2022年9月17日土曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋④ 第二篇 第一章 第27、28、29節

希望
 第一篇       現象学的基礎考察

第一章 自然的態度のなす定立と、その定立の遮断

27節 自然的態度の世界。すなわち、私と私の環境世界

われわれの考察を始めるにあたり、ごく普通の生き方をしている人間の身になって見よう。つまり、感じたり、思い浮かべたり、判断したり、意欲したり、しかも、その生き方が「自然的な態度において」なされている人間の身になって見よう。われわれが、そういう人間の身になって諸省察を行うときには、一人称単数(=私)をもって語るのがよい。

私は、一つの世界を意識するものである。その世界は、空間の中で果てしなく広がり、時間の中で果てしなく生成しつつ、また生成してきたものである。私がその世界を意識するということは、何よりも先ず、私がその世界を、現にそこに存在しているものとして経験することを意味する。その場合、もろもろの物体的事物が、顕在的にも潜在的にも、私にとって、端的に現にそこに存在するのであり、「手の届く向こう」(vorhanden=手が届くような、身近でありありとした)に存在しているのである。私が机上で書き物をしているとき、眼前の机やペンなどは顕在的なもの、今は注意を向けていないが振り向けば見えるだろう背後の諸物は潜在的なもの、いずれも現実的客観として「手の届く向こうにある」ものとして、の物体的事物なのである。

顕在的な知覚野のまわりには、それと一緒に現存しているものがあって、これが不断に知覚野を取り巻いている。私にとって意識の「手の届く向こうに存在して」いる世界というものは、尽くされはしないのである。顕在的に知覚されたものや、それと一緒に現存している未規定的なものは、未規定的な現実という曖昧に意識された地平によって取り囲まれている。私はその地平の中へと注意の眼差しを向けることによって、準現前化(⇒記憶や想起や想像により眼前すること)の一連の働きが連結しあっていって、規定性の圏域が拡がり、ついには顕在的な知覚野との連関が作り出される程になることもある。一般にはしかし、曖昧な未規定性が空漠と拡がり、そこには直観的なもろもろの可能性や推測が群がり、世界の「形式」の下図が「世界」として描かれるすぎないことになる。おまけに、未規定的な周囲は無限なのであって、未規定的な地平というものの存在は必然なのである。

私が以上のように追跡してみたものは、空間的現在という存在秩序における世界であったが、時間の系列における存在秩序の点でも、世界の事情は同じである。時間は過去と未来の二つの方向に無限である。私は眼差しを過去や未来に向けることが出来るし、絶えず新しい諸知覚や準現前化を創り出すことが出来るし、多少とも明瞭なもろもろの像を作り出すことが出来る。

このようにして私は、おそらく変更不可能な仕方で、同一の世界に関係しているのを見出す。この世界は、絶えず私にとっては「手の届く向こうに存在して」おり、且つ私自身がその世界の成員である。この場合、この世界は、私にとって単なる事象世界としてだけではなく、同じ直接性において、価値世界、財産世界、実践的世界として、現にそこに存在している。私の眼前の諸事物は、事象としての諸性状を具えていると同時に、美醜等々の価値の諸性格を備えている。

28節 コギト。私の自然的環境世界と、理念的な環境諸世界

右に述べたような世界に、学問的研究において私のなす理論的意識のもろもろの自発性の複合体、つまりデカルトのいうコギトが関係する。コギトに総括されるものは、心情や意欲によってもたらされる諸作用や諸状態の他、世界が直接的に手の届く向こうに存在していると私に意識されるゆえんの素朴な自我の諸作用も含まれる。

