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2018/6/24追記:平凡社ライブラリー(原佑、渡辺二郎訳)で新たに読み始めたので、この続きは別ブログ(爺~じの”読書日記)に逐次掲載し、纏まったらこのブログにアップする予定です。二年くらいはかかりそう。
『純粋理性批判(カント1787 第二版 底本Ca版---岩波文庫)[1]』読書ノート
【目次】
献辞
第一版序文
第二版序文
緒言
Ⅰ 先験的原理論
第一部門 先験的感性論
緒言(1)
第一節
空間について
l 空間概念の形而上学的解明(2)
l 空間概念の先験的解明(3)
l 上記の諸概念から生じる結論
第二節
時間について
l 時間概念の形而上学的解明(4)
l 時間概念の先験的解明(5)
l これらの概念から生じる結論(6)
説明(7)
先験的感性論に対する一般的注(8)
先験的感性論の結語
第二部門 先験的論理学
緒言 先験的論理学の構想
Ⅰ 論理学一般について
Ⅱ 先験的論理学について
Ⅲ 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて
Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて
第一部 先験的分析論
第一篇 概念の分析論
第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて
第一節
悟性の論理的使用一般について
第二節
判断における悟性の論理的機能について(9)
第三節
純粋悟性概念即ちカテゴリーについて(10-12)
第二章 純粋悟性概念の演繹について
第一節
l 先験的演繹一般の諸原理について(13)
l カテゴリーの先験的演繹への移り行き(14)
第二節
l 純粋悟性概念の先験的演繹
l 結合一般の可能について(15)
l 統覚の根原的-総合的統一について(16)
l 統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である(17)
l 自己意識の客観的統一とは何かということ(18)
l およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えるにある(19)
l およそ感性的直観はかかる直観において与えられた多様なものが結合せられて一つの意識になり得るための条件としてのカテゴリーに従っている(20)
l 注(21)
l カテゴリーは経験の対象に適用され得るだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない(22-23)
l 感官の対象一般へのカテゴリーの適用について(24-25)
l 純粋悟性概念の一般的に可能な経験的使用の先験的演繹(26)
l 悟性概念のかかる先験的演繹から生じた結論(27)
l この演繹の要約
第二編 原則の分析論(判断力の先験的理説)
緒言 先験的判断力一般について
第一章
純粋悟性概念の論について
第二章
純粋悟性のすべての原則の体系
第一節
一切の分析的判断の最高原則について
第二節
一切の総合的判断の最高原則について
第三節
純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示
第三章
あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について
付録
第二部
先験的弁証論
緒言
第一篇
純粋理性の概念について
第一章 理念一般について
第二章 先験的理念について
第三章 先験的理念の体系
第二篇
純粋理性の弁証法的推理について
第一章 純粋理性の誤謬推理について
第二章
純粋理性のアンチノミー
第一節
宇宙論的理念の体系
第二節
純粋理性の矛盾論
第三節
これらの自己矛盾における理性の関心について
第四節
絶対に解決せられねばならぬ限りにおける純粋理性の先験的課題について
第五節
すべてで四個の先験的理念によって示される宇宙論的問題の懐疑的表明
第六節
宇宙論的弁証論を解決する鍵としての先験的観念論
第七節
理性の宇宙論的自己矛盾の批判的解決
第八節
宇宙論的理念に関する純粋理性の統整的原理
第九節
これら四個の宇宙論的理念に関して理性の統整的原理を経験的に使用することについて
第三章 純粋理性の理想
第一節
理想一般について
第二節
先験的理想について
第三節
思弁的理性が最高存在者の現実的存在を推論する証明根拠について
第四節
神の存在論的証明の不可能について
第五節
神の存在の宇宙論的証明の不可能について
必然的存在者の現実的存在に関するすべての先験的証明における弁証的仮象の発見と説明
必然的存在者の現実的存在に関するすべての先験的証明における弁証的仮象の発見と説明
第六節
自然神学的証明の不可能について
第七節
理性の思弁的原理に基づくあらゆる神学の批判
先験的弁証論・付録
純粋理念の統整的使用について
人間理性にもちまえの自然的弁証法の究極意図について
Ⅱ 先験的方法論
緒言
第一章 純粋理性の訓練
第一節
独断的使用における純粋理性の訓練
第二節
論理的使用に関する純粋理性の訓練
自己矛盾に陥った純粋理性を懐疑論によって満足させることの不可能性について
自己矛盾に陥った純粋理性を懐疑論によって満足させることの不可能性について
第三節
仮説に関する純粋理性の訓練
第二章 純粋理性の規準
第一節
我々の理性の純粋使用の究極目的について
第二節
純粋理性の究極目的の規定根拠としての最高善の理想について
