2022年9月17日土曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋④ 第二篇 第一章 第27、28、29節

希望
 第一篇       現象学的基礎考察

第一章 自然的態度のなす定立と、その定立の遮断

27節 自然的態度の世界。すなわち、私と私の環境世界

われわれの考察を始めるにあたり、ごく普通の生き方をしている人間の身になって見よう。つまり、感じたり、思い浮かべたり、判断したり、意欲したり、しかも、その生き方が「自然的な態度において」なされている人間の身になって見よう。われわれが、そういう人間の身になって諸省察を行うときには、一人称単数(=私)をもって語るのがよい。

私は、一つの世界を意識するものである。その世界は、空間の中で果てしなく広がり、時間の中で果てしなく生成しつつ、また生成してきたものである。私がその世界を意識するということは、何よりも先ず、私がその世界を、現にそこに存在しているものとして経験することを意味する。その場合、もろもろの物体的事物が、顕在的にも潜在的にも、私にとって、端的に現にそこに存在するのであり、「手の届く向こう」(vorhanden=手が届くような、身近でありありとした)に存在しているのである。私が机上で書き物をしているとき、眼前の机やペンなどは顕在的なもの、今は注意を向けていないが振り向けば見えるだろう背後の諸物は潜在的なもの、いずれも現実的客観として「手の届く向こうにある」ものとして、の物体的事物なのである。

顕在的な知覚野のまわりには、それと一緒に現存しているものがあって、これが不断に知覚野を取り巻いている。私にとって意識の「手の届く向こうに存在して」いる世界というものは、尽くされはしないのである。顕在的に知覚されたものや、それと一緒に現存している未規定的なものは、未規定的な現実という曖昧に意識された地平によって取り囲まれている。私はその地平の中へと注意の眼差しを向けることによって、準現前化(⇒記憶や想起や想像により眼前すること)の一連の働きが連結しあっていって、規定性の圏域が拡がり、ついには顕在的な知覚野との連関が作り出される程になることもある。一般にはしかし、曖昧な未規定性が空漠と拡がり、そこには直観的なもろもろの可能性や推測が群がり、世界の「形式」の下図が「世界」として描かれるすぎないことになる。おまけに、未規定的な周囲は無限なのであって、未規定的な地平というものの存在は必然なのである。

私が以上のように追跡してみたものは、空間的現在という存在秩序における世界であったが、時間の系列における存在秩序の点でも、世界の事情は同じである。時間は過去と未来の二つの方向に無限である。私は眼差しを過去や未来に向けることが出来るし、絶えず新しい諸知覚や準現前化を創り出すことが出来るし、多少とも明瞭なもろもろの像を作り出すことが出来る。

このようにして私は、おそらく変更不可能な仕方で、同一の世界に関係しているのを見出す。この世界は、絶えず私にとっては「手の届く向こうに存在して」おり、且つ私自身がその世界の成員である。この場合、この世界は、私にとって単なる事象世界としてだけではなく、同じ直接性において、価値世界、財産世界、実践的世界として、現にそこに存在している。私の眼前の諸事物は、事象としての諸性状を具えていると同時に、美醜等々の価値の諸性格を備えている。

28節 コギト。私の自然的環境世界と、理念的な環境諸世界

右に述べたような世界に、学問的研究において私のなす理論的意識のもろもろの自発性の複合体、つまりデカルトのいうコギトが関係する。コギトに総括されるものは、心情や意欲によってもたらされる諸作用や諸状態の他、世界が直接的に手の届く向こうに存在していると私に意識されるゆえんの素朴な自我の諸作用も含まれる。

絶えず私は、知覚し、表象し、思考し、感情作用をなし、欲求する、等々のことをなす者として、私に見出されてくる。その際大抵の場合に私は、自然的環境世界つまり「実在的な現実」というこの世界に関係づけられているのを見出す。しかしそうでは無い場合がある。例えば算術的世界(⇒数学の世界)は、手の届く向こうに存在するようなものでは全くないけれども、私にとっては現にそこに存在している。算術的世界において、個々の数や数式などが私の視点のうちに存在し、それらは、一部は規定された、また一部は未規定な算術的地平によって取り囲まれているが、私にとって現にそこに存在するその在り方、つまり理念的な環境世界におけるその在り方は、自然的環境世界における場合とは別種の性質を帯びている。算術的世界が私にとって現にそこに存在するのはただひとえに、私が算術を学び取った場合、つまり私が自ら算術的観念を体系的に形成しまた観取し、普遍的な地平を伴いつつその観念を恒常的に我が物とした場合またそのとき以来のみ、なのである。すなわち「新しい諸態度」で学び取ったとき以来のみ、なのである。自然的態度においては、自然的世界は絶えず私にとって現にそこに存在しており、私が新しい諸態度によって諸世界の中のみを動くときは、通常(訳注:現象学的態度が取れないとき)、自然的世界は私の意識作用にとっては背景となっている(訳注:現象学的主観が取り出せないから自然的態度から抜け出ず、背景ではあっても存在している)。自然的態度を採る自然的世界と新しい態度を採る算術的世界は異なるものであるが、私は両方の世界に対して自由に私の眼差しを向け変えることが出来る(訳注:現象学的態度を採ることで、いずれ自然的世界と理念的世界は統一的な認識に至ることになる)。

29節 もろもろの「他の」自我主観と、諸主観共存の自然的環境世界

 私自身に当てはまることはすべて、他の人間達すべてにもまた当てはまることを、私は知っている。私も他の人間達も、客観的な空間時間的現実が定位されている同一の環境世界に属しており、この同一の世界が我々のすべてにとっては様々な仕方で意識されていることを知っている。つまり、われわれは皆、諸主観共存の自然的環境世界に属している(⇒世界認識に対するこのような考え方を、フッサールは間主観性と呼ぶことになる)


2022年8月19日金曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋③ 第一篇 第二章 第23節と第24節

    パパメイアン

 第二章 自然主義的誤解

23節 理念を見てとる働きの自発性。本質と虚構物

  以上(22節)のように言うと、赤とか家とかという色や事物が存在するのは明らかであるのに、それとは別に、それらを実際に見るという経験から抽象された赤とか家とか言う概念を本質と呼んで実体化するのは、心の働きによって創り出される概念、例えばギリシャ神話に出てくる半人半馬の怪物が実在すると考えるようなもので、何の意味があるというのか、という人が出てくるかもしれない。想像という経験(空想体験)から生み出される怪物は虚構物ではある。だが、例えば色や事物を見る場合には、今そこにあるのは、想像から生み出された虚構ではなく、感性によって知覚されたもの、および、赤とか家とかの言葉で抽象された概念である。ここにおける概念は本質なのではあるが、より詳しく言えば、本質が産出されているのではなくて、本質についての原的に与える働きをする意識(理念を観てとる働き)と、感性的に与える働きをする意識(経験的な意識)が生じているのである。そして、理念を観てとる働きの方は、必然的に一つの自発的な意識であり、一方経験的な意識の方は、自発性とは無縁に個的対象が「現出する」ことができるようなものであり、統握によって意識されることが出来るようなものなのである。

 このように、虚構意識と本質意識を、自発性の点から似たものとして並べると、本質の「現実存在」に関する疑念が生じるかもしれない。けれども、その疑念は、虚構と知覚を並列に「直観的意識」のもとに置くならば、知覚的に与えられる対象の「現実存在」が損なわれてしまうのと同様である。事物は、知覚されたり、想起されたりできるから「現実的」なものと意識されることができるし、幻覚的なものや「単に眼前に思い浮かべられているだけ」意識されることもできる。本質に関しても事情はよく似ていて、本質もまた、他の対象と同じく、あるときは正しく、またあるときは間違って認識される(数学の計算間違いは誰でもわかる)のだが、本質を認識する作用(本質観取)は、感性的知覚作用の類比物であって、空想作用の類比物ではないのである。(⇒意識の認識作用に原的に与えるものは直観であり、直観には事物や論理などを対象とした個的直観と意味や価値などを対象とした意味直観の二つがある、と言いたい)。

24節 一切の諸原理の、原理

 さて、一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。それはすなわち、こういうものである。すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分自身を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。

自然研究者が、自然の事実に関する認識は経験(実験や観察という経験)によって基礎づけられているという「原理」に従おうとするのは、完全に正当である。というのは、当の事柄を最初から掴み取るゆえんの原理だからであり、普遍的洞察(意識経験によって直接得られる直感に基づく)のうちから直接的汲み取ることのできるやり方だからである。この点については、われわれはいつでも確信することができる。本質研究者も、普遍的命題を利用しまた言明するものは誰でも、自然研究者のやり方に並行的な一つの原理に従わねばならない。というのも(並行的な、というのは)、すべての事実認識を経験によって基礎づけるという原理自身が、経験によっては洞察しえないからである。

(⇒並行的とは、自然研究者と本質研究者には、異なる二つの原理がある、というように見えるが、言いたいことはそうではない。自然科学の理論は、拡張されていく経験によって得られるデータによって判明する矛盾を、誰でも納得するような、より包括的な理論に変遷し続けるによって克服されていく。そのプロセスが可能となる原理は経験によって得られるデータだけでは説明できない。本質研究者も自然研究者と原理的には同じプロセスが踏めるはずだというフッサールの直観がある)。


2022年7月24日日曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋② 第一篇 第二章 第22節 

ピース
 第二章 自然主義的誤解

第22節 プラトン的実念論だとする非難。本質と概念

 これまで繰り返して、フッサールはプラトンのイデア論者であると批判されてきた。つまり、理念や本質を、実在物を対象とした場合と同様に対象化し、しかもその対象を直観によって把握できると述べていると。しかし、対象と実在物、現実と実在的現実とは峻別できるから、そのような批判は的外れである。多種多様な理念的なもの(例えば、音階、数、図形の円、数学的諸命題、等々)は一つの対象である。人は先入見に災いされて、自分が自分の直観領野において所有しているものを、認識や判断の基盤として使えなくなっている。誰もが間断なく理念や本質を見ているのだ。認識論において大事なことは、明証的所与の根本形式を区別して、その様式をその固有の本質にしたがって記述することであろう。

 人々は、先入見に囚われて、本質などはなく、したがって、本質直観(理念を見てとる働き)などは存在することはできない、と思い込んでいる。つまり、本質の存在を認めるのは「形而上学的」実体化なので否定され、存在するのは「抽象」という、実在的な経験や表象に結びついた心理学的出来事となり、この「抽象」から諸現象や分析が捏造されるので、理念や本質は心理的形成物、抽象の産物としての「概念」とされ、結果、「本質」「理念」「形相」とか称されるものは、意味の無い事実を実体としたものに覆い被された高尚な「哲学的」名称となっている、と。

