2019年2月10日日曜日

資本論 第2巻(資本の流通過程) 全部 

資本論(マルクス・エンゲルス全集版) 岡崎次郎訳 大月書店(文庫) 第二巻

 第二巻は、概念の展開よりも理論の展開が多く、比較的数式で記述可能な部分が多いので短く箇条書きで記述してみた。従って、一回で全部を記述した。


 なお、この箇所は以前は別ブログ「爺~じの”読書メモ」に掲載したものだが、一巻から三巻まで全てこの同じブログに掲載する方が便利なので転載した。

原則「 」は本文引用、( )は小生補記

【目 次】
第二巻(第二部) 資本の流通過程
第一篇 資本の諸変態とその循環
第一章 貨幣資本の循環
第二章 生産資本の循環
第三章 商品資本の循環
第四章 循環資本の三つの図式
第五章 流通期間
第六章 流通費
第二篇 資本の回転
第七章 回転期間と回転数
第八章 固定資本と流動資本
第九章 前貸資本の総回転 回転の循環
第十章 固定資本と流動資本に関する諸学説 重農学派とアダム・スミス
第十一章 固定資本と流動資本に関する諸学説 リカード
第十二章 労働期間
第十三章 生産期間
第十四章 流通期間
第十五章 回転期間が資本前貸期間に及ぼす影響
第十六章 可変資本の回転
第十七章 剰余価値の流通
第三篇 社会的総資本の再生産と流通
第十八章 緒論
第十九章 対象についての従来の諸論述
第二十章 単純再生産
第二十一章 貯蓄と拡大再生産
第二巻 目次 終わり

    

第一篇 資本の諸変態とその循環

第一章 貨幣資本の循環
    貨幣資本の循環過程はG-W・・・P・・・W-G(Pは生産資本)と表現できる
☆  第一巻ではG-W-Gと表現された
☆  これからは資本がその循環過程で通過する様々な形態が研究対象となる

第一節 第一段階 G-W
    Gで労働力(A)と生産手段(P)を購入してWとなった状態をW<Pmと表すとG-WはG-W<Pmとなる
    G-W<Pmという関係を考察すると以下が分かる
☆  この関係にはただ質的関係だけではなく量的関係が含まれていること
☆ 質的関係とは、G-WがG-AとG-Pに分かれること自体
量的関係とはAとPの比(第一巻で原理が述べられている)
☆  貨幣資本(G)が価値および剰余価値を生む能力を持った生産資本(P)となる
☆  貨幣は資本価値の担い手であり資本の前貸し形態である
    G-Aの部分を考察すると以下が分かる
☆  Aは単なる商品流通の循環に入る(労賃で生活用品を買う)
☆  この過程は貨幣資本から生産資本への転化を特徴付ける契機である
第一巻第二篇では、この契機を生産手段は労働力吸収の手段と説明した
ここでは別の観点、資本の現象形態としての貨幣資本に関連して考察する

第二節 第二段階 生産資本の機能(第二章から四章で述べられることは省略)
    循環式中の「・・・」という表現は、循環は継続しているが資本の流通は中断している状態を表している
    G-PmやG-Aが現実に起こる条件を一言で言えば資本主義的生産体制にあること
     労働者と生産手段の結合の仕方は社会構造の経済的時代を区別する。当面の場合について言えば、この結合の仕方は生産過程である

第三節 第三段階 W-G(第二章から四章で述べられることは省略)
    商品は、既に価値増殖された資本価値という存在形態として商品資本となる
    W-Gという運動自体は必然(資本を構成する諸物品は売るために生産された)
    商品資本(W)の流通速度は、資本の働きや資本を膨張収縮させる諸力を運動させる
    剰余価値wの貨幣表現をgとすれば、W-G=(W+w)-(G+g)
    剰余価値wは、このW-Gという流通行為においてはじめて商品市場に投げ込まれ、wの最初の流通形態であるw-gもここに始まる
    実現された資本Gが貨幣表現であり得るのは資本関係の無(没)概念的表現だからである(生産過程で出現してくるいろいろな物品の価値はすべて貨幣表現で表わすことが出来ること自体が、Gがgを生む機能をもっていることの表現、ということかな?)
    商品資本(W)は貨幣資本(G)より多く合理的でより少なく無(没)概念的である(商品資本と貨幣資本は生産資本の機能の結果だから、両方とも無()概念的ではあるが、商品資本はその起源を思い起こさせるからより合理的でより無没概念的でない、かな?でもよくわからん?)

第四節 総循環(大部分重複するので殆ど省略)
    資本価値の諸形態(貨幣資本、商品資本、生産資本)に対応する諸機能を行う資本を産業資本と呼ぶ
    循環の諸段階のいずれかが停滞すれば循環の進行も停滞する
    産業資本は次のような事態をもたらす(一巻と重複するが再掲する)
☆  資本家と賃金労働者との階級対立を生み、社会的生産を支配し、労働過程の技術と組織が変革され、社会の経済的・歴史的な型が変革されて行く
☆  産業資本に先立つ資本は産業資本に従属し、その機能を変えられ、自身の運動自体も産業資本を基礎とするほかはなくなる
    貨幣資本と商品資本は、産業資本のいろいろな機能形態が、社会的分業によって独立化されて形成された存在様式であるに過ぎない
    貨幣資本の循環は、前貸価値の増殖を含む限り産業資本の一般的な表現
    生産資本の循環では、資本の貨幣表現は帳簿の中で保持されるだけ
    定式G-W・・・P・・・W-Gは欺瞞を含み幻想的性格を帯びている
☆  循環に見えなければ幻想的に見える(この定式は循環であるから可能なのだから幻想的ではない)
☆  等価交換としては欺瞞に見える(流通は等価交換だが、循環は流通ではないから欺瞞ではない)
☆  gが流通から引き上げられうるという現象が幻想的に見える(gは生産から湧き出たwの貨幣変態として新たに流通に投げ込まれるのだから幻想的ではない)

第二章 生産資本の循環
    生産資本の循環P・・・W-G-W・・・Pの意味するものは再生産である
    貨幣資本の循環では、生産資本(P)が産業資本の総流通過程の媒体として現れ、生産資本の循環では産業資本の総流通過程がPの媒体として現れる(産業資本の総流通過程の表現は、たとえばここではW-G-Wとなるように、見かけ上循環ごとに異なる)

第一節 単純再生産
    まずW-G-Wを考察する。W-GのGの内のgがGと同じ(生産資本
の)軌道を進むかどうかで、この資本の循環が単純再生産か拡大再生産であるのかを規定する
    -G-Wを、W(G)およびw(g)の循環に分けて考察することが可能である
☆  W-Gとw-gにより貨幣形態となった資本は、資本価値と剰余価値が分かれて運動できるようになる(理論上の区別あって、実際はGもgも貨幣形態として同じ)
☆  gがすべて資本家の収入として支出され、Gが再び資本としてPの循環過程に入れば単純再生産
☆  gがすべて資本家の収入として支出されずに、Gに付け加わって再び資本としてPの循環過程に入れば拡大再生産(第一巻の表現)
    生産資本の循環においては、その始まりには常に剰余価値が含まれている
☆  (循環する限り)単純再生産であっても剰余価値は生み出され続ける
☆  つまり、W-GはG-Wによって補われなければならないから(売買は一対ゆえ) 
☆  (補って説明すれば、単独ではなく数多の資本同士の関係において剰余価値は生み出され続ける)
    資本主義的生産過程を単なる使用価値の生産過程であると考える俗流経済学者は誤り
☆  W-G-Wとw-g-wを区別出来ずに、かつ一般商品流通だけ考えるから誤る
☆  (つまり、第一部で述べられた剰余価値の発生メカニズムを理解していない)
    生産資本の循環における資本価値の総流通における資本の特徴は、前貸資本ではなく単なる流通手段であること(重複するが、商品資本の生産資本への再転化の媒介)
    PからWへの転化は生産部面で行われ、WからPへの再転化は流通部面で行われる
☆  (剰余価値の発生は生産部面のみ、流通部面ではWとwの二手に別れ等価交換)
    個別資本の再生産は、その外にある多くの再生産過程によって制約されている
    生産的消費の条件は剰余価値の生産であって、(必要な)生産物の交換とは別物である 
☆  経済学者はこのことを理解せず、過剰生産はあり得ないという誤りを犯している