第三節
臆見、知識および信について
第三章 純粋理性の建築術
第四章 純粋理性の歴史
付録[2]
Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(第一版に記載されていたが第二版で削除された部分)
Ⅳ(第一版の目次)
索引
Ⅰ(人名)、Ⅱ(事項)
第一版序文(1781)
人間はある種の認識について、理性をもってして退けられずかつ答えられない問題に悩まされる。理性が退けられないのは人間の“自然的本性”の故であり、答えられないのは理性を超えているからである。
その問題に対して、理性は原則から出発して次々と条件を遡ってそれらの原則を使用していくが尽きることが無く、ついに一切の可能的な経験的使用を超える原則(経験による吟味を超えている)を使用せざるを得なくなり形而上学にいたる。その形而上学は、現代の(当時の)数学や自然学が裏付けている成熟した判断力に基づいて、人間の自然的本性に対する無関心を装う人々が侮蔑するものであるが、理性が一切の可能的な経験的使用を超える原則を使用せざるを得なくなるという、その理性に対する要望である。
そこで、その様な理性、経験に一切かかわり無く得られる認識をし得る能力としての理性能力一般を批判することが必要であり、これを純粋理性批判という。
以下省略。
第二版序文(1787)
---以下部分抜粋・要約---
p27:----理性認識は対象に対して二つの仕方で関係しうる。ひとつは対象とその概念とを規定するだけであり(理論的認識)、もうひとつは対象を実現することである(実践的認識)。その何れについても、理性が対象をまったくア・プリオリに規定する、純粋な部分だけをとりだして論究されなければならない。
p27:数学は全体として純粋であり--------いったい形而上学において学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由はどこにあるのだろうか-----------形而上学において少なくとも数学及び自然科学を模倣してみたらどうか------。
p33:我々の認識はすべて対象によって規定されねばならぬと考えていた。---中略--。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定せられねばならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試したらどうだろう。
p34:つまり経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない、そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念[カテゴリー]に従って規定せられ、またこれらの概念と一致せねばならない、ということである。
p34:こういう対象について言うと、これを考えようとする(かかる対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考方――つまり我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物の中へ自分で入れるところのものだけである、という新方法による考方とみなすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから判ると思う(ここでの注釈に“純粋理性の命題の対象を実験することは原理的に出来ないが、我々がア・プリオリに承認しているような概念や原則については可能である。”と言う説明が理由とともになされているが、理解できない)。
p35:形而上学は、この第一部門{先験的感性論}でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えられ得るのである。---中略---ところが形而上学のこの第一部門では、我々のア・プリオリな認識能力のかかる演繹から、形而上学の全目的にとって一見頗る不利であるような、いかにも奇異な結果が生じる、ところが形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門[先験的論理学]の趣旨なのである。
p38:----しかも幾何学および自然科学を範として形而上学の全面的革新を企てることによってかかる変革を成就しようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。---思弁的純粋理性の特性は、――第一には、思惟の対象を選択する仕方の相違に従って、自分自身の能力を徹底的に検討し、――また第二には、自分自身に課題を与える様々な仕方を遺漏なく枚挙し、---。
40p:――即ち空間と時間とは、感性的直観の形式にすぎない、それだからまた現象としてのものの存在を成立せしめる条件に他ならない、――また我々の悟性概念に対応する直観が与えられえないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまた物を認識するに必要な要素を一つももたないことになる、ということである。つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物だけである。
p41:我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える、即ち第一には現象としての客観であり、また第二には物自体としての客観である。
以下略。
緒言
I.
