2014年11月19日水曜日

『統治二論』ジョン・ロック(加藤節訳)

ホワイトクリスマス
統治二論(ジョン・ロック著。加藤節訳、岩波文庫2010

『』内の文章は本文引用。[ ]は訳者の補い。脚注は訳者解説なども含む

緒言
本書の主旨[1]と読む際の注意事項[2]
『私としては、残っているこれらの部分だけ[3]で、わが偉大な王位復興者、わが現国王ウィリアムの王座を確立し、彼が、あらゆる合法的統治の唯一の権原である人民の同意を、キリスト教世界のどの君主よりも完全かつ明確に[自らの統治の]権原としていることを証明するのに、また、正義に適った(かなった)自然の諸権利[4]へのその愛が、それらを維持しようとする決意と相俟って、隷属と滅亡との危機に瀕した祖国を救った[5]イングランド人民を世界に対して正当化するのに、先ず十分であろうと思う。』

前編 統治について
第一章 序論
<要点>
フィルマーの王権神授説[6]は、人間の「生来の自由[7]」を否定することにより成り立つもので、臣民を不幸に陥れるだけでなく、君主の資格も危うくし、聖書の記述とも異なるものだから認められない、というロックの思想の大要が語られる。

『隷属状態は、人間にとってこの上なく卑しく悲惨な状態であって、わが国民の高潔な気質と勇気とはまったく相容れないものであるから、ジェントルマン[8]はもとより、イングランド人がそれを擁護するなどということは到底考えられないことである。(第1節)
フィルマーの体系は、『すべての統治は絶対王政であること。そして、彼がそれを打ち立てる根拠は次の点にある。いかなる人間も自由には生まれついていないということ。』というものである。(2)
君主が神授権を持っているという説は、臣民を専制と抑圧という不幸に曝すだけでなく、君主の資格を危うくする。なぜなら、神授権はアダムの真正の相続人唯一人だけのものだからである[9](3)
フィルマーの説の根拠は聖書には見当たらない。更に、フィルマーの説に反対する説は新説であると非難しているが、フィルマーの説自体が現在のわが国以外のどの時代のどの国においても見当たらない新説である。(4)
フィルマーの言っていることは結局次のようなことである。『人間は自由には生まれついてはおらず、従って、支配者と統治形態とを選択する自由[10]を持ちえないこと、奴隷は契約あるいは同意への権利をもつことが出来ないから、君主はその権力を絶対的に、かつ神授権によって所有していること、アダムは絶対君主であったし、彼以降のすべての君主もそうである。』(5)

第二章 父親の権力と国王権力とについて
<要点>
フィルマーの言う「父親の権力」と「国王権力」の内容が事細かに明示され、何れも聖書の記述を自説に都合良く利用しているだけで、議論の明証性をもって証明されたものでもなく、無根拠で、益はなく弊害だけがあるものだ。

フィルマーの政治的主張は、人間は生まれながらに自由ではない、という考えを基礎に成り立つものだが、それは神をも凌駕する不遜なもの[11]で、倒壊するほかはない。『---統治は、理性[12]を行使しつつ社会へと結合する人間の創意と同意とによって作り出されるという旧来の方法[13]に再び委ねられなければならない。(6)
フィルマーの言う「父たる地位」は虚構である[14]。フィルマーは『人間というものは両親に服従する状態で生まれてくる(6)』ものであり、従って、自由ではあり得ないと述べ、これを両親の権威、あるいは王の権威、あるいは父の権威、「父であることに伴う権利」と呼び、この権利を直ちに統治権と生殺与奪権を持つ絶対権力と結びつけ、この権利を獲得する「父たる地位」という奇妙な物語を、聖書をネタに自分に都合良く[15]語るだけである。
フィルマーは、自分の用いる大事な概念はちゃんと説明すべきであるという方法論上のルールを知っていたに違いない[16]。しかし、「父たる地位」が何であるかについては何も語っていない。それは、『---ちょうど、用心深い医者が患者に苦く、腐食性のある水薬を飲ませようとする場合、それを薄めるものを大量に混入するように、---(7)』したいからだろう。
フィルマーは「父たる地位」が何であるか説明していないから、「著者」の著作から集めてきて、その考えを事細かく説明した(8)。フィルマーの言う「父のたる地位」とは以下のようなものである。
    最初は神によってアダムに賦与された、生殺与奪の支配権の権原。
    その支配権はアダムに続く家父長たちに相続され、従って君主に継承されるもの。
    神の法により定められたもの。従って、それを権原とする権力は、自分の意思以外制限を受けないから、いかなる下位の法[17]も無いもの。
更に、ボダン[18]の言葉を借りた他の著作などの引用に基づいてフィルマーの考えを抽出して羅列するとこうなる(8)
    君主が与えるすべての法律、特権、勅許は、次の世代が承認または黙認しない限り、その世代だけに通用する。
    法が国王によって立てられる理由は、国王が戦争などで忙しくてまわりの人が国王の意思を知ることが出来ない場合などにおいて、その法の中に臣民が国王の意思を読み取るためである。
    国王は必然的に法を超越しなければならない。
    完全な王国とは、国王が自らの意志に従って支配する王国のことである。
    国王権力は普遍的であり、慣習法によっても成文法によっても縮小されない。
    アダムは父であり、王であり、主人であった。その父は子供や家僕などの生殺与奪権付きの支配権を、神から与えられて持っていた。
    その支配権は他者に譲渡する権利あるいは自由を神から与えられた。
    アダムの至上権は、至高の権力を持つ他のあらゆる人間においてそうでなければならないことは、神によって定められたことである。
フィルマーの言う意味における「父たる地位」とは、「神から授与された不変の主権」であって、それは絶対的で、恣意的で、無制限で、コントロール不可能な権力を揮うものである。しかし、これは理性と論証に依っているのではないから単なる仮定である。だから、そのような考えに賛同するのは虚栄と野心に諂う(へつらう)気持ちと利害に依るのだろう。
フィルマーの批判手法自体に対する痛烈な批判。『人間の生来的な自由という誤った原理を論駁すると主張する当の論文において、その論駁をアダムの権威という単なる仮定に立って、それもその権威の証拠をまったく提示しないまま行うなどということは到底信じがたいことである---(11)
フィルマーは、「十戒」の「汝の父を敬え」という文言を、自然権としての国王権力を確証するものとして、自説に都合良く曲解している。 (11)
----私は、この書物を褒め立てた人々に次のことをお願いしたい。<中略>絶対王政の賛同者にしたのは理性と論証との力ではなく他の何らかの利害の力であると疑わせる理由を与えていないかどうか[19]、<中略>胸に手をあててとくと考えてみることがそれである。』(13)
フィルマーのアダム主権論の三つの根拠[20]。『サー・ロバートの他の論文[21]のあちこちに散見されるアダムの主権を擁護し[人間の]生来的自由を論駁する一切の議論の要約が、神によるアダムの創造、神がアダムに与えたイヴに対する支配権、アダムが父として有する子供達への支配権といった形でみられると言ってよい。(14)

第三章 創造を根拠とする主権[22]へのアダムの権限について
<要点>
神がアダムを創造したから、そこにアダムの主権の権原があり、従って「人類の生来的自由」は否定される、というフィルマーの理論は、聖書の記述からしても誤りであり、論理的にも支離滅裂である。

「創世記」と「人類の生来の自由」は矛盾しない。フィルマーは、『人類の生来的自由は、アダムの創造を否定することなしには考えられない』と述べている(15)。しかし、神の統治の根拠が創造にあるならライオンにも統治権があることになるから、フィルマー自身も統治は「神の指定」を根拠にすると言っている。そうであるならアダムの創造を否定することなしに人類の自由を想定しても、何ら差し支えがないことになる。
フィルマーが、創造が根拠になるという意味は、神の贈与が根拠になる、と言う意味であるとしか考えられない。つまりそれはこういうことである。アダムが創造された時には他に誰もいないので、その時に世界の王ではあり得ない。次ぎに、アダムは子孫の支配者になることは自然の権利によって当然のことであったので、創造されるや否や神の指定によって世界の王となった。この二つから、アダムは、創造以来、現実にはともかく、少なくとも生まれつきの資質[23]において王であった、となる。この「神の指定」とは、摂理が命じること、自然が指示すること、明確な啓示が宣告すること、の何れとも受け取れるが、先ず、摂理が命じることはあり得ない。なぜなら、もしそうなら自然の権利に基づくのであって、そうなると神の指定は不要となるからである[24]。従って、指定をアダムに対する神の贈与[25]と考えるほかはない。結局フィルマーの議論は『アダムにとって、子孫の支配者になることは自然の権利によって当然のことであったから、彼は、創造されるや否や、神の明白な認可によって世界の所有者になった』となる。だが、この論理は聖書のストーリー[26]に照らして誤りである[27](以上は大体第1617)
アダムが資質における支配者であると言うことは、支配の権限を持っていないことと同義である。アダムが父であること[28]と支配者であることはトートロジーな関係なので、アダムが支配者たるべき自然の権利の所有者であるという考えには何らの根拠もないから、支配なき支配者、子供なき父親、臣民なき王が支配者でありうるという困難に対して、フィルマーは『アダムは現実においてではなく資質において支配者であった』と答えている。しかしこれをわかりやすく言えば、アダムはまったく権原を持っていないと言うことである(18)。アダムが資質において支配者であったならば、ノアだって十分な資質[29]を持っていることになる。
この章のロックの結論。『実際のところ、私には、アダムの創造と彼の支配への権利との間にどのような必然的関係があって、人間の生来的自由がアダムの創造を否定することなしには考えられないということになるのか理解できない。』(19)
ロックがフィルマーの言説について、しつこく反論している理由が述べられている。『---支離滅裂な内容や証明を欠いた仮説が、うまい言葉ともっともらしい文体とによって巧みに表現された場合、それらは、注意深く吟味されない限り、強力な論証、立派な良識として通用してしまう傾向があることを世人に知らせておきたいということがなければ、ここでその点に触れるつもりはなかったのである。』(20)

第四章 神の贈与を根拠とする主権へのアダムの権限について---『創世記』第一章二十八節[30]
<要点>
神がアダムに世界を贈与したから、そこにアダムの主権の権原がある、というフィルマーの考えも誤りである。もともと神はアダムだけに贈与しているのではないし、もし贈与していたとしても、所有権があるから主権があるとは言えないからである。