● 個人的消費(資本家や労働者)は資本の循環に関係する
☆  資本の循環は全過程が継続することを前提するから(恐慌の考察の時に重要)
    恐慌は、消費的需要の減少によってではなく、資本の再生産の縮小によって生じる。 ☆  生産資本が循環する条件は、WがGという貨幣に転化することであり、需要と供給の予定調和ではない
☆  生産された商品が消費されず在庫となっていても資本の再生産の縮小が起こらねば循環は続く
☆  しかし、そのうちに商品資本の競争で投げ売り、続いて支払期限が来ても支払貨幣不足が生じて、恐慌へと至る
    貨幣資本が貨幣状態で停滞するのは資本流通の中断の結果として現れる
☆  G-W過程の時間的間隙や蓄蔵貨幣形態など

第二節 蓄積と拡大された規模での再生産
    剰余価値の蓄積が資本追加として機能するにはある程度の規模が必要される
    G・・・Gは剰余価値の創出を、P・・・Pは資本の蓄積を意味する
    (産業資本は、その循環において諸形態として存在し、産業資本の諸構成要素の機能は、産業資本の諸形態の独自な機能との関係において登場する)
☆  貨幣、商品、労働力、生産手段の諸機能は、それぞれの存在様式や性格からではなくて、産業資本との関係においてのみ登場する
    ´(=W´)には、価値が価値を生むという資本の属性は表されておらず、その結果だけが表されている
☆  資本と剰余価値の関係自体は貨幣や商品の諸属性や諸機能からは出てこない
☆  G・・・Gにはgを生んだいきさつは消え去っていて、GがGの機能を果たすようになること、つまり次の循環はGがGとなるとだけしか表現することは出来ない
☆  -WPmの比率は別に考察しなければならない
(資本の増大につれてPは増大し、Aは絶えず減少するのは第一巻で示されている)
(AとPをA、Pと表現しないのは、AとPにはすでに他の資本において剰余価値が生じた結果が表現されているから)

第三節 貨幣蓄積
    gがGと一緒にGという大きさで循環過程に入ることが出来るのは、gの単なる存在とは別にその大きさなどによるが、それまではgは貨幣蓄蔵として現れる
    剰余価値は現実に機能する資本に転化するまで、資本の循環の外で行われる機能的に規定された準備段階にある(潜在的な貨幣資本)本来の実在的形態での貨幣積立は、売掛金や債券の形態でも、利子付きの預金や手形や有価証券のような貨幣を生む貨幣の姿でも存在するが、これらは産業資本の循環の外で特殊な機能を行うものだから、ここでは取り上げない

第四節 準備金
    蓄蔵貨幣は貨幣貯蓄財源であり、それ自身資本蓄積の条件であり、資本主義的再生産が拡大されなくても資本の循環過程に入ることが出来る
    貨幣貯蓄財源は循環の攪乱を調整するための準備金として役立つ
☆  例えばW-Gが予定通り行われない場合とか生産手段の価格がはじめの計画水準よりも高い場合など
    購買・支払手段は貨幣資本の一部分であるが、準備金は機能している貨幣資本の一成分ではなく、まだ能動的な資本に転化していない剰余価値の一成分
    単純再生産と拡大された規模での再生産とを包括する生産資本の一般的な定式は
P・・・W-G´・G-W<Pm・・・P(P
☆  最後がPならGはG引くgに等しく、Pならそれより大きいことになる
☆  生産資本の循環は、古典派経済学が産業資本の循環過程を考察する際に用いている形態である

第三章 商品資本の循環
    商品資本の循環を表す一般的な定式はW-G-W・・・P・・・W
    は貨幣資本の循環や生産資本の循環の産物として現れるだけではなく、それらを前提としても現れる(三つの循環は相互に関連している。例えば石炭は生産要素でもあり商品でもある、等々)
    商品資本の循環形態(循環)と前の二つの形態(第一が貨幣資本、第二が生産資本の循環形態)との違いは次の点に現れている
☆  第一に、三つの形態における流通の位置づけが違う
☆ 循環では流通が循環を開始する、循環では流通は生産過程によって中断され、循環では流通は再生産過程の媒介
循環はG-W-G、はともにW-G-W
☆  第二に、循環では出発点における資本価値は貨幣形態であるが、循環では商品資本という商品形態
☆ 循環の終わりの形態では剰余価値が生じた経緯は消えているが、循環では、終わりのW(W′′)にはそれらが生み出された形態は消えていない
循環では、商品価値で増殖された資本価値が残っている、換言すれば次の循環は商品価値の循環と剰余価値の循環の両方を含んでいる商品資本としてのWは一つの二重物(第一巻の初めにでてくる商品の持つ価値の二重性は使用価値と交換価値という価値の二重性で説明されていた)である
☆  使用価値としてはPの機能の生産物、価値としては資本価値としてのPとPの機能によって生産された剰余価値の和
    が単なる商品としてのWであれば、商品資本として循環が開始されない
☆  (使用価値の交換だけでなくて、交換価値の表象である貨幣を媒体とする資本の運動の駆動力が発生するには、循環の発端も終端も単なるWではなくWでなければならない)
    W′そのものの循環の中でのみ、W′に潜んでいる剰余価値を分離することができる
   ☆  (循環の中では、WはWとして、いろいろな個別資本のWとして何度も登場し、Pで創出された剰余価値の行く末や循環のメカニズムがみえてくる)
    古典派経済学は形態の総流通は形態とは反対の順序(Wで始まりWで終わる)であることを見て、生産を過程の目的として説明するがこれは誤り
☆  誤る理由は、生産過程の特定の資本主義的形態(労働搾取)を見ず、貨幣の特性も貨幣資本の特性も見落とし、全過程が単純な自然的なものとして見るから
    形態のみが剰余価値を含んだWを出発点とするが、このことは、全循環に決定的な影響を与える
☆  消費(=支出)と資本蓄積を可能にする剰余価値が、この形態の出発点になるから
    形態では、総商品生産物の消費が循環の前提になっている
☆  消費には個人的消費と生産的消費がある
☆  個人的消費は、労働者の生活費と資本家が剰余価値のうちで消費に回す分
☆  生産的消費は、生産手段としての商品の消費と労働者の再生産に必要な生活費
☆  個人的消費は、社会的行為として前提されているが個別資本家の行為として前提されない(循環の前提にある消費は循環の外部の関数になっている)
    形態では、総運動が前貸資本価値の運動として表れている
    形態では、総運動は商品資本の運動(資本価値の運動ではない)として表れている
☆  商品資本が貨幣に転化してから、資本の運動と収入の運動に分かれる(その結果が
に反映された後に前貸資本価値の運動が可能となる)
☆  資本の運動と収入の運動の分かれ方は、形態における資本の循環に含まれる
    形態はもう一つ別な契機によっても形態と区別される特徴を持つ
☆  形態においては、歴史の舞台における最初の資本となりうるが、形態の商品資本は流通においてはじめて資本となることが出来る
個別資本の循環は貨幣資本一般の存在を前提せず、個別生産資本の循環も既に循環している生産資本の存在を前提しない(何らかの理由で貨幣や生産手段と労働力を自前で持っていれば商売をはじめられる) 