絶えず私は、知覚し、表象し、思考し、感情作用をなし、欲求する、等々のことをなす者として、私に見出されてくる。その際大抵の場合に私は、自然的環境世界つまり「実在的な現実」というこの世界に関係づけられているのを見出す。しかしそうでは無い場合がある。例えば算術的世界(⇒数学の世界)は、手の届く向こうに存在するようなものでは全くないけれども、私にとっては現にそこに存在している。算術的世界において、個々の数や数式などが私の視点のうちに存在し、それらは、一部は規定された、また一部は未規定な算術的地平によって取り囲まれているが、私にとって現にそこに存在するその在り方、つまり理念的な環境世界におけるその在り方は、自然的環境世界における場合とは別種の性質を帯びている。算術的世界が私にとって現にそこに存在するのはただひとえに、私が算術を学び取った場合、つまり私が自ら算術的観念を体系的に形成しまた観取し、普遍的な地平を伴いつつその観念を恒常的に我が物とした場合またそのとき以来のみ、なのである。すなわち「新しい諸態度」で学び取ったとき以来のみ、なのである。自然的態度においては、自然的世界は絶えず私にとって現にそこに存在しており、私が新しい諸態度によって諸世界の中のみを動くときは、通常(訳注:現象学的態度が取れないとき)、自然的世界は私の意識作用にとっては背景となっている(訳注:現象学的主観が取り出せないから自然的態度から抜け出ず、背景ではあっても存在している)。自然的態度を採る自然的世界と新しい態度を採る算術的世界は異なるものであるが、私は両方の世界に対して自由に私の眼差しを向け変えることが出来る(訳注:現象学的態度を採ることで、いずれ自然的世界と理念的世界は統一的な認識に至ることになる)。

29節 もろもろの「他の」自我主観と、諸主観共存の自然的環境世界

 私自身に当てはまることはすべて、他の人間達すべてにもまた当てはまることを、私は知っている。私も他の人間達も、客観的な空間時間的現実が定位されている同一の環境世界に属しており、この同一の世界が我々のすべてにとっては様々な仕方で意識されていることを知っている。つまり、われわれは皆、諸主観共存の自然的環境世界に属している(⇒世界認識に対するこのような考え方を、フッサールは間主観性と呼ぶことになる)


2022年8月19日金曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋③ 第一篇 第二章 第23節と第24節

    パパメイアン

 第二章 自然主義的誤解

23節 理念を見てとる働きの自発性。本質と虚構物

  以上(22節)のように言うと、赤とか家とかという色や事物が存在するのは明らかであるのに、それとは別に、それらを実際に見るという経験から抽象された赤とか家とか言う概念を本質と呼んで実体化するのは、心の働きによって創り出される概念、例えばギリシャ神話に出てくる半人半馬の怪物が実在すると考えるようなもので、何の意味があるというのか、という人が出てくるかもしれない。想像という経験(空想体験)から生み出される怪物は虚構物ではある。だが、例えば色や事物を見る場合には、今そこにあるのは、想像から生み出された虚構ではなく、感性によって知覚されたもの、および、赤とか家とかの言葉で抽象された概念である。ここにおける概念は本質なのではあるが、より詳しく言えば、本質が産出されているのではなくて、本質についての原的に与える働きをする意識(理念を観てとる働き)と、感性的に与える働きをする意識(経験的な意識)が生じているのである。そして、理念を観てとる働きの方は、必然的に一つの自発的な意識であり、一方経験的な意識の方は、自発性とは無縁に個的対象が「現出する」ことができるようなものであり、統握によって意識されることが出来るようなものなのである。

 このように、虚構意識と本質意識を、自発性の点から似たものとして並べると、本質の「現実存在」に関する疑念が生じるかもしれない。けれども、その疑念は、虚構と知覚を並列に「直観的意識」のもとに置くならば、知覚的に与えられる対象の「現実存在」が損なわれてしまうのと同様である。事物は、知覚されたり、想起されたりできるから「現実的」なものと意識されることができるし、幻覚的なものや「単に眼前に思い浮かべられているだけ」意識されることもできる。本質に関しても事情はよく似ていて、本質もまた、他の対象と同じく、あるときは正しく、またあるときは間違って認識される(数学の計算間違いは誰でもわかる)のだが、本質を認識する作用(本質観取)は、感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである。(⇒意識の認識作用に原的に与えるものは直観であり、直観には事物や論理などを対象とした個的直観と意味や価値などを対象とした意味直観の二つがある、と言いたい)。

