注1:「 」内は本文引用文章、( )内は大体小生の補い、傍点は原文に沿ったもの
序
第一章 人間の学としての倫理学の意義
一、「倫理」という言葉の意味
倫理学は「倫理とは何であるか」という問いである。そしてこの問いは、その答えを倫理学自身によって与えられる他はない、というものなのである。「だから、倫理学とは何であるかを倫理学の初めに決定的に規定することはできない。」
出発点において唯一確かなことは、「倫理とは何であるか」という問いが言葉で表現され、共通の問いとして議論できるということである。我々は、倫理という言葉によって表現されていることの意味を問うている。そのことは、その問いに先立ち、「一般言語と同じく歴史的・社会的な生の表現として、既に客観的に存在しているのである。」
従って、この言葉を手がかりにして出発することが出来る。この言葉の意味の上にどのような概念を作ることが出来るだろうか。
倫理という言葉はシナ(シナは古代インドにおける、現中国領域付近の呼称で仏典漢訳読み。秦が語源と言われている)に由来し、我々の間においてもなおその言葉の活力は生き残っている。シナ語で「倫」という語はもともと(日本語の)「なかま」を意味する。「なかま」には「仲間」という漢字が当てはめられたが、このことは、「なかま」は単に複数の人を意味するのではなく「一面において人々のなかであり間でありつつ、他面においてかかる仲や間における人々なのである。」。(シナにおいて)「倫」の用法も同じように発展した。父子君臣夫婦が「人の大輪」(孟子)と言われ、兄弟が「天倫」(公洋伝=『春秋』(孔子)の解説書の一つで、漢の時代に作られたと言われている)と言われるように、人の関係表すとともに、その関係における人々をも表している。「人倫」という言葉は、人々の関係と、この関係によって規定された人々とを意味している。換言すれば共同体を意味している。従って、人倫五常(父子有親、君臣有義、夫婦有別、長幼有序、朋友有信。父子有親は相続)とは人間共同態における五つの不変なることである。不変なることとは人間生活がそれにおいて変転していくところの秩序、道、である。倫の内容は人倫五常だけではなく(シナの時代や場所によって)多様だが「人倫を人間共同体の存在根柢から把捉するという根本の態度」は不変である。
そのような根本の態度が自覚的に把持されていたわけではなく、個人的主観的意識から道徳を説こうとするものも少なくない。だが、その道徳も人倫の地盤からでたものであることは推測するに難くない。思想史的考察からはさしあたり、「人間共同態の存在根柢たる秩序あるいは道が「倫」あるいは「人倫」という言葉によって意味せられている、という点が明らかになりさえすればよいのである」。
では「倫理」という言葉は何を意味するのだろう。「理」は人間の理、人間の道のことだが、(結論を言えば)倫の意味を強調するだけである。「倫理」は「倫」=「人倫」であって、例えば芸術や歴史に表現されているような
人間の道であり、理論的に形成された原理ではない。
以上より倫理という言葉の意味が明らかになった。「倫理という言葉は、第一に人間共同態
に関する。共同態を捨象した個人的意識はこの語と縁なきものである。第二にそれは人間共同態の存在 根柢に関する。道徳的判断あるいは評価はこの地盤の上で可能にせられるのであって、逆にかかる判断や評価が根柢となるのではない。<中略>「倫理」という概念を、主観的道徳意識から区別しつつ、作り上げることができる。倫理とは人間共同態の存在根柢として、種々の共同態に実現せられるものである。それは人々の間柄の道であり秩序であって、それがあるがゆえに間柄そのものが可能にせられる。」
「倫理学とは人間関係・従って人間の共同態の根柢たる秩序・道理を明らかにしようとする学問である。」。しかし、ここではまだ、人間或いは人・人間関係或いは間柄・共同態とは何であるのかは規定されていない。
二、「人間」という言葉の意味
「人間」という言葉も「人」という言葉もヨーロッパ語のanthropos(ギリシャ語),homo(ラテン語),man(英語),Mensch(ドイツ語)などの訳に用いられている。(また、例えば)ドイツの社会学者は、「人」と「間」という二語を結びつけて、Zwischen den Menschen あるいは das
Zwischenmenschliche という言葉によって、(人間と人間関係を区別し)人間の関係を「社会」と考える一つの立場を言い表している。日本語においては「人間」と「人」という異なる言葉が異なる意味を持てなかったのではなく、その言葉を用いる「人間」自身がその二つの言葉の意味を混同し、誤解したのである
。
だがこの誤解は、思考能力の弱さを意味するのではなく、反対に重大な意義を示唆している。「なぜならそれは数世紀にわたる日本人の歴史的生活において、無自覚的にではあるがしかも人間に対する直接の理解にもとづいて
、社会的に起こった事件なのだからである。この歴史的事実は、「世の中」を意味する「人間」という言葉が、単に「人」の意にも解せられ得るということを実証している。<中略>(そういう意味で)歴史全体において、人間が社会であるとともにまた個人であると言うことの直接の理解を見いだしうると思う。」。そこで、人間と言う言葉の意味を歴史的に考察し、「人間」の概念を確立することを試みる。
個々の人間という意味の「人」に当たる言葉はシナ古代の「人」という字に「ひと」と言う日本語を当てはめたものである。古代シナ語の「人」は、ギリシャ語のAnthroposと、「二足歩行と言葉を話す」個々人という意味で完全に一致している。しかし、日本語の「ひと」はそれだけではなく、「・・・自、他、世人などの意味を含蓄しつつ世間という意味さえも示唆しているのである
。」。シナ語、ギリシャ後だけではなく、ラテン語、英語、ドイツ語も、そのような日本語「ひと(=人)」の意味合いは持っていない 。日本語の「人間」は単に「人の間」だけでなく、自、他、世人、であるところの人の間なのである。そうであるならば、「人間」という言葉が「人」の意味に転用されても不思議ではない。
しかし、この「転用」は自覚的に起こったものではない。「それは客観的精神の世界での遠い迂り路によって知らず知らずにひきおこされたことなのである。」。このことは、シナにおいては起こっておらず、人間とは人間社会のこと
であって、仏教の漢訳経典の用法もそうである。古いインドに神話的想像において、衆生 は輪廻によって五つの世界(=loka)に転生するが、「人間」はそのうちの一つの世界のことであり「人」を意味していない。