形態の循環の発端Wが終端Wに至るまでは、商品としてのWは循環の外にある二つの経路を別々に辿る。一つはW<Pm・・・P・・・W、もう一つは剰余価値の消費分w-g-w、であるが、循環にはいずれの経路も前提される(つまり商売をはじめるには、Wを貨幣に変えないと始まらないし、それが可能なのは他の人も皆それが出来るから)
「さらにまた、支配的な生産様式としての資本主義生産様式の基礎の上では、売り手の手のなかにある商品はすべて商品資本でなければならない。」(商品が商品資本であるかぎり、商品資本の循環は循環なしには起らない)
☆  生産資本Pの存在形態は、その構成要素A,Pとは違った、AとPが結合された姿を持つ(AやPが調達できる市場がなくてもPは存在しうる)
☆  循環だけが、全流通過程(=循環)が前提される「ただこの形態にだけ循環そのものの中でWがWの前提として現れるということは、出発点が商品形態にある資本だということによるのである。」
    商業資本の循環は、Wの形態にある他の産業を前提しているので、この循環を循環の一般的な形態として考察するだけではなく、次のような考察を要求する
☆  個別資本家階級の総資本の運動形態としての考察、個人的消費に入って行く運動の分析、社会的資本によって生産される剰余価値の運動形態の考察
☆  社会的資本は個別的資本の総計に等しく、社会的資本の総運動は個別資本の諸運動の代数的総計に等しいが、しかし、個別資本の運動は、社会的資本の総運動の一部分としての観点から考察できるのとは違う現象でありうるとか、個々の循環の考察で解決されない諸問題に前提される諸問題が存在するとか、は排除されない
    循環では、循環とは違って、産業資本の全体運動として示されている
☆  この全体運動は、生産資本を補填する生産物部分の運動でもあり、剰余生産物が収入として支出されたり貯蓄されたりする生産物部分の運動でもある
☆  資本主義的に生産された物品は、使用形態(生産的消費でも個人的消費でも)にかかわらずとにかく商品資本である
☆  ・・・Wは、既に発端の極で資本主義的商品生産の姿が現れており、はじめから生産的消費と個人的消費とを包括している
☆  最後に、Wはどの生産過程にも入ることが出来ない使用形態(例えば奢侈品、芸術作品など?)で存在することもありうるから、W・・・Wが社会的総資本の運動なのか個別的産業資本の運動なのかによって、Wの諸価値成分の位置づけが変わる。
☆  「この(W・・・Wという)循環は、一つの単に個別的な循環としてのそれ自身を超えて、それ以上のものを指し示しているのである」
    ・・・Wはケネーの経済表の基礎になっている。彼がG・・・G(これは重商主義がそれだけを切り離して固守した形態)に対立させてこの形態を選び、そしてP・・・Pを選ばなかったということは、偉大な精確な手腕を示すものである

第四章 循環過程の三つの図式
)G-W・・・P・・・W-G
)P・・・C・・・P
)C・・・P(W
ここでCは総流通過程(W-G-W)を表す。

    (各資本の循環を縦の要素が同じとなるように並べて記述してみると、結局資本の流
通はみんな一続きで、そこからg(w)が湧き出てくることが分かる)

貨幣資本:G-W・・・P・・・W-G(G+g)gの発生は消えGとgの区別不能
生産資本:             P・・・W-G(G+g)-W・・・Pgの発生は消え再生産が見える
商品資本:                    -G(G+g)-W・・・P・・・W′→Gとgの循環が覗える

    (この章を一言でまとめると次のようになる)
☆  資本(産業資本)の三つ形態は繋がって運動している。そして、それぞれの資本の契機(G,W,P)の繋がった列を糸に例えれば、糸はただ横に繋がるだけでなく、縦にも繋がって絡み合っている
☆  「絶えず回転している円では、すべてが出発点であると同時に帰着点である。・・・こうして、各循環の相違の全体が、単に形式上の相違として、あるいはまた単に主観的な、ただ考察者にとって存在するだけの相違として、現れるのである。」
    (以下は、上記の詳細説明の、なるべく重複を除いての抜粋)
☆  各部分(段階、機能)が次々と続くことは諸部分が並行することだから、資本の分割を条件とする。例えば分業編成による工場体制
☆  個別資本の大きさは資力と生産規模で規定されるから、適正な資本の分割がある
☆  資本の規模は生産規模を制約するから商品資本や貨幣資本を制約する
☆  個別資本にとっては、再生産の連続性がいろいろな事情(諸価格の変動など)によって中断されることがある。
    独立化(自立化)された価値の自動的な運動は、自然の力(暴力)のように個別資本の生存を危うくし、社会の革命へと進む
☆  自分を増殖する価値としての資本は、階級関係を含むだけではなく、三つの循環を含んだ一つの運動であり、資本は、ただこの運動としてのみ理解できる
☆  価値の独立化(自立化=自然法則のように自立した)は単なる抽象ではなく現実的なものである
☆  われわれはここでは、単なるこの運動の形態を問題にしているから、革命については考えない
☆  増殖を求めて自立的に運動をする資本価値は、この循環運動のなかで革命を経験するだろう
☆  あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が存在しているのは、資本価値の循環がどうにかこの価値革命を克服し埋め合わせていることは明らかである
☆  社会的資本価値が価値革命に曝されれば、個別資本はこの価値運動に耐えられず敗れて没落する
☆  価値革命がいっそう激しく頻繁になるにつれて、独立化(自立化)された価値の自動的な運動は、不可抗力的な自然の力(暴力)のように、正常な生産を非正常な投機に従属させるようになり、個別資本の生存を危うくする
☆  周期的な価値革命は、価値が資本として経験する運動によって先鋭化し自立化することを、証明していくだろう
    過程を進行しつつある資本の変態列には、価値量の変化が含まれているが価値の独立化(自立化)は現れては来ない。見えるのは資本の価値量の変化だけである
    ついでの注意、生産要素の価値変動が生じたときに三つの循環で起きること
☆  G・・・Gでは、貨幣資本が過剰となるか拘束される
☆  P・・・PとW・・・Wでは次の点は同じ
価値低下の場合には、再生産が継続されればgの積立が増え、拡大再生産への転化は行われず、または技術的条件が許せば再生産規模が増大されるか、原料在庫が増えるかである
価格が上がれば、再生産は縮小されるか(たとえば時短)、あるいは同じ規模の再生産を続けるなら追加の貨幣資本が入る(資本の拘束)か、あるいは、蓄積財源の一部が当てられる(資本は内部でやりくりする)
☆  P・・・PとW・・・Wでは事情が変わることもありうる(綿花から綿糸を生産する例)
綿花在庫がある場合にその価格が低下すれば生産資本の価値が下がる
☆ 綿糸在庫がある場合には商品資本価値が低下する
綿糸販売の実現時期が綿花の価値変動より前なら、その後の影響は前述
☆ 綿糸販売の実現時期が綿花の価値変動より後なら、綿花の価格の上昇は綿糸価格の上昇を引き起こす(低下なら低下)
要するに、同じ生産部門に投ぜられた種々の資本への影響は、その資本の置かれた事情で異なり、同様に貨幣資本の(再生産からの)遊離や拘束は流通過程の速度の相違からも生じうる
    産業資本の流通過程を特徴づける要素の一つは、世界市場としての市場の存在である ☆  流通G-W<PmのPは売り手の立場からはW-Gであるが、この商品資本から貨幣資本へ転化する商品は、どんな社会的生産様式(例えば奴隷制等々)による生産物でも良いから
☆  だが、ここで注意点が二つある
☆ 第一に、資本主義的生産様式はその発展段階の外にある生産様式によって制約される一方、あらゆる生産を資本主義生産様式に基づいた商品生産に変えようとするから、直接生産者の賃金労働者への転化が促進される
 ☆第二に、産業資本の流通過程に入るこのような諸商品は、出所がどうであれ商品資本の形態となる(出所の地域で働く人々の剰余労働価値が商品資本に含まれる)
    資本主義的生産様式は大量生産つまり大量販売も前提するから、個人よりも商人への販売を前提する。どの産業資本家も直接の販売者であり、彼自身が彼の商人である
    われわれは、循環の一般的形態を考察するに当たって、またこの第二部全体にわたって、貨幣を金属貨幣として、象徴貨幣を除外する
☆  第一に歴史的に信用貨幣は資本主義的生産の初期には重要ではなかったから
☆  第二に信用貨幣の歩みの必然性が理論的にも立証されているから
    金属貨幣は購買手段と支払手段の機能をもっているが、第二部においては、貨幣は購買手段としての機能だけにあるものと見なす
    (産業資本の流通過程についての理解は、一般的な商品流通過程の諸法則、W-G-
W、つまり相対する買い手と売り手の等価交換だけでは出来ないことがもはや明らかになった。以降、その流通の解析が試みられる)
☆  研究対象となる流通過程は、循環を示す下の図に共通に示されている部分、
-W(=APm)となる 

