第一章
費用価格と利潤
「前貸総資本の所産と観念されたものとして、剰余価値は、利潤という転化形態を受け取る。」(剰余価値は剰余労働あるいは労働搾取から生じるのであるが、それが資本の充用によって生じると捉えると利潤という概念を生む)- 商品の価値のうちただその商品の生産に支出された資本価値を費用価格(k)と名付る。kの価値部分は、その形態を初めの商品の形態から流通過程を経て、絶えず生産資本の形態へと再転化する
- W=c+v+m(Wは商品の価値、cは不変資本、vは可変資本、mは剰余価値)
k=c+vだからW=k+m(この式からは、不変資本と可変資本の区別は分からない)
- 「費用価格の外観上の形成では不変資本と可変資本との区別は認められないので、生産過程で起きる価値変化の根源は可変資本部分から総資本に移されざるを得ないのである。一方の極で労働力の価値が労賃という転化形態で現れるので、反対の極で剰余価値が利潤という転化形態で現れるのである。」
第二章 利潤率
「資本のすべての部分が一様に超過価値(利潤)の源泉として現れるということによって、資本関係は不可解にされる。」- 利潤率の定義。利潤率=m/C、C=c+v、Cは総資本
- 実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのであり、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現実の表面に現れているものである。
第三章 利潤率の剰余価値率との関係諸
- 前提と基本式
定義:利潤=p、利潤率=p′=m/C
利潤の総額(p)=剰余価値の総額(m)
記号は第一部と第二部に用いた記号と同じ(m、v、c、m′、C)
m′=m/v、C=v+c
基本式: p′=m′(v/C)
但し、基本式は、可変資本の一回転についてのみ正しい。年間では、年間の可変資本の回転数をnとするとm′に代わりm′nと書けばよい
(説明上の便宜のための前提条件が置かれているが、あくまで原則的なもの)貨幣価値、労働日の長さ、労働の強度、労賃は不変、回転の要因、労働の生産性の変化などに基づく特別利潤は考慮しない
- 以下次のような場合ごとにケーススタディーが示されるが、すべてが網羅されているわけでもなく、さして理解を深める事例でもないので省略する。尚、いくつか記述の誤りもある)Ⅰ m′は不変でv/Cは可変の場合(の一般式)1 m′とCは不変でvは可変な場合(v/Cが可変であるのは、Cは不変なのにvが可変→cは必然的にvの変化とは逆方向に同量だけ変化する)2 m′は不変、vは可変(cは不変)、Cがvの変化で変わる場合3 m′とvは不変、cは可変、したがってまたCも可変な場合(v/Cが可変であるのは、vは変化しないでcが可変な場合)4 m′は不変、vもcもCもすべて可変な場合Ⅱ m′が可変な場合1 m′が可変でv/Cが不変な場合2 m′とvは可変でCは不変な場合3 m′もvもCも可変な場合
第四章 回転が利潤率に及ぼす影響
(本章はすべてエンゲルスの挿入文である)- 第三章で既に述べられているように、年間の利潤率はp′=m′n(v/C)となる。
m′n=M×nと書けば、p′=M(v/C)となる
回転については既に第二部で研究されたので省略する
- 資本家は一般に自分の事業の可変資本量(v)が分からない(利潤と利潤率は必要なので分かるが)。ここで、可変資本の計算例として、第一部 第七章 第一節で述べた紡績工場の一週間の生産事例を下記する
ミュール紡錘10,000個、固定資本(機械)は10,000ポンド、流動資本は未規定だったから2,500ポンド(大体こんなものだろう)として、機械の損耗分は20ポンド/週、流動不変資本前貸358ポンド/週(内訳は賃借料6ポンド、綿花342ポンド、石炭・ガス・油10ポンド)、労賃に投ぜられる可変資本52ポンド/週、剰余価値80ポンド/週。可変資本と流動不変資本の回転数は同じと想定してで良いとして、年間の利潤率と剰余価値率を計算すると次のようになる
・週間生産価値:20(消耗分)+358c+52v+80m=510
・週間前貸流動資本:358c+52v=410・不変資本:2,500×(358÷410)=2183ポンド
・可変資本:2,500-2183=317ポンド(あるいは2500×52/410=317ポンド)
・労賃に投下される年間投下総額:52ポンド×365÷7=2704
・可変資本の回転数:2704÷317=8.5回転
・総資本:固定資本+流動資本=12,500ポンド
・剰余価値率:80/52=153.8%
・利潤率:剰余価値率×回転×可変資本÷総資本=33.27%
・年間剰余価値率:剰余価値率×回転=1307%
自分の事業についてこのような計算をしようとする資本家は殆どいないから、社会的総資本の不変部分と可変部分との割合についての統計はない。ただ、アメリカの統計調査に、各事業部門で支払われた労賃総額と得られた利潤というのがあって、産業家たち自身の報告だけなので評判が悪いが貴重なものである。ヨーロッパでは、それすらもない。
第一節 概要
- 五章も六章も、剰余価値の量も率も与えられているという前提から出発する
- 絶対的剰余価値の増大は不変資本の価値を相対的に減少させるから利潤率を高くする