日本において最も普及している法華経は、lokaと同じ用法で、シナ語の「人間」と言う言葉に翻訳している。仏教経典の用法を媒介として人間と言う言葉が人の意に転用されたのである。仏教の輪廻観では、衆生の経めぐる世界を「地獄中」、「餓鬼中」、「畜生中」、「人間」、「天上」の五界、あるいは「阿修羅」を加えて六界とした。衆生は「人間」に生じた場合には「人」であり、「畜生中に」生じた場合に「畜生」である。漢訳経典ではlokaの訳語に「中」や「間」などを当てたが、しばしばその「中」を省略して、地獄・餓鬼・畜生・人間・天上というふうに二字をそろえて並べたので、「人間」という言葉が直ちに畜生・餓鬼等と対応した概念と捉えられることになった。漢訳経典において「中」が省略され、人間の場合にlocaを意味する「間」が省略されずに記載されたという偶然が、「人間」という言葉を「人」と同じ意味に転用されることになった。
この転用は偶然であるのだが、この偶然事に媒介せられたこと自身は偶然的ではない。つまり、もともと「人間」という言葉が「人」を意味し得た
からこそこのような転用が可能だったのである。可能であったとしても、どうして実際に転用されたのだろうか。「それは部分と全体の弁証的関係というほかはない。<中略>我々はすでに古くから、その日常性において、部分に全体を見、部分を全体の名で呼んでいる。
」。「かく見れば人間を「世間」と「人」との二重の意味に用いうることは、人間の本質を最も良く言い表したものと言わねばならぬ」。
以上のような歴史的背景を背負った「人間」という言葉から、我々は「人間」の概念を現そうとする。「人間とは「世の中」自身であるとともにまた世の中における「人」である。」。従って、「人間」の学は、「人」の学であるアントロポロギー
ではなく、また「人間」の概念においては、MenschとGemeinschaftとを何らかの別物とは考えないのである。
倫理の概念は既に「人間共同態の存在根拠」を我々に指し示している。「人間」の概念が規定されたので、次ぎに共同態、人間関係、間柄が何であるかが問われねばならない。
三、「世間」あるいは「世の中」の意義
世間という言葉は、漢訳経典に由来する。仏教哲学の根本命題は「世間無常
」であり、日本人はここから世間の概念を受け取った。
シナの仏教学者によれば「世」は「遷流
」という意味を持つ。つまり世は常に変転している。換言すると、世の中にあるものはあり続けることは出来ないからいつも破壊され続けるのである。また(破壊や苦悩を経験することで)それらとは反対のものがあるはずだと感じ取ることが可能となる。しかし、常に変転する世においては、立ち止まってその反対なるもののことを考えることができず、かえって考えないようにしながら日々を暮らすほかはない。これが人の日常的なありさまである。「「世間」とはかくのごとき世の中に堕在していることである
」。「かくのごとく「世」の意義は、破壊性、対治性 、覆真性の三つの契機において規定せられる。」
世間無常という概念は、遷流という言葉が示しているように、時間
の経緯によって惹き起こされる事柄に関わっている。そして、その事柄の内容は人間関係における「苦」として捉えられている。愛別離苦、怨憎会苦のような言葉が苦における最大のものとされているからである。変転がもたらす苦は自然現象の時間的推移ではなく、人間の関係の変転に関わっているのである。従って「世」そのものが人の社会的存在として捉えられていることが分かる。「かくみれば「遷流への堕在」としての世間の概念は、人間関係をその時間的性格において強調しつつ捕らえたものと解することが出来る。世間無常という命題が特に著しく印象するのは、人間関係の破壊性である。」
世間と訳された(インドにおける梵語の)原語lokaには、本来「遷流」の意味より「場所」の意味をもつものあった。場所と言っても、初めは「見ゆる世界」(自然科学的空間において見える世界)としての世界を意味したが、次第に現象を含んだ、またその現象の特徴によって区分された領域(欲界や輪廻観の五界など)をも意味するようになり、それは「主体的存在 の特殊な界隈、特殊な領域であり」、「衆生の生の関係の空間的性格を現したもの」となった。仏教により日本に伝わった世間の概念は、空間的性格を保持しながら時間的性格において捉えられたものである。仏教は無常性が根本命題であるから、lokaの意味が時間的性格を持つように変化したのである。Lokaは「世界」という言葉にも訳されるが、そこでは時間的意味が振り落とされていく。そして同時に、「世間」という言葉は「見ゆる世界」ではなくて「主体的存在の領域」での意味を担っていった
。
「世(よ)」は「世代」という語において「よ」=「代(よ)」として時を意味し、第一に時の概念を含んでいる。しかし、同時に「遁世」では人の社会を意味し、「世情」では人の社会のありさまを意味し、「世路」では場所的なものを意味するなど人間の共同態をも意味している。
「間」は「中」と同様に第一に空間の意を含んでいるが、「男女の間」、「仲違いをする」などの用法が示すように、人と人との交わり、行為的連関
(=間柄)である。人は行為なくして「間」「中」を作り得ず、何らかの「間」「中」がなければ行為できないからである。このような意味での「間」「仲」は、「机の間、水の中というごとき静的な空間ではなく、生ける動的なものであり、自由
な創造を意味する。それが人間の共同態なのである。」
仏教哲学における用法である「遷流へ堕在する世間」の「世」は時間、「間」は場所の意味として区別されて用いられているが、日本語における「世間」「世の中」という言葉は、一つの言葉として一つの意味を現している。しかも、「世間に知られる」「世の中を騒がせる」の用法では「主体」の位置を占め、「世間をはばかる」という用法では「ある態度を取る他人」の位置を占めている。この二つの意味(時間・空間の二重性と自他の二重性、という二つ)が一語の「世間」「世の中」として一つの意味を示している。「かく見れば世間・世の中は、世及び間・中がそれぞれに有する社会の意味を、重ねて強めた語として用いられているのである。」
「社会」という語は、元々シナにおいて宗教的に結びついた小さな村落共同体、あるいは「団結事をともにする」集団を意味した。日本において訳語として用いられ始めると、以前より使われていた「世間」「世の中」という言葉に代替してきた。この「世間」・「世の中」という言葉は、日本ではもともと空間的だけではなく時間的性格を持っていたから、社会という言葉の中にも、人間存在の歴史的・風土的・社会的性格を捉えていた(「世間」が「社会」と「人」いう言葉に後から分節した)。
そこで「世間」「世の中」の概念を次のように規定する。「遷流性及び場所性を性格とせる人の社会である。あるいは、歴史的・風土的・社会的なる人間存在
である」。
世間の概念を明確にしたので、人間の概念を人間の世間性と人間の個人性という二つの性格に区別して言い表すことができるようになった。人間存在はこの両性格の統一である。この統一は、行為的連関として共同態であると同時に行為自体は個人的である。これは人間存在の構造であって、人間存在の根柢には行為的連関の動的統一が存すると言うことができる。この動的統一が一節で述べた秩序・道である。
すると倫理とは「存在」の根柢であって「当為」(Sollen)ではないのだろうか 。「人間存在」とは何だろうか?