神はアダムだけに世界を贈与したのではない。『創世記』第一章二十八節に基づいて開陳される、「アダムは神から世界を贈与されたので、その父たる地位に由来する権原により世界の王となった」というフィルマーの「アダム主権論」は誤りである。先ず、このフィルマーの記述は例によって、別のことを関係があるようかのように繋いだもので、かつ、アダムは神から世界を贈与されたということ自体、聖書の記述にも反している(2140)
その、聖書の記述に反している理由が『創世記』第一章二十八節を中心に記述される(第2339節)。結局、『創世記』第一章二十八節に書かれている言葉の意味するものは『----人間、自らの創造者の似姿であり[地球の]主要な居住者たる人間という種全体が、他の被造物への統治権を与えられたということ以外の何ものでもないのである。』ということだけである(40)
 アダムは神から世界を贈与された、換言すればアダムが神から私的所有権を与えられたとしても、そのことはアダムの主権の権原にはならない[31](41)
『しかし、われわれは、神が、一人の人間を、他の人間の思うがままに任せたり意のままに餓死させたりするようなことはなされたかったことを知っている。万人の主である神は、この世界の物の特定の部分へそうした[独占的]所有権を神の子の誰一人にも与えず、困窮する同胞にも、神の財産の剰余物に対する権利を与えたのである。』(42)
『正義が、すべての人間に、彼自身の誠実な勤労が生み出した物[32]と、彼が受け継いだ祖先の公正な取得物とに対する権原を与えるように、慈愛は、人が生存のための他の手段を持たない場合に、極度の欠乏から免れさせるだけの物を他人の剰余物に対して要求する権原をすべての人間に与える。(42)[33]
『以上すべてのことから、例え神がアダムに私的統治権を与えたのだとしても、その私的統治権がアダムに主権をもたらしうるものではなかったことは明らかであろう。もっとも、神がアダムにいかなる私的統治権も与えなかったことは、われわれが、既に十分証明したとおりである。』(43)

第五章 イヴの服従を根拠とする主権へのアダムの権原について
『創世記』の第316節において「汝は夫を慕い、彼は汝を治めん」、つまりイヴがアダムに服従すべしと記されているのは、夫に対して妻が負う服従を意味するだけであり、臣民が政治社会の統治者に負う服従を含む政治社会[34]とは別の話であるから、アダムの主権の権原にはならない(4449)

第六章 父であることを根拠とする主権へのアダムの権原について
<要点>
自然の両親には子供たちから尊崇を受ける権利を与えられているが、そのことは、両親の子供たちに対する権利が子供とたちの人格に関わる義務を権原とすることを意味するのであって、両親であるということに、とりわけ父親、即ちアダムだけに、政治的服従に関わる主権の権原があると言う考えは誤りである。

フィルマーが「父たる地位」はアダムの主権の権原であると言ならば、その判明な根拠が提示されるべきである。『なぜなら、彼は、それをもって、「生を享けた(うけた)すべての人間は自由であるどころか、誕生それ自体によって、自分を儲けてくれた父の臣民になる」という彼の意向に不可欠な見解であると規定しているからである。』(50)
ある人間の意思だけに基づく統治はすべての人間の自由と運命を台無しにするという、注意深い警告[35]がなされている。『道理の代わりに意思が絶対君主の口から出たならば力を持ちうるでもあろうが、それは、証明や議論の仕方においてははなはだ不適切であり、われわれの著者による絶対王政の擁護論にとってもほとんど利するところではないであろう。』(51)
父権の根拠についての一般的考えを調べてみれば[36]、その唯一可能な論証は「親が子供に生命と存在を与えたから」だというものだ。だが、そうだとしても子供を儲けるのは父親だけでなく両親であり、しかも親が子供に生命と存在を与えると言う考え自体があり得ない。なぜなら、一度与えたものを取り返す権利はいつもあるとは限らないし、もともと生命も存在も親が持っていて子に与えたものではなく、人間の創造主なる神[37]があたえたものだからだ(5255)。『---神が生命の作者であり授与者であること、われわれが生き、動き、在るのはただ神のなかにおいてのみであることを想起すべきであるにもかかわらず、<中略>解剖学者たちも、<中略>人体の機能において全体としてどこに生命が存するのかについて依然として無知であることを告白している[38]。』(52)
事例は主権の権原にはならず、権原になりうるのは神の意志だけである。フィルマーやその追従者のように、史実や事例に父の絶対権力の根拠を見出し、それをアダムの主権への権原とするならば、そのような考え方は、子供を食用にするという未開国の状況[39]をも規範とし、聖書の記述をも自説に都合良く曲げて[40]、人間を野獣以下[41]に貶めるということを権原とすることになり、そのようなことは、神の作品としての人間のすることではない(5659)。『(子供を売り飛ばしたり遺棄したりする事例について)神は、われわれに対して、<中略>人間の生命を奪うことを、もっとも厳しい罰、つまり死罪をもって禁じているではないか。その神が、監督と世話とをわれわれに委ね、啓示された彼の命令によってだけではなく、自然と理性との指令によってわれわれに保存を求めている子供たちを死滅させることを許すというようなことがあるのだろうか。神は、<中略>種の繁殖と存続という目的に適う行動をとらせており、子供の保存ということが、もっとも強い原理として各個体の本性の構造を内側から支配しているのである。(56)[42]
政治社会における権利~義務関係と親子関係におけるそれとは異なったもので両立し得ないものであるから、父であることを根拠とする主権へのアダムの権原などはあり得ない(6066)。『聖書全体を通じて見出されるように、<中略>われわれは、両親が子供たちから受け取る権原を持つ名誉は彼らに等しく帰属する一つの共通の権利[43]であって、<中略>と結論づけて良いであろう。』(61)。「汝の父と母を敬え」という聖書の教え[44]は、両親と子供たちの間にある「永遠の法」であって、そこには為政者の権力は一切含まれない『というのは、いかなる政治社会においてもどこかに存在する至高の存在[45]は、いかなる臣民をも同胞である他の臣民に対する政治的服従から解放することができるからである。』[46](64)。『われわれが自然の両親に負う義務は、政治的服従に関わるものではあり得ず、主権の権原も<中略>人格への義務[47]なのである。』(66)
人間が生まれながらの自由を持っているのは、本来的に平等だからである。『----人間は、生まれながらの自由を持つことになろう。なぜならば、万物の主にして永遠に祝福されるべき神の明白な指定によって誰か特定の人物の至上性が示されるか、または、人間自身の同意が上位者に自らを従属させるかするまでは、同じ共通の本性、能力、力を有する者は、すべて本来的に平等[48]であり、共通の権利と特権とにともに与るべきであるからである。』(67)
『こうして、すべての権力、統治を随伴するこの新奇な無、<中略>この父たる地位は、<中略>世界におけるすべての合法的な統治を不安定にし、破壊し、その代わりに、無秩序、暴政、簒奪をもちこむ以外には何の役にも立たないであろう。』(72)

第七章 ともに主権の源泉と見なされている父たる地位と所有権とについて
フィルマーが、君主の権力の権原として「父たる地位」と「所有権」の二つを挙げ、それゆえ、「人間の生来的自由」という学説を否定するためにアダムの「自然の支配権」と「私的な支配権」を擁護することを考え出したのであるが、この二つの考え方は両立しない。従って君主の絶対権力の権原は存在しない(片方だけであればそのような主権はもともと絶対権力ではない)。なぜならば、簡単に言えば相続によって権力が分割されるからである。例え「所有権」が長子相続などで分割を免れたとしても、「自然支配権」の根拠が「父たる地位」であるならば、相続される権利は分割される他はないからである。(7376)

第八章 アダムの主権的な君主権力の譲渡について
フィルマーは結局、君主の権力を手に入れる方法が、相続、認可、簒奪、選挙、などのどれであっても、それはどうでも良いことで、真の王にするために必要なものは至高の権力だけである、と言っている。もしそうであるなら、継承や相続などについてあれほど多くを語る必要も無いだろうに。
だが、本書の企図は彼の原理を吟味することにあるから、何故、相続、認可、簒奪あるいは選挙が統治を創出することが出来、何故、誰であれアダムの王的権威から君主の支配の権力を引き出すことができるのか、もう少し詳しく考えてみたい。(7880)

第九章 アダムからの相続を根拠とする君主制について
<要点>
統治というものは、その権力が帰属する人とその人を見出す方法がない限り現実に行うことは出来ない。
フィルマーの言うように、君主の絶対的な権力がアダムの絶対王政を根拠として可能であるためには、アダムの主権なるものが継承者に全面的かつ正しい方法で譲渡されなければならない。しかし、(既に証明したようにアダムは君主でもないことに加えて)アダムの想像上の君主制なるものは譲渡され得ないものであり、もし譲渡されうるとしてもその譲渡方法の正当性が証明できるまではだれも君主とは言えない。従ってフィルマーの説に従えば現実の統治は不可能なものとなる。

統治の実践について。『人は、命令できる存在がなければいかなるものにも服従できず、また、空想の中の統治の観念は、以下に完全で正しいものであっても、法を与えることも人間の行動を規定することも出来ない---』(第81節)。『つまり、人は、自分に対して権力を行使する権利を持った人物が誰であるかを得心しない限り、良心に顧みてその権力に服従する義務を負うことはできないのである』[49](第81節)。
所有権について。『私(ロック)は、---人間は、神の意志と認可とによって、被造物を使用する権利を持っていたことを疑わない。なぜならば、欲求、つまり生命と存在との保存への強い欲求は神自身が行為の原理として人間に植え付けたもの[50]であり、従って、人間のうちにおける神の声である理性は、人間に対して自己の保存をすべきとする自然の傾向を追求することは創造主の意志にしたがうことであること、それゆえ、彼は理性あるいは感覚によって自己保存に役立つと判断した被造物を利用する権利を持っていることを教え、確信させずには措かない(おかない)からである。被造物に対する人間の所有権は、彼の存在にとって必要な、あるいは有用なものを利用する権利に基づくものであった。』(86)
相続について。『それ(=自己保存への欲求)に次いで、神は、人間のうちに、自らの種を繁殖させ、子孫において自らを存続させようとする強い欲求を植え付けたのであり、これが、子供たちに対して、両親の所有権の分配を受ける権原と、彼らの所有物を相続する権利とを与えたのである。』(88)
統治の目的[51]。『しかし、統治は、人を他人の暴力と侵害とから保護することによって、人の権利と所有権とを保全するためのものであるから、被治者の利益のためにある。』(92)
統治と所有は目的が異なる[52]から、統治が所有権の相続と同じ権原によって相続されることはあり得ない(93)
継承権の権限を持つ者だけが継承者となれることは確かだが、相続を権原とした統治の継承権は不可能であり、神の啓示を権原とするならその明確な認可を待たねばならない(第9499節)。
『現在この世界に存在する権力はアダムの権力だったものではない。<中略>つぎにわれわれの著者が語るように、アダムはその権力を相続する継承者を果たして持っていたのかどうかについて考察することにしよう。』(103)