- 労働日の延長は、新たな固定資本の投下を節約し、固定資本の価値をより少ない回転期間で再生産してその回収期間を短縮し、従って利潤を高くする。近代的産業体制において固定資本を増やす必要性が益々大きくなることは、労働日の延長への主要な動機である
- 労働日が不変(=絶対的剰余価値がない)の場合により多くの労働を搾取する方法は、労働者数を増やすと同時に、ある程度の固定資本の量(価値ではない)を増やす、労働の強度増か生産力の向上(流動不変資本と固定不変資本の増大)こと。労働の搾取の増大には資本投下が伴うから、利潤率は一方で増大し他方で減少する
- 経常的な雑費は労働日の長短とは殆ど無関係。例えば工場の監督費、国税、地方税、火災保険料、常用雇用人賃金、機械の減価、その他の工場雑費
- 固定資本成分の価値が再生産される期間は、それらが労働過程で使用される時間で規定される。例えば労働日が一日12時間から18時間になれば、固定資産の価値の再生産はは50%向上して回収期間は2/3となる
- 大規模生産な生産を特徴付ける、生産条件の節約は、この生産条件が労働の社会的条件として機能していることから生じる(分業、協業、労働の集約、機械の使用など)。 生産条件の節約は、剰余価値が剰余労働から生じるようなものである。 経験と観察による不断の改良も、このような生産条件の節約によっている
- 大規模な社会的労働の結果である生産条件の節約の第二の大きな部類は生産廃棄物の再利用である。 生産廃棄物が大量にあることが、この廃物を再び取引の対象にし、したがってまた新たな生産要素にする。 廃物自体がそのまま生産要素として役立つ場合もある。 廃物自体が売れるものであれば、原材料費の価値を下げ従って不変資本の価値を下げるから利潤率を上げる
- 剰余価値が不変なら、利潤率を上げるには不変資本の価値を下げるしかない。 労働の生産性が不変なら、不変資本は労働の吸収対象だけなのだから、問題となるのは不変資本の価値ではなく使用価値である
- 紡績工場で労働の生産性の向上が紡績自体にはなくても、綿花や紡績機械が安くなれば利潤は増加するが、それは労働の対象化に必要な労働の諸条件への出費の減少したことによるのである
- 機械の使用価値が同じ、言い換えれば労働の吸収量が同じでも、その価値(価格)が低下すれば費用は減少する(から利潤が増加する)。機械の不断の改良からも不変資本の節約が生じる
- 固定資本の消耗を減少させることはすべて、商品価格を低下させ、固定資本投下量を減少させる。機械の耐久度向上による労働減も同じ
- この種の節約は結合された労働者によって可能になり、大規模作業によってはじめて出来るものである
- 一つの産業部門での労働生産力の発展は、他の産業部門でのそれを発展させ、従ってまた費用を減らすから利潤率を上げる。 労働の生産性の発展は、精神的生産ことに自然科学とその応用に関連する。 鉄とか石炭とか機械とかの生産や建築術などでの労働の生産性の発展は、他の例えば繊維工業や農業で使われる生産手段の価値を減らすための条件として現れる
- 不変資本節約に特徴的なことは、ある一つの産業部門での利益率の上昇が他の部門での労働の生産力の発展のおかげであることである
- (労働の節約と生産性の向上)以外の利潤率の上昇方法は、不変資本の充用そのものの節約から生じる。 この節約は、不変資本の生産に充用される社会的労働の生産性の搾取ではなく、不変資本そのものの充用に基づくものである。
- 労働対象としての生産手段の役割はその価値にではなくて、ただ労働の吸収手段としての量および合目的性にある。 生産手段の量とは、生きている労働と結合させるために必要な技術的な量。 生産手段の合目的性の目的とは、利潤の増大。 これによって、生産手段の節約に対する資本家の熱狂ぶりも理解できる。
- 生産手段の節約は労働者の訓練や教育によっており、一部は資本家が結合労働者に課する規律にかかっている。 この規律は、今日では出来高払い賃金には無用なものとなっており、労働者自身の責任で仕事をするような社会状態においては無用なものである。 この熱狂ぶりは、生産要素の不純化(品質の低下)にも現れているが、さらに詐欺の重要な要素としても加わってくる。 ことにドイツの産業において決定的な役割を演じており、先ず良い見本を送っておいて後から悪い品を送れば、それで十分通用する。
- 不変資本充用の節約は、直接的生産的労働の社会的産物として現れる。 不変資本の節約は、資本家にとっては、労働者には無縁で絶対に関わりのない条件として現れる。 労働者が何の関心も持たない条件として現れる。 不変資本充用の節約は、資本に内在する力として、労働に内在する力(=価値創造力)に比べてずっと高い程度で現れる。
- 「このような考え方がそれほど奇妙なものと感ぜられなくなるのは、事実の外観がそれに合致するからであり、また、資本関係が労働者を彼自身の労働の実現の条件に対してまったく無関心にし外的に疎外し、それによって内的な関連を事実上被い隠してしまうからである。」