四、「存在」という言葉の意味
存在という言葉はSeinの同義語として用いられている。しかし、seinは繋辞(=copula、「である」)で、存在という言葉は繋辞ではないから、この二つの言葉は同義ではない。
Seinの訳は「存在」ではなく、「である」の語幹の「あり」が選ばれるべきであった。「あり」は名詞(「ありのまま」)、繋辞的用法(「である」 )、exsitentia(事実)を現す場合(「がある」)、の何れの形も取ることができる。このように「あり」は「である」と「がある」に分化した。seinはそのような分化を示していない。「かく「あり」という言葉自身が二つの方向に分化していることは、かかる分化を示さないseinよりもかえって優れている と言ってよい。」。「論理学は「である」を取り扱いオントロギー は「がある」を取り扱う、しかも両者は根源的な「あり」に基づいている。だからこの根源的な「あり」を取り扱う基礎的オントロギーがなくてはならぬ。」(と言えば、存在論が「存在」という言葉が何を意味しているのかを問う学であるなら、一応の答えとはなる)。
「がある」に当てている漢語は「有」である。シナには繋辞のseinに当たる語はないから「有」には「である」の意味を含まない 。だから「がある」を取り扱うオントロギーは「有論」である。しかし、この「有」という言葉に導かれて更に一歩を進めることができる。「有」には「がある」と同等の強さで「もつこと」の意味がある。ハイデッガーはギリシャ語のousia(訳語はexsitentia)について同様に論じている。Ousiaはもともと所有を意味していたが、「有る所のもの」をも意味しており、これをハイデッガーは身近にもたらされたものと解釈して、事物を交渉的存在へと連れ込んだのである。有為、有意、有志、有罪、有利、有徳などの用法において、有の下の字は「がある」とともに「所有」、持つことを意味する。そして有(も)つのは人間であるから、有(あ)るのは有(も)つという人間のかかわり方に基づいてのみ有るのである
。
「がある」は「人間が有(も)つことである」。すると「人間がある」ことはいかに解すべきなのであろうか。人間自身は人間以外の何ものにも有たれるのではない
。天が人間を有つという考えも天は人間の全体性を反映したもので、人間以外のものではない。人間があるのは人間が人間自身を有(も)つことである。まさにこの点に人間であることの特徴がある。「そうして人間が己自身を有(も)つと言い現す言葉がまさに「存在」なのである。」
「存」という言葉は、「日常的には「存じております」というごとく、あることを心に保持する意に用いられている」。「存」のこの意味は、シナ古代から用いられていて、「がある」ではなくて自覚的に有つことを意味している
。「存は主体の行動として己自身及び物を有つことを意味するが、まさにそのゆえにまた存は明白に時間的性格を帯びるのである。」。「存」の本来の意味は「を存する」であり「が存する」ではない。このことは、存身、存生、存命、生存などの用法からも明らかである。「存」はその根源的な意味において主体の自己把持である。
「「存」が時間的意味を含むことに対して「在」は古来「にあり」として特徴付けられている。すなわちある場所にあることを意味するのである。」しかし、単に空間的な場所を指すだけでなく、在市、在宿、在宅、在郷、在世などの言葉から、社会的場所でもあり得る。「在は、主体的に行動する者が何らかの人間関係においてあることを示唆すると言わなくてはならぬ」。「在」は根源的にその主体が実践的交渉においてあることを意味する。
以上から、「「存在」が間柄としての主体の自己把持、すなわち人間が己自身を有(も)つことの意であるのは明らかである。存が自覚的に有(も)つことであり在が社会的な場所にあることであるという点を結合すれば、存在とは「自覚的に世の中にあること」にほかならない。しかし、その世の中にあることがただ実践的交渉においてのみ可能である点を強調すれば、存在とは「人間の行為的連関」であると言わねばならない。これが我々の存在の概念である。従って我々が存在をいうとき、それは厳密に人間存在を意味しているのである。
五、人間の学としての倫理学の構想
以上において、倫理、人間、世間、存在という四つの根本概念を規定したので、「倫理とは人間共同態の存在根柢である」という最初の規定も明確になってきた。倫理学はそのような倫理の学だから、人間存在の学でなければならない。
人間存在は人間の行為連関であるゆえに自然必然的な客体であるSeinではない。人間存在は行為として常に未だ実現していないことの実現に向かっているからである。人間存在は人間の行為連関として、単に主観的な当為の意識としてのSollenでもない。単なる主観的な当為意識は人間存在が個人の意識に反映したものにすぎない。
SeinとSollenはともに人間存在から導き出されるものとして取り扱われ得ると考える。人間存在はSeinとSollenの実践的根源であり、両者成立の地盤である。従って、人間存在の根本的解明は、一方では客体的なSeinの成立根拠に答える地盤を、他方ではSollenの意識の存立根拠に答える地盤を与える。前者は人間存在の「有の系列」(「存在」→「物を有つこと」→「物があること」という系列)を辿ることによって 、後者は人間存在の構造が自覚される過程を辿ることによって答えられる
。
そのような人間存在として、人間は個として現れつつ全体を表現する。個も全体も主体的存在から抽離されるもので、そのことによって個は肉体に対する主観的自我となり、全体は客観的な形成物としての社会となるのだが、この主体的存在は実践的行為的なものであって有でもなければ意識でもない。「このような存在は、個であることを通じて全体となるという運動においてまさに存在なのであり、従ってそのような運動の生起する地盤は絶対空
である。すなわち絶対的否定 である。絶対的否定が己を否定して個となりさらに個を否定して全体に還るという運動そのものが、人間の主体的存在なのである。ところで一切の人間共同態を可能ならしめているものはこの運動にほかならない。それは一般に間柄を作るためのふるまい方として、行為的連関そのものを貫いている。それがまさに倫理である。」
倫理学はそのような倫理の学であり、その方法は次章の問題だが、「とにかく(倫理学は)人間存在において主体的実践的に実現せられたものを、一定の仕方で学問的意識にもたらせばよいのである。従って「倫理」の学は同時に「人間存在」の学でなくてはならぬ。それが「人間の学としての倫理学」なのである」
そこで、倫理学の課題をおおよそ定めることができる。第一に問題にすべきは、人間存在の根本構造である世間性と個人性という二重性格のうちに、あらゆる実践の根本原理
が見いだされるということである。この実践の場は人間の共同態であるから、第二の問いとして、人間の世間性を取り上げねばならない。世間や存在という概念は(実存的な)空間性と時間性という二重の性格を持つから、人間存在は空間と時間の二重構造を持ち、これが実践的意義(意味)を担うこととなる。良心や自由や善悪の問題はこの問いにおいて解かれる。「人間の世間性の解明は、人間の孤立的存在が何であるかを明らかにする。が、それとともに人間の共同態がいかにこの孤立的存在に媒介せられているかもまた明らかになる。」