第十章 アダムの君主権力の継承者について
フィルマーの説に従って考えると、アダムの主権が継承される権利というものは、その権原を継承自体[53]に求める必要があるのなら成り立たない。従って、君主権力は、アダムの主権が継承されたものであると考えることはできない[54]
つまり、それはこういうことである。アダムの継承者ではないのに君主である場合は、その権原は意味をなさず、アダムの継承者しか王への主権を持たないとすれば、われわれはその継承者が決まるまでは自由である。
継承者が一人である場合[55]にはそれが誰であるか証明され決定されるまでは、誰も良心に従って服従するという義務を負わない。継承者が複数である場合にはすべての人が継承者[56]だから君主の権力は継承者の権利ではない。

第十一章 継承者は誰か
フィルマー批判のダメ押し。前編最後のこの章は一番長いが、その大部分は、より具体的で細部にわたるフィルマー批判、つまりロックの『われわれの著者がやってきたことは、<中略>アダムから承継された父親の権威に基礎を置く君主制的統治の証拠や実例を聖書から取り出すことであった。<中略>しかし、彼は、家父長たちが王であったことも、王あるいは家父長たちがアダムの継承者であったことも、否、彼らが後継者であることを主張したことさえも何一つ証明していないのである。』(153)、という考えの裏付けをする内容となる。
議会派擁護。王党派ではなく議会派君主擁立の理屈付け。フィルマーの王権神授説は王党派を擁護しているから、この説を批判する記述の中に議会派に有利な理屈が述べられている(第123節など)。
ロック自身の考え。これまでの章以上にこの最終章の中では、フィルマー批判以外に統治に対するロック自身の考えが挿入されているので、そのいくつかの文例を列挙した。
『いつの時代においても人類を悩まし、都市を崩壊させ、国々の人口を減らし、世界の平和を攪乱してきた一つの大きな問題がある。それは、世界には権力が存在するとか、それはどこから来るかとかいうことではなく、誰がその権力を持つのかという問題に他ならない。』(106)
『アダムの継承者が誰であるかについては如何ともし難く無知な現代の状態においては、後継者に伝えられるアダムのこの父たる地位、アダムのこの君主権力ということは、人類の統治にとって何の役にも立たない。』(125)
『というのは、そうした無数の難問[57]に対して十分に備えることが出来るのは、神の定め(そういうものがあると仮定してだが)という断定が締め出してしまった実定的な法[58]と契約とによってであるからである。』(126)
『生殺に関わる法を作る権力は間違いなく主権[59]の徴証であるが、---(129)
『奴隷の場合であれ、馬の場合であれ、主人が持つ権力の権原は彼がそれを金銭で買ったということのみに由来するからである[60]。』

後編 政治的統治について
第一章 序論
統治というものは、フィルマーの王権神授説に基づいては行い得ないことが前編で明らかになったが、そうかといって、ただそれが実力と暴力との所産ではないと考えるなら、政治の発生、政治権力の起源、政治権力の所有者の決め方について新しい発見をしなければならないであろう。
政治権力とは、固有権[61]の調整と維持のために、死刑を含む刑罰を伴う法を作る権利[62]であり、その法を(国内において)執行し、外国の侵略に対して防衛する共同体の力を行使する権利であって、しかも、すべて公共善のためだけを目的とするものである。

第二章 自然状態について
<要点>
すべての人間は、自分自身の同意によってある政治社会の成員になるまでは自然状態のうちにあり、またそこに留まっている

政治権力の起源は、人間の自然状態から考察されねばならない。その自然状態とは、自然法[63]の範囲内での完全に自由な状態であり、それはまた平等な状態である[64]
自然法たる理性[65]は、何人も他人の生命、健康、自由、あるいは所有物を侵害すべきではない、ことを教えるのである。
自然状態では、各人は平等であるから、各人は各人に対する権力を持ち、自然法の執行は各人の手に委ねられている[66]。但し、その権力とは、絶対的で恣意的なものではなく、賠償及び抑止に見合う程度だけのものである。
権利侵害[67]によって損害が生じたときには、抑止目的として加害者を処罰する権利に加えて、被害者は賠償を受け取る権利を持つ。従って、処罰権を手にした為政者は、公共の善が法の施行を求めないならばそれを免除することは可能だが、私人に対する賠償権は免除できない。
賠償権は被害者の自己保存の権利に基づいた加害者への権利であるが、それはすべての人間が、全人類を保全する権利に基づいた損害抑止目的の処罰権をもつことであり、このことは、自然状態においてはすべての人間が殺人者を殺す権力を持つことを意味する。
自然状態の終了は、一つの政治体を作ることに同意し合う契約のみによって可能となるのであるから、世界の統治体の支配者は自然状態にあることになる。だが、同盟や契約が彼らを拘束しているのは、信義を守ることが人間としての人間に属するものであって、社会の一員としての人間に属するものではないからである[68]
『すべての人間は、自分自身の同意によってある政治社会の成員になるまでは自然状態のうちにあり、またそこに留まっていると断言したい。この論稿の以下の部分で、その点を間違いなく明らかにすることができるであろう。』

第三章 戦争状態について
<要点>
戦争状態を回避すること、これが、人々が社会の中に身を置き、自然状態を離れる、ひとつの大きな理由に他ならない

意図を持って他人の生命を狙うことを言葉や行動で宣言することによって生じる、敵意と破壊の状態を戦争状態という。戦争状態においては、自分に破壊の脅威を与える者を滅ぼす権利を持つことは正当である[69]
他人を自分の絶対的権力の下に置こうすれば、その相手と戦争状態になる。なぜなら、絶対権力は自由を奪うものであり、理性は自由を奪う者を敵と見なすように命じるからである。自由を奪おうと欲する者は、その他の一切のものを奪おうとする意図を持つ者と見なさなければならない。
自然状態と戦争状態とは異なっている[70]。前者は、『人々が理性に従って共に生活しながら、しかも、彼らの間を裁く権威を備えた共通の上位者を地上に持たない場合』で、後者は『実力行使それ自体や、他人の身体に対する実力行使の公然たる企図が存在しながら、それからの救済を訴えるべき共通の上位者が地上にいない場合』である。さし迫った暴力にたいする救済を訴える場がない場合も戦争状態であると言える。
戦争状態は、公平な裁定に双方が従うことによって終わる。なぜなら損害の救済と将来の損害の予防の途が開かれるから[71]。だが、実定法がなく訴えの途がない場合には、罪のない側に相手を殺す権利が保持される戦争状態が継続し、攻撃側が、罪のないものの安全を保証する条件で和解する以外にはそれを終わらせる術はない[72]。実定法がある場合でも、その運用が歪められて権利侵害が起これば戦争状態となり、最終的な救済の途は、ただ天に訴えることしかなくなる[73]
『この戦争状態を回避すること、これが、人々が社会の中に身を置き、自然状態を離れる、ひとつの大きな理由に他ならない。というのは、地上の権威[74]、地上の権力が存在し、それに訴えることによって救済がもたらされうる場合には、戦争状態の持続[をもたらす原因]は排除され、争いはその権力によって裁定されるからである。』

第四章 隷属状態について
<要点>
政治社会の構成員は隷属状態ではありえない。隷属状態とは、合法的戦争の捕虜だけにありうるものである。

人間の生来的な自由とは、ただ自然法だけに規制されるということである。社会における人間の自由とは、同意によって政治共同体のなかに設立された立法権力に規制されるということである。統治下における人間の自由とは、そこに設立された立法権力により制定された規則に従って生きることであり、規則が定めてないものについては、他人の恣意的な意思には従属せずに自然法に従うということである。
人間は自分自身に対する権力を持っていないから、自分を他人に隷属させることはできないし[75]、絶対的で恣意的な権力に身を委ねることもできない[76]。(もし、絶対的で恣意的な権力に隷属するとなれば、神の意志に反することになるから。人間は隷属することはできない=自由である)
過失や死に値する行為によって、(それによって損害を被った相手に対して)自分の生命を放棄した者が、その相手に隷属することは、権利侵害を受けることにはならない。『なぜならば、その者は、隷属状態の過酷さが自分の生命の価値を凌ぐと考えた場合には、主[77]の意思に抵抗して、自らが望む死を自らに引き受けることができるからである。』[78]
『これは、完全な隷属状態であって、合法的な征服者と捕虜との間に続いている戦争状態以外の何ものでもない。というのは、もし両者の間に契約が入りこみ、一方の側が制限された権力を持ち、他方の側が服従するという同意がなされれば、その契約が続く限り、戦争状態と隷属状態とは終わるからである。』

第五章 所有権[79]について
<要点>
固有権の要素としての所有権は、人間の労働によって付加される権利である。所有権は、自然法により限界づけられるが、貨幣の発明により拡大し、私的所有権は実定法により可能となった。