- 「第一に、不変資本を構成する生産手段は、ただ資本家の貨幣だけを代表しており、ただ資本家に関係があるだけであるが、他方、労働者は、彼が現実の生産過程で生産手段と接触するかぎりでは、ただ生産のための使用価値すなわち労働手段や労働材料としてのそれと関係を持つだけである。だから、この価値が減ったり増えたりすることは、彼と資本家との関係には何の関わりもないことであって、丁度、彼の加工するものが銅であるかそれとも鉄であるかという事情と同じようなものである。」
- 「第二に、この生産手段が資本主義的生産過程では同時に労働の搾取手段でもあるかぎりでは、この搾取手段が相対的に安くつこうが高くつこうが労働者にとってはどうでも良いのは、ちょうど馬を御する轡や手綱が高かろうと安かろうと馬にとってはどうでもよいようなものなのである。」
- 「最後に、<中略>自分の労働の社会的性格に対する労働者の関係、すなわち一つの共通な目的のための自分の労働と他人の労働との結合に対する関係は、自分にとって外的な力に対する関係なのである。この結合を実現するための条件は、彼にとっては他人の所有物であって、もし彼がその節約を強制されなければ、その浪費は彼にとってまったくどうでもよいことであろう。労働者自身のものである工場、たとえばロッチデールの工場(ユートピア的社会主義者たちの作った協同組合みたいなもの)では、話はまったく別である。」
- 「だから、<中略>社会的労働の一般的関係は、労働者にとってまったく無縁のものとして現れるのであって、じっさい、それは、ただ資本家だけがこの生産手段を買って自分のものとしているかぎり、ただ資本家だけにしかかかわりのないものである。<中略>この関係は、流通過程などによって幸いにも被い隠されているのである。」
- 「さらに、一方では狂暴な利潤欲が他方では商品の出来るだけ安い生産を強制する競争が、このような不変資本充用上の節約を資本主義的生産様式に特有なものとして現れさせ、従って資本家の機能として現れさせるのである。」
- 「資本主義的生産様式は、一方では社会的労働の生産諸力の発展を促進し、同時に他方では不変資本充用上の節約を促進するのである。」
- だが、不変資本充用の節約の影響は、労働者の経済的疎外や無関心だけには留まらず、彼の生命や健康の浪費を、彼の生存条件そのものを押し下げる
- 労働者は自分の生活の最大の部分を生産過程で過ごすのだから、生産過程の条件はその大きな部分が彼の現実の生活過程の条件なのであり、彼の生活条件なのであって、この生活条件の節約が利潤を高くするための方法になっているのである
- 過度労働、「すなわち労働者の役蓄への転化が資本の自己増殖すなわち剰余価値の生産を促進する方法」なのである
- 狭い不健康な場所へ労働者を詰め込むための建物の節約。 機械類の危険防止手段のための設備の節約。 例えば鉱山などで、健康上有害の生産過程に対する予防設備の節約
- 「労働者のために生産過程を人間らしいものにし快適なものにするような設備など何も無いと言うこと、それはいうまでもない。」
- 「およそ資本主義的生産は、ありとあらゆるけちくささにもかかわらず、人間材料についてはどこまでも浪費をこととする」
- 不変資本充用上の節約は、資本規模の拡大と集中によって成し遂げられるが、このことと個々の資本家が投入する不変資本の増大とを混同してはならない。というのは、不変資本の増大によって増大する労働量が生み出す利潤によって、投下資本の価値はこの利潤に対して相対的に低下するからである
- ここでは、この節の標題に関わる事例が語られるが、その内容は、節約の定量的な経済的評価がなされていると言うよりも、第一部の第8章「労働日」、第13章「機械と大工業」、第23章「資本主義的蓄積の一般法則」などで取り上げられている多くの悲惨な事例紹介の意図を継承して追加されたものと位置づけられる。)
- 「炭鉱。もっとも必要な出費を怠ること」。『鉱山および炭鉱における児童雇用に関する第一次報告書。1829年4月21日、102頁』からの引用→「炭鉱労働者間の競争のために、農村日雇い労働者の賃金よりもほんのわずかしか高くない賃金をもらって、ひどい危険と有害きわまる影響とに身をさらすことに甘んじている」
- イギリスの炭鉱での(労働災害)死亡に関する報告例。『炭鉱災害』に関する報告書(1862年2月6日)→1852年~61年の10年間に合計8466人が殺された。実際はもっと多いはずと報告書にも記載されている。それは下記のような実状があるから。
初期には、監督官の数が少なくて実情把握が出来なかった。監督官の権限が小さかった。不十分であっても監督制度が創設されてから(労働)災害数が非常に減少した。死亡の大部分は炭鉱所有者の意地汚い貪欲のせいである。例えば、彼らはしばしば炭鉱に一つの坑道しか作らせなかったから、換気が悪いだけではなく、事故でそれが塞がれば逃げ場がなかった。
- (ここで見えてくる)資本主義的生産の特質
個別的に考察すると、商品に対象化された労働は極度に倹約され、他のどんな生産様式に比べてもはるかにそれ以上に人間の浪費者である。この節約はすべて労働の社会的性格から生じるものだから、労働者の生命や健康の浪費を生み出すものは、労働の社会的性格にほかならない
- 「工場。ここで見られるのは、本来の工場でも労働者の安全や快適や健康のための予防策はことごとく抑圧されているということである。産業軍の死傷を数えあげる戦闘報告の大きな部分(毎年の工場報告書を見よ)はこれに起因している。空間や換気などの不十分も同様である。」
