2017年8月20日日曜日

カント『純粋理性批判』目次~緒言


ピース
 個人的読解を2006年頃にメモとして残したものを、改訂しながら少しずつアップロードしていきます。途中抜けているところもあります。
 2018/6/24追記:平凡社ライブラリー(原佑、渡辺二郎訳)で新たに読み始めたので、この続きは別ブログ(爺~じの”読書日記)に逐次掲載し、纏まったらこのブログにアップする予定です。二年くらいはかかりそう。

『純粋理性批判(カント1787 第二版 底本Ca版---岩波文庫)[1]』読書ノート

【目次】

献辞

第一版序文

第二版序文

緒言

Ⅰ 先験的原理論

第一部門 先験的感性論

緒言(1)

第一節     空間について

l  空間概念の形而上学的解明(2)

l  空間概念の先験的解明(3)

l  上記の諸概念から生じる結論

第二節     時間について

l  時間概念の形而上学的解明(4)

l  時間概念の先験的解明(5)

l  これらの概念から生じる結論(6)

説明(7)

先験的感性論に対する一般的注(8)

先験的感性論の結語

第二部門 先験的論理学

緒言 先験的論理学の構想

Ⅰ 論理学一般について

Ⅱ 先験的論理学について

Ⅲ 一般論理学を分析論と弁証論とに区分することについて

Ⅳ 先験的論理学を先験的分析論と弁証論とに区分することについて

第一部 先験的分析論

第一篇 概念の分析論

第一章 すべての純粋悟性概念を残らず発見する手引きについて

第一節     悟性の論理的使用一般について

第二節     判断における悟性の論理的機能について(9)

第三節     純粋悟性概念即ちカテゴリーについて(10-12)

第二章 純粋悟性概念の演繹について

第一節 

l  先験的演繹一般の諸原理について(13)

l  カテゴリーの先験的演繹への移り行き(14)

第二節

l  純粋悟性概念の先験的演繹

l  結合一般の可能について(15)

l  統覚の根原的-総合的統一について(16)

l  統覚の総合的統一の原則は一切の悟性使用の最高原則である(17)

l  自己意識の客観的統一とは何かということ(18)

l  およそ判断の論理的形式の旨とするところは判断に含まれている概念に統覚の客観的統一を与えるにある(19)

l  およそ感性的直観はかかる直観において与えられた多様なものが結合せられて一つの意識になり得るための条件としてのカテゴリーに従っている(20)

l  (21)

l  カテゴリーは経験の対象に適用され得るだけであってそれ以外には物の認識に使用され得ない(22-23)

l  感官の対象一般へのカテゴリーの適用について(24-25)

l  純粋悟性概念の一般的に可能な経験的使用の先験的演繹(26)

l  悟性概念のかかる先験的演繹から生じた結論(27)

l  この演繹の要約

第二編 原則の分析論(判断力の先験的理説)