 「本質」「理念」といったものは認識の対象として存在する。本質は「概念」ではあるが、それが意味を持っているのは、「概念」のことを「本質」のことと理解するかぎりにおいてであり、「概念」は心理学的形成物である、ということであるなら、そのかぎりでは意味を持つことは出来ない。そのことを、例えば基数(数)を例にとって説明すると以下のようになる。われわれが「数」の存在を知っている、ということの意味は何だろうか。例えば2という数があるというのは、ある個物が二つあること、もう一つあれば3という数になることなどの数表象によるのだろう。しかし、数表象は今ここにおける現象であるが数自体は個物にも時間にも心的作用にも無関係に、その存在を概念として理念として不可疑的な所与として認識しているものなのである。


2022年7月18日月曜日

フッサール『イデーンⅠ-Ⅰ』(渡辺二郎訳 みすず)抜粋① 第一篇 第一章 第1,2節 第二章 第7節 事実学と本質学

希望
 本文の一段落ごとに、ポイントとなる部分を抜粋し、補足する場合にはその下にインデント
を下げて箇条書きを列挙する。

第1節 自然的認識と経験 

ごく当たり前の自然的[1]認識というものは、経験とともに始まり、そして経験のうちにあくまでもとどまる。われわれが「自然的」と呼ぶような理論的態度においては、可能的探究の全地平は、したがって一語でもって表示される。つまりそれは、世界である。

・続けて、そのような根源的態度による諸学問は「世界」に関する諸学問だと述べられる

・「自然的」とは世界に対する素朴な態度のことだが、本質的という感度が潜んでいる

・自然的態度における経験は反省を伴わないので、その対象は先ずは自然界となる

・自然的態度から客観的現実を目指す自然主義的(自然科学的)態度が生まれる

・世界の認識には、自然的認識を経た後、経験を反省する態度が要することが明確になる

・自然科学的認識も、実はごく当たり前の「生活世界」に立ち戻ることで再構成される

・そのような、イデーンⅠ以降晩年に至るまでのフッサールの考察がすでに垣間見える

 学問の全ての認識に応じて、その正当性の根拠を基礎づける根本源泉として、なんらかの直観がある。この直観のうちでこそ学問の諸対象が、それ自身そのものとして与えられ、つまり自己所与性となって現れるのであり、少なくとも部分的には[2]、原的所与性となって現れてくるのである。最初の自然的認識領圏において、対象を与える働きをする直観の役目をするものは自然経験である。そしてその際、原的に与える働きをする経験は、知覚[3]である。

 ・この段落で、「感情移入」などの言葉が挿入されて、自分と他人が知覚したものが同一なのかどうかという問いがなされ、知覚が原的所与性であることが次のように表現されている。「ある実在的なものを原的に与えられたありさまで所有することと、それを端的に直観しつつ「認知し」そして「知覚する」こととは、同じなのである。」[4]

  世界とは、可能的な経験の及び経験認識の、諸対象の全総体である[5]。世界に関する学問は次のようなものである。自然科学、生理学や心理学、歴史学、文化科学、各種の社会的諸科学などである。

 ・これらの諸学問の間にある諸問題については、当面未解決のままにしておいて良いだろう、と述べられる

 2節 事実。事実と本質との不可分理性

  経験科学というものは「事実」学である。この場合、基礎づける働きをしている認識作用は経験であるが、この認識作用は、実在的なものを、個別的なものとして定立する。この定立される実在的なものは、この特定の時間位置にあり、この特定の自分なりの持続を持ち、一つの実在性を持つような、或るもの、である。しかし、その実在性の本質からすれば、実はまったく同様に、他のどんな時間位置にあってもよかったようなものなのである。更にまた、右のものは、この特定の場所にこの特定の物理的形態においてあるような、或るもの、である。けれどもその場合にもやはり、また、その実在的なものは、その固有の本質から考察するならば、任意のどんな場所にも、任意のどんな形態においても、まったく同様にありうるものである。この個的存在というものは、全く一般的に言って、「偶然的」なものなのである。それは、今現に或る在り方をしてはいるが、それは、その本質上、別様の在り方をすることができたはずのものである。また、自然法則については、これが言い表しているものは、ただ事実上の規則にすぎないのであって、この規則自身は全く別様の仕方であり得たかもしれないものなのである。この法則もまた偶然的なものなのである。

・個的存在とは、今ここに、そのように存在する、個々の現存在(ここでは事物)のこと

・個的存在も、個的存在に関してあり得るだろう自然法則も、別の空間時間で別のありようで存在してもよかったのだから、偶然的なものなのである

・自然界の事物や法則は、空間時間に無関係であることは明らかにみえるのに(例えば、時代や場所が変わってもリンゴはリンゴで落下の法則はどこでも同じ)、世界認識はもとより事物や自然法則の認識でさえそうではないとフッサールは直観している。つまり、可能的諸経験の対象の全総体としての「世界」の認識の謎の解明は、事物認識の構造から始めるとよい、と

この偶然性は、ある必然性と相関的に関係している、という意味を持っている。この必然性は、空間時間的な諸事実に関する規則が事実上成立するということではなく、本質必然性という性格を持ちしたがって本質普遍性に関係しているような必然性のこことである。或る本質を持ち、従ってある純粋に把握されるべき形相を持つということが、どんな偶然的なものであれ皆その意味に属していて、この形相はさまざまな普遍性の段階を持った本質真理のもとにあるのである。例えば、どんな音も皆、それ自体として、或る本質を持ち、その最上位に、音一般という普遍的本質を持つ。この普遍的本質は、個的な音から(個別に、或いは他のもろもろの音との比較を通して「共通なもの」として)直観しつつ取り出された契機にほかならない[6]。同様にまた、どんな物質的本質も皆、それ固有の本質的種別を持ち、そしてその最上位に、「物質的事物一般」という普遍的種別を持つ。この「物質的事物一般」には、更に、時間規定一般、持続一般、形態一般、というものが伴う。個物の本質に属する全てのものは、また或る別の個物がこれを所有することのできるものでもある。最上位の本質普遍性が、もろもろの個物の属する「領域」もしくは「範疇」を区画づける。

・「本質普遍性」とは何か?というような問い方をせず、ここでは個物に限定し、個物の事例を挙げてその分類名称の順番などに即した考察に留めておけば分かりやすい

・しかし、事例に挙げられている「音」は、音一般という普遍的本質をもっていると述べられているが、ここには聴覚を通して知覚した知覚直観(音階など)と意味直観(美しいメロディーとか情熱的なリズムなど)が含まれていることが伺えるし、さらに物質一般という普遍的本質にも知覚直観だけではなく意味直感があることに気付くはずだ

・哲学では「領域」と「範疇」は使い方に区別があり、前者は質料的存在論、後者は形式的(形相的)存在論で用いられる。質料と形相と概念はギリシャのアリストテレスの用語としてよく知られているが、変容しつつ普遍性も保っている

第7節 事実学と本質学

個的対象と本質との間には連関があり、この連関に応じて、事実学と本質学とが関連し合う。純粋な本質学というものがあって、例えば、純粋論理学、純粋数学などがある。事実学においては、経験をするという働きが、基礎づける作用をする。本質学においては、経験に代わって、本質観取が、究極的基礎づけの作用である。

・幾何学者が図形を描くという経験は、彼の幾何学的な本質直観と本質思考に対しては、少しも基礎づけの役割を果たさない。彼は現実ではなく理念的可能性を研究し、現実態ではなく本質態を研究する

・自然研究者は幾何学者とは全然違って、観察と実験により経験されるような現存在を確認する。経験するという働きが、彼にとっては、基礎づけの作用である


[1] 訳注:「ごく当たり前の自然的」はnatürlichの訳だが、大部分は「自然的」としてある。類似でも意味が異なる語naural,naturalistish=naturwissenshaktlich,naturhaftがある。後にnatürlichな態度が人格主義的態度となる非連続的裂け目が明確にされ(イデーンⅡ)、晩年の「生活世界」へと至るフッサールの考え方の方向が看取できる

[2] 所与性の基盤に原的所与性がある。それは、フッサールでは「超越論的主観」「純粋意識」と呼ぶ領域を基盤とする。竹田青嗣は更に、ニーチェの絶えざる「生成の世界」の思想をも取り入れて、対象の信憑構成の一般理論への転化という意味を込めて「現前意識」と呼ぶ(『欲望論 上』P528

[3] ここではまだ、普通に知覚すること、例えば目盛りを見たり数字を追ったりして感じ取ること、と読めばよい

[4] 知覚は原的所与性だから自他で同じ認識となる。だが、まだ明確にはなってない

[5] 訳注:イデーンⅠでは、世界と事物が連続的に捉えられ、「世界」の記述と「事物」の記述が入り混じっている。この二つが明確に区別された記述となっているのは、晩年の『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』においてである

[6] 訳注:これが「本質観取」の方法


2021年2月11日木曜日

パイドロス プラトン著 (藤沢令夫訳 岩波文庫)

 

紀元前五世紀の終わり近く 真夏のある晴れわたった日の日ざかり アテナイの郊外 イリソス川のほとりにて

 

『パイドロス』は『饗宴』と並んでプラトンの恋愛論が展開されている代表的な作品と言われています。本文はその部分にフォーカスして要旨を纏めてみたものです。見出しは私が設定したもので、『』内は文献名または本文の引用、(⇒ )は小生の補記です。

ピンクパンサー
 

前振り

当時著名な弁論作家であったリュシアスのところからの帰路に、ソクラテスに呼び止められたパイドロスが、ちょうど今リュシアスから素晴らしい恋(エロース)についての話を聞いてきたところだと、ソクラテスに告げる。恋(エロース)の話が大好きなソクラテスは、パイドロスがリュシアスの話を聞くだけではなく書いたものを手に入れて熟読し、それを誰かと語り合いたいと願っていることを見抜き、それを読み聞かせるようにと言う。イリソス川沿いの良い香りのするアグノスの木陰に誘って。

 

(⇒以後の理解のためのいくつかの補足を下記してみた)

①ソクラテスに比べて、リュシアスは十歳ほど若くパイドロスは二回りほど若いから、パイドロスはリシュアスより一回り以上若い設定となっている

②ソクラテスは常日頃、恋(エロース)の話が大好きだと言いふらしていたが、それは恋(エロース)が、神にはなり得ない人間の生が生きるに値するものになりうるための一番大切なものだと考えていたから