- 『工場監督官報告書。1855年10月』→水平軸の安全装置に関する法律規定に非常に多くの工場主が抵抗していることを嘆いている。その危険度は、しばしば殺人的である。 治安判事は安全装置の設置に対する工場主の抵抗を支持した。というのも彼らは無給であるだけでなく多くは自分自身が工場主やその友人であったから。 多くの工場で労働者に予告されずに機械の運転が開始された→身体に傷害
- 工場主たちはマンチェスターで工場立法に反対するための組合を結成し(1854年に設立された「工場法改正期生国民連盟」)、工場監督官を告発するための訴訟費用にあてる分担金の徴収などをしていた
- 1844年~54年にかけて、工場主はこの法律(改正工場法)を少しも顧慮しなかったから、工場監督官たちは、法律を守るように勧告したが、工場主たちは上記のような連盟を作って対抗した。 1855年4月、内務大臣サー・ジョージ・グレーが、政府は名目だけの安全設備でも満足するという妥協案を示した。しかし、連盟はこれすら拒絶した。 この節約の自由の侵害を、名誉をかけて守ろうとした著名な技士がいたり、あらゆるやり方で迫害されののしられた主席監督官がいたりしたが、 工場主たちはついに(イギリスの一番古い裁判所の1つで、1873年の改革までは、最高の刑事裁判所であると同時に一切の刑事事件についての最高の上訴審法廷であった)女王座裁判所で、1844年の法律は地上7フィート以上のところに設けられた水平軸については安全装置を規定していない、というような判例を獲得した。 最後に1856年、工場主の敗訴が殆どあり得ないものにする法律を通過させることに成功した。 その法案には、労働者が損害賠償を受けるには、高価な裁判費用がかかる普通裁判所に訴えなければならず、また、必要な専門家の鑑定に関する細かな規定が設けられていた
- その結果は(労働)災害の急激な増加であった。1858年5月から10月迄の半年間は前年同時期比較で21%増。1858年および1859年には、1845年および1846年比較で労働者数は20%増で(労働)災害数は29%減であったのは、主として新しい機械の採用によるものである
- 「屋内労働一般。空間の節約、従って建物の節約がどんなにひどく労働者を狭い場所に詰め込むことかは、誰でも知っている。」。呼吸器病の非常な増加と死亡率の増加を生み出した。『公衆衛生。第6次報告書。1863年』の例証。 この報告書は第一部でも取り上げた、ドクター・ジョン・サイモンが編纂した(→第一部では、工場労働者と農業労働者についての衣食住特に栄養状態調査の結果が主に述べられていた)。 1860年および1861年に衛生当局の調査を受けた屋内経営の諸産業に関する死亡統計は、農業地域に比べて工業地域において当該工場に従事している労働者の肺病死亡率が著しく高いことが見て取れる。更に全体の死亡率についてもそうである
- 当該工場での労働者区分は男女別、年齢別で区分し、工場地域はそれらを主産業とする地方で区別し、その地方で死亡した人の数はその地方の人口当たりで数えて、比較してある。比較基準は同条件での農協地域としている。工場や職種の種類別は、麦藁編業、レース製造業、手袋製造業、絹織物業、裁縫工、植字工、印刷工の事例が記載されている。工場や職種や地域の特性と死亡率の関係が推測されている( 詳細省略本文参照)
- 動力を発生させる機械(まだ蒸気機関のこと)、伝動設備(動力を目的に機械などに伝える装置)の性能の向上は、それらを設置するのに適した合理的な建物とともに、原材料(当時は主に石炭)、労賃、機械の消耗等々の節約となる(詳細省略)
- 『工場監督官報告書。1852年10月』に記載されている技師の手紙から、近年における蒸気機関の進歩が覗える。→主に1848年以来の四年間に、石炭の使用量は1/3位になり、同じ機関の馬力が二倍くらいになったことなどが分かる
- 『工場監督官報告書。1852年10月』に記載されているレッドグレーヴ氏の報告書から労働の節約状況が覗える。例えば、ある工場では、ほぼ同数の機械と労賃で、1840年10月の労働者数は600人(内200人が13才未満)であったが、現在では350人(同60人)となっている
- 『工場監督官報告書。1863年10月』に記載されている、一綿紡績業者の証言から、新しい機械の据え付けに適した建物の建設で、少なくとも労働を10%節約し、軸伝動(に必要な動力)で60から80%節約したことがわかる
- 資本主義的生産様式の発達につれて生産と消費との排泄物の利用範囲が拡張される
- 廃物の再利用。 原料が騰貴すれば廃物利用への刺激になる。再利用の条件は、廃物量が大量であること、機械の進歩(材料の物理的形状制限の撤廃)、化学の進歩(廃物自体が原料となることの発見)。廃物は産業に大きい影響を与えている
- 亜麻打ち工場からの大量の廃物が出るから亜麻の栽培が敬遠される(1863年10月の工場報告書)。 羊毛や綿屑の再生が盛んになった。ここ30年で毛織物屑の値段が10倍ほどになり、毛を痛めないで綿を取り除く方法が発見されてから綿毛交織物ぼろまで利用されるようになった(『工場監督官報告書』。1863年10月)。再生羊毛は1862年末には、イギリス産業の羊毛消費惣領の1/3を占めた。イギリスの絹織物業では、1839年~1862年に生糸の消費は少し減ったが絹屑の消費は二倍になった