。すると、共同態の様々な層を捕らえることができるから、「実践の原理の実現せられる段階」を追うことができ、すなわち、「人間の連帯性の構造」が第三の問題として扱うことができるようになる。責任、義務、徳などの問題がここで解かれる。共同態の諸層が明らかになると「人間(存在)の空間性と時間性とは(そういう人間存在の二重構造は)人間の風土性及び歴史性として己を現してくる」。「共同態の形成は風土的・歴史的に特殊な仕方を持っている」というのが、第四の人間の特殊性の問題である。国民道徳の原理問題がここで解かれる。「これらの課題を人間存在の根本構造から解くこと、それが人間の学としての倫理学の仕事である。」
人間の学としての倫理学の構想を言葉の研究から導いてきたが、それは「一つの民族の体験を客観的に結晶させたものとして言葉を重視する」からである。倫理学の歴史を通して、この構想は古くから哲学により試みられてきた。次ぎに、代表的な哲学者を捕らえて、そのことを示してみよう。そのことによってわれわれのこの構想は歴史的な支持を得ることができるのである。
六、アリストテレスのPolitike【簡略に】
アリストテレスはEthica Nicomacheaによって倫理学の祖と言われている。この著作にて取り扱っているのは全体としてのPolitike(政治学)であるが、部分としての個人のEthica(倫理)が語られているからである。
Politikeは個人及び社会組織(ポリス)の両面から考究して初めて完成する「人の哲学」であり、我々の言う人間の学としての倫理学と一致する。しかし、Politikeにおいては個人の本質内容を個人自身のうちに 置くことと、人が本性上ポリス的動物であるとすることが並置されている。我々はこの二つの考えの統一においてアリストテレスの人間の学を見なければならない。
七、カントのAnthropoligie 【簡略に】
カントの道徳哲学は、主観的道徳哲学という部分においては十分とは言えない。しかし、その最も深い内容においては我々の言う「人間の学」と一致している。この視点はヘーゲルの人倫と同じである。
カントのアントロポロギーは二つある。一つは経験学としてのそれであり、もう一つはこのような経験の可能根拠(=人間知)を明らかにする道徳学としてのそれである。つまり「人」を経験的及び可想的な二重性格において規定している。定言命法はこの二重性から理解できる。この原理は、人間関係の原理である。
八、コーヘンにおける人間の概念の学【簡略に】
コーヘンは、カントが人間自身は目的であるという原理を立てたことをもって、ドイツ社会主義の真の創設者と呼んだ。「カント自身が共同社会的法則と呼んだこの原理こそは、定言命法の最も深い、最も力強い意味を表したものであると共に、また社会主義の原理でもあると主張せられる。」
九、ヘーゲルの人倫の学【簡略に】
『人倫の体系(1802年?)』の基本はアリストテレスのEthikでもなく、カントの「主観的道徳意識の学」でもなく、普遍と個別の弁証法的展開による社会哲学である。
『精神現象学』においては、「人倫の体系と精神哲学とのいまだ熟せざる接合点を見いだし得る。」
「『法の哲学』として詳述したときには、それは<中略>初めのような人倫の哲学ではなかった。ここでは絶対的人倫がその絶対性を失っている。しかし精神の哲学に取り込まれた人倫の哲学がなんらかの形でその独立性を維持しようとしたことは、ここにも看取せられると言ってよい」。
ヘーゲルの哲学は「かく見れば人倫の哲学は、絶対的全体性を「空」とするところの人間の哲学としても発展し得るものである。<中略>かかる意味においてヘーゲルの人倫の学は、倫理学にとっての最も偉大な典型の一と呼ばれてよい。」
精神の運動と捉えるヘーゲル哲学が観念論的立場であるという批判はあり得る。フォイエルバッハ、マルクスがそうである。しかし、彼らもヘーゲルの分析した存在の構造を根本概念として使用している。
十、フォイエルバッハの人間学【簡略に】
フォイエルバッハはヘーゲル哲学を「神学」として批判し、「神の学」から「人の学」への転向を試みたが、あまりうまくはいかなかった。
十一、マルクスの人間存在【簡略に】
マルクスは、フォイエルバッハが人の社会的存在の部分をうまく把握していないことを批判し、人は常に社会的関係において有る、だから人の本質は社会的関係の総体にほかならない、と捉えた。
マルクスはヘーゲルの国家観を徹底的に覆し去ろうとしたが、ヘーゲルの人倫哲学を受け継いだのである。
だが、この「人倫の体系」の最大の問題点は人倫の絶対的全体性であり、この問題は有の立場では解かれない。「その解決に対して我々に最もよき指針を与えるものは、無の場所において「我れと汝」を説く最近の西田哲学であろう。」
第二章 人間の学としての倫理学の方法
十二、人間の問い
倫理学は「倫理とは何であるか」と問うことである。倫理学は人間存在の学(=人間存在が問われている学)である。従って、「問うこと」が人間存在の一つの仕方であり、倫理学においては、問うこと自身が問われていることなのである。これが倫理学の方法を規定する第一の点である。「問うこと」が人間存在の一つの仕方である、ということはどういうことなのか、問うこと自身が問われていることである、という問いはどのようにして答えられ得るのだろうか。
人間とは間柄におけるわれわれ自身である。従って、「問うこと」(=学)は間柄において把握されなければならないことになる。「学」は元来人間を離れてそれ自身で存立する知識ではなく、それは「まねぶこと、倣うこと及び訪いたずねること」として、人間の行動であって、そこには「こと」が探求の目的として目ざされているとともに、その探求が学び問うという人間関係において行われるのである。このことは問いが根本的に「人間の問い」であることを意味している。
問いの構造に関してはハイデッガーの考え
が参考になる。ハイデッガーにとって、問いは探究 である。探究は何ものかへの問いとして「問われているもの」を持っている。同時に、そのものが何であるかと問うのだから「問われていること」を持っている。特に理論的な問いにおいては、問われていることのほかに、そのことの意味
をも含んでいる。更に問いには「問う者」があるから、「上の空の問いもあれば根ほり葉ほり問うこともある。」というような「問う者の態度として特殊な有り方」を持っている。これらは問いの構造として一応誰でも承認せざるを得ないだろう。
しかし、ハイデッガーの問いの構造では規定できない契機がある。それは「問われるもの」についての規定である。問いは確かに何物かにおいて何ごとかをたずねるのだが、更に何者かに対して向けられているのだ。そしてしばしば問われている問いの向けられているものと問われているものが同一である
。しかも問いの本来の意義は間安 、問訊 というように人への問いであり、それは間柄を表現する何ごとかが問われたのであり、問われる者の気持ちを問うと同時に問う者の関心の表現でもある。更に訪問という意味において人を問う場合には、第三者が問われる者と問われることの関係に付け加わる。「だから我々は問いにおいて、問う者と問われる者と、及びその間において問われている物と問われていることとを区別することができる。それがまさに「人間の問い」である。かかる問いにおいては、問う者が問うとともに、その問いは問われる者にとっても存在する。すなわち問いが共同的に存在する。」