緒言 先験的判断力一般について

第一章     純粋悟性概念の論について

第二章     純粋悟性のすべての原則の体系

第一節     一切の分析的判断の最高原則について

第二節     一切の総合的判断の最高原則について

第三節     純粋悟性のすべての総合的原則の体系的表示

第三章     あらゆる対象一般を現象的存在と可想的存在とに区別する根拠について

付録

第二部     先験的弁証論

緒言

第一篇     純粋理性の概念について

第一章 理念一般について

第二章 先験的理念について

第三章 先験的理念の体系

第二篇     純粋理性の弁証法的推理について

第一章 純粋理性の誤謬推理について

第二章     純粋理性のアンチノミー

第一節     宇宙論的理念の体系

第二節     純粋理性の矛盾論

第三節     これらの自己矛盾における理性の関心について

第四節     絶対に解決せられねばならぬ限りにおける純粋理性の先験的課題について

第五節     すべてで四個の先験的理念によって示される宇宙論的問題の懐疑的表明

第六節     宇宙論的弁証論を解決する鍵としての先験的観念論

第七節     理性の宇宙論的自己矛盾の批判的解決

第八節     宇宙論的理念に関する純粋理性の統整的原理

第九節     これら四個の宇宙論的理念に関して理性の統整的原理を経験的に使用することについて

第三章 純粋理性の理想

第一節     理想一般について

第二節     先験的理想について

第三節     思弁的理性が最高存在者の現実的存在を推論する証明根拠について

第四節     神の存在論的証明の不可能について

第五節     神の存在の宇宙論的証明の不可能について
必然的存在者の現実的存在に関するすべての先験的証明における弁証的仮象の発見と説明

第六節     自然神学的証明の不可能について

第七節     理性の思弁的原理に基づくあらゆる神学の批判



先験的弁証論・付録

純粋理念の統整的使用について

人間理性にもちまえの自然的弁証法の究極意図について



Ⅱ 先験的方法論

緒言

第一章 純粋理性の訓練

第一節     独断的使用における純粋理性の訓練

第二節     論理的使用に関する純粋理性の訓練
自己矛盾に陥った純粋理性を懐疑論によって満足させることの不可能性について

第三節     仮説に関する純粋理性の訓練

第二章 純粋理性の規準

第一節     我々の理性の純粋使用の究極目的について

第二節     純粋理性の究極目的の規定根拠としての最高善の理想について

第三節     臆見、知識および信について

第三章 純粋理性の建築術

第四章 純粋理性の歴史



付録[2]

Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ(第一版に記載されていたが第二版で削除された部分)

(第一版の目次)

索引

Ⅰ(人名)、Ⅱ(事項)











第一版序文(1781


人間はある種の認識について、理性をもってして退けられずかつ答えられない問題に悩まされる。理性が退けられないのは人間の“自然的本性”の故であり、答えられないのは理性を超えているからである。


その問題に対して、理性は原則から出発して次々と条件を遡ってそれらの原則を使用していくが尽きることが無く、ついに一切の可能的な経験的使用を超える原則(経験による吟味を超えている)を使用せざるを得なくなり形而上学にいたる。その形而上学は、現代の(当時の)数学や自然学が裏付けている成熟した判断力に基づいて、人間の自然的本性に対する無関心を装う人々が侮蔑するものであるが、理性が一切の可能的な経験的使用を超える原則を使用せざるを得なくなるという、その理性に対する要望である。


そこで、その様な理性、経験に一切かかわり無く得られる認識をし得る能力としての理性能力一般を批判することが必要であり、これを純粋理性批判という。


以下省略。


第二版序文(1787


---以下部分抜粋・要約---


27----理性認識は対象に対して二つの仕方で関係しうる。ひとつは対象とその概念とを規定するだけであり(理論的認識)、もうひとつは対象を実現することである(実践的認識)。その何れについても、理性が対象をまったくア・プリオリに規定する、純粋な部分だけをとりだして論究されなければならない。


27:数学は全体として純粋であり--------いったい形而上学において学としての確実な道がこれまで見出されなかった理由はどこにあるのだろうか-----------形而上学において少なくとも数学及び自然科学を模倣してみたらどうか------


33:我々の認識はすべて対象によって規定されねばならぬと考えていた。---中略--。そこで今度は、対象が我々の認識に従って規定せられねばならないというふうに想定したら、形而上学のいろいろな課題がもっとうまく解決されはしないかどうかを、ひとつ試したらどうだろう。


34:つまり経験そのものが認識のひとつの仕方であり、この認識の仕方は悟性を要求するが、悟性の規則は、対象がまだ私に与えられない前に、私が自分自身のうちにこれをア・プリオリに前提していなければならない、そしてかかる悟性規則はア・プリオリな悟性概念[カテゴリー]に従って規定せられ、またこれらの概念と一致せねばならない、ということである。