- 廃物の使用のもっとも適切な実例は、化学工業である。以前は殆ど役に立たなかったコールタールからアニリン染料つまり茜染料を製造できるようにした(化学工業の飛躍がコールタールから始まるのは鉄鋼業がコークスを使い始めるようになったからだが、それはもう少し後の話))
- 生産の排泄物の再利用による節約と廃物を出すことの節約は区別が必要。廃物の節約は、機械や道具の良否にかかっている。例えばフランスではルイ14世の時代(1643年~1715年)に比べて、同量の穀物から1.5倍のパンが採れるようになった(『ローマ人の経済学』、パリ、1840年)
- 労働条件が大規模に充用されることで固定資本充用上の節約が可能になるのと同じように、発明の応用(現実への適用)も可能となる。発明の現実への適用は、結合労働者の経験によってはじめて発見され、明らかにされる
- 一般的労働と共同的労働とは区別されなければならない。一般的労働とは、すべての科学的労働、すべての発明である。それは生きている人々との協業を条件とし、過去の人々の労働の利用を条件としている。共同的労働は、諸個人の直接的協業を前提するするものである
- 以上のことは、新たに次のことにより確証される。新たな機械の最初の製造費とその再生産費との大きな相違(第一部第13章 機械と大工業、等参照)
- 「およそ新たな発明にもとづく事業を経営するための費用は、後にその廃墟の上にその遺骨から起こされる事業の場合に比べればずっと大きいということ。そのために、最初の企業家たちはたいてい破産してしまって、あとから現れて建物や機械などをもっと安く手に入れる企業家たちがはじめて栄えるということにもなる。それだから、人間精神の一般的労働や結合労働によるその社会的応用のすべての新たな発展から最大の利潤を引き出すものは、たいていは最もくだらない最もみじめな種類の貨幣資本家なのである。」(第二巻と合わせ読めば、最もくだらない最もみじめな種類ではない貨幣資本家も存在しうるような社会構造を構想することも、一つの選択肢であろう)
第一節 原料の価格変動 それが利潤率に及ぼす直接的影響
- 原料の価格変動があれば、剰余価値率が変わらなくても利潤率は変動する
p′=m′(v/C) C=c+v
(ここでcは商品内に移転して商品を構成する原料だけが取り上げられている。しかし、cには固定資本の償却分や、固定資本を使用するについて必要となるエネルギー源なども含まれる。ここでは、それらの影響については定性的に述べられているだけである)
- 以前(第一部)に剰余価値について述べたときには、必要労働は労働者の再生産に必要な分だけを考察していたが(m′=(剰余労働)/(必要労働))、利潤率の視点から見れば利潤がどのような生産部面で起こるかはどうでもよいことである
- 原料関税は、穀物関税(1815~1846年)と共に工業にとって重要な関心の対象であることがわかる。穀物関税は廃止され、綿花関税等も廃止されたが、事前に喧伝された資本家の言い分とは異なって、それらの恩恵は労働者には配分されなかった(事前に喧伝された10時間労働の法制化は賃下げの企てをもたらした)
- 競争が引き起こす価格変動は、原料だけではなく固定資産や商品についてもここでは考慮されていないが、実際には大きく影響する
- 労働生産力の変動は、商品価値に占める原料の価値比率を変動させると同時に、機械の損耗と機械に吸収される労働の割合を変動させるから、利潤率を変動させる
- この章(価格変動の影響)で研究する諸現象の十分な展開には、信用制度と世界市場での競争についての考察が必要だが、この節の表題に書いたような諸現象(資本の遊離と拘束)は、ここでも大略取り扱うことが出来る。資本の遊離と拘束は互いに関連し、利潤率にも利潤量(=剰余価値量)にも関連している。資本の遊離と拘束は、利潤の率だけでなく量までも、剰余価値の量や率の運動からは独立に増減出来るような外観を生み出す
- 「一方では資本の遊離と拘束、他方では増殖と減価、これらは別々な現象と見るべきものであろうか?」
- 資本の拘束と遊離。資本の拘束とは、生産をこれまでの規模で続けるには、生産物の総価値のうちから、再生産に必要な資本を再転化しなければならないこと。資本の遊離とは、資本の拘束により拘束されていた資本のうちで、拘束されずに自由に処分されることが出来るようになること
- 資本の増価と減価は、不変資本と可変資本において起こり、不変資本においては固定資本と流動資本に関係する。資本は流通部面と生産部面に分かれて存在し、それらは商品、貨幣、原料等の生産手段や半製品など様々な形態をとっている
- 問題を簡単にするために固定資本は除外して考察すると、原料(例えば綿花)の価格が上がれば、生産部面にある資本価値も流通部面にある資本価値も上がる(在庫原料、半製品(例えば糸)、倉庫に保管中或いは加工中の製品の価値、既に流通中の商品)。原料の価格上昇は、利潤率の低下を補って余りあることもあり得る。競争の原理に立ち入らなくても次のことは言える
- 原料の在庫が大きければ、原料価格騰貴の程度を緩和する