特に理論的な問いにおいて問われている意味が問題とされるとき には、この問いには必然的に共同的性格が伴っている。なぜなら、人間の言葉において言い現されていることが問題とされるからである。
問いの構造は、以上のように「人間の問い」として明らかにされるべきものである。問われる者(物ではない)を持たないで一人密かに疑問を抱くというような問いは、人間の問いの欠如態
である。問いが身振りや言語や概念に形成されずに漠然たる気分であるうちは、問いではない。本質的に共同性なき問いは(共同性なき言語があり得ないのと同じように)ありえないからである。
学問としての問いは人間の問い、言いかえれば共同的に「ことの意味」を問う、という問いである。「しかるにこの共同性が近代哲学の出発点においてきわめて鮮やかに見捨てられた」。近代哲学を支配したデカルトの考え、すなわち方法的懐疑という方法は、「かく「孤独」に身を置いて自我と対象とを対立せしめ、その何れが確実であるかを問う」という、換言すれば「人間関係から己を切り放つこととによって自我を独立させる」という立場に立ったものであり、「実践的行為的連関としての世間から離脱してすべてをただ観照する、という態度を取ることにほかならぬ。」。この立場に立つことで自我は絶対確実となり、自我の出所である現実は疑わしいものとなる。そしてここに個人の問い(人間の問いに対する)が成り立つのである。
しかし観照の立場に立ち自我を出発点にしたとしても、個人の問いは、実は人間の問いなのである。なぜならばデカルトの問いは、学問において確実なものを探究するのだから自我以外の一切が疑われる場合にも学者の間に共通した学問があることが前提となっているからである。この問い方は、歴史的社会的に学者の間の問いとして発生したのだから、本質的に人間の問いなのである。「我れ」が疑いを言葉によって表現するということは、それは共同の疑いなのである。だから「我れ」(=自我)を出発点にしないで「人間」(=我々)を出発点にしなければならない
。
問いは本質的に人間の問いであり、その限りにおいて問いは人間の存在の仕方である
。倫理学は人間存在の根本構造への問いだから、倫理学は人間存在の一つの仕方においてその存在自身をあらわにするほかはなく、換言すれば一つの人間関係を作ることにおいて、そのような人間関係自身を根源的に把捉しようとするほかはない。問われることが倫理ではなく従って人間存在でない場合
もあるが、それ以外においては、問われていること(=倫理)、と、問うている人間(=間柄)、を分離することはできないのである。
十三、問われている人間
倫理学の方法の第一の規定から、倫理学の問いにおいては、問う主観と問われる客観を本質的に区分することができないことが分かる。従って倫理学においては主観客観の対立関係を用いることが出来ない。我々は人間を実践的主体として把握しなければならない。これが倫理学の方法の特徴の第二点目である。
主観と客観を区分せずに学的に認識する方法は「有論」であることを、われわれはすでに見てとっている
。カント以後承認されてきた認識論を、現象学の志向性の立場から覆そうとするハイデッガーの考察は、その著しい例であり、示唆に富んでいる。その考えは大体次のようなものである。
主観客観の対立は、「我れ」は主観、「もの」は客観として、「我れ」と「もの」は、その関係以前に、すでにあることが前提されている。しかし、このことは不可能である。「我れ」は必ず「もの」への志向的関係を持つ「我れ」であり、「もの」は必ずこの関係において見いだされるものである。関係の方が「我れ」と「もの」に先立つのである。志向性の地盤において初めて主観と客観が分かれてくるのである。だが、あくまでも「もの」は主観の外側にあり、客観は主観的に、主観は客観的となりうるのである。主観と客観の明確な対立関係によって「もの」と「我れ」を捉えることはできず、両者の根底をなすのが志向性であり、志向性を可能にするのは人の存在である。
主観客観の対立を可能にする地盤は人間存在であるという上記の考えによれば、人間が単なる客観として認識対象に対立するはずはない。このことを明白に認めていたのはカントである。カントにおいては、認識の客観は「自然」であり、本来の「人」は認識の対象外であり、人の全体的規定は実践的な道徳形而上学として求められる。「かかる規定を彼は主体の自己規定が実践的にあらわになるという直接意識の事実から出発し、その事実の分析によって得ようとした。すなわちそれは実践的にすでに行われている規定の理論的反省にほかならなかった。」
倫理学はそのような意味においては古くから実践的な主体の学として理論的な客観の学からは区別されていた。「ここで新しく問題となるのは、その実践的な主体が「人」あるいは「我れ」ではなくして「人間」であり「間柄」であるという一点にほかならない。」
主体が「我れ」である限り、それを「我々」とするには極めて困難な他我の認識を解かねばならない(という問題が生じてくる)。しかし、主体が「間柄」であれば、「我れ」はもともと「我々」なので何ら問題は生じない。
「このような「我々」の立場は、すべてが主体として連関し合う立場である。それが主体的な間柄
にほかならない。従って間柄は互いに相手が主体であることの実践的な了解なのである。行為的連関があるということと相互了解とは同義である。」
人間を間柄として把握すれば、「もの」と「我れ」との関係における志向性の志向は本来共同志向となる。このことは、個人的意識を問題とする現象学
では許されないだろう。「ここ(共同志向が我れにおいて我れの志向となるという考え)に我々は主体的な間柄がいかに己を客観化するかについての重要な視点を得ることができると思う。」
志向性は対象を成立させる地盤であって、間柄自身の構造ではない。例えば誰かを見ると言う場面を想定してみよう。ここでは、見るという志向作用ではなく、見る~見られるという「間柄における働き合い」が重要なのである。「「見る」といいうことが、相見る、眼を見つめる、睨みつける、眼をそらす、眼をそむける、眼を伏せる、見入る、見入らせられる等のさまざまなの「見方」によって、鮮やかに間柄の諸様相を現している。」。志向作用がノエーシス~ノエマの連関であるならば、このような見方は志向作用であるとは言えない(それは「行為」である)。「志向作用はすべての間柄的な契機を排除して、いわば中和的な意識作用をのみ残したものである。」このことは、「見る」だけではなく一切の作用
について言うことができる。
(主観と客観の区別以前にその根柢にあるという意味では同じである)志向性と間柄が上記のように区別されることは、間柄が行為的連関であることを一層明らかにする。「行為は「我れ」の立場において「意思」からのみ説かれるべきものではない。それは自と他とに分かれたものが自他不二において間柄を形成するという運動そのものである。」行為は、他の主体についての了解を初めから含んでいる。他の主体から規定せられることなしにはいかなる行為も行われない。
