2016年5月17日火曜日

ヘーゲル『精神現象学』①(緒論)


これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。

ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳

ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。

緒論
カクテル
一 絶対者のみが真なるもの、真なるものが絶対
デカルトは、何が真で何が偽であるのかを問い詰めて、結局心身二元論で心を棚上げにせざるを得ず、始めの問いにはよく答えられなかった。この問いは、実は人が真を認識するということはどういうことなのか、という問いなのであり、ヘーゲルはまずこの認識論をとりあげて次のことを指摘する。真理が一方の側に立ち、認識する人が他方に立って、適当な認識手段を用いてこの真理を把握することができるとかできないとかと考えること自体がそもそも誤りである。また、真理には絶対的ではなく相対的なものもあり得るし、この場合にはその区別も必要となる、と。

『この結論は「絶対者のみが真なるもの、言いかえると真なるものが絶対」であるということからでてくるものである。』

二 現象知叙述の要
学が本当の認識論を展開出来ないうちは、そうではない学の方が間違っていると「断言」しても、そうではない学の方も自分の方が正しいと「断言」するから意味をなさない。「断言」する根拠は、絶対者とか認識とか客観的なものとか無数の語によって何らかの意味を伴って表現される「表象」或いはお題目に基づいている。これらの「表象」は、学が登場したあかつきには、すぐに消えてなくなるような「知」の空ろな「現象」、言いかえれば「仮象」であるにすぎないものである。
学がこのような「仮象」から「自由」でなければならず、そのような「仮象」に刃向かって本当のことに近づき得るのには、まずは「知」に立ち現れてくる「現象」、「現象知」の叙述から始める以外にはない。

『以上のような理由によって此処に現象知の叙述が企てられなくてはならないのである』


三 叙述の方法
(一)進行の仕かたと必然性
現象知の叙述から学を始めてみると、素朴な意識は、これが正しいと思っていたものが実は間違えていたのではないかと疑わざるをえないという経験に遭遇する。その時、素朴な意識が、これではなくあれが正しいと思ったとしても、その次にやっぱりあれではなくこれの方が正しいのではないかと疑わざるをえないという経験に再び遭遇する。意識の遍歴するこのような道程は徹底した懐疑主義であって、真理へと次第に接近していく道程である。
懐疑主義と言っても、現れてくるものは「空無の深淵」に投げ込まれて同じように繰り返されるような「無」ではなく、これとかあれとかを否定するこの否定が「限定せられた否定」であるならば、そこにはすぐさまある新しい形式が発生してきているようなものなのである。かくして否定のうちにこの新しい思考の系列への移行がおのずと生じてくるのである。
知にとっては、思考の進行系列と同時に、その先には目標があることも明らかなことである。あれとかこれとかというのは意識にとっては「対象」、正しいとか間違いとかと考えるのは意識にとっては「概念」、そして目標とは、もはや知が己自身を超えていく必要のないところ、つまり概念と対象が一致するところにある。しかし、「意識は自ら対自的(自覚的に)に己の概念である」ので、意識というものは自らを対象化するものなのであって、自然の生命のように死ねばなくなるようなもの、言いかえれば己自身に限定されるようなものではなく、対象としての己を超え出て、概念としての「彼岸」を同時に定立してしまうものなのである。だから、目標への到達とは、概念と対象との休み無く続く運動を伴うものなのである。
目標への到達とは「絶対知」への到達を意味しているのだが、ヘーゲルが本当に言いたいことは、何が絶対知であるのかと言うことではなくて、そこへと至る道、概念と対象とが相互に転換しつつ次第に真なるものに近づいていく運動、言いかえれば、限定された否定の運動としての経験、そのこと自体の内にしか真なるものはあり得ない、ということであろう。

『魂が己の本性によって予め設けられている駅々としての己の一連の形態を遍歴して行き、その結果、己自身を余すところなく完全に経験することによって、己が本来の己自身においてなんであるのかについての知に到達して、精神にまで純化せられる際の道程であると、この叙述は見なされることができるのである。』

『しかしながら知にとっては、進行の系列とまったく同じく必然的に目標もまた設けられているが、目標は、知がもはや己自身を超えていく必要のない処に、知が己自身を見出して、概念が対象に、対象が概念に合致する処にある。だから、この目標までの進行もまた休みなきものであって、目標以前のいかなる駅でも満足は見出されえない。』