24節 一切の諸原理の、原理

 さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分自身を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。

自然研究者が、自然の事実に関する認識は経験(実験や観察という経験)によって基礎づけられているという「原理」に従おうとするのは、完全に正当である。というのは、当の事柄を最初から掴み取るゆえんの原理だからであり、普遍的洞察(意識経験によって直接得られる直感に基づく)のうちから直接的汲み取ることのできるやり方だからである。この点については、われわれはいつでも確信することができる。本質研究者も、普遍的命題を利用しまた言明するものは誰でも、自然研究者のやり方に並行的な一つの原理に従わねばならない。というのも(並行的な、というのは)、すべての事実認識を経験によって基礎づけるという原理自身が、経験によっては洞察しえないからである。

(⇒並行的とは、自然研究者と本質研究者には、異なる二つの原理がある、というように見えるが、言いたいことはそうではない。自然科学の理論は、拡張されていく経験によって得られるデータによって判明する矛盾を、誰でも納得するような、より包括的な理論に変遷し続けるによって克服されていく。そのプロセスが可能となる原理は経験によって得られるデータだけでは説明できない。本質研究者も自然研究者と原理的には同じプロセスが踏めるはずだというフッサールの直観がある)。


2022年7月24日日曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋② 第一篇 第二章 第22節 

ピース
 第二章 自然主義的誤解

第22節 プラトン的実念論だとする非難。本質と概念

 これまで繰り返して、フッサールはプラトンのイデア論者であると批判されてきた。つまり、理念や本質を、実在物を対象とした場合と同様に対象化し、しかもその対象を直観によって把握できると述べていると。しかし、対象と実在物、現実と実在的現実とは峻別できるから、そのような批判は的外れである。多種多様な理念的なもの(例えば、音階、数、図形の円、数学的諸命題、等々)は一つの対象である。人は先入見に災いされて、自分が自分の直観領野において所有しているものを、認識や判断の基盤として使えなくなっている。誰もが間断なく理念や本質を見ているのだ。認識論において大事なことは、明証的所与の根本形式を区別して、その様式をその固有の本質にしたがって記述することであろう。

 人々は、先入見に囚われて、本質などはなく、したがって、本質直観(理念を見てとる働き)などは存在することはできない、と思い込んでいる。つまり、本質の存在を認めるのは「形而上学的」実体化なので否定され、存在するのは「抽象」という、実在的な経験や表象に結びついた心理学的出来事となり、この「抽象」から諸現象や分析が捏造されるので、理念や本質は心理的形成物、抽象の産物としての「概念」とされ、結果、「本質」「理念」「形相」とか称されるものは、意味の無い事実を実体としたものに覆い被された高尚な「哲学的」名称となっている、と。

 「本質」「理念」といったものは認識の対象として存在する。本質は「概念」ではあるが、それが意味を持っているのは、「概念」のことを「本質」のことと理解するかぎりにおいてであり、「概念」は心理学的形成物である、ということであるなら、そのかぎりでは意味を持つことは出来ない。そのことを、例えば基数(数)を例にとって説明すると以下のようになる。われわれが「数」の存在を知っている、ということの意味は何だろうか。例えば2という数があるというのは、ある個物が二つあること、もう一つあれば3という数になることなどの数表象によるのだろう。しかし、数表象は今ここにおける現象であるが数自体は個物にも時間にも心的作用にも無関係に、その存在を概念として理念として不可疑的な所与として認識しているものなのである。


2022年7月18日月曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋① 第一篇 第一章 第1,2節 第二章 第7節 事実学と本質学