神が世界を人類共有のものとして与えたことはこの上もなく明らかである[80]が、この章では、私的な所有権が全所有者の明示的な契約もなしに生じる根拠を示してみたい。
自然状態において生み出されるものは人類の共有物だから、それらに対して排他的な支配権は発生しない。しかし、それらは人間が利用するためのものであり、利用するということは個別的な必要があることだから、必要な人にとっての排他的な権利として、専有する権利がなければならない。
この専有する権利は、固有権に由来する。人は生きるため[81]に自然に働きかけるが、その時に用いる労働(labour)や手の働き(work)は彼自身のものであるから、労働は労働した人間の疑い得ない所有物であり、労働によって自然から取り出されたものには他の共有者を排除する何かが賦与されたことになる。それが(私的な)所有権である。
所有権を与える自然法は同時に所有権に制限を課す。所有権は享受する程度にまでしか与えられていないからである[82]
同様な理由によって、ものだけではなく土地に対する所有権も、人が耕し、植え、改良し、開墾し、その収穫物が利用しうるだけに限り獲得される。
『神が世界を与えたのは、あくまで勤勉で理性的な人間の利用に供するためであり、断じて、喧嘩好きで争いを好む人間の気まぐれや貪欲さのためではなかった[83]。』土地は沢山あるのに働かずに不平を言ったり他人の土地に干渉したりすることは、神から与えられた権限の行使を欲せず、他人が労働により得た利益を権利無く欲していることになる。
イングランドなどにおいて、貨幣経済が発達している商業都市では共有の土地の一部を専有することができない。それは、その国の法によって決められているかである。ある州や教区の共有地は、囲い込み後に残った土地の利用にも(未開地のように自由ではなく)制限がある。それは、かっては自然法が専有を勧めたからである。『神は人間に労働を命じ、人間も窮乏ゆえ労働を強いられた。<中略>こうして、労働と労働の対象とを必要とする人間生活の条件が、必然的に私有財産をもたらすことになるのである。』
貨幣の発明がなければ、各人は自分が利用しうるだけのものを持つべきであるという、所有権に関する同一の規則は、今でも世界に通用していたであろう。貨幣の発明が所有権の拡大をどのようにもたらしたかについて、以下に示していく。
先ず、次のことは確かである。自分が必要とする以上のものを持ちたいという人間の欲望が、人間生活にとっての有用性だけに基づいた価値観を変えた。腐敗せず消耗しない金属片(つまり保存や流通などが可能となる) である貨幣が食糧などの実用物と同価値を持つという人々の合意ができる以前の最初の頃においても、労働による土地の専有は人間の共有財産を増加させたが、自分の便宜に役立ち得た以上のものに対しては、所有権はなかった[84]
土地の所有についても同じ尺度が支配していた[85]から、一般に、土地の固定的な所有権はなく、都市建設が始まったくらいから、領土の限界が定められ同一社会内における所有権が定められ始めた。
労働に基づく所有権は土地の共有に優越する。それは耕作物の価値が土地の価値を生み出すからである。このことは、肥沃で広大な土地に住むアメリカ原住民がイングランドの日雇い労働者より貧しいのを見ればもっとはっきりと分かる。
日常用品の生産から消費に至までの経路を観察すれば、価値の大部分が労働に負っており、土地の価値の占める割合はほんの少しであることが分かる。だから、領土の大きさより人口の多さの方が望ましいことが分かる。(その他、もののなかにおいて労働の価値が多くを占めることについて、いろいろな例が挙げられて、労働の所有者である人間には、生来の所有権が備わっているということが説明される。)
その後、人口と家畜の増加及び貨幣の使用が相俟って、土地が不足しその価値が高まり、共同体のあいだで領土の境界が定められ、共同体内で法による私的所有権規制が行われ、その結果、労働と勤労から始まった所有権が、契約と同意とによって確定されることになった[86]。貨幣の使用に同意していない人々が住む土地は、それゆえ未だ荒れ地として残されている。云々。
『金や銀は、食物や衣服や乗り物に比べて人間の生活にとっては殆ど役に立たず、その価値を、たとえそれを決める尺度の大部分はやはり労働に求められるにせよ、人々の同意に負うものであるから、人々が土地の不均衡で不平等な所有に合意したことは明らかであろう。』
『こうして、私が思うに、いかにして労働が自然の共有物のうちに所有への権原を最初に開始することができたのか、そして、われわれの使用による消費ということがその所有をいかに限界づけていたかを困難無く容易に了解できるだろう。<中略>自分がたくさん取りすぎたり、自分が必要とする以上に取ったりすることは、不誠実であるだけではなく、無益[87]でもあったからである。
結局ここまででロックが言いたかったことは、所有権の根拠は労働にあり、所有権の限界は権利の限界[88]にあるが、貨幣の発明[89]は、人間の必要を超えて労働意欲を高めるから所有権が拡大したこと、更には自然法に抵触しない限りにおいて所有に関する格差が生じることに人々が合意したこと、それらのことは私的所有権に対する実定法によって可能となったこと、であろう。

第六章 父親の権力について
<要点>
両親は子供達に対して支配権を持つが、それは子供達の固有権を子供達自身で守ることが出来ないことを補うためであるから、君主の支配権とは全く異なる者である。

父親の権利と言う言葉には誤謬が含まれており、本来は両親の権力と言うべきである[90]
すべての人間は生来的に平等である。しかし、この平等とは、あらゆる種類の平等[91]を指しているのでは無い。平等とは、すべての人間が、他人の意思や権威に従属することなく、自分自身の生来的な自由に対して持つ、平等な権利のことである。
両親は子供に対して、大人になって自由に振る舞うことが出来るようになるまでは支配権を持つ。それは両親が自然法によって、子供達を保全し、養育し、教育する義務を負っている[92]からである。
子供は法[93]に従うことができないのでまだ自由に振る舞うことができないが、その法や自由とは次のようなものである。『法とは自由で知性[94]的な行為主体の適切な利益を制限するものであるよりは、むしろそれへと彼らを導くものであり、<中略>誤解を恐れずに言えば、法の目的は、自由を廃止したり制限した入りすることではなく、自由を保全し拡大することにある。なぜならば、法に服することができる被造物のあらゆる状態において、法のないところに自由もないからである。』
子供が自由になるということは、自然法であれ実定法であれ法の下でのことであるが、何がその法の下で彼を自由にしたのであろうか。それはその法を彼が知ることができるという状態である。
この後に、前編で説明されたロックの考えの繰り返しが縷々述べられる。それをまとめると次のようになる。父親の支配権は子供に代わって子供の固有権を守るものであって、その固有権を侵害できるものではなく、従って為政者の権力とは異質なものである。子供が成熟しても神と自然との法に従って、両親を尊敬せよという永遠の義務は果たされねばならない[95]。しかし、それらのことは君主に対する絶対的な服従と従属を求めることとは全然別のことである。

第七章 政治社会について
<要点>
政治社会は、それ自体のうちに固有権を保全して、その構成員全員が持っていた生来的な自然の権力を放棄することで成立する。

創世記などの自然状態から婚姻、親子関係までの部分は、ロックの神学に基づいた説明がなされるが、殆ど前編に述べられているので省略する。そこでのポイントは次のようなものである。家族は、自然法に基づいた一つの統治体ではあるが、その構成員は一人前の人間としての自由や平等は持っておらず、その統治者は家族の構成員が生来持っている固有権を侵害することはできないから、政治社会とは異質のものである。
主と家僕は古くからあるもので、家僕は契約の範囲内においてに主に一時的な権力が与えられている家族の一員である。奴隷は、正当な戦争における捕虜として生じたもので、固有権を持つことができないから政治社会の構成員にはなれない。
政治社会は、それ自体のうちに固有権を保全して、その構成員全員が持っていた生来的な自然の権力を放棄することで成立する。政治社会においては、私的な裁きは排除され、法の定めによって裁かれる。人は自然状態に属するのか、それとも政治社会に属するのか、に区別することができる。政治的共同体は、成員の固有権を守るために立法権力及び戦争と平和の権力を持ち、その権力を行使する執行権力を持つ。
絶対王政は政治社会とは言えず、絶対君主とその統治下にある人々の関係は自然状態のうちにある。なぜならば、絶対王政における君主の権力は恣意的な生殺与奪権であって臣民の固有権保全のためのものではないからである。
絶対的な権力が人間の血を浄化したり、卑しい本性を矯正したりはしないことは、歴史や地誌を学べば明らかである。
絶対王政の下でも法や裁判に訴えて争いを採決し、暴力を抑制してもらう途が全くないとは言えないかもしれない。しかし、人間というものは、人類社会に対する愛も権力や利益や偉大さに対する愛も両方持っているから、一人だけ自然状態の自由を保持しているような絶対的な支配者の暴力と抑圧に対抗することはできない。それができるという考えは『人間というものを、スカンクやキツネからの危害を避けることには注意するが、ライオンに喰われることには満足するほど、否それを安全だと思うほど愚かな存在であると考えることである。』[96]
歴史を見れば、政治社会の安全と保証は、最初は自然と卓越した人間に委ねられたとしても、時が経てば継承者がそうとは限らず、次第に人々は、元老院にせよ議会にせよ、立法部が固有権保全の要であることに気付いていった。『政治社会においては、いかなる人もその法を免れることはできない。』

第八章 政治社会の起源について
<要点>
政治社会の始まりの頃の統治は、共同体内の多数派の信託を受けた支配者の権力により開始されたが、次第に支配者の恣意的な権力に変わっていったので、それをコントロールする工夫がなされてきた。

一つの政治体では多数派が決定し、それ以外の人を拘束する権利を持つ。そうでなければ共同体を作ることに同意した原本契約は意味をなさなくなり、共同体は一体となって行動できず、共同体自体存続できなくなるからである。
『政治社会を開始し、実際にそれを構成するものは、それがいかなる人数であれ、多数決に服することのできる[97]自由人が社会へと結合し一体化しようとする合意することにしか求められない。これが、そして、これだけが、世界におけるすべての合法的な統治を誕生させ、また誕生させることのできたものなのである。』
これに対して二つの反論があるだろう。一つは、そのようなことは歴史には無かったというもの。もう一つは、人々は統治下にあるのだから自由に新しい統治を始めることができないものである、というものである。
歴史の問題については、次のように答えよう。『自然状態において一緒に生活していた人々について歴史がわずかな説明しか与えてくれないのは少しも不思議ではないということである。』
統治は記録に先立つもので、文字は政治社会が長く続いた後にできるものだから、その時に創始者の歴史や自分たちの起源を探究し始めても人々の記憶は既に失われている。だから政治体の起源についての考察は偶然的な記録に負うところが大きく、聖書以外には、以下に示すような実例と痕跡の記録である。
以下、ギリシャやローマやヴェニスに関する当時の史実や、16cにペルーに派遣されたスペインの宣教師の記録に基づいたアメリカ原住民の記録などから、ロックは以下の結論を引き出す[98]
『歴史の実例も、平和裡[99]に誕生した世界の統治体は、その起源をこの[人間の生来的自由という]基礎の上に置いており、人々の同意によって作られたことを示しているのである。(104)
更にロックは、世界の植民状況や諸民族の歴史から、統治の始めは一人の人間によることを見出すが、このことが、人々に、統治とは本来的に君主制的なものであり、父親に属するものであったと誤解させたので、人々がそうした統治形態を選んだのはなぜかということに関して、以下のように考察している。
    一人の人間の手に権力を与えたのは父親の持つ優越性であったが、その形態を存続させた理由は父親の権威への尊敬や敬意ではなかった。なぜなら、小君主政体のすべては成立ほどなくして選挙制になったから。
    幼年期における父親の統治が、一人の人間の支配に慣れさせて、情愛と愛とを持ってその支配が行われれば政治的幸福が得られることを教えたから、単純でわかりやすい[100]君主体制の形態を選び取ったのは自然であった。
    当時の人々の生活様式は等しく単純で貧しく、欲望はささやかな所有権の狭い範囲であったから、紛争があまり生ぜず、立法の必要性が少なかった。
    外敵の侵犯に対する防御が最重要だったので、絶対的な命令権が優先的に必要だった。
    ③と④を立証する見本が、今日の、アメリカインディアンの王[101]たちと、アジアやヨーロッパにおける将軍[102]との類似性である。
    イスラエルの歴史も①~④と同じである。このことは聖書の記述において説明ができる。
『これらの何れの事情で最初に一人の人間の手に支配権が置かれたにせよ、確かなことは、公共善および公共の安全以外のものを目的として支配権を信託された者はなかったということ、また、政治的共同体の創始期に支配権を手にした者は、そうした目的のためにそれを用いるのが普通であったということである。彼らがそうしなければ、若い社会は存続し得なかったに相違ない。(110節)』
しかし、君主が公共善や公共の安全ではなく自分の野心や奢侈を目的として権力を揮うようになったので、人々は、統治の起源を再考し、諸権利を検討してその悪用を阻止する方法を考えるようになった。
もう一つの反論は『すべての人間は、何らかの統治の下に生まれるのだから、いかなる人間も自由ではありえず、また、自由に結合して新たな合法的な統治体を始めたり、それを樹立したりすることができるなどということは決してあり得ないこと。』というものである。
これに対してロックは、多くの合法的な君主制が現存するので、この論法自体が誤りであることを論破する。更に史実にも反していることなどを挙げて徹底的に論破するが、その詳細は省略する。
統治の起源に関連して、何が、人を統治体の法に服従させる同意の十分な宣言と理解したら良いかということについて述べられる。
子供であるがゆえに親の統治体に自動的に属するのではなく、大人になってからの自らの同意が必要である。なぜなら、相続という自然権は放棄して共同体に渡しているからである。
相続をすれば直ちに統治体の臣民となる[103]。なぜなら、相続とは親と同じく享受することだから、同じ臣民でなければならないからである。
同意が明示的であるなら明確であるが、黙示的同意の場合の判断基準は、統治体の領土の所有にある。その所有とは永代的な土地の所有から領土内に存在すること自体にまで及ぶ[104]
黙示的同意による統治体への服従義務は、土地の享有と共に始まり、享有の終わりと共に終わるのであるが、明示的な同意により統治体の成員である者は、そうではない。