34:こういう対象について言うと、これを考えようとする(かかる対象にしろ、とにかく考えられはするのだから)試みは、我々が一変した考方――つまり我々が物をア・プリオリに認識するのは、我々がこれらの物の中へ自分で入れるところのものだけである、という新方法による考方とみなすところのものの是非を吟味する試金石であることが、もっと先へ行ってから判ると思う(ここでの注釈に“純粋理性の命題の対象を実験することは原理的に出来ないが、我々がア・プリオリに承認しているような概念や原則については可能である。”と言う説明が理由とともになされているが、理解できない)


35:形而上学は、この第一部門{先験的感性論}でア・プリオリな概念を論究するが、これらの概念に対応しかつ適合する対象は、経験に与えられ得るのである。---中略---ところが形而上学のこの第一部門では、我々のア・プリオリな認識能力のかかる演繹から、形而上学の全目的にとって一見頗る不利であるような、いかにも奇異な結果が生じる、ところが形而上学の全目的を論究することこそ、第二部門[先験的論理学]の趣旨なのである。


38----しかも幾何学および自然科学を範として形而上学の全面的革新を企てることによってかかる変革を成就しようとする試みこそ、この思弁的純粋理性批判の本旨なのである。---思弁的純粋理性の特性は、――第一には、思惟の対象を選択する仕方の相違に従って、自分自身の能力を徹底的に検討し、――また第二には、自分自身に課題を与える様々な仕方を遺漏なく枚挙し、---


40p:――即ち空間と時間とは、感性的直観の形式にすぎない、それだからまた現象としてのものの存在を成立せしめる条件に他ならない、――また我々の悟性概念に対応する直観が与えられえないとすれば、我々はいかなる悟性概念ももち得ないし、従ってまた物を認識するに必要な要素を一つももたないことになる、ということである。つまり我々が認識し得るのは、物自体としての対象ではなくて、感性的直観の対象としての物だけである。