純粋認識と経験的認識との区別について
我々のうちに生じるどんな認識もすべて、時間的には経験をもって始まる。しかしそうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。
経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識をア・プリオリな認識と呼ぶ。それに対立するものをア・ポステリオリな認識(経験によってのみ可能な認識)と呼ぶ。
ア・プリオリな認識のうち、経験的なものを含まない認識を純粋認識という。疑問:経験にかかわりないが経験的なものを含む認識(ア・プリオリな認識)とは何か? 経験は、何かあるものがこうであるということを教えはするが、しかしそのものが「それ以外ではありえない」ということは教えない。だから、ある命題がそれ以外にないという必然的な判断を持つなら、その命題はア・プリオリな判断である。また、経験は厳密な普遍性を与えないから、ある判断に厳密な普遍性が属する場合には、それはア・プリオリな判断である(かかる普遍性はこの判断が特殊な認識源泉から生じたことを意味している)。 (判断ばかりではなく)概念についてもア・プリオリな起源を持つものがある。例えばある物体や非物体的なものに対してもっている経験的なもの一切を取り除いてもなお残る性質がある。それは実体、実体に付属するものとして考えるところの性質である。 ア・プリオリな認識のうち、我々の判断の範囲を経験の外に拡張するようなもの、即ち超越的認識があり、理性はこれを究明しようとする。 純粋理性の課題は神、自由および不死であり、この課題の解決を目的とする本来の学を形而上学というが、従来の形而上学の方法は、理性がそのような能力を持っているかどうかの検討をしていないので独断論的である。 我々の理性は概念を分析して認識を与え、分析は概念を拡張せず分解するだけだが、新たにア・プリオリな概念を付加する。 主語Aと述語Bの関係を含む判断(命題)において、その関係は、Bの概念がAの概念にふくまれる場合と、含まれない場合の二種類が可能である。前者を分析的判断、後者を総合的判断と名づける。分析的判断を開明的判断、総合的判断を拡張的判断とも呼ぶ。例えば、「物体はすべて延長を持つ」という命題は分析的判断であり、「物体はすべて重さを持つ」という命題は総合的判断である。 経験的判断は本性的にすべて総合的判断であり、分析的判断はすべてア・プリオリな判断である。 ア・プリオリな総合的判断は経験を要しない判断であり、例えば「生起するものはすべてその原因を持つ」という命題がそれである。これは、因果関係の認識が我々にとって必然的かつ普遍的であることを示している。 要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、総合的原則即ち拡張の原則に基づいている。 数学的命題はすべてア・プリオリな総合的判断である。例えば「七と五の和は十二である」と言う命題は、主語部分は七という概念、五という概念、それらを加えてひとつの数字とするという概念は含まれるが、その加えられた結果が十二になるという概念は含まれていない。にもかかわらず、それが普遍的かつ必然的に十二であることは理解される(小生の追記:初めは身近な指を用い、次に石ころを用い、そのうちに一対一の対応ができなくなるほど大きな数を取り扱うようになっても同様に和算を理解できる根拠は直観であり経験ではない)。即ち、この命題を認識するということは、主語に含まれる概念の外に出てア・プリオリに概念を拡張していることになる。幾何学の命題「直線は二点間で最短である」も同様である。直線の概念は形状であり、この命題には最短という概念がア・プリオリに付け加わり概念が拡張されている。 自然科学はア・プリオリな総合的判断を原理として含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は不変である」という命題は、物質という概念に含まれていない、量(質量)が不変という概念が付け加わっている。ア・プリオリにこの概念が付け加わっているということは、我々は物質という概念の外に出てから新たに概念をア・プリオリに拡張していることになる。 形而上学の命題も同様にア・プリオリな総合判断が含まれる。即ち、我々が認識を直観によりア・プリオリに拡張することができるという原則が用いられる。例えば「世界にはそもそも始まりがなければならない」という命題がそうである。 疑問:数学や自然科学の命題は、ア・プリオリな総合判断であると同時に仮定であり仮説である。即ちいつでも拡張された概念に含まれうる。形而上学におけるア・プリオリな総合判断はどのような意味を持つのだろう(形而上学の目的に対する答えを出しうる原理なのだろうか?)。 純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いに含まれる。 純粋数学はどうして可能であるか、純粋自然科学はどうして可能であるか、という問いに対する答えは、それが現実に存在しているから。