第九章 政治社会と統治の目的について
<要点>
政治社会において統治のために信託された諸権力は、すべて国民の平和、安全、公共善以外のいかなる目的にも向けられてはならない

人間が自然権を放棄して政治社会の統制に服することに同意する理由は、自然状態においては絶えず他者による権利侵害に曝されているために、自然権の享受が不確実であるのに比べて、政治的共同体に参加すれば固有権の保全がより確実となるからである。
自然状態に欠けているものは、公知の法[105]、衆知の公平な裁判官[106]、判決を正当に執行する権力[107]、である。
人が自然状態において持っていた平等と自由と執行権力を放棄して社会に委ねようとするのは、固有権のよりよい保持のためだが、委ねることができると思うのは、社会の権力、言い換えれば立法部の権力が、共通善を超えたところまで及ぶとは考えられないからである[108]
いかなる政治的共同体の場合であれ、立法権力、即ち最高権力を掌握する者は、恒常的な法に基づき公平な裁判によって統治すべきであり、国内においては法を執行するためだけに、対外的には外国からの防衛のために、共同体の力を用いなければならない。
『これらすべては、国民の平和、安全、公共善以外のいかなる目的にも向けられてはならないのである。(131)

第十章 政治的共同体の諸形態について
<要点>
統治の形態は最高権力である立法権力がどこに置かれるかによって決まり、法を作る権力の所在に応じて政治的共同体の形態も決まる

人々が自然状態から社会へと結合する最初の頃は、多数派が共同体の全権力を握るから、彼らが法を作り、法を執行する行政官を任命する。その場合は完全な民主制である。法を作る権力を少数の選ばれた人々とその後継者に委ねることもできて、その場合は寡頭制である。あるいはその権力を一人の人間に委ねることもできが、これが君主制であり、その権力が世襲なら世襲君主制であり、世代交代時には多数派に戻るなら選挙君主制である。
共同体は、これらの形態の適応期間を区切るなどして複合的な統治形態を作ることができる。『なぜならば、統治の形態[109]は最高権力である立法権力がどこに置かれるかによって決まるのであり、また、下位の権力が上位の権力を規定したり、最高権力以外の権力が法を作ったりするなどということは考えられないから、法を作る権力の所在に応じて政治的共同体の形態[110]も決まるのである。』
ここで、政治的共同体[111]と言う言葉は、統治の形態のことではなく、独立の共同体のことであって、commonwealthと言う言葉が適切であり、cityとかcommunityではない。communitycommonwealthに含まれることもあり、citycommonwealthとは別の概念である[112]。『このコモンウェルスという言葉を、かって国王ジェイムス1世が用い、私自身もそれが真正の語義だと考える意味で使うことをどうかお許しいただきたいと思う。』[113]

第十一章 立法権力の範囲について
<要点>
立法権力は神聖かつ不動の権力であり、恣意的でなく、正義の執行が義務づけられ、同意なく所有物を奪うことはできず、他に移譲できない。

人々が政治社会に参加する目的は固有権の保全であり、その主要な手段は制定法であるから、立法権力は政治的共同体の最高権力である。
立法権力は最高権力であるばかりではなく、共同体がそれを委ねた人々の手中にある神聖かつ不変の権力である。
立法権力が共同体により委ねられた人以外[114]からのどのような命令も、公衆[115]が選出し任命した立法部からの是認がない限り、法としての効力も義務も持たない。なぜならば、この是認が社会の同意であるからである。
立法権力は第一に、絶対的で恣意的なものではなく、その範囲は最大でも公共善の範囲である。『国民の生命と財産とに対して絶対的で恣意的なものではなく、また決してそうしたものではありえない。』。なぜなら、各人が政治社会の立法権力に委ねたものは、それら(自然法が与えた権力)の保全であり、委ねられたもの以上には譲ることはできず、政治社会である限り(自然状態ではないのだから)恣意的ではありえないから。『立法部の権力は、その範囲をどんなに大きく見ても、社会の公共善に限定される。』
135節に、ロックの自然法について書かれているので以下にまとめた。自然法は万人に対して永遠の規範として存続するもの。自然法とは、神の意志の宣言に他ならない。基本的な自然法は人類の保全ということにある[116]
立法権力は第二に、正義の執行を義務づけられる。『公布された恒常的な法と、権威を授与された公知の裁判官とによって、正義を執行し、臣民の諸権利を決定するよう義務づけられている。』。『絶対的で恣意的な権力、あるいは確立された恒常的な法を欠く統治は、いずれも、社会及び統治の目的とは両立し得ない。』。(確立された恒常的な法に基づかない権力の行使は、共同体の信託も失われて恣意的なものとなるから。共同体の力が強力なほど自然状態よりも悪い状態になる、とも説明される)
立法権力は第三に、同意なく所有物を奪えない。『いかなる人間からも、その人間自身の同意なしに所有物の一部なりとも奪うことはできない。』(所有権を含む固有権の保全が立法権の目的だから)。立法権力に所有物を奪われるという心配は、立法権力が交替制の場合にはあまりいらない。なぜなら、その権力を保持していた人も交替してコモン・ローに服する臣民[117]となるから。絶対的であることによって恣意的であるわけではないことは、軍事規律の通例を見ればわかるであろう。生殺与奪の権限を持つ将軍が、命令に従わぬ兵士を絞首刑にすることができたとしても、その兵士の財産の一片でさえ奪うことはできない[118]。統治のための賦課金の徴収も、多数者の同意がなければならない。
立法権力は第四に、他に移譲できない。『他のいかなる者の手に対しても、立法部は法を作る権力を移譲することはできない。』(その権力は国民から委ねられているのだから自分が持っているものではない、持っていないものは譲れないから)

第十二章 政治的共同体の立法権力、執行権力及び連合権力について
<要点>
立法権力と執行権力は区別され、それとは別に連合権力が存在する。執行権力は連合権力とは異なるが不可分である。

立法権力と執行権力は分離されることになる。立法権力は政治的共同体の力が用いられるべき方向を定めるものであるから、立法部は常設する必要な無く、法の執行権力は常設の必要がある。また、この二つの権力が同一の人々に委ねられると、彼らの私的利益に合致させ、社会と統治の目的に反する法の制定や執行がなされるからである。
どの政治共同体にも自然権に含まれていたもう一つの権力がある。共同体全体はその外にあるすべての国家[119]や人間とは自然状態の関係にある一集団であるからである。それは、戦争と平和、盟約と同盟、その他すべての交渉する権力であって、連合権力[120]と呼んでもいいだろう。
『執行権力と連合権力との二つの権力は実際には異なったものであって、一方は、社会のすべての部分に対して、社会の国内法を社会の内部で執行することを含み、他方は、恩恵あるいは損害を受けるかもしれない相手との関係で、公衆の安全と利益とを対外的に処理することを含むものであるが、しかし、両者はほとんどの場合、常に結びついている。』
連合権力は執行権力ほど実体的な法による規制を受けるものではなく、むしろ公共の善のために使用されるべく、思慮[121]と叡智[122]とに委ねられねばならない。なぜなら、対外的に処理することは、外国人の行動や意図や利害の変化に大きく左右されるからである。

第十三章 政治的共同体の諸権力の従属関係について
<要点>
立法権力が至高の権力であるが、国民にはそれを変更させる最高権力が残されている。

立法権力が至高の権力であるが、国民にはそれを変更させる最高権力が残されている。『自らの基礎の上に立ち、それ自身の本性にしたがって、つまり共同体の保全のために行動する、設立された政治共同体においては、ただ一つの至高の権力しかありえない、それが立法権力であって、他の権力はすべてそれに従属し、また従属しなければならない。しかし、立法権力は、特定の目的のために行動する単なる信託権力にすぎないから、国民の手には、立法権力が与えられた信託に反して行動していると彼らが考える場合には、それを移転させたり変更したりする最高権力が残されている。』[123]
政治的共同体において君主[124]がいる場合には、その君主は最高執行権力者ではあっても法に従わなければならず、自身が参与する立法部に優越する立法部を持つことはできない。だが君主はそれらの条件の下に置いて恭順や忠誠を求める権利を持つことができ、自分が適当と考える以上には従属せず、従属の程度もごくわずかとなる。『彼は、法のうちに表明された社会の意思によって動かされる政治共同体の表象[125]、化身[126]あるいは代表[127]と考えられなければならない。』。
立法部の常設は必要無いが、その構成員が集合して法律を作る権利を行使する、その召集する時期については最初の基本法か散会時の定めによる。召集方法が定められていない場合は立法部の随意とされる。
立法部の構成員あるいはその一部が国民から選ばれた代表からなる場合(選挙)、その執行法や時期について決めることができなければならない(内容省略)。
執行権力が実力を持って立法部の集合と議決を妨げた場合には、執行権力は人民[128]と戦争状態に入ることであるから、人民は執行権力への服従義務からが解放され、新たな立法部を創る権利をもつ。『人民は立法部が彼らの権力を行使しうる元の地位に戻す権利を持つと言いたい』。
立法部の召集や解散の権力が執行部のうちにあった場合にも、立法部優位は動かない。立法部が恒常的かつ頻繁に集合することは人民にとって過大負担であり、公的業務は多彩で専門的で迅速を要するから、職務の思慮に信託を置く以外に方法はない。
時が経つにつれて、選挙による代表が不平等になった場合[129]でも、最高権力である立法部自体が自らの構成を是正できないと考えがちだがそうではない。『正当かつ恒久的な基準に鑑みて、社会と国民一般にとって利益になると認めざるを得ないものは、何事であれ、ひとたび実行されれば、常に自ずから正当化されるであろう。』