41:我々の批判は、客観を二通りの意味に解することを教える、即ち第一には現象としての客観であり、また第二には物自体としての客観である。


以下略。





緒言


I.           純粋認識と経験的認識との区別について

 我々のうちに生じるどんな認識もすべて、時間的には経験をもって始まる。しかしそうだからといって我々の認識が必ずしもすべて経験から生じるのではない。
 経験にかかわりのない認識、それどころか一切の感覚的印象にすらかかわりのないような認識をア・プリオリな認識と呼ぶ。それに対立するものをア・ポステリオリな認識(経験によってのみ可能な認識)と呼ぶ。
 ア・プリオリな認識のうち、経験的なものを含まない認識を純粋認識という。疑問:経験にかかわりないが経験的なものを含む認識(ア・プリオリな認識)とは何か? 経験は、何かあるものがこうであるということを教えはするが、しかしそのものが「それ以外ではありえない」ということは教えない。だから、ある命題がそれ以外にないという必然的な判断を持つなら、その命題はア・プリオリな判断である。また、経験は厳密な普遍性を与えないから、ある判断に厳密な普遍性が属する場合には、それはア・プリオリな判断である(かかる普遍性はこの判断が特殊な認識源泉から生じたことを意味している)。 (判断ばかりではなく)概念についてもア・プリオリな起源を持つものがある。例えばある物体や非物体的なものに対してもっている経験的なもの一切を取り除いてもなお残る性質がある。それは実体、実体に付属するものとして考えるところの性質である。 ア・プリオリな認識のうち、我々の判断の範囲を経験の外に拡張するようなもの、即ち超越的認識があり、理性はこれを究明しようとする。 純粋理性の課題は神、自由および不死であり、この課題の解決を目的とする本来の学を形而上学というが、従来の形而上学の方法は、理性がそのような能力を持っているかどうかの検討をしていないので独断論的である。 我々の理性は概念を分析して認識を与え、分析は概念を拡張せず分解するだけだが、新たにア・プリオリな概念を付加する。 主語Aと述語Bの関係を含む判断(命題)において、その関係は、Bの概念がAの概念にふくまれる場合と、含まれない場合の二種類が可能である。前者を分析的判断、後者を総合的判断と名づける。分析的判断を開明的判断、総合的判断を拡張的判断とも呼ぶ。例えば、「物体はすべて延長を持つ」という命題は分析的判断であり、「物体はすべて重さを持つ」という命題は総合的判断である。 経験的判断は本性的にすべて総合的判断であり、分析的判断はすべてア・プリオリな判断である。 ア・プリオリな総合的判断は経験を要しない判断であり、例えば「生起するものはすべてその原因を持つ」という命題がそれである。これは、因果関係の認識が我々にとって必然的かつ普遍的であることを示している。 要するに我々のア・プリオリな思弁的認識の究極の意図は、総合的原則即ち拡張の原則に基づいている。 数学的命題はすべてア・プリオリな総合的判断である。例えば「七と五の和は十二である」と言う命題は、主語部分は七という概念、五という概念、それらを加えてひとつの数字とするという概念は含まれるが、その加えられた結果が十二になるという概念は含まれていない。にもかかわらず、それが普遍的かつ必然的に十二であることは理解される(小生の追記:初めは身近な指を用い、次に石ころを用い、そのうちに一対一の対応ができなくなるほど大きな数を取り扱うようになっても同様に和算を理解できる根拠は直観であり経験ではない)。即ち、この命題を認識するということは、主語に含まれる概念の外に出てア・プリオリに概念を拡張していることになる。幾何学の命題「直線は二点間で最短である」も同様である。直線の概念は形状であり、この命題には最短という概念がア・プリオリに付け加わり概念が拡張されている。 自然科学はア・プリオリな総合的判断を原理として含んでいる。例えば「物体界の一切の変化において物質の量は不変である」という命題は、物質という概念に含まれていない、量(質量)が不変という概念が付け加わっている。ア・プリオリにこの概念が付け加わっているということは、我々は物質という概念の外に出てから新たに概念をア・プリオリに拡張していることになる。 形而上学の命題も同様にア・プリオリな総合判断が含まれる。即ち、我々が認識を直観によりア・プリオリに拡張することができるという原則が用いられる。例えば「世界にはそもそも始まりがなければならない」という命題がそうである。 疑問:数学や自然科学の命題は、ア・プリオリな総合判断であると同時に仮定であり仮説である。即ちいつでも拡張された概念に含まれうる。形而上学におけるア・プリオリな総合判断はどのような意味を持つのだろう(形而上学の目的に対する答えを出しうる原理なのだろうか?)。 純粋理性の本来の課題は「ア・プリオリな総合的判断はどうして可能であるか」という問いに含まれる。 純粋数学はどうして可能であるか、純粋自然科学はどうして可能であるか、という問いに対する答えは、それが現実に存在しているから。疑問:これは答えになっていないと思う 「人間理性の自然的素質としての形而上学はどうして可能であるか」という問いが存在する。「形而上学の論究する対象は知ることができるのかできないのか」という問いも存在するが、別の言い方をすると「学としての形而上学はどうして可能であるか」という問いとなる。 人間性に欠くことのできない学であるところの形而上学に関しては、その幹から生じた枝葉は切り捨てることができるかもしれないが、これを根絶することは全く不可能である。 理性はア・プリオリな認識の原理を与える能力なので、純粋理性批判と名づけ得るような特殊な学の構想が生じる。 我々が一般に対象を認識する仕方に関する一切の認識を、それがア・プリオリに可能である限りにおいて、「先験的」と名づける。 先験的哲学はまったく思弁的な純粋理性の哲学である。一切の実践的な要素は、それが動機を含む限り感情に関係し、感情はまた経験的な認識起源に属するものだからである。 この体系は二つの区分を持つ。第一が純粋理性の原理論、第二には純粋理性の方法論である。更なる小区分に必要なことはさしあたり以下のようなことである。人間の認識には二つの根幹がある。それは感性と悟性である。感性によって我々に対象が与えられ、悟性によってこの対象が考えられる(思惟される)。