③上記②の説明として、『饗宴』において、ディオティマという巫女がソクラテスに向かって語っている一節を引用してみた(プラトンは勿論ソクラテスの考えをディオティマに言わせている)

『いや、むしろこうは思わぬか。―――そのような生(=エロ-スの道を極めた段階にある人間の生)においてのみ、人間はしかるべき力を用いて美を見る。だから、そのような者が徳の幻影を生み出すようなことはない。なぜなら、彼が触れているのは、幻影ではないのだから。むしろ、彼は真実に触れているから、真実の徳を生み出すことができる。そして彼は、真実の徳を生み出して育むことにより、神に愛されるものとなり、また不死なる存在にすらなれるのだと―――もっとも、そんなことが人間に許されればの話だがな。』(中澤務訳、光文社文庫)

④『饗宴』(中澤務訳、光文社文庫)の解説によれば、『饗宴』に出てくる頃のパイドロスは20歳代後半くらいで、30歳代後半前半であったエリクシュマコスの恋人だった。本書でも成人男性の恋愛の対象が青少年に想定されているのは、当時のギリシャ市民社会の風習であったからに過ぎないだけのことで、そのことが恋(エロース)の本質を語ることの支障にはならない。そのことは、上記②③からも分かることだ

 

パイドロスの朗読するリュシアスの恋愛論の概要

 

『自分を恋している者よりも恋していない者にこそむしろ身をまかせよ』

 

上記は、リシュアスがその恋愛論で展開している物語の趣旨である。そして、その理由は下記のようなものであった。

・訳注:このリュシアスが書いた恋愛論の文章は、ソフィスト好みのパラドクスを弁論の力で正当化しようとする当時の弁論術の弱論強弁的傾向の一典型であり、また、同じようなことを繰り返し並べている駄文である点については、この箇所がリュシアスの文章ではなくてプラトンの創作とすれば相当に意地悪な意図が働いているとのこと

 

(⇒便宜上、以降の記述の全てにおいて、自分に恋している人たちをA、恋していない人たちをBと書いておく)

 

①Aは、欲望が冷めた後には相手にしてやった親切を後悔する。だがBはそのようなことはない。Bの親切は恋の力に強制されるのではなく自由な意思によるものであり、わが身の事柄について最善を図りうる仕方で、自分の能力に応じて尽くすものだ

②Aは、恋のために自分の一身上の処置を誤ったことや、相手によくしてやった数々のことを考え、また、それらのために背負った苦労も付け加えて計算に入れ、結局、相応の恩恵は恋人に返済したと信じるものだ。だがBは、恋のために自分のことがなおざりになったと主張することも、過ぎ去った苦労を勘定に入れることも、身内の者との仲違いの責任を相手に着せることもない。従って、これだけのよからぬ事柄が取り除かれるとすれば、残るのは、相手が喜ぶだろうことを、心を込めてすること以外にはない

③Aは、他の人びとの憎しみをかってでも恋人達を喜ばせようとするものだが、後に新しい恋人が出来たときには、新しい恋人の方を今の恋人よりも大事にするだけでなく、新しい恋人の気に入るのなら今の恋人にひどい仕打ちもする

④Aは以上のように、もともと心に災いを持っている男なので、かくも貴重なもの(青春の美しさ)を捧げる理由はない。実際、A自身も自分が正気であるより病気であり、精神の乱脈ぶりを知りながらも自己を支配することができないことを認めている。とすれば、彼等が正気に返った後で、自分が正気でない時に考えて決めた事柄を善しとすることはできない

⑤人数から言えばAはBにくらべてはるかに少数だから、君の愛情に値する人物が見出される公算はBの中からの方がはるかに大きい

⑥世間に認められている掟を恐れ、恋人同士の関係を世間に知られて非難されることを心配するなら、Aを恋人にしてはならない。Aは虚栄心に駆られて恋人との関係を他人に言いふらすからだ。従って、欲望を充たす相手としてはBしかない

⑦Aは恋人に付き纏うから沢山の人びとの耳目に触れる。そこで人びとは、彼等が一緒にいて話をしているだけでも恋の欲望を遂げたか、あるいは遂げようとしているに違いないと思うだろう。しかしBは恋人に付き纏わないからその懸念はない

⑧君が友愛の心を大切にするならAに身を捧げてはならない。Aは嫉妬心から君が何か優れたものを持っている人びと(財産家や教養人など)と交わるのを阻止しようとするので、君はそれらの人びとを敵に回すことになる。これに反してBが徳の力によって君に対する望みを遂げる人たちならば、君と交わる人びとに嫉妬はせず、かえって君と交わろうとしない人びとを憎むことになるのだから、彼等(優れた人びと)との間に友愛が生まれるだろう。なぜなら、Bは君との交わりを望まない人びと対しては、自分が軽蔑されているものと見なし(⇒だから憎む)、君と交わる人びとからは利益をうける(⇒だから嫉妬しない)と考えるからだ。従って、君とBとの結びつきからの方が、Aとの結びつきからよりも、友愛(⇒優れた人との)が生まれる望みがはるかに大きくなる

Aは、まず恋人の肉体を欲しがるから、その欲望が充たされた後にもなおも親しくすることを望むかは疑問だ。Bは、すでにその前から互いに親しい間柄にありながら、そういった想い(⇒肉体への欲望)を遂げるのだから、思いを遂げたことが互いの愛情を減退させることもなく、むしろそれは将来を約束する記念として心に残るだろう

⑩君はAよりもぼく(リュシアス=Bのような人)の言うことに従う方が、優れた人間になる。なぜなら、Aは恋人の機嫌を損ねることを恐れ、欲望に目が曇らされて、恋人の言うこと為すことを、ほめそやす。そして、ことがうまく運ばぬ時は、さしたる苦しみでもないことでも心の痛手と感じさせ、ことがうまく進んでいるときには、喜ぶ値打ちのないことまでもよしと思わせるものだから。それに反してぼく(=リュシアス)は恋の奴隷ではなく、自分自身の支配者であるから、現在の快楽にかしずくことなく、将来のためをもおもんばかりながら君と交わり、つまらぬことに腹を立てて憎しみを掻き立てることもなく、重大な事柄のためには徐々に軽く怒るだけで、心ならずも犯した過ちはこれを許し、故意の過誤はこれを払いのける努力をするから

⑪君の心に、人が恋をするのでなければ強い愛情は生まれ得ないという考えが浮かんだとするならば、次のことに留意すべきである。もしそれが本当なら、息子や父母を大切に思うことも、信ずべき友を持つこともあり得ないだろう、と

⑫もし最も切に求める者たちにこそ身をまかせなければならないとするならば、他の場合一般において言えば、よくしてやらねばならないのは、最も優れた人びとにではなく、最も無能で無策の人びとに対してだということになる。だから、身をまかせてしかるべき相手は、君を切に求める人びとであるAではなく、恩返しをする能力がある人たちBとなる

⑬君はBであれば誰に対しても身をまかせるようにと、ぼくが勧めていると思うかもしれないが、それは違う。そのようなことをするならば、その厚情を受け取る者にとっては等しい感謝に値するものではないし、君にとってもそのことを他の人に気づかれぬようには出来ないから。要するに、どちらの側にとっても害になることは生じないで、為になることが生じなければならないのだ

 

リシュアスの恋愛論に対するパイドロスとソクラテスの対話

 

『リシュアスの話した内容とは別に、あれより見劣りのしないようなことを話せるような気がするのだ』(ソクラテス)

 

リシュアスの恋愛論をパイドロスが朗読した後、パイドロスがリシュアスの話しぶりに感激して、同じ主題についてもっと沢山のことを話すことが出来るギリシャ人が他にはいないのでは、とソクラテスに言う。

ソクラテスは、リシュアスの物語について、注意を引かれる点は修辞的な面だけで、この種の主題についてリシュアスはあまり話の種をもっていないかのように、また関心もないようだ、と言う。

ソクラテスが言わんとすることが腑に落ちないパイドロスに対して、ソクラテスは、君の主張を認めれば、昔の賢人達からぼくは徹底的に反駁されるだろうと言いつつ、リシュアスの恋愛論の趣旨に沿った物語を、よりその本質から語り直してみようと言う。

 

ソクラテスの第一話(リシュアスの物語の趣旨に沿った)

 

『むかしむかしあるところに、大変美しい一人の子ども―――というよりも若者がおりました。この若者には、たくさんの求愛者がありましたが、その中にひとり、口の上手なのがいて、ほんとうは誰にも負けないくらい、その子を恋しているくせに、自分は恋してはいないのだと、その子に信じ込ませておいたのでした。そして、ある日のこと、彼に言い寄るのに、ひとは自分を恋している者よりも、恋していない者に身をまかせなければいけないのだという、まさにこのことをかれに説得しようとして、次のように語ったのでした。』

 

はじめに恋とは何であるのかを定義して、その上で、恋とは有益をもたらすものなのか、それとも、有害をもたらすものなのかを、考えよう、と。

 

『つまり、こういうことなのだ。―――盲目的な欲望が、正しいものへ向かって進む分別の心に打ち勝って、美の快楽へと導かれ、それがさらに自分と同族のさまざまの欲望に助けられて、肉体の美しさを目指し、指導権を握りつつ勝利を得ることによって、いきおい盛んに(エローメノース)強められる(ローステイサ)時、この欲望はまさにこの力(ローメー)という言葉から名前をとって、恋(エロース)と呼ばれるに至った、と』

 

恋とは一つの欲望であることは誰にも明らかな事実であるが、人は美しいものに対しても欲望をもつことを知っている。すると、恋している者と恋していない者との区別はどうしたらよいだろう(⇒この部分の意味は不明だが、次のソクラテスの第二話に述べられている「想起説」に基づいて「美」を観照できるか否かがその区別をもたらすのだろう)。

一人ひとりの中には、われわれを支配し導く二つの力ある。一つは生まれながらに具わっている快楽への欲望で、もう一つは最善のものを目指す後天的な分別の心である。この二つの力が相争う場合、分別の心が理性の声によってわれわれを最善のものへ導いて勝利したときには、この勝利は「節制」と呼ばれ、欲望がわれわれを快楽の方へと引き寄せ支配権を握るときは、この支配権は「放縦」と呼ばれる。

 

(⇒お互いに合意したこの恋の定義に基づいて、恋される側にとって、身を任せることが有益になるのか有害になるのかを考えてみようとして、精神面や肉体面、自分の所有物を巡っての検討などをする物語が語られるが、それは省略して、リシュアスの論旨に添ってソクラテスが出した結論の一節を引用する。)

 