疑問:これは答えになっていないと思う 「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが存在する。「形而上学の論究する対象は知ることができるのかできないのか」という問いも存在するが、別の言い方をすると「学としての形而上学はどうして可能であるか」という問いとなる。 人間性に欠くことのできない学であるところの形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。 理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力なので、純粋理性批判と名づけ得るような特殊な学の構想が生じる。 我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を、それがア・プリオリに可能である限りにおいて、「先験的」と名づける。 先験的哲学はまったく思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。 この体系は二つの区分を持つ。第一が純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論である。更なる小区分に必要なことはさしあたり以下のようなことである。人間の認識には二つの根幹がある。それは感性と悟性である。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。
我々のうちに生じるどんな認識もすべて、時間的には経験をもって始まる。しかしそうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。
経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識をア・プリオリな認識と呼ぶ。それに対立するものをア・ポステリオリな認識(経験によってのみ可能な認識)と呼ぶ。
ア・プリオリな認識のうち、経験的なものを含まない認識を純粋認識という。疑問:経験にかかわりないが経験的なものを含む認識(ア・プリオリな認識)とは何か? 経験は、何かあるものがこうであるということを教えはするが、しかしそのものが「それ以外ではありえない」ということは教えない。だから、ある命題がそれ以外にないという必然的な判断を持つなら、その命題はア・プリオリな判断である。また、経験は厳密な普遍性を与えないから、ある判断に厳密な普遍性が属する場合には、それはア・プリオリな判断である(かかる普遍性はこの判断が特殊な認識源泉から生じたことを意味している)。 (判断ばかりではなく)概念についてもア・プリオリな起源を持つものがある。例えばある物体や非物体的なものに対してもっている経験的なもの一切を取り除いてもなお残る性質がある。それは実体、実体に付属するものとして考えるところの性質である。 ア・プリオリな認識のうち、我々の判断の範囲を経験の外に拡張するようなもの、即ち超越的認識があり、理性はこれを究明しようとする。 純粋理性の課題は神、自由および不死であり、この課題の解決を目的とする本来の学を形而上学というが、従来の形而上学の方法は、理性がそのような能力を持っているかどうかの検討をしていないので独断論的である。 我々の理性は概念を分析して認識を与え、分析は概念を拡張せず分解するだけだが、新たにア・プリオリな概念を付加する。 主語Aと述語Bの関係を含む判断(命題)において、その関係は、Bの概念がAの概念にふくまれる場合と、含まれない場合の二種類が可能である。前者を分析的判断、後者を総合的判断と名づける。分析的判断を開明的判断、総合的判断を拡張的判断とも呼ぶ。例えば、「物体はすべて延長を持つ」という命題は分析的判断であり、「物体はすべて重さを持つ」という命題は総合的判断である。 経験的判断は本性的にすべて総合的判断であり、分析的判断はすべてア・プリオリな判断である。 ア・プリオリな総合的判断は経験を要しない判断であり、例えば「生起するものはすべてその原因を持つ」という命題がそれである。これは、因果関係の認識が我々にとって必然的かつ普遍的であることを示している。 要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、総合的原則即ち拡張の原則に基づいている。 数学的命題はすべてア・プリオリな総合的判断である。例えば「七と五の和は十二である」と言う命題は、主語部分は七という概念、五という概念、それらを加えてひとつの数字とするという概念は含まれるが、その加えられた結果が十二になるという概念は含まれていない。にもかかわらず、それが普遍的かつ必然的に十二であることは理解される(小生の追記:初めは身近な指を用い、次に石ころを用い、そのうちに一対一の対応ができなくなるほど大きな数を取り扱うようになっても同様に和算を理解できる根拠は直観であり経験ではない)。