II.         我々はある種のア・プリオリな認識を有する、そして常識でも決してこれを欠くものではない


III.       哲学は一切のア・プリオリな認識の可能、原理及び範囲を規定するような学を必要とする。


IV.        分析的判断と総合的判断との区別について


V.          理性に基づく一切の理論的な学にはア・プリオリな総合的判断が原理として含まれている


VI.        純粋理性の一般的課題


VII.      純粋理性批判という名をもつある特殊な学の構想と区分



[1] カント哲学の基本構成(竹田青嗣2004/10/13ACC横浜);①『純粋理性批判』→独断論(スコラ哲学からスピノザ、ライプニッツへ)と経験論(ロック、ヒューム)を止揚することが狙いであり、(真)に相当する部分の形而上学批判。②『実践理性批判』→形而上学を本質的に批判すると道徳哲学が哲学の中心課題として現れる。(善)に相当する形而上学批判。③『判断力批判』→美と崇高を、認識(判断)でもあると扱っている。「美」は主観的だが客観的、個別的だが普遍的、これを解け。「美」の本質は、------な人間精神の「自由な運動性」である。①②が決定的に重要。

[2] カントは第一版において道徳論を含めた著述をしたつもりであったが、かえってその前提となる部分があいまいとなって理解されなかった。第二版において、あいまい性を取り除くために削除した道徳論の部分をこの付録に記述した(後に『実践理性批判』として著される)。従って、この付録をあわせて読むことでカントの考えをより理解することができる。

2016年9月13日火曜日

ヘーゲル『精神現象学』③(A意識 Ⅱ知覚、或は物と錯覚)

これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。



ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳(A意識)


 知覚、或いは物と錯覚

感覚的確信は、物をこの物として捉えようとするだけだが、知覚は物を自分にとって存在する、ある普遍的なものとして捉えようとする。言い換えれば、知覚は、対象化した物から現象してくる感覚的なものを区別して反省(考察)することで、普遍的なもの、つまり真なるものを捉えようとする。



 [一 物の簡単な概念]

知覚は、感覚的確信のように単に今ここにあるこの物としてではなく、この物が持っているいろいろな性質によって、この物であること、普遍的にこの物であることを知る。例えば、塩という物は、白いということも亦、辛いということも亦、結晶が立方体であるということも亦、その物の性質であるということにおいて、その物が塩であることを知る。真は個別ではなくて普遍にあるのだから、物の真理は物の方に多様なものとしてある、ヘーゲル流にいえば物とは多である(肯定的普遍態)。物とは多様な普遍性が統一されたもの、と捉えることが出来る。



『かくてこのも亦が純粋に普遍的なもの自身であり、言いかえると、媒体であり、諸性質を総括せる物たることなのである。』



だが、物というのはそれが持っている諸性質の統一という側面だけではなく、それ自身が他と区別される一者であるという側面を持っている。諸性質自身は普遍的であっても、この物に備わっているのは、他の物にも備わっているという関係において備わっていると知覚されているのだから、(限定されたものとして)他の物の性質ではなくこの物の性質であり、その限りにおいて個別的なものである。観察されたのは、同じ白色でも砂糖の白ではなくて塩の白であった。塩は白かったのであって、白いから塩なのではない。ヘーゲル流にいえば物とは「一」である。性質の限定的な否定性もまた物の本質に属している(否定的普遍態)。



『・・・媒体(物)もただ単にも亦という諸性質を没交渉にしておく統一であるにとどまらず、一者であり、排他的統一でもあることになる。』



だが、知覚によってこの物が他の物と区別されたものであることを知ることができるのは、他の物と共通な性質という普遍的なものによってである、ということは、考えてみれば不思議なことで、物を対象とした意識の反省的運動としての知覚にはまだ知られていないナゾがありそう(このナゾ解きは、対象が物ではない場合にも役立つはず)。ヘーゲル流にいえば、知覚によって物が物として統一されていくのは、上述の肯定と否定の二契機が関係していくことで成し遂げられる、ということになる。