 ☆  W-G-Wは、一方の段階にある商品変態と他方の段階にある他の商品の変態との絡み合いについて、資本家が商品の買い手と売り手として機能しているという点においては、示されている。しかし、この絡み合いが同時に諸資本(貨幣資本、生産資本、商品資本)の諸変態(生産手段、労働力、消費、再生産、剰余価値の解放)の絡み合いの表現にはなってはいない
第一に、G-W<Pmについてそう言える
    個別資本の諸変態の絡み合いを表しうるが商品資本は資本家によって生産されたものでなくても良い場合には必ずしもそうは言えない
    G-W(A)では、そもそも労働力は諸資本変態の絡み合いとは言えない。労働力は商品ではあってもその価値は資本家の所有物になった後に価値を発揮するものだから。更に、労働力は(資本主義生産体制の外からのものでもあり得るし)、独立労働者や奴隷や農奴や共同体によって生産された生産物の貨幣化でもあり得るから
☆  第二に、流通過程の中で行われる各変態の方向についてそういえる
    つまり多数の個別資本について、その流通における変態が、各流通形態の諸段階ごとに規定された通りに対応して、対をなして逆方向になされる、とは全然言えない(例を挙げるまでもなく、貨幣であれば、その入手経緯は何であれ、購入自体に制限はないから)
    (資本が一旦貨幣形態を取ればその経歴は消されるから)社会的総資本のいろいろな構成部分が、どのようにして流通過程で互いに補填されるかは、まだ明らかにはならならず、その解明には別の方法を必要とする
    以降羅列的に説明される資本についての基本概念については、第一部で既に述べられているので省略

第五章 流通期間
    資本が循環する総期間は生産期間と流通期間の合計
    生産期間は労働期間より長い
    労働手段(機械や建物など)は寿命が尽きるまで労働過程に役立つ
    労働過程の中断も労働手段の機能の中断もあるが、労働手段は生産場所に留まる
    生産過程が市場の偶然に左右されずに進行するには、労働対象の在庫が必要
    生産手段の生産期間(ここでは、原料などの生産期間ではなくて、労働対象が商品の生産過程に参加している時間を指す)は機能期間より長い
    生産手段の生産期間は、以下の三つの期間を包括している
☆  生産過程において生産手段として機能している期間
☆  生産過程が中断されている期間(中休み期間、労働過程が中断しても中休みにならないこともある)
☆  生産手段がまだ生産過程に入っていない期間(準備期間、生産手段が生産資本となっているが生産過程には入っていない期間)
    生産期間と機能期間との差異は、生産資本が生産部面に留まっている期間と生産過程に留まっている期間との差である
☆  労働対象が労働を加えられることなく自然の作用によって生産過程が進行する場合
(農作物一般の生育過程、種々の反応過程、等々)がある(潜在的な生産資本)
(生産過程を生産手段と労働力ではなくて資本の運動で捉えている)
☆  生産のために準備されている生産資本(在庫)は、その間には生産過程に何も寄与しない(遊休資本)
    原料倉庫の建物や装置などは潜在的生産資本(準備段階としての機能を果たすから) ☆  この段階での労働は生産的労働であるから(帳簿上の)原料価格の上昇をもたらす他、一部は剰余価値となる(一般にこの種の労賃は支払われないから)
    生産手段が労働吸収者として機能しない期間は生産資本の価値増殖は行われない
    生産期間と労働期間の差が小さいほど剰余価値(率)が大きい(しかし、剰余価値量でみると、資本家にとっての最適値がある)
    流通期間と生産期間とは互いに排除し合う
    流通期間の膨張と収縮は、生産資本の収縮や膨張に対する消極的な制限として働く
☆  経済学にとって、この消極的な制限が積極的なものと見えてしまう。理由は
資本家的な利潤計算の仕方によって
生産期間のせいであることが流通期間のせいであるように見えるから
労賃支払い用の貨幣の工面が流通過程で行われるから
    流通部面の単純な形態W-G-WをW-GとG-Wに分けて考察すると、多くの期間を要するのはW-Gの方で、W-GとG-Wは場所的にも時間的にも分離され得る
    商品資本の流通には、商品の使用価値に基づいた制限がある(生鮮食品とか)
☆  商品は使用価値の喪失と同時に交換価値の担い手であるという性質も失う
☆  使用価値が資本価値の担い手であるのは、それが絶えず更新される限りのこと
☆  交換価値は使用価値の形態を更新することによってのみ維持される
☆  商品そのものの存在形態に基づいた商品資本の制限は、流通期間に絶対的な限界を与え、それはその商品が流通する地域を制限する

第六章 流通費
    (流通費は流通過程に属する費用であり、価値を実現するための費用であり、社会的富の空費・控除であり、商品価格に割り当てられるものであり、その一般法則は商品の形態転化だけから生じる流通費は商品に価値を付け加えないことである)

第一節 純粋な流通費
一 、売買期間
   売買期間(W-GとG-Wという形態の変化に要する)期間は時間と労働力を要し、価値を生み出さず不生産的であっても再生産の必然的契機である
  売買期間に要する時間と労働力は空費であるが、その削減は、再生産過程自体に含まれている不生産的機能に拘束される部分の減少に役立つ

二、 簿記
    簿記にも労働時間を要し、この点では売買期間と同様
    簿記では売買期間と少し違って、その必要性は生産過程が社会的規模で行われて純粋
に個人的性格を失ってくるほど増大し、その費用は生産の集積につれ減少する

三、 貨幣
 「貨幣は、社会的労働が単なる流通機械として役立つような形態に固定されたものである。」
「金銀は、貨幣商品としては、社会にとって、ただ社会的形態から生ずるにすぎない流通費をなしている。」

第二節 保管費
  保管費は流通費であり、社会にとっては生産の空費だが個別資本家にとっては致富の源泉になることが出来る(保管費の生産的性格が流通形態によって覆い隠されるから)