第十四章 大権について
<要点>
大権は、公共の善のために思慮に基づいて行動する限りのもので、そうでないときには人民には天に訴える以外の途はない。

法の規定によらずに、ときにはそれに反してでも、公共の善のために思慮に基づいて行動する権力を大権[130]と呼び、それは認められると述べられる。その根拠は、法にとっての不測の事態は起こりうるから。
イングランドにおける大権の歴史の考察などを挟んで、大権の問題について次のように述べられる。
『どのような場合にその権力が正しく用いられたと言えるのかを裁決する者は誰かという旧来からの問題が提起されるであろう。それに対して、私は、そうした大権を持つ現存の執行権力と、その召集に関しては執行権力の意思に依存する立法権力との間には地上の裁判官はありえないと答えよう。<中略>この場合、人民は。地上に裁判官がいないその他すべての場合と同様に、天に訴える以外に救済策を持たない[131]。』
『しかし、執行権力、あるいは賢明な君主の場合には、そのような危険を犯す必要性は決して生じない。それは、すべてのことがらの中でもっとも危険なものとして、彼らがなによりも避けなければならないことであるからである。』

第十五章 父親の権力、政治権力および専制権力[132]についてーーー総括的考察
<要点>
専制権力は他者を隷属させる権力で、その対象は正当な戦争の捕虜に対してだけであって、父親の権力とも政治権力とも異なるものである。

諸権力についての総括的考察が述べられている。父親の権力と政治権力の説明が挙げられているが、重複するから省略する。
専制権力について述べられる。『第三に、専制権力とは、一人の人間が他人に対してもち、好むがままにいつでも他人の生命を奪うことができる絶対的で恣意的な権力のことである。』
専制権力とは、自然の権力ではなく、契約により譲渡できる権力でもない。『それは、ただ、攻撃をしかけ、ただ他人との戦争状態に身を投じたものが自分自身の生命の権利を喪失したことの帰結としてのみ生じるものに他ならない。』。専制権力による隷属状態は、許されて主と契約を結ぶことで終焉する。
以上をまとめると次のようになる。自然が、子供達の固有権保持能力を補うものとして、父親の権力を与える。自発的な合意が、固有権保持を目的として、政治権力を統治者に与える。権利の喪失が、主人の便益を図ることを目的として、専制権力を主人に与える。

第十六章 征服について
<要点>
合法的な戦争における征服について、獲得されうる権力、その権力の及ぶ範囲、等に対する考察。

不当な戦争による征服者には被征服者の従属と服従を求める権原を持たないことが示された[133]後、合法的な戦争における征服についての考察がなされる。その内容は以下のようなものである。
『第一に、彼が、その征服によって、彼と共に征服を行った者に対するいかなる権力をも獲得しないことは明らかである。』[134]
第二には、征服者の権力は人民には及ばないことである。なぜなら、不当な戦争をしかけるような統治の元では、人民はそのような不正事を行う権力を与えられていないからである。
第三に、征服者が、正当な権利において打ち負かしたものに対して獲得する権利は完全に専制的であること。なぜならば、有害な被造物に対しては生命を奪う権利が与えられるから。しかし、そのことによってその者の財貨を獲得する権利を得ることは出来ない。なぜなら、他人の財貨に対する権原は、ただ損害を被ったと言うことだけによって与えられるから。
征服者は、被征服者が喪失したもの以上のものを奪う権利はもたない。したがって、被征服者の妻子の財貨を奪うことはできない。なぜなら被征服者の妻子は被征服者が享受していた財貨への権原があるから、被征服者はこれを元々持っていないことになり従って喪失することができないから。
征服する土地に対する権原が征服者に与えられることはほとんどないであろう。なぜなら、戦争の損害が、ある程度の広さの土地の価値に匹敵するなどと言うことはまずないから[135]
人間は生来二つの権利をもっている、一つは自分の身体に対する自由の権利であり、もう一つは財貨を相続する権利である。第一の権利は、自国の合法的統治を認めない場合には放棄される[136]。第二の権利は、いかなる国の住民であっても祖先の所有に対する権利は保持される[137]と言う理由から、保持される。
以上から、たとえ正義の戦争の場合であっても、その征服によっていかなる統治の権利をももたない[138]

第十七章 簒奪[139]について
<要点>
簒奪とは国内的な征服といえるが、征服とは異なり簒奪は権利を持ち得ない。

簒奪とは他人が権利をもつものを横取りすることだから、政治社会における簒奪とは国内的な征服といえるが、征服とは異なり[140]簒奪は権利を持ち得ないし、統治の形態や規則を変更するものでもなく、単なる人物の変更にすぎない。簒奪者の権力が、合法的な政治的共同体の統治者が持っていたもの以上になれば、それは簒奪に暴政[141]が付け加わったものになる。

第十八章 暴政[142]について
<要点>
暴政とは、統治者が権利を超えて権力を行使することであり、その場合は統治者に抵抗する権利が発生する

統治者の権力を公共善のため以外に、例えば私利私欲や復習や気まぐれの満足に行使すれば、それは暴政である。『暴政とは、統治者が権利を超えて権力を行使することであって、何人もそのようなことへの権利をもつことはできない。』。
統治権力の権原が公共善だけにあるというロックの考えは、ジェームス1[143]の言葉からも証明されることが述べられる[144]。例えば1603年の議会演説では『余は、よき法と勅法とを定めるに当たって、常に、余の特殊で私的な目的よりも、公共と政治的共同体[145]全体との福祉を優先させるであろう。』、1609年の議会演説では『国王は、二重の誓約[146]によって、その国王の根本法[147]を遵守するように自分自身を義務づけている。』
暴政は君主制だけに特有なものではないことが史実で説明される。『どこにおいても、法が終わるところ、暴政が始まる。』
「君主の命令に抵抗する」ということが許されれば、統治と秩序が保たれないという考えに対して、ロックは『実力を持って抵抗すべきはただ不正で不法な暴力に対してのみである』からそのような危険や混乱は起こらないと答える。その理由が以下に述べられる。
第一に、イングランドのように、君主の身体が法によって神聖なものとされ、彼の身体はすべての暴力から自由であり、強制にも、裁判上の謹責や罪の宣告にもさらされることはない、という統治体制[148]にある。なぜなら、たちの悪い君主が一人で法を覆したり人民全体を抑圧したりはできないから、少数の私人が苦しむとしても、政治的共同体[149]の首長が危害にさらされることのない方が(その政治的共同体にとって)安全性が高いからである。
第二に、君主の身体に与えられているこの特権は、法によって権威[150]を与えられていない権力を用いた者には、例え君主の委任を受けたと主張したとしても、適用されないからである。従って、そのような者が「抵抗を受けることが妨げられない」としても、『国王の身体と権威依然として確保されており、従って、統治者にも統治にも何の危険もない。』
第三に、最高の為政者の身体が神聖されてなくても、法に訴えることができる限り、彼の権力の非合法的な行使に「抵抗することの合法性」は、統治を混乱させることはない。なぜならば、法に訴えることが出来ることによって権利侵害を受けた者が救済されるから、実力に訴える口実がなくなるからである。
第四に、明らかな暴政の場合であっても、「抵抗する権利」が突然、あるいは些細なきっかけから統治を混乱させることはない。なぜなら、数人の非抑圧者が統治を攪乱することなど到底出来ないし、無謀な不満分子が一人では安定した国家[151]を覆すことも出来ないから、人民は、何れの場合でもそれに追随しようとは考えないからである。
しかし、以上の想定を超え、統治が混乱するような事態は、統治者が人民の善を願い、彼ら自身と彼らの法との保全を願っているのであれば、容易に避けられる[152]のであるから、(人民の抵抗する権利により抵抗にさらされる)統治者への同情の余地は少ない。
しかし、大権の目的外使用、それに適う人事、それに適う宗教への恩恵、それに従事する者の優遇、およびそのための脱法などについて、世間全体が気付き、それらに加えて、国王会議も同じ方向に向いていることが示されれば、『人は、もはや、事態がどのように進みつつあるかを心の内で確信することを自らに禁じることは出来ず、また、どのようにして自らを救うかについて思案せずにはいられないであろう。』

第十九章 統治の解体について
<要点>
統治は政治社会の内部からも解体され得るが、その原因は二つある。一つは同意された統治形態が維持されなくなること、もう一つは、信託された統治目的が執行できなくなることであって、人民の反逆や、権力に対する批判の教説などではない。