[二 物に対する知覚の態度]

知覚における意識の基本的態度は、対象を意識に生じてくるがまま捉えることであるが、そうすると、物は一であり多であるということになり、自己同一性という真理の基準に反することになった。

だが、物を知覚するという経験をよく見てみれば、自己同一性という物の真理は対象の側にあるのでもなく意識の側にあるのでもなく、意識と対象が交互に訂正し続ける運動にある。ヘーゲル語でいえば、物は「対自存在」かつ「対他存在」なのであり、実は同じことなのだが、これを意識の側からの言い方では、意識のありかたによって物は「一」でもあり「多」でもあると受け取ることが出来るようなものなのである。

言い換えれば、他とは独立してありながら他との関係においてあるという物の二重性は、多様な性質を持つことで他と区分されているのだ、とも、それらを一つに統一する媒体であるのだ、とも受け取れる意識の二重性と同じなのである。

『・・・物は補足する意識に対して或る一定の仕方において現れてくるが、しかし同時に物はいま現れてくる、そのしかたから出て己のうちに還帰しもすること、言いかえると、物がそれ自身において相互に対立した真理を具えているという経験がえられることになる。』

実は、物というものは物質の集まりなのであって、だから性質もまた物質の集まりであり、これが意識において一者として引き受けられる理由である。しかし、意識は己も物も一者であるとすると同時に、物は独立した物質に分解することも亦とし、即ち物が一と多との二重の仕方で現れてくることを経験する(自然の法則と共に、究極の物質をどこまでも追求したがる人間の精神的営みの哲学的原理の契機が述べられているようにも思える。観測手段が高度化すれば知覚で捉えることの出来る性質の内容も豊富となり、多と一の運動が果てしなく続くのだが、これは自己同一性の追求、同じことだが物を構成する究極物質、つまり一の追求なのである、と)。



 [三 制約せられぬ普遍性という悟性の領域への移行]

ここまで感覚的確信から知覚に進み、物を捉える意識の経験が対象と意識の弁証法的運動によって展開してきて、物とは一であり多である、とか、物は独立でありながら他との関係においてあるという二重性の下にあり、それは意識の二重性を同じである、言い換えれば、物は対自存在であり且つ対他存在であるなどと述べられてきた。

しかし、その間に還帰したり止揚されたりした普遍的なものは感覚的なものから出て来るものだから、結局それに制約されていることになる。物の真理を問うことの本質態は、この制約から離れた世界(悟性の世界)から考え直さなければならない。



『(他者に対する存在に囚われている対自存在にすぎないとしても)対自存在と対他存在との両者が本質的に一つの統一においてあるのだから、いまや制約せられず物ではない絶対的な普遍態が出来上がっており、意識はここに初めて真に悟性の国へ歩み入るのである。』



[四 総括]

(省略)


2016年9月10日土曜日

ヘーゲル『精神現象学』②(A意識 Ⅰ感覚的確信)

これは個人的読解を纏めたものである。特に『 』内は本文の抜粋、〈 〉内は私の考えや感想。
ヘーゲルの文章は呪文のようなものである。しかし、その文章を読んでいくと、やがて驚くべき人間精神の地平が立ち現れてくる。以下はその享受の記述である。

ヘーゲル 精神の現象学 金子武蔵訳(A意識)
2016/9/10改訂
 感覚的確信、或いは「このもの」と私念

「我々」にとっての対象の知は、はじめは直接的なもの或いは存在するものの知以外にはない。「我々」としても、現れてくるがままのこの知を、概念的理解から遠ざけて、感覚的確信において受け取るほかはない。
この感覚的確信は、最も豊かで無限の内容を持ち、最も真実であるかのように見える。しかし実際には、この確信は、対象を区別することも関係づけることもなく、ただ純粋な個別的な「このもの」としか言えないようなものであり、また、そう受け取る意識の方も、同じようにただ純粋な個別的な「このひと」という自我・私にすぎない。
だが「我々」がよく見てみると、感覚的確信は純粋な直接態に留まることは出来ずに、ただちに自我としてのこのひとと対象としてのこのものとの区分が出現し、直接態としての無数の実例の区別も出現している。「我々」がこの区別について反省すると、対象も自我も単に無媒介にあるのではなく、双方を介して確信の内にあることも分かる。