一 、在庫形成一般
    生産物が商品資本として存在している間、それは商品在庫を形成する
    商品在庫も売買期間や簿記なども空費だが、その対象が、前者は価値の維持(在庫は使用価値を減少する)で後者は価値形態の変化であるところが異なる
    在庫には、生産資本、個人的消費財源、商品在庫(商品資本)という三つの形態がある
(在庫の形態が変わっても在庫量は変わらない)
    大部分の生産物が自家需要の充足に当てられている社会においては、大部分の在庫が商品在庫の形態で存在しないだけである
☆  アダム・スミスはこのような社会では在庫は存在しないというのだが、それは在庫自体と在庫形態の混同から生じる誤解である
☆  (このような誤解は、端的言えば、商品は自家需要が満たされてからはじめて出現するという考えと同根であって、生産者たちが飢え死にしている地域から穀物が輸出される等々の事実を理解できなくする)
    生産資本の形態にある在庫の量を規定する主な条件は生産が中断しないことである
    生産資本の形態にある在庫の量は資本主義生産様式の発展につれて増加するが、資本主義的生産の発展、従って社会的労働の生産力が発展すると逆に減少する(原料などの生産規模拡大や生産期間の短縮、運輸交通手段の発展、信用制度の発達などで)
    「産業資本家の手の中でこの在庫が減少するとすれば、それは、ただ、この在庫が商品在庫の形で商人の手の中で増加していることを示しているだけである。」
    社会的資本から見れば、例えば一国の在庫量は運輸機関の発達につれて減少する現象として現れる

二 、本来の商品在庫
    資本主義的生産が進むと、社会的総生産物に対する商品在庫は相対的に増大し、また絶対的にも増大する
    最後に、社会の最大の部分が、自身の生産手段を在庫にする賃金労働者に転化される ☆  「この個々の要素がどんなに流動的であろうとも、在庫が絶えず流動を続けられるためには、それらの要素の一部分は絶えず停滞しなければならないのである。」(生命維持に必要な物資が商品として滞りなく労働者に行き渡るには、その一部は絶えず停滞しなければならない)
    在庫は社会的に必要だがその費用は社会的富の空費(控除)、価値損失であり、商品に価値を付け加えることは出来ないが、商品価格に割り当てられる

第三節 運輸費
    運輸業に投じられた生産資本は、運輸手段からの価値移転と運輸労働による価値付加によって、輸送される生産物に価値を付け加える

    資本主義的生産方式は、運輸交通危難の発達と運輸の集中、規模拡大により運輸費を減少させる

第二篇 資本の回転

第七章 回転期間と回転数
    「資本の循環が個々別々な過程としてではなく周期的な過程をして規定されるとき、それは資本の回転と呼ばれる。」
    資本の回転期間は、資本の生産期間と流通期間との合計であり、一定の形態で資本価値が前貸しされる瞬間から、その過程を進行する資本価値が同じ形態で帰ってくるまでの期間である
☆  形態(貨幣資本の循環)と形態(生産資本の循環)は、資本の前貸しから始まるが、形態(商品資本の循環)の始まりは前貸し資本ではなくて富の総体であるから資本の回転の考察対象外である
    回転期間の度量単位としての一年を U とし、ある資本の回転期間を u とし、その資本
の回転数を n とすると、nUuが3ヶ月なら、 12 ヶ月だから、n=4

第八章 固定資本と流動資本第一節 形態上の相違
    不変資本のうちの労働手段の部分(機械や建物など)は、生産物に移動する損耗分以外は、生産過程内での労働手段の機能によって規定された形態に固定されている。これを固定資本と呼ぶ。固定資本の流通は使用価値ではなくて価値だけである
    それに反して、生産過程で前貸しされている資本の他のすべての素材成分(=労働対象+労働力)は、固定資本に対して流動資本と呼ぶ
    固定資本と流動資本に関する、従来の概念規定の混乱
☆  不変資本と可変資本の混同は別として(混同は無いとして)
☆  経済上の形態規定と物理的属性との混同がある(資本は経済上の形態規定)
    固定資本の回転は、その全価値が貨幣に転化すること(労働手段機能の終了)
    生産資本のうちの固定資本以外の部分(原料、補助材料、労働力など)も、資本としての回転が現物による更新という仕方で行われ、しかも固定資本とは違って中断されることなく行われる
☆  流動資本という概念は、この点において固定資本に相対するもの
☆  流動資本の諸成分が生産物形成者及び価値形成者としてそれぞれ違った振る舞いをしても、それは流通にとっても回転様式にとっても問題にならない
    固定資本と流動資本という形態規定は、生産過程で機能する資本価値、すなわち生産
資本の回転の相違から生ずるだけ(貨幣資本にも商品資本にも存在しない)

第二節 固定資本の諸成分・補填・修理・蓄積
    固定資本に必要な維持費は生産物の価格に付け加えられて販売によって補填され、補填される追加資本は流動資本に属する
    簿記の仕方としては、修理費は固定資本の損耗と併せて計算する(多くの事業所習慣) 
    保険は剰余価値から補填される
    本来の修理と補填の境界、維持費と更新費の境界は流動的(費用を資本勘定に入れるか収益勘定に入れるかの判断は経験に基づく経営方針で異なってくる)。
    固定資本が現物形態に再転化される時に具えて償却基金が必要となる。償却基金は貨幣蓄蔵になるが、信用制度の発展につれてこれは資本として機能するようになる

第九章 前貸資本の総回転 回転の循環
    前貸資本総回転はそのいろいろな成分の平均回転であるが、この平均回転には量的相違と質的相違がある。質的相違は、資本の構成部分の形態的相違に基づいている
☆  生産資本の回転では、その構成要素が現物と貨幣だから質的同一性が現れない
☆  貨幣資本の回転では、その構成要素は常に貨幣形態だから質的同一性が保たれる
    年間に回転する資本価値は、流動資本が一年間に何度も回転することによって前貸資本の総価値より大きいことがありうる
    資本主義的生産様式の発展は、一方では、固定資本を発達(=寿命が延びる)させて産業および産業資本の生命を延ばすが、他方では生産手段の変革によってこの生命を短縮する(産業および産業資本の生命は再生する、言いかえれば生命循環を持つ)
    この生命循環は今日では平均して10年の周期を持つが、この特定の年数が問題なのではなく、この循環によって、周期的な恐慌の一つの物質的な基礎が生じることである ☆  恐慌はいつでも大きな新投資の出発点をなしており、社会全体から見れば多かれ少なかれ次の回転循環の一つの新たな物質的基礎をなす

第十章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 重農学派とアダム・スミス
    ケネー(重農学派)には、固定資本と流動資本との区別は、原前貸と年前貸として現れる。この区別は、正しくも、生産資本に合体された資本(当時としては借地農業者の資本)の中での区別として捉えられている
☆  年前貸の資本は、毎年全部補填され、生産物価値の中に全部含まれて流通する
☆  原前貸の資本は、何年もかけて少しずつ補填され、生産物価値の中に少しずつ含まれて流通する
    A・スミスは、年前貸の資本を流動資本に、原前貸の資本を固定資本に転化するとともに、対象を借地農業者資本に限らずに拡大した。しかし、詳論は遠くケネーに及ばない。「スミスが研究を始めるとたちまち次のような粗雑な経験的なやり方が不明確さを持ち込んでくる。」
☆  A・スミスは「流動資本」を、私が「流通資本」(=商品資本と貨幣資本)と呼ぼうとするものと捉えてるが、この考えは重農学派に比べて大きく退歩したものである。ここには、資本の循環における形態変化と、生産資本の形態にある間に生じる形態的区別の混同がある。
資本は生産部面以外に投下されても、その所有者のために資本として機能することが出来る(例えば利子生み資本、商人資本)。しかし、スミスのような混同した考え方は、(剰余価値の創出や)生産資本の要素の分割とそれらの回転の作用の影響などという問題を考察することから遠く離れてしまう ☆スミスの考えからは、貨幣と商品との形態変化(形態は変化しても等価交換だから価値は変わらない)によってどうして利潤が生まれるのかわからない
☆  A・スミスの考えの根底には、剰余価値は生産物の販売、生産物の流通によってはじめて実現される、という普通の見解(当時一般的に思われていた見解)がある。