社会[153]の解体と統治の解体とを区別しなければならない、社会が解体すれば、その社会の統治も解体することは明らかである。政治社会が解体される通常の、ほとんど唯一の途は、彼らを征服する外国勢力の侵攻である。
統治は内部からも解体されるが、その原因は二つある、一つは同意された統治形態が維持されなくなること、これは具体的には立法部が改変されることである。もう一つは、信託された統治目的が執行できなくなることである。
立法部が改変される場合は統治が解体される。立法部こそ、政治的共同体に形態と生命とを与える魂だからである。立法部が、異なった三者[154]との共同関係に置かれている場合を考えると以下のことが明らかになる[155]
第一に、『君主が、立法部によって宣言された社会の意思である法に代えて自分の恣意的な意思を置く場合は、立法部が改変されたことになるであろう。』
第二に、『立法部が、その設立の目的に従って適当な時期に集合し、自由に活動することを君主が阻む場合にも、立法部は改変されたことになるであろう。』
第三に、『君主の、恣意的な権力により、人民の同意もなく、また人民の共通の利益に反して、選挙人あるいは選挙の方法に変更が加えられた場合においても、立法部は改変されることになるだろう。』
第四に、『君主か立法部によって、人民が外国の勢力に引き渡されレ場、それもまた、確かに立法部の改変であり、従って、統治の解体であるということになるであろう。』
以上の場合において、統治の解体に対する責任は君主にあることは明らかだが、立法部の君主以外の部分が、統治に対する攻撃に手を貸したり、企図を助長したり阻止しなかった場合には、彼らも最大の犯罪に連座することになる。
次のことも明らかになる。最高の執行権力を持つ者が、責務放棄したりして法の執行が出来なくなった場合には統治は解体される。
統治が解体されると、人民は新たな立法部を設立して自由に自分たちの身を処することが出来る。人々は、単に暴政から逃れる権利をもつだけではなく、暴政を予防する権利をももつのである。
立法部の改変の他に、統治が解体されるもう一つの途がある。それは、立法部あるいは君主のどちらかが、人民の信託に背いて行動した場合である。
先ず、立法部が臣民の固有権を侵害した場合がそれに当たる。人々は固有権の保全を社会に信託しそれに参加したからである。
最高執行責任者についても同様である。彼は立法部に参与しかつ最高の執行責任という二重の信託を受けているからである。
ロックの教説に対する反論はおおよそ次のようなものである。統治の解体は、無知で不満に満ちている人民の反逆によるもので、君主などの権力を批判する教説は、人民の反逆の原因である。
それに対するロックの答えは、反逆の原因は人民の無知とか権力への批判の教説にあるのではなく、自然状態から社会へと参加したときの同意と信託の違反に基づく統治の解体が反逆をもたらす。したがって、統治の解体を行う者は「ふたたび戦争を行う者[156]」であり、人民ではなくむしろ権力の座にあるものこそがそうなりがちである、というものである。
統治の解体が人民の反逆をもたらすのだ、というのは、人民というものは保守的で統治の形態を変えることは容易ではないし、抵抗により自らを救済するよりも苦しみに耐える傾向の方が強いものであるにもかかわらず、長く続く一連の悪政によって、その救済の道が遙かに遠いと悟らざるを得なくなり、ついには反逆に及ぶのだ。
現にイングランドでは、多くの革命を経ているが、立法部の形態は君主と貴族院と庶民院という古い形態を維持している。
人民の反逆についての実例は世界にたくさんあるのに、それを知らないとすれば書物を殆ど読んだことがないに違いない。
ロックの教説は、人民の反逆の原因ではないばかりか、統治を解体する「ふたたび戦争を行う者」、つまり権力の座にある者による反逆に対する最善の防壁である。『なぜなら、もっとも強くそうした誘惑に駆られがちな彼らに対して、それが以下に危険であり不正であるかを示してやることだからである。』
人民は神の被造物だから理性を備えているはずである。『人民が、理性的被造物としての分別を備え、事物について見たり感じたりするままにしか考えることが出来ない場合、人民は非難されるべきなのだろうか。』
統治の解体は最大の犯罪である。『(私は、統治の解体という災害に責任を負う者は)人間がなし得るおそらく最大の犯罪を犯すのだと言うことを信じて疑わない。』
ロックは、国王に対する抵抗権が発生する場合(国王が統治を転覆させようとした場合と、自らを他国の従属者にした場合)については、絶対王政の偉大な擁護者であったバークレイと同一の結論を持っており、異なるのは、ロックの教説[157]をその原理としていない点だけである、と述べている[158]
『結論を述べることにしよう。社会に入るときにすべての個人が社会に与えた権力は、社会が存続する限り、ふたたび個々人の手には決して戻ることはなく<中略>統治が続く限り、立法権が人民に戻ることはありえない。<中略>しかし、<中略>権威を持つ人々の失策によってその至高の権力が彼らの手から失われる場合には、<中略>その至高の権力は社会に戻るであろう。そして、人民は、至高の存在として行動する権利を手にし、立法権を自分たちのうちに置き続けるか、新しい形態の統治を打ち立てるか、それとも、古い形態の統治の下でそれを新たな人々に委ねるかを、自分たちが良いと考えるところに従って決定する権利をもつことになるのである。』