倫理学は実践的なる主体の学であるが、その「主体」は実践的な間柄として把捉されなければならない。倫理学において問われている人間はこのような主体的な間柄である。
十四、学としての目標
倫理学は倫理とは何かと問うのだが、その問いには「何々である」として答えなければならない。そこで問われていることは(人間存在を可能にする)人間の存在の仕方であるのだが、存在の仕方はただ行為することによってのみあらわとなる。従って倫理学は、行為のなかの特殊な領域である理論的反省の立場として、存在の仕方を「であること」に翻訳しなくてはならない。これが倫理学の学的性格を決める第三点目である。
まず、倫理学のめざすのは(=目標は)「もの」ではなく「こと」である点を明らかにしなければならない。理論的反省の対象は「物」でしかあり得ず「者」であってはならないから、倫理「学」は背理であるかのように見えるがそうではない。主体としての「我々」が主体の外に出ることによって「客観」となり、そうすることで主観としてこの客観に対立することができるのである
。「これが「物」を表現として、すなわち外に出た我々自身として、取り扱う立場である。」
我々は日常生活において、「物」を単なる「物」ではなく道具
として取り扱っている。そして道具は生活の表現であるから、「物は表現であり外に出た我々自身であると言ってよい。」。つまり、物への問いは「物における生活の表現を目ざしている。」。
倫理学の問いは「一切の物
における人間生活の表現を目ざしている。」。道具、言葉、作品、社会的制度などは人間存在の表現である。実践的主体を把捉するためには、この表現は欠くことのできない通路である。この「物」により表現されているのは人間存在であって、人間という「もの」はこの存在においてあるのである。「従って一切の表現は実践的な間柄における主体的な存在の表現である。」。個人的な体験の表出のように見える表現も、個人として現れた間柄の表出である。
間柄の表現は、間柄自身を発展させ、間柄は自覚的な存在となる。言い換えれば、人間存在は己を外化し表現することで絶えず己を自覚的に形成していく存在である。そのことによって人間存在は無限の表現や了解を含み、その表現や了解には無数の段階があるのである。
倫理学は、このように既に自覚され、また表現において己を示している人間の存在の仕方を、しかじかであることとして、「こと」に翻訳すれば良いのである。そこで繋辞(copula)「である」の問題に突き当たる。
(前に述べたように)「である」は「あり」の一様態である。古い日本語では「である」に当たる言葉は「なり」(にあり)および「たり」(とあり)のように「に」「と」という助詞と組み合わされた「あり」であったが、(助詞を用いないで)繋辞としての「である」に区別したのはなぜだろうか。
山田孝雄氏 は、「あり」の根底的な用法はcopulaとしての用法すなわち「である」であって、その根拠を人間思想の統覚作用に基づいていると考えている。しかし、「あり」の本来の用法は事物があること「がある」であって、copulaとしての用法は「たり」「なり」に姿を変えている。「がある」の意味も「である」に転化され得ない。従って「あり」のcopulaとしての用法が根底的だと考えることはできない。
繋辞の「なり」「たり」は、それらの語幹である「あり」を、助詞「に」「と」で限定したものである。顕著な例は「風静かなり」のような、賓辞が副詞の場合である。単に風があるのではなく、静かにあるのである。これは、風の「有り様(さま)」を示すもので統覚作用をあらわすとは言えない。山田氏が形容動詞として区別した「あり」(・・・くあり)も、「風烈しかりき」のように形容詞と熟合した「あり」も、このような「なり」と同じで、「あり」の限定である。
繋辞の「あり」は一般に「がある」の限定である。SはPなりという命題形式を考えてみると、例えば「彼は学生である」のように賓辞が体言の場合も、例えば「学生は学ぶものなり」のように分析的命題の場合も、その分析の対象が実在しない場合、例えば「幽霊は錯覚像なり」も、繋辞としての「あり」の限定である。AはAである、のような、命題が自同律の場合は、「である」は「がある」を全然離れて純粋に統覚作用をあらわしている。しかし、そうであっても、「がある」が繋辞としての「あり」の限定であることは成り立つ。「もしAが定立せられているならば、すなわちAという観念があるならば、それはAという観念としてある。Aという事物があるか否かには関しない。これが自同律の言おうとするところである。しからばここにも我々観察は通用する。」
だが、事物や観念がある、ということの限定とは何だろうか。事物や観念は自らを限定するという働きをせず、働くのは人間である。事物があるのは人間に有(も)たれることであった。従って「有り」の限定は、事物や観念を有(も)つ人間の有(も)ち方の限定である。風がある、風静かなり、さすがに風は風である、のように、有つのは人間であり、どのように有つかも人間である。「・・・「がある」と「である」との区別は、人間の存在の内部における区別である。<中略>「あり」が「存在」をあらわすということは、厳密にはただここでのみ言われ得る。」。「あり」という言葉は人間の存在の顕示
であり、このことが学において特に重要となる。だから学において「であること」がめざされるのである。
「である」が存在を顕示する場所は「陳述
」である。「「陳述」は人間の存在の言い現しである。人間は何かについて陳述しつつ己の存在を表現する。<中略>陳述とはこの存在をのべひろげ て言い現すことである。のべひろげるに当たってそれはさまざまの言葉に分けられ、そうしてその分けられた言葉が結合せられる。」
「あり」が単なる結合の辞なら、何かをのべるときに言葉を探すという現象を説明することはできない。言葉を探すという現象があるのは、まだ結合するべき言葉はないけれども、のべられるべき「こと」、換言すれば陳述されるべきことは既に与えられているからである。
従って、陳述においては結合よりも分離の方が重大な契機である。そしてこの分離の仕方は、個々独立の部分として分けるのではなくて、本来の統一の自覚を意味するように分けるのである。「我々の国語によれば、理解を言い現す語は「分かる」であり、理解せられた「こと」は「ことわり」であり、理解しやすく話すのは「ことをわけて話す」のである。もとよりかく分け得るのは「こと」のうちに本来分けらるべき構造があるからである。だから理解は「ことのわけ」が分かるのであって「わけのないこと」が分かるのではない。しかしすでに「わけ」があるとしても、理解せられる以前にはそれはまだ分かってはいない。だから「わけ」は分かるべき構造を持った統一である。理解はそれを分けて分かった構造に引き直すことにほかならぬ。」
「「分かる」のは統一の自覚である。」。本来の統一が現れている分離を、明確に言い現わしていることばが「である」である。「統一・分離・結合の連関において初めて統一の自覚が成就せられる。」
「ところでこの統一・分離・結合の連関における統一の自覚こそ、まさに人間存在の根本図式なのである。」。従って陳述は人間存在の構造をそのまま映し取っているのだが、そのことは陳述の本質から解きうる。