『されば、いとしき子よ、君はこういったこと(恋する者に身を捧げることがもたらすだろう有害で不快な諸事実のこと)を、心に留めておかなければならない。そして、恋する者の愛情とは、けっしてまごころからのものではなく、ただ飽くなき欲望を満足させるために、相手をその餌食とみなして愛するのだということを、知らなければならない。』

 

ソクラテスは、リシュアスの話も自分がリシュアスの主旨に則って作った話も、愚かで不敬虔だとして、この話しの続きをやめ、それとは反対の趣旨の恋愛論を語ることになる(⇒愚かな点=恋については語られずに愚かな連中の喝采を浴びようとする点。不敬虔=アプロディテの子であるエロース神を信じない点)。

 

・ソクラテス:『ぼくが話しかけていた子はどこにいる? この話もあの子に聞かせてやらなければ。そして聞かない前に、早まって恋していない者に身をまかすようなこととのないようにしてやらなければ。』

・パイドロス:『あの子ならここに、お望みのときにはいつでも、あなたのすぐ傍らに控えています。』

 

ソクラテスの第二話(ソクラテスの恋愛論)

 

ここから、リシュアスの物語の趣旨、つまり『自分を恋している者(=A)よりも恋していない者(=B)にこそむしろ身をまかせよ』を否定したソクラテスの恋愛論が語られる。

そのソクラテスの恋愛論の根底には、ゼウスを最高神とするギリシャ時代の神話が置かれている(⇒われわれは比喩として語られていると捉えれば良いと思う)。

 

1)先の二つの物語の前提には、Aは狂気でありBは正気だから、AよりもBの方に身をまかせるべきであるという主張があったが、ソクラテスはこの主張がまず誤りであることを指摘する。つまり狂気が悪であることが退けられる。

 

『われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは、狂気を通じて生まれてくるのである。むろんその狂気とは、神から授かって与えられる狂気でなければならないけれども。』

 

・神々から授かった狂気に憑かれた人びとがもたらしてきた数々の輝かしい功績として、予言術、疾病や厄災を避ける儀式、心の糧となる詩の三つが挙げられる(⇒四つ目の狂気である「恋という狂気」こそ本書の主題で、それは以下(2)以降に述べられる。因みに、この四つの狂気とその神を並べてはっきり述べられるのはかなり後の方で、本文庫版の109p、ステファヌス版の慣用表示では265Bとなっている)

 

2)次に、われわれがすべきは次の主張の証明である

 

『この恋という狂気こそは、まさにこよなき幸いのために神々から授けられるということだ。その証明は単なる才人には信じられないが、しかし真の知者には信じられるであろう。』

 

3)上記主張の証明には、はじめに神や人間の魂とは何かを知らねばならない。以下は魂とは何であるかの説明(⇒ナルホド)

 

①魂はすべて不死なるものである

・自己自身を動かすもの(⇒魂)のみが動かされるものの動の源泉であり始原である

・始原は生じることがなく必然的に滅びないものである

②魂の本来の相(すがた)は神のみぞ知る。人間にとってそれは、翼をもった一組の馬と手綱をとる翼をもった馭者が一体になった姿として思い浮かべることができる

③神々の魂の場合には馬も馭者もすべて善きものばかりだが、神以外の魂の場合には善いものと悪いものとが混じり合っている

④人間の魂の場合には、手綱を取る二頭の馬のうちの一頭は美しく善い馬で、もう一頭の方はこれと反対の性格だから、馭者の仕事は困難となる

⑤翼のそろった完全な魂は、天空高く翔(かけ)上がって、宇宙の秩序を支配する

⑥翼を失った魂は地上に落ちて、土の要素からなる肉体を捕まえてそこに棲み着き、「生けるもの」と呼ばれ、「死すべき」という名がつけられる(⇒人間以外の動物の魂もある)

⑦われわれは神の姿を不死なる生き物として作り上げる。つまり魂と肉体を持ちしかも両者は永遠に結合したままでいるものというかたちで

⑧神にゆかりある性質は、美しきもの、智なるもの、善なるものであり、醜きもの、悪しきものなどは神にゆかりある性質とは反対のものである

⑨魂は、神にゆかりある性質によって育まれ、その反対の性質によって衰退する

⑩魂が翼を失うのは、神にゆかりある性質とは逆の性質によって衰退するからである

⑪天界においては、ゼウス神が万物を秩序づけ、また配慮しながら、翼のある馬車を先駆けて行進する。それに続くのは十二神のうちの十一神(炉を守る女神ヘスティアは神々のすみかに留まっている)とダイモーンが率いる部隊である(訳注:ダイモーンはおそらく地上に落ちて人間の肉体に宿る魂を指す)

⑫天球の内側では、神々の種族がそれぞれの任務を果たしつつ祝福された行路を行進し、誰でもこの行進に参加することは出来る。しかし、饗宴におもむき、聖餐にのぞむときには天球の果てまで登らねばならないので、神以外の馬車にとっては苦難の道のりとなる

⑬このとき『魂には、世にもはげしい労苦と抗争とが課せられることになる。』

(⇒ここで魂の説明が終了して次のステップに入ることになる)

 

4)次に神々の魂の道行きが語られる。それは穹窿(⇒丸天井)まで登り詰めた後、天外に出て天球の背面に立ち、天球の運動に乗って一巡りする。その間に天の外の世界を観照し、それから神々の住処へ帰る。その旅路の様子は下記

 

①天の外の領域は《実有》である(⇒プラトンの「イデア」はこの領域に属する理念なのだろう)

・『真の意味において「ある」ところの存在、色なく、形なく、触れることもできず、ただ、魂のみちびき手である知性のみが観ることのできる、かの《実有》である』

②真実なる知識はすべて実有についての知識である

③神の精神は、真なるものを観照し、それにより育まれるので、天外の世界を観照することに幸福を感じる(⇒自分を育むもの触れると幸福を感じると)

・自己に本来適したものを摂取しよう心がけるかぎりの全ての魂においても同じ

④魂が観得するものは、《正義》《節制》《知識》(⇒徳は魂によって観得されると)

・この《知識》は生成流転するようなものではなく真実在の中にある知識

 

5)次に神々以外の魂の道行きが語られる。それぞれの魂がどのような道行きを辿るのかは、立法の神であるアドラスティアの掟によって定められていて、その概略は下記

 

①神に随行した回遊中に、真実在のうちの何かを観得した魂は、地上に落ちない

②地上に落ちた魂は、はじめは動物ではなくて人間へと植え付けられる。魂には順位があって、それぞれに相応しい人達は以下の九種類

・(⇒一番目の魂)。真実在を最も多く見た魂。知を求める人、あるいは美を愛する者、あるいは楽を好むムゥサのしもべ、そして恋に生きるエロースの徒となるべき人

・二番目の魂。法を守り、あるいは戦いと統治に秀でる王者となるべき人

・三番目の魂。政治に携わり、あるいは家を斉(ととのえ)、あるいは財をなす人

・四番目の魂。体育家、あるいは肉体の治療に携わる人

・五番目の魂。占い師、あるいは宗教的儀式に携わる人

・六番目の魂。創作家、あるいは他の人の模倣を仕事とする人

・七番目の魂。職人あるいは農夫

・八番目の魂。ソフィストあるいは民衆煽動家

・九番目の魂。僭主

③正しい生活を送った者はよい運命に、不正な生活を送った者は悪い運命にあずかる

④普通の魂が元のところへ帰り着くまでは一万年かかるが、特別の魂は三千年で済む。特別な魂とは、一回千年の生(⇒一回の生=生前+死後)を三回続けて誠心誠意、知を愛し求め、あるいは、知を愛する心と美しい人を恋する想いを一つにした熱情の中に送った魂

⑤特別な魂以外は、最初の生涯を終えると裁きにかけられ、地下の世界で正当な罰を受けるか、天上の世界で生前の生き方にふさわしい生を送る

⑥はじめの千年が終わるとそれぞれが欲する二回目の生を選ぶが、選択の順番はくじ引きで、以下同様に繰り返される。人間の魂と動物の魂の交換はこの際行われうる

 

6)人間の魂は、かつて神の行進に随行したときに垣間見た天外の真実在を想起することが可能である(⇒「想起説」の説明)。だが、多くの人はそのような人を狂人と呼ぶ

 

①一度も真実在を見たことがない魂は、地上に落ちるときに人間の姿形がわからないので、人間の中には宿れない

・これを哲学的に言えば、人間がものを知る働きは、形相(エイドス)に則して行われる働きであり、雑多な感覚が純粋思考によって単一なものへとなる働きである

②天外の真実在を想起するには、知を愛し求める哲人の精神が力の限りを尽くして神との回遊の記憶を呼び起こし、想起の根拠となるものを正しく用いなければならない(⇒大地母神デメテルの「秘儀」の比喩での説明)

・想起の根拠となる数々のものを正しく用いてこそ完全な秘儀にあずかることができる。そのような人の心は神の世界とともにあるから、多くの人たちからは狂える者と思われて非難され、神から霊感を受けているという事実の方は理解されない

・(⇒西研は『哲学は対話する』において、神話的に語られている「想起説」を、「徳などの探究はまったくの無知から始まるのではなく、体験的にわかっていること(実感)を明確化することだ、と私としては読んでみたいところである(p140 L5)」と述べているが私も同感だ。そのことは、ヘーゲルの『精神現象学』では「意識経験の学」という言い方に示唆されており、フッサールの「超越論的主観性」と言う概念に含まれていると思う)

 

7)神の第四番目の狂気である「恋(エロース)の狂気」こそもっとも善きものである。人がこの世の美を見て真実の美を想起できるなら、この善きものにあずかることが出来る

 

『この話全体が言おうとする結論はこうだ。―――この狂気こそは、全ての神がかりの状態の中で、みずから狂う者にとっても、この狂気にともにあずかる者にとっても、もっとも善きものであり、またもっとも善きものから由来するものである、そして、美しき人たちを恋い慕うものがこの狂気にあずかるとき、その人は「恋する人」(エラステース)と呼ばれるのだ、と。』

 

①魂にとって貴重なもの、例えば《正義》《節制》などはこの地上における似像から原像なるものを観得するに過ぎない。だが、天外の真実在の中で燦然と輝いていた《美》は、地上においては、われわれのもっている知覚を通じて鮮明に輝いている姿のままに捉えることができる