希望
 本文の一段落ごとに、ポイントとなる部分を抜粋し、補足する場合にはその下にインデント
を下げて箇条書きを列挙する。

第1節 自然的認識と経験 

ごく当たり前の自然的[1]認識というものは、経験とともに始まり、そして経験のうちにあくまでもとどまる。われわれが「自然的」と呼ぶような理論的態度においては、可能的探究の全地平は、したがって一語でもって表示される。つまりそれは、世界である。

・続けて、そのような根源的態度による諸学問は「世界」に関する諸学問だと述べられる

・「自然的」とは世界に対する素朴な態度のことだが、本質的という感度が潜んでいる

・自然的態度における経験は反省を伴わないので、その対象は先ずは自然界となる

・自然的態度から客観的現実を目指す自然主義的(自然科学的)態度が生まれる

・世界の認識には、自然的認識を経た後、経験を反省する態度が要することが明確になる

・自然科学的認識も、実はごく当たり前の「生活世界」に立ち戻ることで再構成される

・そのような、イデーンⅠ以降晩年に至るまでのフッサールの考察がすでに垣間見える

 学問の全ての認識に応じて、その正当性の根拠を基礎づける根本源泉として、なんらかの直観がある。この直観のうちでこそ学問の諸対象が、それ自身そのものとして与えられ、つまり自己所与性となって現れるのであり、少なくとも部分的には[2]、原的所与性となって現れてくるのである。最初の自然的認識領圏において、対象を与える働きをする直観の役目をするものは自然経験である。そしてその際、原的に与える働きをする経験は、知覚[3]である。

 ・この段落で、「感情移入」などの言葉が挿入されて、自分と他人が知覚したものが同一なのかどうかという問いがなされ、知覚が原的所与性であることが次のように表現されている。「ある実在的なものを原的に与えられたありさまで所有することと、それを端的に直観しつつ「認知し」そして「知覚する」こととは、同じなのである。」[4]

  世界とは、可能的な経験の及び経験認識の、諸対象の全総体である[5]。世界に関する学問は次のようなものである。自然科学、生理学や心理学、歴史学、文化科学、各種の社会的諸科学などである。

 ・これらの諸学問の間にある諸問題については、当面未解決のままにしておいて良いだろう、と述べられる

 2節 事実。事実と本質との不可分理性

  経験科学というものは「事実」学である。この場合、基礎づける働きをしている認識作用は経験であるが、この認識作用は、実在的なものを、個別的なものとして定立する。この定立される実在的なものは、この特定の時間位置にあり、この特定の自分なりの持続を持ち、一つの実在性を持つような、或るもの、である。しかし、その実在性の本質からすれば、実はまったく同様に、他のどんな時間位置にあってもよかったようなものなのである。更にまた、右のものは、この特定の場所にこの特定の物理的形態においてあるような、或るもの、である。けれどもその場合にもやはり、また、その実在的なものは、その固有の本質から考察するならば、任意のどんな場所にも、任意のどんな形態においても、まったく同様にありうるものである。この個的存在というものは、全く一般的に言って、「偶然的」なものなのである。それは、今現に或る在り方をしてはいるが、それは、その本質上、別様の在り方をすることができたはずのものである。また、自然法則については、これが言い表しているものは、ただ事実上の規則にすぎないのであって、この規則自身は全く別様の仕方であり得たかもしれないものなのである。この法則もまた偶然的なものなのである。

・個的存在とは、今ここに、そのように存在する、個々の現存在(ここでは事物)のこと

・個的存在も、個的存在に関してあり得るだろう自然法則も、別の空間時間で別のありようで存在してもよかったのだから、偶然的なものなのである

・自然界の事物や法則は、空間時間に無関係であることは明らかにみえるのに(例えば、時代や場所が変わってもリンゴはリンゴで落下の法則はどこでも同じ)、世界認識はもとより事物や自然法則の認識でさえそうではないとフッサールは直観している。つまり、可能的諸経験の対象の全総体としての「世界」の認識の謎の解明は、事物認識の構造から始めるとよい、と

