2022年7月18日月曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋① 第一篇 第一章 第1,2節 第二章 第7節 事実学と本質学

希望
 本文の一段落ごとに、ポイントとなる部分を抜粋し、補足する場合にはその下にインデント
を下げて箇条書きを列挙する。

第1節 自然的認識と経験 

ごく当たり前の自然的[1]認識というものは、経験とともに始まり、そして経験のうちにあくまでもとどまる。われわれが「自然的」と呼ぶような理論的態度においては、可能的探究の全地平は、したがって一語でもって表示される。つまりそれは、世界である。

・続けて、そのような根源的態度による諸学問は「世界」に関する諸学問だと述べられる

・「自然的」とは世界に対する素朴な態度のことだが、本質的という感度が潜んでいる

・自然的態度における経験は反省を伴わないので、その対象は先ずは自然界となる

・自然的態度から客観的現実を目指す自然主義的(自然科学的)態度が生まれる

・世界の認識には、自然的認識を経た後、経験を反省する態度が要することが明確になる

・自然科学的認識も、実はごく当たり前の「生活世界」に立ち戻ることで再構成される

・そのような、イデーンⅠ以降晩年に至るまでのフッサールの考察がすでに垣間見える

 学問の全ての認識に応じて、その正当性の根拠を基礎づける根本源泉として、なんらかの直観がある。この直観のうちでこそ学問の諸対象が、それ自身そのものとして与えられ、つまり自己所与性となって現れるのであり、少なくとも部分的には[2]、原的所与性となって現れてくるのである。最初の自然的認識領圏において、対象を与える働きをする直観の役目をするものは自然経験である。そしてその際、原的に与える働きをする経験は、知覚[3]である。

 ・この段落で、「感情移入」などの言葉が挿入されて、自分と他人が知覚したものが同一なのかどうかという問いがなされ、知覚が原的所与性であることが次のように表現されている。「ある実在的なものを原的に与えられたありさまで所有することと、それを端的に直観しつつ「認知し」そして「知覚する」こととは、同じなのである。」[4]

  世界とは、可能的な経験の及び経験認識の、諸対象の全総体である[5]。世界に関する学問は次のようなものである。自然科学、生理学や心理学、歴史学、文化科学、各種の社会的諸科学などである。

 ・これらの諸学問の間にある諸問題については、当面未解決のままにしておいて良いだろう、と述べられる

 2節 事実。事実と本質との不可分理性

  経験科学というものは「事実」学である。この場合、基礎づける働きをしている認識作用は経験であるが、この認識作用は、実在的なものを、個別的なものとして定立する。この定立される実在的なものは、この特定の時間位置にあり、この特定の自分なりの持続を持ち、一つの実在性を持つような、或るもの、である。しかし、その実在性の本質からすれば、実はまったく同様に、他のどんな時間位置にあってもよかったようなものなのである。更にまた、右のものは、この特定の場所にこの特定の物理的形態においてあるような、或るもの、である。けれどもその場合にもやはり、また、その実在的なものは、その固有の本質から考察するならば、任意のどんな場所にも、任意のどんな形態においても、まったく同様にありうるものである。この個的存在というものは、全く一般的に言って、「偶然的」なものなのである。それは、今現に或る在り方をしてはいるが、それは、その本質上、別様の在り方をすることができたはずのものである。また、自然法則については、これが言い表しているものは、ただ事実上の規則にすぎないのであって、この規則自身は全く別様の仕方であり得たかもしれないものなのである。この法則もまた偶然的なものなのである。

・個的存在とは、今ここに、そのように存在する、個々の現存在(ここでは事物)のこと

・個的存在も、個的存在に関してあり得るだろう自然法則も、別の空間時間で別のありようで存在してもよかったのだから、偶然的なものなのである

・自然界の事物や法則は、空間時間に無関係であることは明らかにみえるのに(例えば、時代や場所が変わってもリンゴはリンゴで落下の法則はどこでも同じ)、世界認識はもとより事物や自然法則の認識でさえそうではないとフッサールは直観している。つまり、可能的諸経験の対象の全総体としての「世界」の認識の謎の解明は、事物認識の構造から始めるとよい、と