- 市場にある商品が市場を圧迫していれば、商品価格の程度を緩和する。原料の価格が下がれば利潤率は上がるが、価格の騰落が価値変動の結果ではなく信用制度や競争などの影響で生じても同様の現象が生じる
- 不変資本の増価は地代論なしに語れないのでここでは述べないが、減価についての一般的影響は述べることが出来る。不断の改良による既存の機械・設備の陳腐化。既存の機械・設備の使い方の改良がなされて、より安価に商品を再生産出来るようになることでの、機械・設備の減価
- 可変資本の増価・減価は、剰余価値の増減に結びついているが、他の事情、つまり資本の遊離と拘束とも結びついている。可変資本の増価は労働力の再生産に必要な生活手段の価値の上昇に、減価はその逆によるものである。労賃が下がれば、それまで労賃に投下されていた資本の一部が遊離する。労賃が上がれば、新たな資本にとっては剰余価値率や利潤率が下がるだけであるが、既に運転されている資本にとっては、生産を縮小しないためには資本を可変資本として拘束しなければならない
- 可変資本の遊離・拘束は、労賃が変わらなくても生じうる。生産力の発展によって、同じ不変資本に対してより少ない労働力で足る場合は可変資本の遊離が生じる。労働の生産力が減退して、同じ量の不変資本に対して多くの労働労働を要する場合は可変資本の拘束が生じる。可変資本と不変資本の合計は変わらずにその分割のみ変わる場合には資本の遊離・拘束は生じない
- 不変資本の遊離・拘束は、それを構成する諸要素の増価・減価の結果以外にも生じる。労働の生産力が向上して、より多くの不変資本を労働対象と出来る場合には不変資本は拘束される(例えば技術開発)。生産力が減退して、同じ労働力で同じだけの生産物を生産するのにより多くの生産手段を要する場合には不変資本が拘束される(例えば農業での自然条件変化)
- 不変資本、特に原料の急激な価格変動は生産過程の中断や破局さえをも生むことに繋がり、それは資本主義的生産が発展するほど烈しくなる
- 商品の再生産には、流通部面において貨幣が不変資本の素材要素に再転化されなければならないから、不変資本価格の変動幅と伝播速度が、この再転化許容範囲を超えると資本流通に破綻が生じる(信用制度まだ考慮されていない)。原料の場合が特に重要なのは、それが商品となった後に貨幣となり労賃等への支払となるから。原料が自然条件に依存する農産物のような場合は急激な価格変動が生じやすい。原料の価格変動は、それを消費する速度(生産速度)と原料供給速度の相対値が大きいほど急激となり、それは資本主義生産体制が進ほど烈しくなる。この価格上昇によって次のような現象が生じる。 価格上昇が運輸費増大を埋めあわせて、遠方から原料を運ぶようになり、したがって原料の生産が増やすことが出来るようになり、 以前は利用されていなかった代替品や廃品が利用されるようになる。 すべての商品の騰貴が続いて需要が減退したあと、原料価格の反動が起こる
- 原料価格の崩落は様々な結果を生むので、そのことはいろいろな観点から考察されねばならない。(経済力が弱いほど種々の価格変動幅が経営の許容範囲を超えて破綻する)。 原料生産の条件の良い国の独占が回復する「(1865年までの30年間)インドの綿花生産はアメリカの綿花生産が不足になれば増大し、それから突然また多かれ少なかれ引き続いて減退している。」。 原料が騰貴する時期には産業資本家は結束して生産調整をしようとするが、すぐに競争原理に立ち戻る(1848年の綿花価格騰貴のときのマンチェスターなど)。 原料生産部面においては、生産の改良は量だけではなく質(劣化)にも及ぶようにはなってくるが、実際は安定的な需給には至らない原料生産部面で発作的な拡大・縮小が起こる
- この資本主義的生産一般の精神は1861から1865年にかけて発生した綿花危機の事例から良く学び取ることが出来る。原料の供給が、比較的困難の状況ではあったとしても十分な場合において、原料価格が上昇したり、供給自体が全然無くなることもある(原料供給が困難な事情を利用して、利潤を取得しようとするから)。「商況はかなり良い。しかし、好況期と不況期との循環は機会の増加に連れて短縮され、またそれとともに原料の需要が増してくるにたがって商況の変動もいっそう頻繁に繰り返されるようになる。・・・すべての原料の需要供給状態は・・・・綿業に起きた多くの動揺を、また1857年秋のイギリスの羊毛市場の状況やそこから起きた事業恐慌を説明するするように思われる。」(『工場監督官報告書。1858年10月』
(以下、綿花恐慌の歴史を時系列的に記述されている。恐慌による急激な経済変動は、それに対する耐性が弱い人々により大きな不幸をもたらすから、放置しないで事前に社会的な対策を講じなければならないことが分かる)
■前史 1845-1860年
- 1845年。綿業の最盛期。非常に低い綿花価格
- 1846年。綿紡績工場主達からの(儲からなくなったという)苦情が始まる。「最近の六週間にいくつかの工場は、通例一日に12時間から8時間へと操業短縮を始めた。・・・綿花価格の非常な騰貴が現れたが・・・製品の価格騰貴が現れないだけではなく、・・・むしろその価格は綿花騰貴の前よりも低くなっている。最近四年間の綿紡績工場数の大増加は、いっぽうでは原料需要の激増を引き起こし、他方では市場への製品の供給の激増を引き起こしたに違いない。」(『工場監督官報告書。1846年10月』)。当時の産業拡張とそれに続いた不況とは綿業地方だけではなかった。例えばラッドフォードの梳(そ)毛(もう)工業地方、亜麻紡績業など。特に亜麻紡績業では工場数の増加に加えて一工場当たりの規模も拡大された