この偶然性は、ある必然性と相関的に関係している、という意味を持っている。この必然性は、空間時間的な諸事実に関する規則が事実上成立するということではなく、本質必然性という性格を持ちしたがって本質普遍性に関係しているような必然性のこことである。或る本質を持ち、従ってある純粋に把握されるべき形相を持つということが、どんな偶然的なものであれ皆その意味に属していて、この形相はさまざまな普遍性の段階を持った本質真理のもとにあるのである。例えば、どんな音も皆、それ自体として、或る本質を持ち、その最上位に、音一般という普遍的本質を持つ。この普遍的本質は、個的な音から(個別に、或いは他のもろもろの音との比較を通して「共通なもの」として)直観しつつ取り出された契機にほかならない[6]。同様にまた、どんな物質的本質も皆、それ固有の本質的種別を持ち、そしてその最上位に、「物質的事物一般」という普遍的種別を持つ。この「物質的事物一般」には、更に、時間規定一般、持続一般、形態一般、というものが伴う。個物の本質に属する全てのものは、また或る別の個物がこれを所有することのできるものでもある。最上位の本質普遍性が、もろもろの個物の属する「領域」もしくは「範疇」を区画づける。

・「本質普遍性」とは何か?というような問い方をせず、ここでは個物に限定し、個物の事例を挙げてその分類名称の順番などに即した考察に留めておけば分かりやすい

・しかし、事例に挙げられている「音」は、音一般という普遍的本質をもっていると述べられているが、ここには聴覚を通して知覚した知覚直観(音階など)と意味直観(美しいメロディーとか情熱的なリズムなど)が含まれていることが伺えるし、さらに物質一般という普遍的本質にも知覚直観だけではなく意味直感があることに気付くはずだ

・哲学では「領域」と「範疇」は使い方に区別があり、前者は質料的存在論、後者は形式的(形相的)存在論で用いられる。質料と形相と概念はギリシャのアリストテレスの用語としてよく知られているが、変容しつつ普遍性も保っている

第7節 事実学と本質学

個的対象と本質との間には連関があり、この連関に応じて、事実学と本質学とが関連し合う。純粋な本質学というものがあって、例えば、純粋論理学、純粋数学などがある。事実学においては、経験をするという働きが、基礎づける作用をする。本質学においては、経験に代わって、本質観取が、究極的基礎づけの作用である。

・幾何学者が図形を描くという経験は、彼の幾何学的な本質直観と本質思考に対しては、少しも基礎づけの役割を果たさない。彼は現実ではなく理念的可能性を研究し、現実態ではなく本質態を研究する

・自然研究者は幾何学者とは全然違って、観察と実験により経験されるような現存在を確認する。経験するという働きが、彼にとっては、基礎づけの作用である


[1] 訳注:「ごく当たり前の自然的」はnatürlichの訳だが、大部分は「自然的」としてある。類似でも意味が異なる語naural,naturalistish=naturwissenshaktlich,naturhaftがある。後にnatürlichな態度が人格主義的態度となる非連続的裂け目が明確にされ(イデーンⅡ)、晩年の「生活世界」へと至るフッサールの考え方の方向が看取できる

[2] 所与性の基盤に原的所与性がある。それは、フッサールでは「超越論的主観」「純粋意識」と呼ぶ領域を基盤とする。竹田青嗣は更に、ニーチェの絶えざる「生成の世界」の思想をも取り入れて、対象の信憑構成の一般理論への転化という意味を込めて「現前意識」と呼ぶ(『欲望論 上』P528

[3] ここではまだ、普通に知覚すること、例えば目盛りを見たり数字を追ったりして感じ取ること、と読めばよい

[4] 知覚は原的所与性だから自他で同じ認識となる。だが、まだ明確にはなってない

[5] 訳注:イデーンⅠでは、世界と事物が連続的に捉えられ、「世界」の記述と「事物」の記述が入り混じっている。この二つが明確に区別された記述となっているのは、晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』においてである

[6] 訳注:これが「本質観取」の方法