この偶然性は、ある必然性と相関的に関係している、という意味を持っている。この必然性は、空間時間的な諸事実に関する規則が事実上成立するということではなく、本質必然性という性格を持ちしたがって本質普遍性に関係しているような必然性のこことである。或る本質を持ち、従ってある純粋に把握されるべき形相を持つということが、どんな偶然的なものであれ皆その意味に属していて、この形相はさまざまな普遍性の段階を持った本質真理のもとにあるのである。例えば、どんな音も皆、それ自体として、或る本質を持ち、その最上位に、音一般という普遍的本質を持つ。この普遍的本質は、個的な音から(個別に、或いは他のもろもろの音との比較を通して「共通なもの」として)直観しつつ取り出された契機にほかならない[6]。同様にまた、どんな物質的本質も皆、それ固有の本質的種別を持ち、そしてその最上位に、「物質的事物一般」という普遍的種別を持つ。この「物質的事物一般」には、更に、時間規定一般、持続一般、形態一般、というものが伴う。個物の本質に属する全てのものは、また或る別の個物がこれを所有することのできるものでもある。最上位の本質普遍性が、もろもろの個物の属する「領域」もしくは「範疇」を区画づける。

・「本質普遍性」とは何か?というような問い方をせず、ここでは個物に限定し、個物の事例を挙げてその分類名称の順番などに即した考察に留めておけば分かりやすい

・しかし、事例に挙げられている「音」は、音一般という普遍的本質をもっていると述べられているが、ここには聴覚を通して知覚した知覚直観(音階など)と意味直観(美しいメロディーとか情熱的なリズムなど)が含まれていることが伺えるし、さらに物質一般という普遍的本質にも知覚直観だけではなく意味直感があることに気付くはずだ

・哲学では「領域」と「範疇」は使い方に区別があり、前者は質料的存在論、後者は形式的(形相的)存在論で用いられる。質料と形相と概念はギリシャのアリストテレスの用語としてよく知られているが、変容しつつ普遍性も保っている

第7節 事実学と本質学

個的対象と本質との間には連関があり、この連関に応じて、事実学と本質学とが関連し合う。純粋な本質学というものがあって、例えば、純粋論理学、純粋数学などがある。事実学においては、経験をするという働きが、基礎づける作用をする。本質学においては、経験に代わって、本質観取が、究極的基礎づけの作用である。

・幾何学者が図形を描くという経験は、彼の幾何学的な本質直観と本質思考に対しては、少しも基礎づけの役割を果たさない。彼は現実ではなく理念的可能性を研究し、現実態ではなく本質態を研究する

・自然研究者は幾何学者とは全然違って、観察と実験により経験されるような現存在を確認する。経験するという働きが、彼にとっては、基礎づけの作用である


[1] 訳注:「ごく当たり前の自然的」はnatürlichの訳だが、大部分は「自然的」としてある。類似でも意味が異なる語naural,naturalistish=naturwissenshaktlich,naturhaftがある。後にnatürlichな態度が人格主義的態度となる非連続的裂け目が明確にされ(イデーンⅡ)、晩年の「生活世界」へと至るフッサールの考え方の方向が看取できる

[2] 所与性の基盤に原的所与性がある。それは、フッサールでは「超越論的主観」「純粋意識」と呼ぶ領域を基盤とする。竹田青嗣は更に、ニーチェの絶えざる「生成の世界」の思想をも取り入れて、対象の信憑構成の一般理論への転化という意味を込めて「現前意識」と呼ぶ(『欲望論 上』P528

[3] ここではまだ、普通に知覚すること、例えば目盛りを見たり数字を追ったりして感じ取ること、と読めばよい

[4] 知覚は原的所与性だから自他で同じ認識となる。だが、まだ明確にはなってない

[5] 訳注:イデーンⅠでは、世界と事物が連続的に捉えられ、「世界」の記述と「事物」の記述が入り混じっている。この二つが明確に区別された記述となっているのは、晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』においてである

[6] 訳注:これが「本質観取」の方法


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