・《美》は、神々に従いつつ、たぐいなく祝福された秘儀に参与したときの清らかな光景がわれわれに燦然と輝いていたものであった

・その秘儀を祝うわれわれ自身も清らかであり、肉体と呼ぶべき魂の墓にはまだ葬られずにいた

・『思い出よ、これらの言葉にたたえられてあれ。この思い出ゆえに、われわれは、過ぎし日々への憧れにうながされて、いま、あまりにも多くの言葉を費やしてしまった。』(⇒「思い出」=「想起」への憧れなくして「言葉」=「知」は育たない、と)

②天上界における秘儀の光景を忘れたり、堕落した者は、地上において美しい人の顔立ちや肉体の姿を見ても畏敬の念を抱けず、放縦になじみながら快楽に身を委ねることを恐れたり恥じたりもしない

③天上界に居たとき、そこでの秘儀の光景を想起できる者、多くの真実在を観得した者は、地上において、美をさながらにうつした神々しいばかりの顔立ちや肉体の姿を目にすると、まず畏怖の情が幾分か蘇り、身は神の前に在るかのように恐れ慎み、かの翼に潤いを与える美の流れが彼の目を通して注がれて、その翼の根は成長しようと躍動をはじめる

・かくして、魂は熱っぽく沸き立ち、はげしく鼓動し、美の流れが「愛の情念」として受け入れられれば、魂はそのもだえから救われて喜びに充たされる

・魂が相手から引き離されれば、翼の生え口は乾燥して塞がり、その根は情念とともに閉じ込められて、飛び跳ねる一方、美しい面影の記憶(⇒想起)は魂に喜びをもたらす。こうして、喜びと苦しみが混じり合って、魂は不思議な感情に惑乱し、狂気に苛まれる

④『恋する人びとがなぜ恋をするのか、またその心情はどのようなものなのかといえば、それはまさに、ぼく(ソクラテス)が話したような者なのだ。』(⇒以下参照)

・『その身に美をそなえた人こそは、この魂の畏敬のまとであるのみならず、最大の苦悩を癒やしてくれる人としてこの世に見出すことのできた、たったひとりの医者なのである。』

・せつない憧れに駆られて、夜は眠れず昼もじっとしておられず、美しいその人を見ることができると思っている方へ走っていく

・その姿を目に捉え、愛の情念に身を潤すや、魂は、それまですっかり塞がれていた翼の生え口を解き開き、生気を取り戻して苦悩から救われ、他方更に、比べるものとてない甘い快楽を、その瞬間に味わう

・だからこそ、出来ることなら離ればなれになろうとはしないし、また、この世の何人をも、この美しい人よりも大切に思うようなことはない

・彼は母を忘れ、兄弟を忘れ、友を忘れ、あらゆる人を忘れ、財産を顧みずにこれを失っても、少しも意に介さない

・それまで自分が誇りにしていた諸事、規則に則ったことも、体裁の良いことも、全てこれをないがしろにして、甘んじて奴隷の身となり、許されるならばどのようなところにでも横になって、恋い焦がれているその人のできるだけ近くで夜を過ごそうとする

⑤この心情を、人間達は恋(エロース)名付けているのだが、神々のもとではそれは以下のホロメス語りの人たちの詩に示されている(訳注:プラトンの創作だろう)

 

『翼もてるエロース そはまこと 死すべきものどもの呼べる名なり

されど不死なる神々は、これをプテロースとこそ呼べれ 翼(プテロン)おいしむるその力ゆえに』(⇒不死なる神々の間では、翼を生やすこの力のことをプテロースと呼ぶが、死すべき人間達の間では、これをエロースと呼ぶ)

 

8)人間達が地上の生を送る間、かって天界で回遊に従った神々の流儀に従って生きることになり、愛人に対してもその神の姿に近づくよう導いていく

①ゼウスの従者であった人びとは、エロースの神の重荷に、他の人びとよりも耐えることが出来、生まれつき知を愛し人の長たる天性を持つ相手を恋人に選び、その天性の実現に努め、自らもまたそう努める。つまりゼウスの本性を探究しようと努めることができる。『それはほかでもない、自分の神に対して、熱烈なまなざしを向けずにはいられないからである』

・記憶のうちにその神に到達して霊感に充たされるや、神に参与することが可能な限りで神の習性と生き方とを我が物にすることができる。しかも、それも恋人のお陰だと考えて益々愛情を高め、ゼウスからくみ取ったものを恋人の魂に注ぐ

②オリュンポスの12神の一つで、戦いの神であるアレスの従者であった人びとは、恋する相手から悪い仕打ちを受けたと思い込むと、殺気だって、恋人をわが身もろともに犠牲の血祭りに捧げることも辞さない

③ヘラはゼウスの妻なので、ヘラの従者であった人たちは、相手が王の性格を持ったものであることを求める、つまりゼウスの従者と同じ特徴をもつ

④アポロンやその他の神々の従者だった人たちは、それぞれの神にならった道を歩む

 

9)真に恋する者が抱く情熱と、その秘儀は、恋のなせる狂気に憑かれたこの人によって、愛される者の身に与えられ、愛人はこの人のものとなり、愛人は恋する者にとらえられる

・愛人がどのようにしてとらえられるのか、その次第が例によって善い馬と悪い馬と馭者で構成された魂という構図で語られる

10)かくして、恋に陥ったこの愛人の状況が語られる

・自分の心を動かしているものが何であるか説明が出来ない

・自分を恋している人の中に自分自身を認めているのだと言うことに気づかない

・恋している人が側に居れば、その人と同様に自分のもだえはやみ、離れていれば、またしても同じように、互いにせつなく求め合う

・だがそれは恋ではなく友情だと思って、そう呼んではいるものの、心に宿るものは、映って出来た恋の影、こたえ(返答)の恋(アンテロース)なのだ(⇒アンテロースはギリシャ神話に出てくる返愛の神で、エロースの弟)

・自分を恋している人の欲望と影の欲望に添うがごとき、しかしそれよりやや力の弱い欲望、つまり、その姿を見たい、その体に触れたい、くちづけをしたい、ともに寝たい、という欲望を感じ、程なくそのようなことすることになる

・ここで、情事の様子も語られるが、それもまた例の良い馬と悪い馬と馭者で構成される魂、今度は、恋する人と恋される人の魂の比喩として表現される

11)恋に陥った者たちには、知を愛し求める生活をおくる場合と、そうではないものの愛欲を達成して互いに愛によって結ばれている場合の二つがあるが、何れの場合もその生涯を終えた後は地下の旅路に行くことはない(⇒それぞれがどのような旅路を辿るかの物語は既に語られている)

12)恋に陥らない者たちは次のようになる(⇒リシュアスのようなソフィストへの強烈な批判)

『恋していない者たちによってはじめられた親しい関係は、この世だけの正気とまじり合って、この世だけのけちくさい施しをするだけのものであり、それは愛人の魂の中に、世の多くの人びとが徳(⇒卓越した力=アレテー=名誉、富、技能、弁論術、etc)としてたたえるところの、けちくさい奴隷根性を産み付けるだけなのだ。』(訳注:リシュアスに対する締めくくりとしての痛烈反駁)

<以下省略>

2019年8月2日金曜日

資本論 第3巻(資本主義的生産の総過程)⑧ 第七篇 諸収入とそれらの源泉

『資本論』カール・マルクス著(第三巻 資本主義的精算の総過程)
 岡崎次郎訳 大月文庫
原則「 」は本文引用、( )は小生補記

第七篇 諸収入とそれらの源泉
ピース
(「資本論」の第一部は「資本の生産過程」第二部は「資本の流通過程」と名付けられている。「資本主義的生産の総過程」と名付けられている第三部の最後の篇である第七篇「諸収入とそれらの源泉」でのポイントは、諸収入つまり、労賃、利潤、地代の源泉は、それぞれ別々に、労働力、資本、土地であるという考えは誤りであって、収入の源泉はただ一つ、労働であるということである。しかし、この最終篇は、単にその名称通りの項目の説明ではなく、それまで展開していたマルクスの経済理論と、第一部と二部においてその都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観と社会批判とを、この最後の篇において纏めてあるように思える、と同時にマルクスがこの篇で主題にしたかったのは恐らく階級社会についてであったのだと思う。つまり、西欧近代以降に人類がはじめて気づいた自由という普遍的価値が、次第に共有されて実現していくはずであったにもかかわらず、19世紀における最先進国だったイギリスにおいてさえも、物質的配分についても人権の尊重についても著しい格差が存在するということ、この篇に即して言えばすべての人にとって収入の源が同一であるにもかかわらず賃金労働者、資本家、土地所有者という三大階級が存在するということの理由を主題にしたかったのだと思う。しかし、最後の五十二章「諸階級」の書き始めのところで絶筆となっている。)