(二) 知と真
さて、現象知の叙述の進め方と、進める先には目標があるという必然性の概略は述べたが、ここでは、その方法について述べる。対象の真偽については何かの尺度をもっての吟味が必要となる。その尺度は主観には関係なく客観的で正しい、「実在であり自体である」ものでなければならないように見えるし、学がその尺度であるとしても、まだ始めたばかりの学としては吟味する力もないから、吟味をすることができないかに見える。しかし、知と真が意識においてどのように出現してくるのかをよく見てみれば、この矛盾を取り除くことができる。

『意識は或るものを己から区別すると同時にこれに関係しもする』のだが、意識が或るものに関係するということを、或るものが意識に対してある、と言っても良い。このような、意識に対してある存在の一つの特定の側面が知というものである。しかし意識においては、このような「対他存在」としての知が出現すると同時に、知と関係づけられるものは、知とは区別されたものとして、その関係の外に「自体存在」として定立されるのである。この自体という側面が真と呼ばれるものである。知と真とは、両方とも意識に対してある存在なのである。

尺度をもって吟味するとは、意識が知と真とを区別して、知が真であることを判定すること(「知が真であること」)とも言えるが、この知と真は両方とも意識に対してある存在であって、あるいは意識の内部にあるものだから『意識とは己自身において己の尺度を与えるもの』なのである。別の言い方をすれば、知を概念と呼び真を対象と呼んでも、或いはこの関係を逆にして、真を概念と呼び知を対象と呼んでも実は同じことなのだが、吟味とは対象と概念が一致するのかどうかを探究していくことなのであり、その際には、己の意識から区別され、また関係もしないような、外部の尺度などを持ち込んではならないのである。

意識が或る対象について知ることとは、意識にとっては自体である或るものと、対象のもたらす意識にとっての或るものの区別をして、両者が一致するかどうかある尺度をもって吟味することだが、一致しないときには、意識は己の知の方だけを変えなければならないように見える。しかし、知は対象についての知なので、知が変わると対象自身もまた意識に対して変わり、同時に吟味の尺度も変わるのである。

『大切なのは、次のことを探究の全過程にわたって銘記することである。即ち概念と対象、対他的に存在することと自ら自体的に存在することというこれらの両契機が我々の探究する知ること自身のうちに属しており、したがっていろんな尺度を我々が持ち込んだり、探究にさいして我々のいろんな思いつきや我々の思想を適用する必要はないということである。これらを捨て去ることによって、事柄を即自且つ対自にあるがままの姿において考察することに我々は達するのである』


『かく真と知との両者がいずれも同じ意識に対してあるのだから、この意識自身が両者の比較をなすのであり、対象についての己の知がはたして対象に一致しているか、一致していないかの問いが同じ意識に対して生じてくるのである。』

(三)経験

『意識は自分自身において、即ち自分の知においても自分の対象においても弁証法的運動を行うのであるが、この運動から意識にとって新しい真実の対象が発源するかぎり、この運動こそまさに経験と呼ばれているものである。』

意識は、これが正しいと思っていたものが実は間違えていたのではないかと疑わざるをえないという経験に遭遇して考えを変えたとしても、また同様な経験をして元の考えに戻ってしまい何も変わらないならば、この経験と呼ばれているものは本当の経験ではない。「経験」とは、意識の弁証法的運動によって、意識にとって新しい真実の対象が発源するかぎりのものである。

この時の弁証法的運動をもう少し説明してみるとこうなる。あるものを知る、ということは、そのあるもの(対象)は、はじめは自体であり、次にその存在は意識に対してもまた自体となる。その時には意識に対して自体となった対象はもはや元の対象とは別の新しい対象となっている。次には、その新しい対象が自体であり、次の次にはその存在は意識に対してもまた自体となる、ということである。普通は、最初の理解が間違っていたことを経験するのは、最初の対象とは「即自且つ対自的に」つまり全く独立に存在している別の対象をただ受け取ることである、と考えるのだが、これは間違いである。
意識の弁証的運動は必然的なものであるが、この必然性は哲学的考察者としてのわれわれに対することであって、意識はただ現れてくる対象が前のものから発生してくることだけとしかとらえることはできない。

『かかる必然性によって学に至るこの過程がそれ自身すでに学であり、そのうえ内容からいえば、この道程は意識の経験の学である。』

世界とは、「経験」されたものでしかない。世界におけるすべての対象についての諸契機は、抽象的な純粋なものとして現れてくるのではなく、意識との関係において現れてくるものである。

『(世界)全体の諸契機は意識の諸形態である。』
 
    単に己に対してあるにすぎない意識が自分の真実に向かって進んでいくと、ある立場に到達する。この立場において現象は本質となり、意識自身が精神(≒世界)であるという己の本質を把握して、意識は絶対知自身の本性を示す。

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