間柄における行為的連関には無限の表現や了解が含まれているのであったから「わけ」は既に行為的にわかっている。しかも「わけ」は言葉で言い現され得るのだから、これは陳述の根源的姿である。言い現すのは「もの」を共有する間柄において、その「もの」に即して自他の連関を実現するためである。だから、陳述は根源的に間柄の表現である。また、表現は間柄において実践的行為的に分かっていることの客観化である。
間柄において実践的行為的に分かっているのは、自と他は分離しつつ間柄として合一しているからである。「自と他とは、本来自でもなく他でもないものが、そのないことの否定として己を現したものである。<中略>しかも自と他とは、本来一であるゆえに、自他不二的に連関する。」。
統一・分離・結合の連関としての実践的行為的な「わけ」は、言葉のみならず、色々な習慣、生活様式などとして、微妙な相互了解を含んで客観化されている。だから、そのような実践的な「わけ」を己のうちに映し取っている「こと」すなわち「ことのわけ」の陳述は人間存在の構造をあらわすのである。「ことのわけ」を分析することで人間の存在の仕方を「であること」に引き直し得るのである。
倫理学の方法はこの点から規定することが出来る。「ことのわけ」は倫理学以前に既に与えられている。「実際生活において「もの」のわかった人は、(理論的な反省をすることなしに、) また「こと」を分けて話すことも出来る。」。このような人は理論的な存在論(西洋哲学におけるOntologie)以前に存在論的であると呼び、我々の倫理学はこのような意味における存在論である。われわれの存在論は存在論以前の存在論的理解を通じて人間の存在の仕方、すなわち倫理をあらわにする。従って倫理学にとっては、理論
として人間存在への通路が問題となる。
十五、人間存在への通路
主体的な人間存在の学的な把捉(=倫理学)
は、言葉や物などによる人間存在の表現 の理解(=通路)を通じるほかはない、と言うことを見てきた。従って、学的方法の中へどうやってその方法を持ち込むことが出来るのか、が問題にされなければならない。
通路の問題は、われわれ自身の存在が主体的であると言う事に基づいている。もしこの存在が自然の有
と同じなら、この通路の問題は生じない。例えば経験論的倫理学の場合などがそうである。人間存在を自我の有 としてのみ取り扱う立場においても、例えばカントの立場ならば、直接意識の事実が主体の実践的な自己規定であるのだから、この通路の問題は生じない。
主体的に、主体的な人間存在を把捉するには、「意識に先立ち意識の地盤となる層へ入りこむ」のである。その地盤は実践的行為的な連関である。そのためには「個人の直接意識の事実からではなくして、人間における事実
、すなわち歴史的社会的なる事実を媒介として人間存在が探られねばならないのである。」
我々は、学の事実ではなく、日常的実践的なる経験の事実を捕らようとする。なぜなら、そこにおいては対象は常に人間存在の表現だからである。
社会科学の経験もその通路になりうるとしても、その場合には実践的行為的連関における人間の日常経験が選ばれなければならない。
ハイデッガーの存在論はきわめて参考になる。「我々がハイデッガーにおいて学び取るべきものとするのは、人が直接に己自身を対象とするのではなくして、逆に対象的なるものから己の有を了解する、という点である。<中略>だから存在への通路は、日常的に与えられた「有るところのもの」において認められる。<中略>しかも我々は彼の方法をそのままに襲用することができない。何故なら彼は<中略>志向性を掘り下げて人の存在に達するのであり、従って間柄としての存在には達し得ないからである。」
ハイデッガーが存在論的に用いているDasein(現存在)の存在的内容は、我れとしての人にほかならない。これはものとの係わりから始める限りそうなるのであって、このことは同時に人を根源的に間柄において把捉する道を塞いでしまう。
ハイデッガーは人と人との係わりをMitdasein(共現存在)の考えで説明している。しかし、Daseinが本質的に他人(共現存在)であると言われても、そこでは間柄には触れられておらず、自他不二的統一もなく、アトム的Daseinの並在はあっても一つの全体としての「共同態」はない。「あくまでも有の了解を介してのみ他人が出てくと考えたところに、彼(ハイデッガー)の存在論の著しい限界がある。それは有の了解よりもさらに根底的な実践的行為的連関、すなわち人間存在をみのがしてしまう。」
(ハイデッガーのように)「我れ」から出発して他人に達するというのは実践的行為的な人間存在の事実ではない。我々は「もの」と係わる前に「人」と係わっている。「かくして人間存在への通路は、見合い語り合い働き合うというごとき日常的な存在の表現や、さらにこれらの日常関係の中で取り扱われるさまざまの物的表現において求められることになる。我々の日常性はこれらの表現の了解においてにおいて成り立っているのである。」
共同的な生の表現が意識に先立っているところがあるディルタイの生の哲学は、主体的実践的な人間存在を主体的に把捉する道が与えられている。
我々は「事実に即する」ということを日常的な表現とその了解から出発するという意味に規定する。この表現が欺きであっても了解が多様であっても、「すでにこの表現・了解において、「こと」のわけに化せられているのである。それは「まこと」であることも「ひがごと」(僻ごと)であることもできる。」。日常経験の鋭い把捉に長じた文芸家の人間描写に頼ることもできる。人間存在への通路は無限に豊富である。
日常生活は茫漠たる表現の海であるから、この海に溺れてしまうのを恐れて諸科学の力を利用しようと考えるかもしれない。しかし、学的取り扱いは、「もの」が存在の表現であると言う日常的了解の地盤を隠してしまう。「そこ(隠れた地盤)にこそ主体的な人間存在が「ことのわけ」に化せられてくる急所がある。すなわち実践的行為的な連関が意味の連関に転化し来たる熔炉がある。」
日常生活におけるものの表現の横溢はそれほどの困難さを提供しない。なぜなら、困難となるのはものの関係を規定しようとするからであって、表現するものがめざしているのは人間存在なのだから帰還するところは一であるからである。従って、日常的な表現とその了解からの出発はどこからでもどんな表現物からでも始めることができる。
だが、人間存在への遡り方は順序正しく行わねばならない。まずさまざまな「間柄」が開示されなければならない。電車は交通の道具として、商品もそれぞれの社会関係として、山でさえもたとえば東山は「名勝」「保護林」等々としての社会的存在として、間柄を開示する。開示された間柄は了解される。それらは、親子の間柄、男女の間柄、等々身近な間柄において見出すことができるだろう。それらが総合されて世間の時間空間的構造が現れてくる。すると、家、村、町、国、会社などの客観的な形成物が、人間存在の仕方を表現するものとして、重要な意義を現してくる。親子や男女や友人の間柄というものも同様である。「それとともにかかるさまざまな存在の仕方を一定の段階として含むところの全体的な存在の仕方が、国民、民族というごときものから開示せられるであろう。かかる取り扱いをすれば、人間存在の表現の無限な多様性も、決して我々を混乱におとしいれはしない。」
