡大する、治安の維持と称して人民集会を妨げる、不法行為を徴発する、沈黙を禁止しておいてその沈黙を利用したり支持であると恣意的に思い込む、など
[21] モハメッド(570年頃 - 632年6月8日)
[22] カリフの血統を重んじるシーア派とムハンマドの時代における慣行(スンナ)を重んじるスンナ派だと思う。現在では、世界的にはスンナ派が圧倒的多いが、イラン地域ではシー派が多い
[23] ここでも、主権の二重性に注意。つまり、主権を巡る国家と人民の二重の関係、人民は市民として主権者の構成員(自由)であると同時に、国民として主権者に服従する(服従)という関係。
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