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第22節 プラトン的実念論だとする非難。本質と概念
これまで繰り返して、フッサールはプラトンのイデア論者であると批判されてきた。つまり、理念や本質を、実在物を対象とした場合と同様に対象化し、しかもその対象を直観によって把握できると述べていると。しかし、対象と実在物、現実と実在的現実とは峻別できるから、そのような批判は的外れである。多種多様な理念的なもの(例えば、音階、数、図形の円、数学的諸命題、等々)は一つの対象である。人は先入見に災いされて、自分が自分の直観領野において所有しているものを、認識や判断の基盤として使えなくなっている。誰もが間断なく理念や本質を見ているのだ。認識論において大事なことは、明証的所与の根本形式を区別して、その様式をその固有の本質にしたがって記述することであろう。
人々は、先入見に囚われて、本質などはなく、したがって、本質直観(理念を見てとる働き)などは存在することはできない、と思い込んでいる。つまり、本質の存在を認めるのは「形而上学的」実体化なので否定され、存在するのは「抽象」という、実在的な経験や表象に結びついた心理学的出来事となり、この「抽象」から諸現象や分析が捏造されるので、理念や本質は心理的形成物、抽象の産物としての「概念」とされ、結果、「本質」「理念」「形相」とか称されるものは、意味の無い事実を実体としたものに覆い被された高尚な「哲学的」名称となっている、と。
「本質」「理念」といったものは認識の対象として存在する。本質は「概念」ではあるが、それが意味を持っているのは、「概念」のことを「本質」のことと理解するかぎりにおいてであり、「概念」は心理学的形成物である、ということであるなら、そのかぎりでは意味を持つことは出来ない。そのことを、例えば基数(数)を例にとって説明すると以下のようになる。われわれが「数」の存在を知っている、ということの意味は何だろうか。例えば2という数があるというのは、ある個物が二つあること、もう一つあれば3という数になることなどの数表象によるのだろう。しかし、数表象は今ここにおける現象であるが数自体は個物にも時間にも心的作用にも無関係に、その存在を概念として理念として不可疑的な所与として認識しているものなのである。
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