第十一章 固定資本と流動資本とに関する諸学説 リカード
    「リカードが固定資本と流動資本との区別を持ち出すのは、だた、価値法則の例外、すなわち労賃の率が物価に影響を及ぼす場合を説明するためだけでしかない。これについては第三部に入ってから述べることにしよう。」
☆  リカードにとって、固定資本は労働手段、流動資本は労働に投ぜられている資本

第十二章 労働期間
    一つにまとまった生産行為(一台の機関車の製造など)に必要な労働日を労働期間と名づける
    労働期間は、投下資本の回転に影響する
☆  労働期間の長い事業の遂行には(環流リスクに耐えうる)資本の大きさが必要
☆  労働期間の短縮は固定資本の投下(前貸資本の増大)などを伴う
☆  労働期間の遅延は流動資本の機能不全をもたらす可能性がある(固定資本にはその恐れは無い)

第十三章 生産期間
    労働期間はつねに生産期間であるが、その逆は必ずしも成立しない

第十四章 流通期間
(省略)

第十五章 回転期間が資本前貸の大きさに及ぼす影響
    一労働期間が九週間で、その生産物の流通期間が三週間とすると、全回転期間は十二週間となるが、もし生産が連続的で毎週同じ規模で営まれるなら、生産規模が縮小されるか、それが許されないなら流動資本が追加されるか、しかない。(だから回転期間は資本前貸の大きさに影響を及ぼす)

第十六章 可変資本の回転
    (剰余価値の年率は回転期間が短いほど大きくなる。それは当然の帰結)
☆  剰余価値の年率=(年間の剰余価値額)/(前貸可変資本)
☆  (流動資本は、生産過程が生産材料と労働力が与えられた生産手段のもとで、常時供給されることで稼働するのに必要な資本。つまり流動資本は回転することによってはじめて機能する、この回転数がこの機能を規定する)
    「資本主義のではなく共産主義の社会を考えてみれば、まず第一に貨幣資本は全然無くなり、従って貨幣資本によって入ってくる取引の仮想もなくなる。事柄は簡単に次のことに帰着する。すなわち、社会は〈中略〉どれだけの労働や生産手段や生活手段を何の障害もなしに(一労働期間の長い例えばインフラ事業に)振り向けることができるかを、前もって計算しなければならないと言うことである。これに反して、社会的理性が事後になってからはじめて発現するのを常とする資本主義社会では、絶えず大きな攪乱が生じうるのであり、また生ぜざるをえないのである。」

第十七章 剰余価値の流通
    (剰余価値の蓄積は回転期間が短いほど早くなる。これも当然の帰着)
    「しかし、資本主義的生産の発達につれて同時に信用制度が発達する。資本家が自分の事業ではまだ充用することのできない貨幣資本は、別の資本家たちによって充用され、そのかわり前者は後者から利子を受け取る。」
    「だから、貨幣流通の弾力性は、この膨張・収縮の変動に適応するのに十分な大きさでなければならないのである。」
    「しかし、このような貨幣財源は、この場合まさに剰余価値の貨幣化による流通財源として存在するのであって、けっして潜在的な貨幣資本として存在するのではないのである。」
    潜在的な貨幣資本は、銀行預金(=現実に積み立てられているのは貨幣請求権)、政府証券(=年間生産物に対する国民の単なる請求権)、株式(=思惑的なものでないなら、会社に帰属する資本の所有証書)

第三篇 社会的総資本の再生産と流通

第十八章 緒論
    第一巻では、流通部面内で問題にされたのは労働力の売買であった(第二巻では、資本も問題にされた)
    第二巻の第一篇、第二篇では、社会的資本の中で独立した部分としての個別資本だけが問題にされたが、今度は、社会的総資本の構成部分としての個別的諸資本の流通過程が考察される

第十九章 対象についての従来の諸論述
第一節 重農学派         
●「とはいえ、じっさい、重農主義学説は資本主義的生産の最初の体系的な把握である。」
☆  (自然的再生産過程が経済的再生産過程の諸条件をも明らかにしているので、後でスミスが混乱したような流通の手品は取り除かれている)

第二節 アダム・スミス
    「いつでも彼(スミス)はただ商品の分析のついでに、すなわち商品資本の分析のついでに、価値生産を考慮するだけなのである。」
    スミスの基本的間違いは以下
☆  商品価値は労賃、利潤、地代から成っている(価値を創造するのは労働だけなのに) 
☆  労賃、利潤、地代という三つの収入が商品価値をなしている(発想が逆である)
☆  商品生産一般を資本主義的生産と同じとしている(現実は歴史を持っているはず)

第三節     アダム・スミス以後の人々
    「結論。スミスの思想的混乱は今日まで存続しており、彼の説は経済学の正統派的信条になっている。」

第二十章 単純再生産
第一節     問題の提起
    社会的総資本の運動を考察するには、個別的資本の運動の説明だけでは不十分で、それらの関係の解明が必要となる(現代風に言えば、産業連関表の作成と評価が必要となる)
    (例によって、事の本質を考察するために、剰余価値が全て消費される単純再生産から始められる)

第二節     社会的生産の二つの部門
    社会の総生産物(総生産)を、生産手段(部門)と消費手段(部門)の二つに分けて考察する(既に剰余価値のw-g-wという循環において暗示されていたところ)
  ☆  Ⅰの部門の資本は各々二つの成分、可変資本vと不変資本cから成り、cはそれぞれの生産過程において固定資本と流動資本に分かれ、のそれぞれにおいてvで買われた労働によって剰余価値mが生じる
☆  の不変資本は固定資本と流動資本に分かれるが、いずれもから購入する。Ⅰ の不変資本cの内の固定資本部分はそれ以前の死んだ労働によって蓄積された価値が物化したもので、流動資本の方は部門の内部にて循環しているだけである)
☆  以後、商品と貨幣の流通が均衡しているときの事例として下記のモデルが提示される(cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値)
☆Ⅰ部門:4000c+1000v+1000m=6000(の価値生産物)
☆Ⅱ部門:2000c+500v+500m=3000(の価値生産物)
☆ⅠⅡ両部門における生産物の全価値は6000+3000=9000

第三節     両部門間の転換
    単純再生産では、部門の(v+m)と部門のcは等しくなければならない(そうでなければ、部門の間での商品と貨幣の流通は均衡しない)。すなわち(v+m)=c、事例で示せば、2000(v+m)=2000

第四節     部門の中での転換 必要生活手段と奢侈手段
    部門は生産物から見て、(必要)消費手段(a)と奢侈消費手段(b)に分けてみることができる。そうすると、bは資本家だけが買うことができると言うことに気付く。
(そうすると、労働者の消費とはv、つまり生産部門における生産手段としての可変資本であることに改めて気付く)
☆  (第一巻においては資本家の必要消費手段と奢侈消費手段は区別されていない。ここでは(a)(b)に区分されている。しかし、剰余価値全てを資本家が所有していることにおいては、何ら事態は変わらない)
    消費から浪費を区分することで、部門のbに従事する労働者の生活が、資本家階級の浪費に依存するということが分かりやすくなる
☆  に従事する労働者が生きて行くには労賃が必要だが、労賃はvであり、これはcとなった商品の代金の一部が労働者の再生産に必要な分だけ還元されたもの、つまり生産活動における資本の運動の結果である。に従事する労働者が生きて行くには、同じような意味で資本家の浪費が必要であるかのように見える。剰余価値をどのように区分しようとも、社会をⅠⅡなどとどのように区分しようとも、可変資本と剰余価値は貨幣として資本家が所有していることには変わりはない。)
    恐慌は奢侈品の消費を減少させ、(b)vの貨幣資本への再転化を遅らせ、従って失業を増大させ、必要消費手段も減少させ、部門の生産も減少する
☆  (要するに、資本主義的社会においては、資本家の気分・恣意性に左右される奢侈品が経済活動の不安定要因となり、労働者の生命を脅かすような状況をもたらす)