第四十八章 三位一体的定式
(それまで展開していたマルクスの経済理論と、その都度の論の進み具合に応じて記述されていた歴史観や社会批判のポイントが述べられているとともに、諸収入は地代と利潤と労賃という三位一体から成るという古典派経済学の誤った定式が提示される)
〔以下の断片は第六篇のための原稿の所々にあったものである〕とエンゲルスは述べている。その断片はⅠ、Ⅱ、Ⅲの項目に分けられているが、一言で言えば次のようなことである。
資本と土地と労働から、それぞれ利潤(企業者利得と利子の合計)、地代、労賃という形態で、それぞれ資本家、地主、労働者の収入が、あたかも自然に与えられているものとして把握されている。ブルジョワ経済学・俗流経済学者はそのように把握している。しかし、この三位一体的形態は「社会的生産過程のあらゆる秘密を包括している形態」である。つまり、利潤と地代と労賃の合計の価値は労働者の労働によってもたらされた価値と等しいのに、俗流経済学者たちは利潤も地代も資本家と地主にとっての当然の収入として理解しているのは、資本主義社会における社会的生産関係の秘密が理解できないからである、と。
―――――――――――――――――――――――――――――――――
(ここからこの四十八章の書き出しが始まる。その内容は基本的に第一部から三部までに述べられていることの再提示であるが、以下に要点をなるべく短い命題の形で箇条書きにしてみた。)
・資本主義的生産過程は社会的生産過程一般の歴史的に規定された一形態である。
・社会的生産過程は、人間生活の物質的存在条件の生産過程であるとともに、特定の経済的社会形態を生産し再生産する過程でもある。
・剰余労働は、資本が等価なしで手に入れるものであり、どんなにそれが自由な契約的な合意の結果として現れようとも、その本質から見ればやはり強制労働なのである。
・剰余労働は剰余価値において現れ、この剰余価値は剰余生産物において存在する。
・剰余労働一般は、与えられた欲望の程度を越える労働としては、いつでもなければならない。
・資本主義的制度や奴隷制度などのもとでは、剰余労働はただ敵対的な形態だけを持つのであって、社会の一部分の全く不労によって補足される。
・一定量の剰余労働は、災害に対する保険のために必要であり、欲望の発達と人口の増加とに対応する再生産過程の必然的な累進的な拡張のために必要である。
・再生産過程における必然的で累進的な拡張は、資本主義的立場からは蓄積と呼ばれる。
・資本の文明的な面の一つは、資本がこの剰余労働を以前の奴隷制や農奴制などの諸形態のもとでよりもより有利な仕方と条件のもとで強要するということである。
・社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっている。
・自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。
・未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならない。
・自由は、自然必然性の領域の中では、人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで、力の最小限の消費によってこの物質代謝を行うということにおいてのみあり得る。
・この必然の国の彼方で、自己目的として認められた人間の力の発展が、真の自由の国が、始まる。
・真の自由の国は、必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのであり、労働日の短縮こそは根本条件である。
・資本主義社会では、剰余価値は、資本家たちの間で、社会的資本のうちから各資本家に属する持ち分に比例して、配当として分配される。
・資本主義社会では、剰余価値は資本の手に入る平均利潤として現れ、平均利潤は企業者利得と利子とに分かれる。
・資本は、剰余価値および剰余生産物に表される剰余労働を直接に労働者から汲み出し、土地の所有者は剰余価値の一部分を資本家の手から地代という形態として汲み出す。
・労働者は、自分自身の労働力の所有者および売り手として、労賃という名のもとに生産物の一部分を受け取る。
・労賃には必要労働が現れている。必要労働は、条件が貧弱か豊かとか有利とか不利とかにかかわらず、労働力の維持と再生産に必要な労働である。
・資本家にとっては資本が、土地所有者にとっては土地が、労働者にとっては労働力が、利潤、地代、労賃という独自な収入の三つの違った源泉として現れる。
・労働の価値は、利潤、地代、労賃という形で固定される。この固定が労働の価値を収入という形に転化する。
・賃労働が労働の社会的に規定された一形態として現れるのではなくて、全ての労働がその性質上賃労働として現れるように見える。
・労働および労働の価値は社会的形態にかかわらず普遍的なものであり、したがって労働の条件もまた労働および労働の価値に則して普遍的なものである。(煩雑なマルクス言い回しを、端的なテーゼとして取り出してみた)
・労働から疎外された労働条件の姿は、生産された生産手段および土地の定在およびそれらの機能と一致する。
・労働一般と賃労働との一致が自明のように見えるなら、資本も独占された土地も労働一般に対立して労働条件の自然的形態として現れる。
・労働そのものが関係するのは素材的実体における生産手段である。
・生産手段は使用価値としてのみ区分される。生産手段のうち土地は生産されたのではない労働手段として、その他のものは生産された労働手段として区分される。
・賃労働と労働一般とが一致するならば、利潤や地代も労働には依存しない固有の源泉、すなわち資本の素材的要素と土地から生ずるものでなければならなくなる。(労賃は自分の労働の価値の一部分に過ぎず、他の部分は利潤や地代となっている、の言い換え)
・引用50:「賃金、利潤、地代は、全ての収入の三つの本源的な源泉であり、また全ての交換価値のそれでもある。」(アダム・スミス『国富論』)
・資本主義的生産様式では、社会的な諸関係を商品に、さらに一つの物である貨幣に転化させる。
・資本主義的生産様式における直接的生産過程においてでさえ、労働の全ての社会的生産力が、労働そのものではなくて資本に属する力として現れる。
・資本の流通過程こそは、元来の価値生産の諸関係が全く背景に退いてしまう部面である。商品に含まれている価値も剰余価値も流通過程で実現されなければならず、したがって、それらがこの部面から発生するように見えるからである。
・商品に含まれている剰余価値が流通から発生するように見えるのは、一つには、譲渡のさいの利潤が詐欺や奸策や専門知識や技能や無数の市況依存しているからであり、次には労働時間以外の規定的な要素としての時間すなわち流通期間のためである。
・流通の部面は、各個の場合を見れば競争という偶然の部面であるから、この偶然を規制する内的法則は、この偶然が大量に総括されてはじめて見えるようになる。従って、生産の当事者たちには貫かれている法則は何も見えない。
・現実の生産過程は、直接の生産過程と流通過程との統一としていろいろな新たな姿を生み出し、従ってますます内的な関連の道筋は見えなくなり、いろいろな生産関係は互いに独立しているように見えて、価値の諸成分は互いに独立な形態に(企業者利得、利子、地代として)骨化する。
・剰余価値の利潤への転化は、生産過程によって規定されているとともに流通過程によっても規定されている。
・剰余価値は、利潤という形態では、もはや、それの源泉である労働に投ぜられた資本部分にではなく総資本に関係させられる。(ここではすでに資本は物質的なものから社会関係的なものへと変態を遂げつつある)
・利潤率は固有の諸法則によって規制され、この諸法則は、剰余価値率が変わらなくても利潤率が変動することを許し、またこの変動を引き起こしさえもする。(固有の諸法則とは、本質を隠蔽しながら現実に人々をして従わざるを得なくする規制だろう)
・すべてこれらのこと(直前の二つのテーゼ)は、剰余価値の真の性質を、従ってまた資本の現実の機構を覆い隠す。
・(上記テーゼに加えて)さらに、利潤が平均利潤に転化し、価格が生産価格、すなわち市場価格の規制的平均価格に転化すれば、なおさらそれ(隠蔽)はひどくなる。
・企業者利得と利子への利潤の分裂は、剰余価値の形態の独立化を、剰余価値の実体あるいは本質に対する剰余価値の骨化を、完成する。
・利潤の一部分は、利潤の他の部分に対立して、資本関係そのものから引き離されて、資本家自身の賃労働から発生するものとして現れる。
・(上記テーゼに対立して)次には利子が、労働者の賃労働にも資本家自身の労働にもかかわらない、自分固有な独立な源泉としての資本から発生するように見える。
・資本が最初は、流通の表面で価値を生む価値として現れ、今では利子生み資本という形でその最も疎外された独特な形態にあるものとして現れる。
・「資本-利子」という形態は、「土地-地代」および「労働-労賃」に対する第三のものとしては、「資本-利潤」よりも本質的表現である。
・(利潤という言葉には、資本家も才覚を用いて働いて利を得る、という剰余価値の起源つまり労働を思わせるニュアンスが残っているが、利子にはそのニュアンスはないどころか、高利貸しなどとして労働と対立する形態になっている。)
・ここまでで剰余価値の独立な源泉としての資本については明確になったが、最後に土地所有が平均利潤の制限として、剰余価値の一部分を地代という形態で土地所有者という一階級へ引き渡すものとして現れる。
・地代は自然要素である土地に結びついているように見えるので、剰余価値のいろいろな部分の相互間の疎外と骨化は完成されており、内的な関連は引き裂かれている。
・(土地の所有が収入の源泉になっているという意識においては、剰余価値の本来の源泉である労働というものは完全に埋没させられている)
・資本-利潤、またはより適切には資本-利子、土地-地代、労働-労賃という経済的三位一体では、資本主義的生産方式の神秘化、社会的諸関係の物化、物質的生産諸関係とその歴史的社会的規定性との直接適合性が完成されている。それは魔法にかけられ転倒され逆立ちした世界である。
・俗流経済学は、一切の内的関連の消し去られている三位一体のうちに、一切の疑惑を超えた基礎を見いだす。
・この三位一体の定式は支配的諸階級の利益にも一致している。なぜならば、それは支配的諸階級の収入源泉の自然必然性と永遠性の正当化理由となるからである。
・「以前のいろいろな社会形態では、この経済的神秘化は、ただ、主に貨幣と利子生み資本とに関連して入ってくるだけである。<中略>資本主義的生産様式においてはじめて・・・(エンゲルス:ここで原稿は中断している)

第四十九章 生産過程の分析のために
(諸商品の価値は結局、三つの独立した収入源である地代と利潤と労賃に分解できるというアダム・スミス以来の古典派経済学による生産過程の分析理論が誤りであることが示される。その根拠については既に第一部と二部によって述べられているが、簡単に言えば、地代と利潤と労賃が商品価値の源泉であるなら、収入すなわち消費には含まれないが再生産には必須である生産手段を購入するための収入としての価値の源泉がどこに存在するのかも、またその生産手段という商品を生産するための労働力がどこに存在するのかも説明できないからである。たとえば、「不変資本として現れるものは労賃と利潤と地代とに分解できるが、労賃と利潤と地代とがそのなかに現れる商品価値はそれ自身また労賃と利潤と地代とによって規定されており、こうして無限にこれが繰り返されていく、というわけである。」と記述されているように。
マルクスとしては、誤った理論に基づく政治や経済を理解しようとするには動機があるとも言いたいのだろうが、はっきりしていることは、そのことによって社会の階級関係もその階級関係を再生産するからくりも隠蔽されるということだろう。
「要するに、ここで提起されている問題は、既に社会的総資本の再生産の考察にさいして、第二部第三篇(社会的総資本の再生産と流通)で、解決されているものである。われわれがここでこの問題に立ち返るのは、第一には、前のところでは剰余価値がまだ利潤と地代というその収入形態では展開されていなかったからであり、したがってまたそれをこれらの形態で取り扱うことはできなかったからである。また第二には、まさにこの労賃、利潤、地代という形態には、アダム・スミス以来全経済学を一貫している信じられないような分析上の大間違いが結びついているからである。」
そういうことなので、以下に要点をなるべく短い命題の形で箇条書きにしてみた。)