- 1847年。10月に貨幣恐慌。「最近の二週間か三週間の間は、疑いもなく貨幣恐慌が、絹紡績業者自身だけではなく、彼らの主な得意先である流行品製造業者にはもっと大きい影響を与えるようになった。・・・綿工業はは最近の三年間に約27%増大したことが分かる。その結果、綿花は概算で一ポンド当たり四ペンスから六ペンスに上がったが、糸の方は、供給が増加したおかげで、以前の価格をほんのわずか上回っているだけである。羊毛工場では1836年から拡張が始まった。それ以来羊毛工業はヨークシャでは40%拡張され・・・・。梳毛糸工業の拡張はもっと大きい。この部門では同じ期間に74%以上の拡張という計算になる。・・・・亜麻工業は1839年以来イングランドでは約25%、スコットランドでは22%、アイルランドでは殆ど90%の増大を示している。その結果は、同じ時に亜麻が不作だったために原料は一トン当たり10ポンド・スターリング上がったが、反対に糸の価格は一束当たり六ペンス下落したということだった。」(『工場監督官報告書。1846年10月』)
- 1848年。11月は活況であった。最後の数ヶ月以来商況は再び活気を呈してきた
- 1849年。5月と夏から10月迄活況だが・・・。「亜麻の価格は非常安くて、・・・工場主達な自分の事業を休まず続行した。羊毛工場主達はこの年のはじめしばらくは非常忙しかった。・・・しかし私が心配するのは、羊毛製品の委託販売がしばしば実際の需要の代わりをすると言うことであり・・・。数ヶ月の間は梳毛糸業はことに公共だった。」(『工場監督官報告書。1849年4月』)。「三年か四年前から工場地帯で起きている商況の変動を見れば、どこかに大きな各来意原因があることを認めざるを得ないように思われる。・・・そこでは、増加した機械の巨大な生産力が一つの新しい要素を加えたのではあるまいか?」(『工場監督官報告書。1849年4月』)。「この事業(ブラッドフォードやハリファックスを中心として群がっている梳毛糸織物製造業)は以前のどんな時期にも現在のような大きさには近づいたことさえなかった。・・・原料投機と、原料供給の見込みの不確実さとは、以前から綿工業では他のどの事業部門でよりも大きい攪乱と頻繁な動揺を引き起こしてきた。今ここには粗綿製品の在庫が堆積しており、それが小さい紡績業者達に不安を感じさせ、また既に損害を与えていて、そのために彼らのうちには操業を短縮している者も多い。」(『工場監督官報告書。1849年10月』)
- 1850年。4月好況、10月には綿工業においてひどい不況
- 1853年。4月は非常な繁栄。10月は綿工業の不況
- 1854年。商況は業種でばらつきがあり、需給・操業等で不規則性や混乱が発生。「羊毛工業は、活発ではなかったが、すべての工場で完全就業をさせた。綿工業も同様だった。梳毛糸業は、この年の前半を通じて全く不規則だった。・・・亜麻工業では、クリミア戦争(1853-1856年)のためにロシアからの亜麻や大麻の供給が減ったので、混乱がおきた。」(『工場監督官報告書。1854年4月』)
- 1859年。原料が高価で亜麻工業はまだ商況不振、他の工場は完全操業
- 861-1864年.アメリカの南北戦争。綿花飢饉。原料の欠乏と騰貴とによる生産過程中断の最大の実例
- 1860年4月。原料は高価だが、絹以外の繊維工業は、これまでの半年は非常に好況(『工場監督官報告書。1860年4月』)
- 1860年10月。原料は高価だが、木綿や羊毛や亜麻の地方の商況は良好。亜麻の需要を満たす原料不足解消のためのインド資源の開発が今までにはないほど期待される(『工場監督官報告書。1860年10月』)
- 1861年。1860年の過剰生産が不況をもたらし始めた。商況が不振で、綿紡績工場は操業短縮、絹工場の運転は部分的、繊維部門での原料価格が高く、大衆が買える商品価格を超えている(『工場監督官報告書。1861年4月』)。「1860年の過剰生産が世界市場で吸収されるまでには二年か三年かかった。」(『工場監督官報告書。1863年10月』)。1860年のはじめに東アジアで綿製品市場が不況に陥ったが、綿花封鎖の影響が感ぜられるよりも数ヶ月前から、(イギリスの)ブラックバーンではこの市場向けに設置されていた30,000台ほどの力織機を使う労働者需要が制限されたおかげで、在庫価値の壊滅的な減価が防止出来た。(『工場監督官報告書。1862年10月』)
- 1861年10月。次の冬には、不況による操業短縮が通例を超えると予測されていた。南北戦争によるアメリカとイギリスの物流停滞は別としても、インドやシナの市場の混乱、ここ三年ほどの生産の激増は、次の冬における作業時間短縮は必然的と予想させた(『工場監督官報告書。1861年10月』)