第五節     貨幣流通による諸転換の媒介
    剰余価値の循環w-g-wの内容を、生産部門と消費部門に分けて、貨幣の流通として捉えてみれば、次のことの理解が深まる。
☆  Ⅰでもでも剰余価値は全て資本家のものであり、資本家はその剰余価値を生活に必要な消費だけではなく奢侈品の消費にも配分することができる
☆  貨幣資本の流通におけるあり方、例えば銀行や地代・利子生活者の存在しうること
☆  貨幣資本の回転がそれらに及ぼす影響
    以上の詳細な検討によって、の4000c+1000v+1000mのうちの40
00c以外の部分とのすべての貨幣資本についての流通は説明された

第六節     部門の不変資本
    残っているのはの4000cであるが、これらは不変資本としての内部でその場所を移動するだけである(固定資本は歴史的蓄積として既にあるものが価値として移動するだけ、流動資本は貨幣と実物が資本の変態を介して循環するだけ)
    「仮に生産が資本主義的でなく社会的であるとすれば、明らかに、部門のこれらの生産物はこの部門のいろいろな生産部門の間に、再生産のために、同様に絶えず再び生産手段として配分され、一部分は、直接に、自分が生産物としてでてきた生産部面にとどまり、反対に他の一部分は他の生産場所に遠ざけられ、こうしてこの部門のいろいろな生産場所の間に絶えず行ったり来たりが行われることになるであろう。」[1]

第七節     両部門の可変資本と剰余価値
    貨幣資本の代わりに労働日で考察しても、前記の事情は理解できる、つまり社会的総労働日は必要労働と剰余労働に分かれ、前者は社会的総生産価値、後者は資本家のものである剰余価値となるから

第八節     両部門の不変資本
    (v+m)=cだから、(c+v+m)=(v+m)+(v+m)つまり、一年間に消費部門で生産される消費手段の総価値は、生産部門と消費部門の年間労働によって生み出された価値に等しい
    両部門を総計した社会における不変資本は、部門の4000cの部分であるが、これを社会的に見れば、可変資本にも剰余価値にも分解できない価値である
    「すなわち、資本主義的生産様式の社会も全体としてみればこの独自な歴史的経済的性格を失うかのように事柄を見てはならないのである。逆である。その場合には問題は総資本家である。総資本は、全ての個別資家を一緒にしたものの株式会社として現れる。この株式会社は、誰も自分が投げ入れるものは知っていても自分が取り出すものは知っていないということを、他の多くの株式会社と共通にしているのである。」[2]

第九節     アダム・スミス、シュトルヒ、ラムジへの回顧
    (省略)

第十節     資本と収入 可変資本と労賃
    (ここで述べられている内容は、第一巻第二十二章(剰余価値の資本への転化)、第二十三章(資本主義的蓄積の一般的法則)などで殆ど述べられている)
    (年間生産物の価値)-(その年に新たに生み出された価値生産物)=(以前の年の生産手段からこの年の生産物に移された価値)。ここでの例で表現すれば以下
☆  年間生産物価値=(4000c+1000v+1000m)+(2000c+
500v+500m)=9000
☆  その年に新たに生み出された価値生産物価値=(1000v+1000m)+
(500v+500m)=3000
☆  以前の年の生産手段からこの年の生産物に移された価値=(4000c)+Ⅱ(2000c)=6000
    収入=剰余価値であり、従って資本家のものである。労賃は労働者から見れば収入のように見えるかもしれないが、可変資本として生産資本の一部である
☆  Ⅰ部門の労働者の労賃1000vは部門の生産資本の一部であるが、(1000v+1000m)=(2000c)だから、結局部門の生産手段として購入された資本が環流されたもの、同じことだが部門の生産手段の一部である
☆  Ⅱ部門の労働者の労賃500vは部門の生産手段としての資本の一部にすぎない ☆  その年に新たに生み出された価値生産物価値の内、労働者は、この場合には1/2を自分の再生産に消費し、残りの1/2は資本家が収入として消費する(要するに、資本家の消費は、生きるため以上の奢侈品が含まれるような収入なのである。資本と収入、可変資本と労賃の分析からも、資本主義経済社会の特徴が分かるのである)
    「可変資本はいつでも何らかの形態で資本家の手のなかにあるのだから、それが誰か
にとっての収入に転換されるとはけっして言うことが出来なのである。」

第十一節 固定資本の補填
    (固定資本の説明がなされている部分は、第二篇八章~九章と重複するから省略する) 
    (部門の固定資本部分はの生産した商品なので、この商品には、部門にとっては該当年内に現物を貨幣で購入する必要がない部分が含まれ、部門にとっては該当年内に部門から貨幣で受け取らねばならない部分が含まれるが、これらの部分同志が時間的なズレがなく一致すること、換言すれば貨幣・商品の流通が均衡することには原理的に困難が含まれているのである。)
☆  その困難を回避するには、一方では継続的な相対的過剰生産、他方では年間必要量以上の在庫が必要となる[3]
☆  「この種の過剰生産は、社会がそれ自身の再生産の対象的手段調整するのと同じことである。ところが、資本主義社会の中ではそれは一つの無政府的な要素なのである。」

第十二節 貨幣材料の再生産
    (省略)

第十三節 デステュット・トラシの再生産論
    (省略)

第二十一章 蓄積と拡大再生産
    剰余生産物が貨幣化されて蓄蔵されると蓄蔵貨幣となるが、蓄蔵貨幣は追加された社会的富ではない。しかしそれは潜勢的な貨幣資本を表している
    (単純再生産の場合には、(v+m)=cであるが、拡大再生産の場合には、Ⅰ (v+m)>cとなる。)拡大再生産の前提となる蓄積について、部門に分けて考察する

第一節     部門での蓄積
一、 貨幣蓄蔵
    (貨幣蓄蔵自体の説明は既に、第一巻の第三章「貨幣または商品流通」、第二十二章
「剰余価値の資本への転化」、第二部の第二章「生産資本の循環」、第八章「固定資本と流動資本」などで説明されているので省略する)
    部門での蓄積は可能的追加資本としての貨幣蓄蔵の形態を取ることになる
    例えば資本家Aが600(=400c+100v+100m)を資本家Bに売る場合、Aが100m分の貨幣を流通から引き上げて使わずに保持していれば貨幣蓄蔵すなわち潜勢的な追加貨幣資本を形成する。他のA、BはA、A′′、B、B′′等で表現する
    「ここでついでに次のことを言っておきたい」
☆  貨幣蓄蔵する資本家Aの売りは、蓄蔵貨幣を追加資本の諸要素に転化する資本家Bの買いと均衡しなければならない
☆  貨幣と商品との正常な転換に基づく均衡は、資本主義生産様式に特有な条件を生み出す。しかし、それは偶然に過ぎないからその条件と同じだけの不均衡、換言すれば恐慌の可能性をもつ
☆  Ⅰv対c中の相当価値額の転換では、消費手段の商品が生産手段の商品と同価値で交換されるのだが、これは総資本家が直接対峙するのではなく、労働者階級の消費を介して行われる
☆  「すべてこれらの必然的な前提(貨幣と商品の流通を可能にする諸条件)は、互いに条件となりあいながら、一つの非常に複雑な過程によって媒介されるのであって、この過程は、三つの別々に進行する同時にまた互いに絡み合っている流通過程[4]含んでいる。この過程そのものの複雑さがまたそれだけ多くのきっかけを不正常な進行に与えることになるのである。」