即ち、この命題を認識するということは、主語に含まれる概念の外に出てア・プリオリに概念を拡張していることになる。幾何学の命題「直線は二点間で最短である」も同様である。直線の概念は形状であり、この命題には最短という概念がア・プリオリに付け加わり概念が拡張されている。 自然科学はア・プリオリな総合的判断を原理として含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は不変である」という命題は、物質という概念に含まれていない、量(質量)が不変という概念が付け加わっている。ア・プリオリにこの概念が付け加わっているということは、我々は物質という概念の外に出てから新たに概念をア・プリオリに拡張していることになる。 形而上学の命題も同様にア・プリオリな総合判断が含まれる。即ち、我々が認識を直観によりア・プリオリに拡張することができるという原則が用いられる。例えば「世界にはそもそも始まりがなければならない」という命題がそうである。 疑問:数学や自然科学の命題は、ア・プリオリな総合判断であると同時に仮定であり仮説である。即ちいつでも拡張された概念に含まれうる。形而上学におけるア・プリオリな総合判断はどのような意味を持つのだろう(形而上学の目的に対する答えを出しうる原理なのだろうか?)。 純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いに含まれる。 純粋数学はどうして可能であるか、純粋自然科学はどうして可能であるか、という問いに対する答えは、それが現実に存在しているから。疑問:これは答えになっていないと思う 「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが存在する。「形而上学の論究する対象は知ることができるのかできないのか」という問いも存在するが、別の言い方をすると「学としての形而上学はどうして可能であるか」という問いとなる。 人間性に欠くことのできない学であるところの形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。 理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力なので、純粋理性批判と名づけ得るような特殊な学の構想が生じる。 我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を、それがア・プリオリに可能である限りにおいて、「先験的」と名づける。 先験的哲学はまったく思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。 この体系は二つの区分を持つ。第一が純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論である。更なる小区分に必要なことはさしあたり以下のようなことである。人間の認識には二つの根幹がある。それは感性と悟性である。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。
II.
我々はある種のア・プリオリな認識を有する、そして常識でも決してこれを欠くものではない
III. 哲学は一切のア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を必要とする。
IV.
分析的判断と総合的判断との区別について
V.
理性に基づく一切の理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれている
VI.
純粋理性の一般的課題
VII. 純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分
[1] カント哲学の基本構成(竹田青嗣2004/10/13ACC横浜);①『純粋理性批判』→独断論(スコラ哲学からスピノザ、ライプニッツへ)と経験論(ロック、ヒューム)を止揚することが狙いであり、(真)に相当する部分の形而上学批判。②『実践理性批判』→形而上学を本質的に批判すると道徳哲学が哲学の中心課題として現れる。(善)に相当する形而上学批判。③『判断力批判』→美と崇高を、認識(判断)でもあると扱っている。「美」は主観的だが客観的、個別的だが普遍的、これを解け。「美」の本質は、------な人間精神の「自由な運動性」である。①②が決定的に重要。
[2] カントは第一版において道徳論を含めた著述をしたつもりであったが、かえってその前提となる部分があいまいとなって理解されなかった。第二版において、あいまい性を取り除くために削除した道徳論の部分をこの付録に記述した(後に『実践理性批判』として著される)。従って、この付録をあわせて読むことでカントの考えをより理解することができる。
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