『・・・「我々」がいかなる場合にも主要の区別として見いだすものは・・・自我としてのこのひとと対象としてのこのものとが離れ落ちるということである。』

『もしこのさい「我々」にしてこの区別について反省して見れば、一方も他方も感覚的確信においてもただ単に無媒介にのみあるのではなくして、同時に媒介されたものとしてもあることがわかるのであって、自我は他者を介して即ち事柄を介して確信を持っているのであり、そうして事柄も全く同様に他者を介して即ち自我を介して確信の内にあるのである。』

[一 この確信の対象]
感覚的確信は、対象こそが本質的実在であると思っているのが実状であるのだが、「我々」に言わせれば、この対象とは知としての概念である。この実状としての対象と概念としての対象が一致するかどうか確かめなければならないのだが、そのためには、今のところあくまでも「我々」が反省したり考察するのではなく、感覚的確信が具えているあるがままの姿において対象を受け取る他はない。

『そこで感覚的確信自身に向かって「このものとはなんであるか」と問われるべきである。』

「このものとはなんであるか」という問いにおける「このもの」を、存在の二重形態としての「今として」「此処として」として考察してみる。「今として」の場合、「このものとはなんであるか」という問いの例は「今とはなんであるか」となり、その答えが「今は夜である」と答えたとしよう。昼間になって同じ問いを発したら、その答えは「今は昼である」となって、夜に答えた答えとは違っている。夜は否定されて昼となっている。しかし、「今とはなんであるか」という問いに対しての答えとしての今は、昼でもあり夜でもある今である。否定されて持続するもの、無媒介にではなくて媒介されて(知によって対象が概念として捉えられ)持続するものをして、我々はこれを普遍的なものと呼ぶ。普遍的なものが感覚的確信にとっての真なるものなのである。「このもの」のもう一つの形式である「此処」についても同様である。例えば、私は樹を見ているが次に振り返って家を見ている、という場合に、此処は樹であったが家となったとしても、「このものとはなんであるか」という問いに対する答えは、それが樹ではなくて家であるとか、家ではなくて樹である、ではなくて、樹でもあり家でもある「此処」が普遍的なものなのである。

『かく否定によって存在し、「このもの」でも「かのもの」でもなく、このものならぬものでありながら、それでいて全く一様に「このもの」でも「かのもの」でもあるところの単純なもの、我々はこれを普遍的なものと呼ぶのである。だから普遍的なものが実際には感覚的確信にとっての真なるものなのである。』

我々が感覚的確信において真なるもの、普遍的なものを言い表すのは言葉をもってするのであり、言い換えれば言葉は普遍的なものなのである。
ここに至ると、知と対象がはじめとは反対になっていることが分かる。感覚的確信において真なるものは、はじめとは反対に、自我がこれについて知ることのうちにあるもの、私念のうちにあるものとなっており、自我や知が媒介しない無媒介なもの、自体的なものではない。

『確信の真理は対象のうちにはあっても、この「対象」は私の対象としての対象であり、言い換えると、確信は私念のうちにあり、対象は自我がこれについて知るから存在するのである。』

したがって、感覚的確信の対象は自我のうちに押し戻されたのだが、この意識の経験が我々に示すものを、次に考察しよう。

[二 この確信の主観]
感覚的確信の真理は今や私(自我)のうちにある。言い換えれば、真理というものは、私の外に客観的にあるものではなく、個別的なこの私が、私の感覚において、私の知を媒介として捉えたものとしてある、ということになった。しかし、個別的なこの私も、普遍的な私というものがあってはじめて、この私であることができる、ということも分かってくる。
例えば、樹を見ていた私が、次に後ろを振り返って家を見ていた場合、それぞれの場面は個別的なことである。しかし、見るものが違っていても、それぞれの場面における私が「見ること」自体は普遍的なことであり、更に「見ること」自体はこの私にとっても、他の人にとっても、個別的なことではなくて普遍的なことである。そうすると、真理というものは個別的なこの私にではなく、普遍的な私一般があってこそあったことになる。