・利潤と地代は、実現された剰余価値であり、したがって、一般に、商品の価格に入る剰余価値である。
・(収入の第三の独特な形態をなしている労賃は、労働者から見れば収入のように見えるかもしれないが、可変資本という資本の一成分である。)
・収入の支出にさいして支払われる労働は、それ自身、労賃や利潤や地代によって支払われるのだから、その労働の支払いに用いられる商品価値部分を形成するものではない。
・年間生産物の価値のうち、一年に新たに付け加えられる彼の労働を表す部分は、可変資本の価値プラス剰余価値に等しく、この剰余価値がさらに利潤と地代という形態に分割される。
・年間生産物の価値のうち労働者が一年間につくりだす全価値は、三つの収入の年間価値総額に、労賃、利潤、地代の価値に、表されている。それゆえ年間生産物価値のうちには不変資本部分の価値は再生産されていない。
・労賃はただ生産に前貸しされた可変資本部分の価値に等しいだけであり、また、地代と利潤は、不変資本の価値と可変資本の価値の合計に等しい前貸し資本の総価値を超えて生産された価値超過分(剰余価値)に、等しい。
・商品の価値の源泉が地代と利潤と労賃の合計とすれば、二つの困難が生じる。一つは、年間の収入の合計は年間の商品の合計よりも、年間の不変資本の消費分だけ不足すること、もう一つは、この年間の不変資本の消費分を現物で生産する労働が存在しなくなること、である。
・(不変資本のうちの固定資本分は、労働の二重性によって価値の移動がなされることとは別に、不変資本分の年間消費は発生するから、収入にてこれを賄わなければならないのだが、商品の価値の源泉が地代と利潤と労賃であるとすれば、すくなくともこれは不可能となる)
・年間商品生産物の価値は、前貸不変資本の価値を補填する成分A(生産手段としての生産物価値)と、労賃、利潤、地代として収入の形態をとって現れる成分B(消費手段としての生産物価値)の二つの価値成分に分解される。
・上記成分Aは収入の形態をとり得ない、不変資本の形態で還流するという限りにおいて資本に対立する資本の形態である。
・上記成分Bは、その三つの形態が収入という共通の形態を持っているが、利潤と地代には剰余価値すなわち不払い労働が表され、労賃には支払い労働が表される、という点においてその内部に対立を持っている。
・上記成分Bのうちで労賃の形態に転化する資本すなわち可変資本は二重に機能する。第一には資本として労働と交換され、第二に労働者の収入となって生活手段に転化される。
・総収益または総生産物は、再生産された生産物全体であり、その価値は前貸しされて生産に消費された不変資本と可変資本との価値に、利潤と地代すなわち剰余価値を加えた価値に等しい。
・総収入は総収益から、前貸しされて生産で消費された不変資本を補填する部分を差し引いたもので、賃金と利潤と地代の合計に等しい。
・純収入は総収入から労賃を引き去った後に残る剰余生産物であり、利潤と地代に分解できる。
・社会全体の収入を見れば、国民的収入=労賃+利潤+地代なので総収入から成っており、純収入ではない点においては資本家的立場に立った理解である。
・諸商品の価値は、結局は残らず諸収入に、つまり労賃と利潤と地代とに分解するというというのは、アダム・スミス以来全経済学を一貫している馬鹿げた説である。
・商品の価値の源泉は、地代、利潤(企業家利益+利子)、労賃であるという、根本的に間違った説を唱える理由は要するに以下のようなものである。
(1)   「不変資本と可変資本との根本関係、したがって剰余価値の性質、したがってまた資本主義的生産様式の全基礎が理解されていないこと。」
(この章について言えば、労賃と利潤と地代という三つの収入源泉を合計した価値総額で、これにもう一つ余分な価値成分である不変資本を含んでいる商品を買うことはできない、と言うことが理解されていない。)
(2)   労働は、新たな価値を創る能力の他に、古い価値(生きている労働の価値に対比されている死んだ労働の蓄積である固定資本に代表される)を移動させる、あるいは新たな形態で保存する、という能力を持っていることが理解されていない
(3)   「再生産過程の関連が、個別資本の立場からではなく総資本の立場から見た場合に、どのように現れるか、ということが理解されていないこと。」
(理解されていないことによって発生するいくつかの困難があげられているが、いずれも重複した説明の繰り返しに見えるので省略する)。
(4)   「さらにもう一つの困難が加わってきて、それは、剰余価値のいろいろな成分が互いに独立ないろいろな収入の形で現れるようになれば、いっそうひどくなるのである。」
(5)   剰余価値が別々の、互いに独立した、それぞれ別々の生産要素に関連する収入形態すなわち利潤と地代に転化するということによって、もう一つの混乱が起きる。」
・「困難のすべては次のことから生じる。・・・(以下の記述は、第一部から三部のなかで、マルクスの主張に対する俗流経済学者の無理解の記述がほぼ繰り返されているので省略する)」

第五十章 競争の外観
(省略)

第五十一章 分配関係と生産関係
(ここで述べられていることを一言で言えば、分配関係は生産関係と同じことである、というものである。なぜそうなのかという理由は、すべて既に述べられたことではあるが、本文の引用を中心に箇条書き風に羅列してみた。)

・「こういうわけで、年々新たに付け加えられた労働によって新たに付け加えられる価値は、<中略>三つの違った収入形態をとる三つの部分に分かれるのであって、これらの形態はこの価値の一部分を労働力の所有者に属するもの、一部分を資本の所有者に属するもの、そして第三の一部分を土地所有権の所有者に属するものとして、または彼らのそれぞれの手に落ちるものとして、表しているのである。つまり、これらは分配の諸関係または諸形態である。なぜならば、それらは、新たに生産された総価値がいろいろな生産要因の所有者たちの間に分配される諸関係を表しているからである。」
・「普通の見方にとっては、これらの分配関係は、自然的関係として、あらゆる社会的生産の本性から生じ人間的生産そのものの諸法則から生ずる関係として、現れる。」
・どんな社会においても労働は二つの部分に区分できる。つまり生産者やその家族が生存するに必要な生産物を生産する労働と剰余生産物を生産する労働である。
・剰余労働が生産する剰余生産物は一般的な社会的欲望の充足に役立つものであって、剰余生産物の配分様式や形態の相違が問題となるのは、誰が欲望の充足をすることができるかが問題となる社会においてだけであるから、分配の問題は歴史的には無視されてきた。
JS・ミルのようにより批判的な意識は、分配関係の歴史的発展形態は承認する。しかし、生産関係については、人間の本性なのだから不変であると、その不変性に固執する。
・資本主義的生産様式の科学的な分析は次のことを証明している。
*ある特定の生産様式は、社会的生産力とその発展形態の段階を自分の歴史的条件として前提している。
*資本主義的生産様式は、どんな生産様式とも同様に、特別な種類の、独自な歴史的規定を持つ生産様式である。
*この独自な歴史的に規定された生産様式に対応する生産関係は、一つの独自な、歴史的な、一時的な性格を持っている。ここで生産関係とは「人間が彼らの社会的生活過程において、彼らの社会的生活の生産において、取り結ぶ関係」である。
*「そして最後に、分配関係は本質的にこの生産関係と同じであり、その反面であり、したがって両方とも同じ歴史的な一時的な性格を共通に持っているということ。」
・年間生産物が労賃、利潤、地代として分配されるという捉え方は間違いであって、生産物は二つに分かれて、一方では資本となり他方では収入の形態で戻ってくるのである。
・労働条件および労働生産物一般が資本として直接生産者に相対するのだから、そのような生産過程には労働者に対する物的労働条件についての社会的性格が反映され、労働者と労働条件の所有者や労働者同士の関係が反映されている。
・労働条件の資本への転化は、資本自身や生産者からの土地の収奪を含み、したがってまた土地所有の形態を含んでいる。
・もし生産物の一方の部分が資本に転化しないのであれば、他方の部分も労賃、利潤、地代という形態をとりはしない。
・資本主義的生産様式は、物質的生産物だけではなく、物質的生産物が生産される生産関係を絶えず再生産し、したがってまたこれに対応する分配関係も絶えず再生産する。
・資本は本源的蓄積に関する章(第一部第二十四章)で展開された諸関係を前提している分配関係は、生産条件そのものにもその代表者たちにも特殊な社会的性質を与える。
・生産関係に対立させた分配関係に一つの歴史的な性格を与えようとする場合、その分配関係は、生産物のうちの個人的消費に入る部分に対するいろいろな権利を意味している。
・資本主義的生産様式を際立たせるものは、次の二つの特徴である。ひとつは、この生産様式はその生産物を商品として生産することであり、もう一つは、生産の直接目的および規定的(生産関係によって規定されている)動機としての剰余価値の生産である。
・商品としての生産物の性格と、資本の生産物としての商品の性格とは、すでにすべての流通関係を含んでいる。
・商品としての生産物の性格と、資本の生産物としての商品の性格からは、「価値規定の全体が、また価値による総生産の規制が生ずる。<中略>ここでは価値の法則は、ただ内的な法則として、個々の当事者に対しては盲目的な自然法則として、作用するだけであって、生産の社会的均衡を生産の偶然的な諸活動(=競争の下で相対しながら、商品の所有者たちがとる諸活動)のただ中を通じて維持するのである。」
・資本は本質的に資本を生産する、というのはただ、資本が剰余価値を生産する限りのことである。
・価値と剰余価値とのための生産は、費用価格低減の衝動を生み、労働の社会的生産の増大をもたらす最も強力な槓桿(=梃子)である。
・資本家が資本の人格化として直接的生産過程で持つ権威は、奴隷や農奴などによる生産を基礎とする権威とは本質的に違うものである。
*資本主義的生産の基礎の上では、資本家は、厳格に規制する権威の形態をとって、また労働過程における階層性として編成された社会的な機構の形態をとって、直接生産者である大衆に相対している。
*権威の担い手は、労働に対立する労働条件の人格化としてのみ権威を持つのであって、以前の生産形態のように政治的なまたは神政的支配者として権威を持つのではない。
・「ある成熟段階に達すれば、一定の歴史的な形態は脱ぎ捨てられて、より高い形態に席を譲る。このような危機の瞬間が到来したということがわかるのは、一方の分配関係、したがってまたそれに対応する生産関係の特定の歴史的姿と、他方の生産諸力、その諸能因の生産能力および発展との間の矛盾と対立とが、広さと深さとを増したときである。そうなれば、生産の物質的発展と生産の社会的形態との間に衝突が起きるのである。」

第五十二章 諸階級
「労賃、利潤、地代をそれぞれの収入源線とする単なる労働力の所有者、資本の所有者、土地所有者、つまり賃金労働者、資本家、土地所有者は、資本主義生産様式を基礎とする近代社会の三大階級をなしている。」
「まず答えられなければならないのは、何が階級を形成するのか?という問いである。そして、その答えは、なにが賃金労働者、資本家、土地所有者と三つの大きな社会階級にするのか?という別の問いに答えることによって、おのずから明らかになるのである。」
マルクスは、収入の源泉は一つしかなくて、それは労働であると考えているから、同じ収入源に基づいて生活している人々が近代では三つの大きな階級に分かれ、この階級の間、とくに賃金労働者と他の二つの階級の間には生活の著しい格差が存在すること、この現実が生じる理由を問い、それをこれから述べようとするところで、絶筆となっている。