我々のこのよう手法は、倫理学と社会学を近づける。歴史を振り返れば、社会学は19世紀にポリスの学、国家の学から別れたのだが、それまではアリストテレスの「人間の哲学」の伝統が残されていた。しかし、その際に社会もまた人間存在の一つの仕方であることを忘れて、それを「人の学」に対立させたのは誤りであった。「社会は「人間」である。社会の学は人間の学でなくてはならない。従ってそこでの根本問題は人と人の間柄である。個であるところの「人」がいかにしてまた同時に「共同態」であるか、総じていかなる行為の仕方が人間の団体というごときものを可能にしているのであるか、それをここで根本的に解かれねばならない。かく見れば社会の学は本来倫理学と異なるものではないはずなのである。」
しかし、社会学はそういうものとして形成されなかった。社会学は、人間存在への通路、換言すれば諸形成物の表現自体を学の対象自身としてしまっているのである。
十六、解釈学的方法
日常生活における表現の了解の問題は、学的には表現の理解の問題である。表現の了解は、(存在論的な)間柄の構造に結びつけられてはじめて理解となる。言い換えれば我々は了解されたその「こと」において実践的行為的な連関を理解することができる。この理解が単に主観的、恣意的ではなく学として客観性を持ちうる事が、どうやって保証されるのだろうか。我々は、それを解釈学的方法に求めようと思う。
解釈学は文学の地盤から生じたものである。ベェク(August Boeckh1785-1867)は、文学はすでに認識されているものの再認識であり、またその意味において歴史的認識である、と述べている。哲学は原始的に認識するものである。文学と哲学は相互制約的で相互補完的である
。文学と哲学は「歴史哲学」(文学の哲学化)及び「哲学史」(哲学の文学化)において合致してしまう。
「解釈」の問題は、表現の理解に関して生じてきた。理解には解釈(Hermeneutik)と批判(Kritik)という二つの契機があって、前者は対象をそれ自身において理解し、後者は対象の関係の理解である。Hermeneutikの語源を辿ると、「分からせること(hermeneia)」の本質は「(言語文字により)内なるものが分からせられる」こと即ち思想の表現であるのが分かる。つまりHermeneiaは表現と理解の二重の意味を持っている。このことは表現と理解についての鋭い洞察を示している。「表現自身がすでに分かるようにすることである<中略>表現における理解の自覚、それが「解釈」にほかならない。」ベェクはこのような意味で「解釈」の理論
を作ろうとした。
生の哲学に基づいたディルタイの解釈学は、ベェクの「理解の理論」を歴史認識の理論として哲学の中へ導き入れたものである。これを我々の倫理学に学び取ろうとするのだが、ディルタイの解釈学的方法は、日常的なる生の表現と了解とが、哲学的理解を媒介するものとして認められていない点において問題である
。解釈学においては、哲学的理解に先立つ実践的了解が必要なのである。「解釈学的方法における生・表現・理解の連関は、人間の存在の仕方の一つとしての哲学の中へ右のごとき実践的なる生・表現・了解の連関をうつし取ったものにほかならぬ。」
生は実は人間存在であるから、生の表現の理解はおのずから人を倫理に導く。逆にあらゆる間柄の表現すなわち社会的な形成物はすべて倫理の表現である。従って倫理学の方法は解釈学的方法であるほかはない。解釈学が与えられた文書的遺物から出発するのと同様に、解釈学的方法は人間存在の表現から出発する。解釈学がすでに言葉として言い現されたことの再認識であるように、解釈学的方法は日常的表現の了解において意味的連関に化せられたことの自覚である。
日常的な人間存在の表現から出発するのであるなら、このことを根本性とする現象学の主張を顧みておかなければならない。
「現象学的方法と解釈学的方法とは、いずれも「事実に即する」という要求の上に立っている。<中略>それ(現象学)は日常生活の自然的態度における世界経験から、その素朴な超越有(外にものが有ること)の定立を排除し、「純粋意識」にまで還らなくてはならぬ。これが現象学の固有の領域たる「現象」なのである。」。この現象学的還元は、無意識的・実践的・行為的側面を顧みないもので、人間存在の表現を排除してしまうもの
であって、そこでの「現象」は静的で観照的 なものであるにすぎない。しかし、解釈学では、自然的態度における日常生活自体が間柄における表現・了解・の動的発展であり、そこでの現象はすべて無自覚的に人間存在の表現として取り扱われる。昇る太陽は「拝まるべきもの」であって、単なる超越有として観照されるものではない。「超越有の排除は人間存在をもともに排除することなしには不可能であろう。従って純粋意識への還元はここでは行われ得ない。」
(以降、和辻の現象学=ハイデッガー解釈が述べられるが、その概要は参考として欄外にまとめ、文末
にも問題提起として記載した) 。
「・・・現象学からの脱却は、現象を純粋意識の事実とせずして、人と人との間において見いだされるものとすることによってのみ達せられる。<中略>人間存在の分析は、有論と現象学とから離れて、まっすぐに倫理を目指していくものになる。」。ハイデッガーの現象学には学び取るべき多くのものを見いだされるから、そこからの脱却はその延長点からの離脱により可能となる。
ハイデッガーの現象学的方法
は次のようなものである。第一は現象学的還元である。現象は「有」であり、「有の把捉は、まず必然的に「有る物」に向かい、次ぎに一定の仕方でそこから去り、その「有」へ還っていく。これが現象学的還元である。」
我々はハイデッガーの現象学的還元をさらに一歩進める。現象を「有る物」即ち人間存在の表現とし、その表現を捕らえ解釈することで、既に了解されている表現の自覚即ち理解が得られる。「それは人間存在への解釈学的還元と呼ばれてもよいであろう。」
第二は現象学的構成
である。それは、日常的な堕在 から自己を解放することによって「有る物」から「有」及び「有の構造」の方へ離脱させることである。しかし、我々は既に了解されている日常的な直接の所与を現象とするからそのような構成は必要がない。実践的行為的連関過程を自覚的に繰り返すことによって、人間存在の表現と了解が理論的な理解となって、人間存在の動的構造が自覚された意味連関になる。「これを我々は解釈学的構成と呼んでよいであろう。」
第三は現象学的破壊
である。伝承的概念は、(伝統に頽落した部分を)その源泉に遡って破壊し、批判的に掘り起こさねばならない。「かかる意味において構成は破壊によって行われ、破壊は構成となる。従って哲学的認識は本来的には歴史的認識である。両者は本来一つである」と言う。こうなると我々はこの破壊が現象学的と呼ばれることを理解できない。「この破壊と言われるのはまさに解釈学的方法の核心である」
「かく見れば還元・構成・破壊の方法は解釈学的にこそ真義を発揮し得るものである。」。「第一章において人間の学としての倫理学の意義を明らかにした仕方は、すでにほぼこれに従ったのである。」
おわり
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