- 綿屑。東インド綿(スーラット)。労働者の賃金への影響。機械の改良。デンプンや鉱物での綿花の代用。この澱粉糊が労働者に及ぼす影響。細番手糸の紡績業者。工場主の欺瞞。 綿花が高いときには、糸は細く紡ぎ、大量の糊を付けた糸で作られた綿布が出回った。糊を付けるのは重量を稼ぐため。「確かな筋から聞いたところでは、輸出向けの普通のシャツ地のうちには、一巻きの重量が八ポンドでそのうち二3/4ポンドが糊だったものもあるとのことである。他の種類の織物には50%も糊が付けてあることも多い。」(『工場監督官報告書。1864年4月』)。糊の成分に、より比重が大きい(多分安くもある)粉末滑石や石膏が使われ始める。織物工根の健康被害の疑い(『工場監督官報告書。1863年10月』)。糸が脆くなって切れやすくなるため、糸の破損を修理する時間が生じ、その分織り手の賃金が下がる「・・・では、かんぜんに3分の1の作業時間短縮が実行されており、そして作業時間は更に毎週もっと短縮されてゆく。・・・この作業時間短縮と同時に、多くの部門では賃金の引き下げも行われている。」(『工場監督官報告書。1863年10月』)
- 1861年のはじめ。ランカシャで、賃下げに抗議して織物工のストライキが発生
- 1862年4月。不況が急激にひどくなってきた。マンチェスターでは、1848年の不況時には、失業率15%、短時間作業12%、全時間作業70%以上であったが、今回は、失業率15%、短時間作業35%、全時間作業45%(『工場監督官報告書。1862年4月』
- 1862年10月。事態は更に悪化してきた。ランカシャとチェシャ(この二地域で、連合王国の綿紡績工場の2/3以上を占める)の綿業では、失業率50.7%、制限就業率(短時間作業者だろう)38%、完全就業率(全時間作業者だろう)11.3%(『工場監督官報告書。1862年10月』)。 悪い綿糸(糊づけ綿糸)による作業時間の減少で、全時間労働者の賃金が半分なった例がある(『工場監督官報告書。1862年10月』)
- 863年。扶助委員会などが提供する低賃金の日雇い労働で賃金を補う程になる。「今年は完全就業出来る綿業労働者は半分よりあまり多くはないであろう。」(『工場監督官報告書。1863年4月』)。綿業労働者の多くは出来高払い賃金なので、悪い綿糸(東インド綿とか)の使用が機械の速度を落とし、1861年に比べて賃金が平均20%低下し、あるばあいは50%低下した(『工場監督官報告書。1863年4月』)。綿業労働者たちが地方官庁から受け取る、(低賃金を補うための)扶助の実態はみじめなのもであった。 作業は土木事業、排水工事、道路工事、石割作業、街路舗装等の苛酷労働。「つまり、労働者たちは餓死するかそれともブルジョアに最も有利などんな価格でも労働するかのどちらかを選ばなければならず、そのさい扶助委員会が工場主の番犬の役を勤めたというかぎりで、それは黄金時代だったのである。それと同時に工場主達は政府との暗黙の合意によって国外移住をできる限り妨げた。それは、労働者の血や肉として存在する自分たちの資本をいつでも用意しておくためでもあれば、労働者達から搾り取る家賃を確保しておくためでもあった。」。「扶助委員会はこの点では非常に厳格に振る舞った。仕事が提供されれば、それを提供された労働者は名簿から消され、したがってその仕事を受け取らざるを得なかった。彼らの稼ぎがただ名目だけのものでしかなく、しかも事後とは非常に重いだろうと言うことだった。」(『工場監督官報告書。1863年10月』)
- 1864年4月。工場労働者が不足し始める。土木事業法などのおかげで、土木事業の需要は非常に増えて賃金も上がり、工場主にとって潮時が現れ
- 労働者の賃金は著しく引き下げられただけではなく著しく変動した(『工場監督官報告書。1863年10月』)。工場主達が綿花と綿屑との種類や割合をける実験を絶えずやることによって稼ぎが85%減少したり、一、二週間のうちに50%-60%下がったりした
- 「1863年6月5日以降は、全労働者の平均就業が二日と七時間数分より多かった週間は一週間もない。」。 ある地区では、シー・アイランド綿からエジプト綿に変わったために、紡績工のたちは15%の間接的賃金引き下げを受けている
- インド綿と混合するために綿屑が多量に使用されている広大な一地区では、紡績工は5%の賃金減額を受け、おまけにスーラット綿や綿屑の加工によって20-30%の損をした。受け持ちの織機は一人当たり半分となり、織機一台当たりの稼ぎは1860年に比べて40%減少し、アメリカ綿での紡績工に対する罰金は4-7倍となった
- エジプト綿が東インド綿と混合されて使われていたある地区においては、原料品質の低下と、糸の撚りを強くするためにミュール紡績機の速度を落としたため、紡績工の平均賃金は30-40%程度減少した。このような場合には、通常の時期ならば賃金表にしたがって特別支給がなされたはずであった
- 工場主から住む家を借りている労働者は家賃を払っていた(操業短縮が行われ、貸家自体の価格は25-50%低下の実状のもとで)。工場主は労働者の移住にはもちろん反対であった(労働者は生きた資産であって、家賃が滞納されても将来の支払を見込んで移住には反対)
<既に述べられていることの繰り返しなので省略する>
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