2019年7月12日金曜日

資本論 第3巻(資本主義的生産の総過程)⑦ 第六篇 超過利潤の地代への転化

『資本論』カール・マルクス著(第三巻 資本主義的精算の総過程)
 岡崎次郎訳 大月文庫
原則「 」は本文引用、( )は小生補記

ベビーロマンチカ
第六編 超過利潤の地代への転化
第三十七章 緒論
「われわれが土地所有を取り扱うのは、ただ、資本によって生み出された剰余価値の一部分が土地所有者のものになるかぎりのことである。」
資本主義的生産様式一般は、それが労働者からの労働条件の収奪をするのと同じように農村労働者から土地を収奪し、資本家へ農業労働者を従属させる。
問題は、資本主義的生産体制における土地の独占的所有の経済的価値とその経済的実現を説明することである。
資本主義的生産様式が、それがもたらした他のすべての歴史的進歩と同じように、農業を一方では合理化(科学の応用など)によって社会的経営を可能にし、他方では土地所有の不合理(隷属関係の解放など)を提示したのは大きな功績である。
農業や土地所有に関する資本主義的生産様式では、借地農業者は資本家であり、現実の耕作者は借地農業者に使用されている賃金労働者であり、地代は従って土地所有が経済的に実現される形態であり、従ってここでは賃金労働者と産業資本家と土地所有者という三つの階級が相対している。
土地に加えられる改良や土地に付帯する建物に対する利子は、土地使用そのものに支払われる本来の地代とは別のものであり、土地所有者が賃貸契約を結ぶ場合にはこの利子が地代に付け加えられるから、土地の価値は上がっていく。従って土地の所有者は何の費用もかけずに社会の発展に伴って価値の上がっていく資本を売ることができる。

第三十八章 差額地代、総論
農産物や鉱産物を生産する土地の地代には差額が生じている。この差額は、資本主義的生産体制を前提にして考察すれば、その土地の豊饒度に基づく経済的合理性に依拠する。だからまずは、農作物や鉱産物である生産物は生産価格で売られることを前提として地代を分析する。例えば、自然の落流による水力を利用できる土地と蒸気機関を利用しなければならない土地を比較すると、前者はより多くの利潤を得られるのは明らかなので、この超過利潤分がより高い地代となりうる。
生産価格は市場価格に規定されるから、自然の落流という恵みが生産価格形成に有利に働きうるのは、それが土地所有者によって独占されているからでもある。

第三十九章 差額地代の第一形態(差額地代Ⅰ)
超過利潤が転化したものとしての地代が可能となるのは、地代が生まれ得ない最劣等地よりも生産性の高い耕作地においてのみである。「超過利潤は、二つの等量の資本および労働が等面積の土地で用いられて不等な結果を生む場合には、地代に転化するのである。」(差額地代の第一形態)。
ここでは、別の土地の地代を比較した場合について述べられてはいるが、地代の形成はその土地の豊饒度によって異なってくることの方が本質的なことである。
以下、土地の等級を最優良地AからBC、最後に最劣等地Dに区分して、夫々の土地の生産性や需要や生産物価格と地代の関係を論じているが省略する。

第四十章 差額地代の第二形態(差額地代Ⅱ)
差額地代の第二形態とは、同一の土地に対して資本を投下することによって生産性を向上させ、従って超過利潤を増大させることにより、地代がいわば人工的に形成されていく形態のことである。
地代の差額は落流の有無のような自然条件だけではなくて、投下資本によっても生じるのだが、この資本を投下するのが借地農業者であっても、賃貸借契約更新時には、自分の投下した資本は土地の付属物として土地所有者のものとなって地代が徐々に高くなり、また累積していくという現実は、資本主義的生産様式という経済原理と矛盾する。
農産物や鉱産物を生産する土地は、個人が自身の労働によって農地を新たに開拓したり、土地の豊饒度を上げたり、農具や牛馬などの動力を工夫したりしてきた歴史の延長上において資本主義的生産体制に組み入れられてきたのだから、地代の形成は、需要供給関係や生産物価格に加えて、すでに築かれている社会的諸関係によって規定されている。従って、地代の形成はより複雑な様相を呈するようになる。以下、地代とそれに影響を与える諸因子との個々の関係が考察されるが、省略する。

第四十一章 差額地代Ⅱ---第一の場合 生産価格が不変な場合
省略

第四十二章 差額地代Ⅱ---第二の場合 生産価格が低下する場合
省略

第四十三章 差額地代Ⅱ---第三の場合 生産価格が上昇する場合 結論
省略

第四十四章 最劣等耕地でも生まれる差額地代
要するに、供給増の要求によって継続的に投資が行われた耕作地では、契約期間が切れる時には、投資の仕方によって差があったとしても地代が上がることになる。もともと最劣等耕地であったとしても、継続的投資が行われた土地同士の間では地代に差が生じることになる。

第四十五章 絶対地代
絶対地代という概念は、上述したような差額地代とも違うし本来の独占価格にもとづく地代とも違う概念で、あくまでも超過利潤の取り分のうちから最劣等地についても地代として土地所有者へと入ることになるという、地代の概念を指す。
絶対地代は、マルクスの経済理論に基づけば最劣等地では発生しないはずである地代が、実際には発生しているという矛盾を明快にするために必要な概念であり、絶対地代が独占価格に基づかないというのは、独占価格が資本主義的生産体制という経済合理性の外部に由来すらからである。
地代について以上の記述は、資本主義的生産体制というマルクスが前提とする社会経済構造に基づく理論の延長にある。農産物や水産物や鉱産物の生産についても、資本主義的生産体制の発展に伴って必然的に生じる資本の有機的構成の変化、つまり不変資本の増大と可変資本の減少という変化、あるいはより本質的表現では、商品の価値と価格の乖離度合いの拡大が、この領域における労働者の搾取をより過酷にする、ということになる。

第四十六章 建築地地代 鉱山地代 土地価格
土地は商品として売買される。その際の土地価格というものは、利子が資本の価格を決めるように地代から算定される、ということが明らかにされる。ここにおいて、利子は剰余価値の一部が結果として資本の所有者のものになるのではなくて、現実には逆に利子が予め与えられているのと同様に、地代も予め与えられている。つまり、土地も利子を生む資本と同じような機能を持つことになる。資本主義生産体制を前提にした経済の理論に基づけばこの現実には矛盾があることになる。

第四十七章 資本主義的地代の生成
この章は地代が生成されてきた歴史について、マルクスの歴史解釈が語られる。
第一節 緒論
(省略)
第二節 労働地代
労働地代は、直接生産者が領主の農地で領主のために労働するという最も簡単な形態での地代のことである。この直接生産者は、自分の再生産のために必要な生産物を自分の占有している労働用具や土地を用いて自分の労働によって得ている独立な農民と言える。歴史的発展段階におけるこのような状態においては、直接生産者は土地の所有者である領主に対しては隷属関係を取らざるを得ないが、根底にある関係の不断の再生産が規律化され、秩序化されるようになり、ある程度の経済的発展の可能性も与えられている。
労働地代が発生するような社会関係の元にある経済と、奴隷経済や植民地大農業とを区分するものは、直接生産者は自分では自由にならない他人の生産条件で労働していることであり、従って彼らは人身的従属関係に支配された土地の付属物である、ということである。彼らに土地所有者としてとして相対すると同時に主権者として相対するものが、私的土地所有者ではなくて、アジアのように国家であるならば、地代と租税とは一致する。

第三節 生産物地代
直接生産者がより高い文化状態に、そして社会一般がより高い発展段階になると、労働地代は生産地代へと移行するが、地代の本質は変わらない。ただ、鞭の代わりに法的規定に追い立てられて自己責任で剰余労働をしなければならないだけである。

第四節 貨幣地代
貨幣地代は、生産物の代わりに生産物の価格を自分の土地の所有者に支払う地代のことである。この状態は、現物形態が貨幣形態に転化されることが前提されるが、資本主義種的生産様式に基づく産業地代または商業地代、すなわち平均利潤の超過分とは区別される。
「貨幣地代は、・・・不払い剰余労働の正常な形態としての地代の、最後の形態であると同時にその解消の形態でもある。」(地代の解消形態とは、資本主義生産体制が発展してくると、地代も利息と同様に剰余価値の転化形態であることが見えなくなることを指すのだろう)。

第五節 分益農制と農民的分割地所有
分益農制とは、借地農業者と土地所有者が経営資本の一部ずつを提供し合い、生産物を彼らの間で一定の割合で分割することである。この形態は、地代の本源的な形態から資本主義的な形態への過渡形態である。例えばポーランドやルーマニアにおいては、独立な農業経営へ移行した後も、不作時の備えなどのための生産をする共有地が遺物として残っていたが、それが次第に国家の役人や私人に横領され、ついには横領された共有地での共同耕作義務が維持されたままで農民所有地までもが横領されていった。
自営農民の自由な分割地所有という形態は、古典的古代の最良の時代の社会的基礎をなしている。またそれは、近代の諸国民の元で封建的土地所有の解体が生まれてくる諸形態の一つとして、例えばイギリスのヨーマンリ、スエーデンの農民身分、フランスや西ドイツの農民として見いだされる。分割地所有という形態は個人的独立の基礎をなし、農業そのものの発展にとって一つの必然的な通過点であるが、やがて没落する。その没落の原因は、分割地所有という形態の補足をなしている農村家内工業が大工業の発展によって滅びること、同じく補足をなしている家畜の飼育を可能とする共有地が大きな土地の所有者によって横領されることである(個別の事情は地域等で変わるだろうが)。
分割地所有は、その性質上、労働の社会的生産力の発展、労働の社会的諸形態、資本の社会的集積、大規模な牧畜、科学の累進的な応用を妨げる。営利と租税制度とはどこでも分割所有を貧困化する。
資本主義的生産体制が進展してくるにつれて、土地は商品として価格を持つようになり、小農業が自由な土地所有と結びついていれば、耕作者が資本を土地の購入に投じるようになり、土地の価格は先取りされた地代に他ならなくなる、というのは土地が資本として還元可能となってくるからである。しかし小規模に分割地所有される土地そのものが機械や原料と同様に価値を持って、生産価格に入るというのは幻想であり、農民を高利に従属させるだけである。なぜなら、土地の価格が生産価格を構成するのは差額地代が可能であるか、独占価格が生じる場合だけであるからである。また、大規模な地主経営は、剰余価値の分配に関して借地農業者すなわち資本家と対立するために剰余価値増大を目指す資本主義的生産様式に矛盾するから、農地は荒廃し、自然は破壊されて農業自体の障害となる。
「大きな土地所有は、労働力を、その自然発生的なエネルギーの逃げ場でありそれを諸国民の生命力の更新のための予備源として貯えておく最後の領域である農村そのものの中で、破壊するのである。」