[1] 本書の意図が議会派擁護、王党派否定にあったことは一般に認められている
[2] 本書の叙述において、「著者」とはサー・ロバート・フィルマーを指し、「考察」とはホッブズやミルトン等に関する彼の考察を指す。尚、ロックのフィルマー批判は、主にフィルマーの著作「パトリアーカ(家父長制)1680版」を対象としている
[3] この本に書き記されている部分のこと
[4] ロックにとって「自然の諸権利」とは、「神の意志」に対する人間の義務に基づいた、人間の権利
[5] 「祖国の防衛」という表現には、本書が出版された時代背景がある。つまり、当時のイギリスは、王政復古後のチャールズ2世の流れを引いてカトリック化を目指したジェームス2世が、名誉革命後にフランスへ亡命し、プロテスタントの盟主ウィリアム3世治下にあった。イギリスにはカトリック国フランスの隷属からの防衛意識があった
[6] フィルマーの王権神授説は、アダムの相続人として君主は絶対権力への神授権を持つというもの
[7] ロックにとって「自由」とは、ロックの宗教的人間観に基づく固有権(本書では、Propertyを所有権と区別して訳しているもので、生命・健康・自由・財産からなる)の一つ。固有権を欠くと、「神の作品」である人間が神に対して負う義務が果たせなくなる、というロックの基本的な考え方に基づいている
[8] ジェントリ(=郷紳)は貴族とヨーマンの間、ヨーマンは独立自営農民でその下に零細農民がいた
[9] 神授権は確かめられず、従って支配と服従の関係を人々が納得しないから、君主の地位も危うくなる
[10] 「支配者と統治形態とを選択する自由」とはロックの契約説の根幹。この自由が、「神の意志」を実現する権利を獲得する「統治の正統性」の設立因で、人間の「同意」に基づくということになる。
[11] ロックの考えでは、フィルマー説の絶対王政における君主は「神の意志」を超越することになり、その主因は人間の生来の自由を否定するところにあるから(岩石)
[12] ロックの言う「理性」は「人間のうちにおける神の声」(第九章86節)(岩石)
[13] ロックは、統治の正統性の根幹を、「神の意志」に対する「人間の義務」の存在を信じる、という己の「神学的義務論」に置いているから、聖書の記述正しく理解するという意味でこういう言い方になる
[14] 理由は後述される
[15] 例えば、「出エジプト記」第2012節「汝の父と母を敬え」の、母の部分を省略している。
[16] フィルマーは、他者に対しては、このルールに従って批判しているから。
[17] 「下位の法」に対置されうる「上位の法」は神の法で、君主の法は「君主の意思」ということだろう(岩石)。因みに法の重要性が君主制より民主制において重要になることを指摘したモンテスキューの「法の精神」は1748
[18] ボダンは1576年に「国家論」を出版した王権神授説の権威だが、王朝の成立は家族間の武力闘争の結果であるという一種の征服説を唱えている。この点はフィルマーの王権神授説と異なる
[19] フィルマー-説に賛同する人たちは、自分たちが道理より利害で動いていることが世間の人に筒抜けなのを知っているか?と言いたいのだろう
[20] この三つの根拠の各々について、ロックは、36章で詳しく反論している
[21] 例えば、アリストテレスに関する1652年の考察や、『パトリアーカ』におけるホッブズの「リヴァイアサン」に関する考察
[22] 前編で用いられている「主権」という概念は、一言で言えば「生殺与奪の絶対権力」で、その権原はロックの考える神学的信仰にある。つまり「主権は神にのみある」ことになり、その神を信仰しない人にとっては、それを受け入れることは困難なことだろう。因みに後編では、主権=政治権力、という構図なので尚更である
[23] 神が指定するのだから生まれつきの資質がある、と言う論法
[24] 「自然の指示」が消失しているが、これは自然の権利と同じようなものか?
[25] 神から贈与されたのは世界のことだろう。諸々の被造物の中で、アダムは特別な資質を持っているから、神の明確な啓示によって世界がアダムに贈与された、と言う論法
[26] 創世記第128節と第316節。この議論の詳細は後でまた出てくる
[27] ナゼ誤りであるかについての議論の内容は長い神学論争なので省略する
[28] 「父であること」とは「父の権威」をもっていること、の意味で、自然の父ではない
[29] ノアの箱舟のノアは、洪水に後にアララト山に着いた時点で600歳!
[30] 「創世記」第1章28節→「神彼らを祝し、神彼らに言いたまいけるは、生めよ、殖えよ、地に満てよ、これを従わせよ、また、海の魚と空の鳥と地に動くところのすべての生物とを治めよ」
[31] その理由は、次の三つの段落でも説明されるが、神の目的に適うものではなく、神の意志に反するものだから、ということになる
[32] 私有財産の根拠を個人の労働に求める、というロックの考えの一端が述べられている
[33] 「正義」と「慈愛」が区分されかつ同列に概念され、両方とも神が人間に与えるものであると述べられている
[34] ロックの言う「政治社会」とは、固有権の主体として同質の人間が作る共同体のこと。だから、父子、夫婦、主人と家僕や奴隷、征服者と捕虜、絶対君主と臣民からなる絶対王政は「政治社会」ではない
[35] このあたりの言い方は、国王自体の非難にならぬような言い回しに感じられる
[36] フィルマーが説明していないから調べた
[37] 終生、「神を取り去ることはすべてを解体することである」と考える敬虔なクリスチャンであり続けたロックの神学的パラダイムは二つある。生の規範的な指針としての「神の手」の存在と「神の作品」としての人間、という信念がそれである
[38] ロックは若くして医学を学んだとのこと
[39] ベーガ(15391616)の著作「インカ皇統記」の引用。ベーガ(15391616)は、インカ征服者を父に、インカの王女を母に持つ歴史家
[40] 「詩編」第10638節「罪なき血、云々」の半分だけ引用すれば、子供の生け贄が正当化されると読める
[41] ロックは58節で、人間を天使にほぼ匹敵するものにするのは理性で、理性を欠いた意思と想像力に基づいて、最も道に外れて突き進む者が最適の指導者といわれる、と述べている
[42] ロックの信仰の内容が良く表れている部分と思う
[43] この権利は、「尊崇」を受ける権利で、両親には自然に与えられている(神によって?)
[44] 十戒。フィルマーは「汝の父」だけ取り出して、父権の根拠にしているとロックは非難している
[45] 「神」のことだろうが、そう言わないのはナゼだろう
[46] 「永遠の法」の権原は自然に与えられるもので政治権力には含めてはならない。「神の法」は神により与えられる超越的で実定的ではない法だから、政治権力に含めても弊害だけがある役に立たないもの、という感じ。この辺の理論付けは後編の楽しみ
[47] この「義務」については、後編6章「父親の権力について」で述べられる
[48] 「平等」は本来的に与えられているものとして考えられている
[49] ロックにとって良心は「神の意志」、義務は神の意志を実現することなのだろうが、この文章は統治に関するロックの本質観取みたいだ
[50] 「生得の実践的原理はない」(『人間知性論』第1巻第3章の見出でもある)というロックの経験論と反する言い方だが、君主は神の束縛からも解放されるというフィルマーの独断論に対抗するため、こういう言い方とならざるを得なかった
[51] この検証が後編のテーマとなる
[52] 所有の目的は自己保存で統治の目的は被治者の利益
[53] 相続や譲渡のこと。何れも君主権力の継承方法としてあり得ないことは既に説明されている
[54] 王権の継承に関しての、フィルマーの王権神授説に対する明確な反論が、フィルマー自身の理論から導かれた
[55] 正確には、一人で有り続ける場合
[56] すべての人が継承者とは、すべての人類はアダムを始祖とするから
[57] 統治に関わる無数の問題
[58] 神が定める法があるなら、人間の経験が作る実定法は締め出されることになる
[59] この文の「主権」の文字が、後編第1章第3節では「政治権力」となっている
[60] 権力の権原がアダムの主権の継承だけに由来することの愚かしさの例として
[61] 前編脚注11参照(property)。生来の権利で生命・健康・自由・財産が含まれる
[62] 「権力」ではなく「権利」であるのは、政治権力の正統性を問題にしているのであって、政治権力の事実を問題にしているのではないから
[63] 15章から逆に読むと、ここでは固有権の権原という具体的な意味で使われている。因みに前編によれば、その権原の根拠は人間が神の被造物だから。その目的と基準は人類一般の保全(第15章など)なのでホッブズの言う「第一の自然法」(基本法としての平和の希求に自己保存手段選択権が付加されたもの)に類似している。ホッブズは人の概念と等置的な本性的能力としての「理性」を根拠にしているところがやや違うみたい(参考:ホッブズの自然法第二は自然権の放棄、自然法第三は約定遵守である)
[64] 前編で述べられているように、自由、平等はロックの神学に基づいている(岩石)
[65] 前編で述べられているように、理性は人間の内にある神の声であって、人間は神の作品であるから、「自然法たる理性」という言い方は、自然法=理性、というよりは、「人間は理性に従うもの」くらいの意味だと思う。ロックは「神の法」「自然法」「永遠の法」をいろいろな場面で使い分けているが、何れも類似の超越項を置いた考え
[66] 各人が自然法の執行者という教説は、国内法に従う必要の無いはずの外国人を処罰出来ること考えれば理解できるだろう
[67] 固有権の侵害と思う
[68] 訳者注によれば、ロックはホッブズやスピノザが自然状態における国際関係を戦争状態と考えるのではなく、グロチウスのように「戦争と平和の法」が要請されると考えているようである。因みにホッブズの第三の自然法は「信約を守ること」なので、同じようなものみたいだが
[69] 固有権保全のために固有権を失った人を滅ぼすのは正当である、という考え
[70] ロックによれば、ホッブズはこの二つを混同していたという。ホッブズは、自然法の基本部分と付加部分に分けて論じているから、混同というのは少し違うと思う
[71] これによって、固有権が回復することになる
[72] 当時の状況では、実質的に国際関係は戦争状態が続くことになる
[73] 国内での革命権を指していると思うが、これについては19章で述べられる
[74] 「権威」とは何であるかについてはずーと明確ではないものの、「固有権が保全されるという信頼の源」という感じ。近代では「憲法」で具現されてきたものだろう。
[75] 訳者は、戦争捕虜の隷属について、ロックは不可、ホッブズは信約に基づき可となるので興味があると述べている
[76] 前編で説明されたように、人間は神の被造物で、神の意志を実現する義務を負っているから、固有権(自由も含まれる)を失うと神に対する義務が果たせなくなる。このことがロックにとっての自由の内実
[77] 主とは損害を被った人のことだろう
[78] これは、罪に対する「償い」ということか。そうであれば、自殺はダメだが、隷属の過酷さは死を凌ぐから、殺されることも正当ということか?例えば合法的戦争なら、自然法に照らしても、征服者は捕虜に対する生殺与奪権を持つという理屈だろうか。殆ど屁理屈としか思えないが。この段落はあまり判明でない。
[79] この章では対象が財産なのでpropertyを「所有権」と訳している
[80] これについては、フィルマーへの反論として前編で詳述されている
[81] これも固有権の保持のため(岩石)
[82] 神がそう定めているから。同じことだが、生来の固有権の意味から帰結される。
[83] 人は平等でない事実をのべているが、詳細は六章54節で述べられる
[84] 自分で消費できないくらい生産すると、隣人の分け前を侵害したことになるから
[85] 聖書の時代等が引き合いに出されているが、幣経済が発達する以前の昔の話だろう
[86] この状況には、国家や王国の間の領土問題の発生と解決も含まれている
[87] 逆に言えば、有益ならば自分で必要以上のものをとることになる
[88] 作ったものを廃棄するのは自然法違反だから
[89] 有用物と交換できるという貨幣の価値を同意することができるという発明と、物理的耐久性のある材料の発明、の両方だろう
[90] 聖書でも両親が子供から尊崇を受ける権利は同等であることが、フィルマーの聖書引用に関するご都合主義批判として、前編に縷々述べられている
[91] 例えば年齢や有徳性、才能や功績、出自や縁故や恩恵などの関係の平等
[92] 子供は両親の作品ではなく神の作品で、人は神の意志を実現する義務を負うから
[93] この段落の法は「理性の法」
[94] 知性は自分の意思を導く能力であり、子供はそれに欠けているから、普通は親である代理が必要である
[95] この義務は神によって与えられている
[96] この段落は、経験論的なロックの人間理解が垣間見られて面白い
[97] 訳者によれば、このCapable of majorityという表現は、具体的で個別的なことを超えた抽象的な理性能力が前提されていて、ここは「人間知性論」との関係が最も鮮やかな部分とのこと
[98] こういうことをもしロックの経験論というなら、ヘロドトスもそうなる
[99] 「平和裡」と断っている理由は、征服も統治の起源に含めるから(112)
[100] 父親の統治形態とは愛情関係や支配関係が単純に類似しているから
[101] アメリカインディアンの社会は、国土に比して住民が少なく、人口と貨幣が不足しいたので、土地の(貨幣に代表される物資の)所有を求めて争うという気持ちが少ないが、それは、昔のアジアやヨーロッパと同じ。
[102] 将軍は戦場では生殺与奪の先生権力を持つが、国内、また平時には小さな統治権しか持たない
[103] 相続によって子供が臣民になる場合は、自身の明示的な同意となるのであろう
[104] 個人が自然の権力を放棄して、それを共同体に委ねた根拠は固有権保全のために生来の固有権を放棄したことだから(固有権は生命、身体、財産、自由が含まれる。前編脚注11参照)
[105] 紛争の裁定尺度で、人々の同意の下で制定された恒常的なもの
[106] 制定された法に従って権威を備えて採決する
[107] 個々人の実力を遙かに上回る執行権力
[108] 理性的な被造物が、現在の状況よりも悪くなることを意図して自分の境遇を変えるとは思われない、というロックの神学に基づいている
[109] ロックの言う政治社会に含まれない統治も含まれている
[110] この形態はロックの言う政治社会だけが対象
[111] 訳者によれば、ロックはstate(国家)を用いずcommonwealth(人的共同体のイメージ)を用いることが多いのは君主制のイメージを嫌っているからである。また、commonwealthの訳は政治的共同体だが、王政との対比で用いられている場合には共和政体である
[112] ロックがcommonwealthcityが別であるといっている意味は、前者が、理性的人間達が、固有権保全を目的として、小集団のローカルな権利を放棄して、明示的な契約によって合同して創った政治的共同体を指し、後者は自然状態から社会状態へ暗黙裡な契約に基づいて移行した歴史的な事実的な集落、と理解すれば良いのだろうか?
[113] 国王でさえ、ロックの言う政治的共同体を指して「共同のもの」を意味する言葉を用いていたことを引き合いに、フィルマーの王権神授説を援護する王党派を批判している
[114] 外国の権力(カトリックの超大国フランスの国王権力ローマ法王権力など)、従属的な権力(次章で述べる、執行権力や連合権力)
[115] The public
[116] ホッブズがリヴァイアサン第1部で述べている、第一の自然法の基本部分と全く同じ
[117] イングランドのこと
[118] 政治的共同体の成員であるということは、このケースにおいて絞首刑になることに同意しているが財産を取られることには同意していないことになるから
[119] State外国との関係に対する言葉としてはこれが適切というニュアンス
[120] Federative power(連邦の権力)
[121] prudence
[122] wisdom
[123] 立法権力は至高の権力だから議会に主権が与えられたが、その主権は国民の信託の目的即ち固有権の保全に適う限りであるから、ロックの主権の考えは、国民主権となる。訳者はこれをロックの契約説から導かれる必然というが、その契約の意味は、自然状態を脱して政治的共同体に加わる時に個人と共同体が交わす契約という意味だろう
[124] 「君主」とは書いてないが、短くそう書いた。君主は立法に参与し拒否権もある
[125] image
[126] phantom
[127] representative
[128] people
[129] 16世紀以降の囲い込み運動や都市化による人口移動により生じた腐敗選挙区問題
[130] 君主による恩赦、イングランドの議会召集権等々実例あり
[131] 天に訴える以外の方法がないと判断する権利は人民にある。その権利は神の被造物である人間は、神の意志により固有権を保全する義務がある、というロックの神学が根拠
[132] Despotical power ロックにとっての専制権力とは、合法的戦争による捕虜に対する権力に限定されている。だから、専制権力は政治権力にはなり得ず、政治権力を対象とする場合には後述の「暴政」と「簒奪」何れもtyrannyの訳が用いられる
[133] その理由は強盗や海賊を思い浮かべれば明らか
[134] この段落では、バイキングがフランスでノルマンディー公となり、後にイギリスにノルマンディー朝を開いた(11世紀)いきさつが述べられているが、要は、先ずノルマンディー公と共にイギリス征服を果たした人々の自由が奪われている現状には根拠が無いと言いたいらしい。因みに、ロビンフッド物語はこのときの被征服民の抵抗物語
[135] 土地の生み出す財貨の価値は、損害に比べれば遙かに大きいから
[136] 合法的統治を認めるなら不法な戦争をしないから
[137] 自然法による相続権は始めの統治者の権原とは無関係
[138] 正義の征服も人民の固有権を奪う権原にならず、得るのは専制と賠償の権利
[139] usurpation
[140] 正当な征服は専制と賠償の権利をもつから
[141] tyranny
[142] Tyrannyは人間のproperty保全回復の可能性を含んでいるから、革命権に繋がる政治社会における概念であるのに対して、despotic(専制)は戦争捕虜限定の権力だから政治社会における権力に含まれない
[143] 16031625在位。ステュアート朝の始めの王で。王権神授説を信奉していた
[144] もちろん王党派攻撃の材料として
[145] 「政治的共同体」は(stateではなく)commonwealthが用いられている
[146] 二重の誓約は、暗黙裡には法の遵守、明示的には戴冠式での誓約
[147] 「根本法」の概念が暗黙裡に存在した。近代の「憲法」の素
[148] constitution
[149] Republic(=commonwealth)
[150] 「権威」=「根本法」位で良いと思う
[151] stateロックがこの言葉を用いている数少ない例である
[152] 親が子のために良かれと行うことに子が気づかないはずがない、ことと同じだから
[153] この「社会」は殆ど「政治社会」と思う
[154] イングランドの統治形態の場合で、君主、貴族院、庶民院。君主は世襲制で最高執行権力者かつ立法権参与者、貴族は世襲性、庶民院は随時選出される代表者の集会
[155] 改変=立法部設立目的の改変なので明らか
[156] Rebellareと訳注があるが?
[157] 同意された統治の形態の維持と統治自体の目的である公共の善と固有権の保全
[158] 多分王党派に対する攻撃であろう

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