二、 追加不変資本
  部門での剰余生産物はBやB、B′′の手の中で追加不変資本として機能するが、可能性としてはAやA、A′′の手の中にある貨幣蓄蔵が追加不変資本である。しかし、この追不変資本を作るために追加資本が動かされておらず、剰余労働もcのためではなくcのために使われているかぎりでは、単純再生産の限界を出てはいない
☆  部門でのAやA、A′′の可能的追加貨幣資本の形成は、追加的に生産されうる生産手段の単なる貨幣形態
☆  部門でのBやB、B′′の可能的追加資本の生産は、生産過程そのものの一現象の他には何も表現していない
☆  部門での可能的追加資本が、AやA、A′′の可能的貨幣資本として次々に形成されていくのは、商品の買いによって補足されない一方的な売りが繰り返されることを条件とするのだが、これは流通から繰り返し貨幣が引き上げられることを条件とする(部門内部では消費がないから、A達とB達が過剰に生産した生産材料と前貸貨幣を交換し合うだけ)
  だがここで、貨幣の機能が変わり始める。単純再生産においては、貨幣は、収入として消費手段に支出される機能を持つものであった。しかし拡大再生産においては、Aの仲間とBの仲間とが剰余生産物を可能的追加貨幣資本に転化させるため、代わる代わる供給し合うものとして、また、新たに形成された貨幣資本を購買手段として代わる代わる流通に投げ返すものとしての貨幣へと、貨幣の機能が変化する
☆  ここでは国内に存在する貨幣量だけで十分であるということ前が提され、それは単純な商品流通、商品と貨幣の等価交換の場合の前提と同じであるが、蓄蔵貨幣の機能が違っており、貨幣量は一層大でなければならない。理由は以下(重複部分も改めて再掲する)
  「資本主義的生産ではすべての生産物は(新たに生産される貴金属と生産者自身によって消費されるわずかな生産物とを除いて)商品として生産され、したがって貨幣という蛹になる過程を通らなければならないからである。」
   資本主義的な基礎の上では、商品資本の量もその価値量も、ただ絶対的に大きいだけではなく、比べものにならないほどより大きい速度で増大するからである。」
   ますます膨張する可変資本が絶えず貨幣資本に転換されなければならないからである。」
  生産の拡大と一緒に新たな貨幣資本の形成が進行するので、この資本蓄蔵形態の材料もそこになければならないからである。」
☆  信用制度が発達してきても事態は変わらないが、貴金属の追加生産が短期間に商品価値に対して攪乱的な影響を及ぼしたり、信用機構の比重の増大や精巧さが、攪乱の機会も増大させる

三 、追加可変資本
    第一巻で詳しく述べられたように、資本主義的生産の基礎の上では労働力はいつでも用意されているから、ここでは新たに形成された貨幣資本のうち可変資本に転化できる部分は、それが転化するべき労働力をいつでも見出すことが出来ることが仮定される

第二節     部門での蓄積
    部門のA達が、部門のB達に売るのではなくて、部門のB達に売ると、それをもとに部門で製造された消費材料が部門の労働者と資本家によって購入されないかぎり、結局部門の消費材料が過剰生産となる
    単純再生産は、部門ⅠⅡの剰余価値は全て収入としてすなわち支出として消費されるのだが、蓄積が消費を犠牲にして行われると考えるのは資本主義的生産の本質に矛盾する幻想である(蓄積は消費を削って行うのではなく、増やした剰余価値から捻出する)
☆  そのような幻想を持つのは「消費が資本主義的生産の目的であり推進的動機であって、剰余価値の獲得やその資本化すなわち蓄積がそうなのではない、ということを前提しているからである。」
    での消費材料の過剰生産は、の資本家にとってはその分の貨幣の回収を困難にするから、へ環流する1000vの減少へ反映されうる。そうすればの資本家にとっては規模を維持しての再生産さえ困難とする可能性を生む(だから、の資本家は過剰生産をしないし、の資本家もそれは望まない)
    商品在庫も蓄蔵貨幣も、ここではまだ資本家ⅠⅡだけが保持しているのだから、規模を維持しての再生産を困難とするような状況を避ける方法として、その年の追加貨幣資本を前年の在庫で確保することが可能のように見えるかも知れないが、規模を維持しての再生産であるかぎり毎年在庫が増えるだけだから、問題は少しも変わらない
    (結局、流通における商品と貨幣の均衡があるかぎり(1000v+500m)=1500cが成り立ち、単純再生産と資本家の手中に500の蓄蔵が残り、これがⅠⅡ 両部門においてc、v、mの増加へ、つまり拡大再生産へと繋がっていき、第一巻で述べられているように果てしない資本の自己増殖が起こる)

第三節     蓄積の表式的叙述
    表式a)
:4000c+1000v+1000m=6000 Ⅱ:1500c+(1500/4)v+(1500/4)m=2250[5] この表式は、の蓄積が500したがって(v+m)>cだから拡大再生産の前提が満たされ、c:v:mは前例と同じに 411。価値生産量総計は8252で前例の9000より小さいが、拡大再生産の本質は拡大された規模にあるのではなくて、生産される価値の構成要素とそれらの関係の内容にあるから、拡大再生産の説明には適切な例である
    表式b)
:4000c+875v+875m=5750 Ⅱ:1750c+(1500/4)v+(1500/4)m=2500この表式は、価値生産量総計を表式a)と同じ8250として単純再生産の表式でも実現可能なことを示したもの。単純再生産だから(v+m)=c、しかし、c:v:mの値は表式a)とは違うことになる(資本構成などが変わる)。
    現実に拡大再生産が生じる状況の要点を表式a)で説明すると次のようになる[6]
   mの内の1/2=500mがcとvへ従来どおりの資本の構成比で分配され、部門の生産物の消費の合計は変わらないとすると内訳は次のようになる Ⅰ:4400c+1100v+500m=6000
   すると、部門の不変資本は1100v+500m=1600cに増大して、それに見合う可変資本の増大分=100/4=25が要求され、部門の生産物の消費は変わらないとすると内訳は次のようになる Ⅱ:1600c+400c+250m=2250
    今年は、部門ⅠⅡともに資本は増大し拡大再生産がおこなわれ、は次年度にcを拡大するための生産材料を購入するため、貨幣資本の蓄積をする
   一年間拡大再生産をした後の部門ⅠⅡにおける表式a)は、資本の構成が変わらないとすれば次のように変化している Ⅰ:4400c+1100v+1100m=6600 Ⅱ:1600c+400v+400m=2400cもvもmも増大することが分かる
    事例として、単純再生産様式で資本構成がc:v=4:1、総価値生産量9000の場合と。c:v=5:1、総価値生産量9000の場合、が記載されているが、省略する。
    (ここで理解すべき点は、拡大再生産が可能になるのは(c+v)>cであること、部門の剰余価値は部門の剰余価値が流通の均衡の下で波及すること、であろう)

第四節     補遺
(省略)



                                                                                                 
[1]  現実にそうなるには、将来に亘って互いの生活に必要な社会的価値を、また、多様な価値の交換活動を駆動する原理を、人間が自覚して統御しなければならないであろう。換言すれば、マルクスが指摘した、商品に内在する価値の二重性が止揚されて生み出される
価値が具体的に自覚される時代においてのみ、それは可能であろう、といえるのだろうか?
[2]  この引用箇所は意味がよくわからないが、社会的総資本は資本の原始蓄積からなっているのであって、個別資本家の総体として現れている株式会社の所有物ではない、というこ
[3]  それは商品の形態ではなくて貨幣の形態としてもありうる
[4]  部門内の流通過程、部門内の流通過程、部門との間の流通過程、だろう
[5]  分母の4は仮定されている資本構成から得られるものなので、1500/4=375が正解、したがって原文の376は間違い(合計も2500)
[6]  この部分は『資本論入門』(宇野弘蔵著、講談社学術文庫 187-199 頁)を参考とした

0 件のコメント:

コメントを投稿