『・・・私が私、この個別的な私と言うときにも、私の言っているのは総じてすべての私のことであって、各人が私の言うところのもの即ち私であり、この個別的な私なのである。』

[ 主客関係としての確信]
ここまでの意識の歩みにおいて、感覚的確信は、その確信の本質(直接態)が対象のうちだけに、また私のうちだけにあるものではないことになるから、感覚的確信自身の全体そのものをもってこの確信の本質であると捉えるほかはない。そうすると、この直接態の真理は、私は私一般であり対象も個々のこれや今ではなくて、今・ここ一般であることが普遍態となる。そうすると他と関わることも、すべての区別もできない状況において、自己同一性を保っていることになるが、そうするとどうなるかを次に見てみよう。
この場合には、感覚的確信は、言葉も使えずに(すべての区別はないから言葉も使えない)、ひたすら「今ここ」において対象と直接的な関係にあるだけなので、「我々」がその直接的なるものを言葉によって「指摘」してみると、例えばこうなる。我々が「今」を指示すると、「今」は既に「存在する」ことをやめているから、我々が指示した「今」は「存在した」ものであるということが真理であることになるが、しかし真理は「存在する」ものであるから「存在した」というこの真理は本質(=実在)ではない。結局このような感覚的確信においては、自己同一性自体があり得ないことになる(ヘラクレイトスは「誰も同じ川に二度入ることはできない」と万物流転を唱えたことなどを引き合いに出して、場所や時間が違っても、「今」や「此処」の「私」も「それ」も自己同一性を持続していることが真理であることを言いたいのだと思うが、その説明はいまいちピンとこない)。
(「我々」のコトバによる上述のような「指摘」は、ヘーゲル風にいえば、感覚的確信という側面における弁証法的運動であり、その結果において自己内に真理が還帰し、意識・自我・私が普遍的なものを経験したことになる。そのことが、この節については、今(時間)も此処(空間)も、個別的な「多」なる今と此処を経験することによってはじめて意識の上で「一」なる今とか此処を理解することが出来るということにおいて述べられている。)

(今を今と)指摘することがそれ自身運動であり、そうしてこの運動が今の真実には何であるかを、すなわち結果であること、言いかえると、集合された今の数多性であることを示すのである。そこで指摘するということは、今が普遍的なものであることを経験するゆえんである。』

[四 総括]
かくて、感覚的確信は、この確信の経験の歴史であって、外部にあるこのものの実在性が意識に対して絶対的真理であるから生じるのではない。個別的なこのものは、普遍的なこのものとの関係においてこのものなのである。動物でさえも、目の前のこのものは個別的なこのものではあるが、食べられるという普遍的な関係においてのこのものでもある、ということを知っている。

『この「此処」(=これ)は他のもろもろの此処のうちのひとつの此処であり、言いかえると、ひとつの此処でありながら、それ自身において多くの此処の単純な集合であるが、これは、普遍的なものであることを意味している。』

外部にあるこのものの実在性が意識に対して絶対的真理であると唱える人にとって、この外部の実在性とは、『現実的な、絶対に個別的な、全然個人的な、個別的な物であり、おのおのがもはや絶対に同一のものをもたぬ諸物と規定せられうるであろう。』ようなもの(私念されたもの)である。たとえば目の前のこの紙片がそうである、と。しかし、それではそのものを真に捉えたことにはならない(例えばコトバで説明できない)。私がものを真にあるとおりに受け取ることができるのは、普遍性においての個別的なものであるかぎりであって、言い換えれば知覚によってである。