2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)目次 凡例 注記

『資本論』カール・マルクス著(第一巻 岡崎次郎訳 大月文庫)

【目 次】
第一巻(第一部) 資本の生産過程
第一篇 商品と貨幣
第一章 商品
第二章 交換過程
第三章 貨幣または商品流通
第二篇 貨幣の資本への転化
第四章 貨幣の資本への転化
第三篇 絶対的剰余価値の生産
第五章 労働過程と価値増殖過程
第六章 不変資本と可変資本
第七章 剰余価値率
第八章 労働日
第九章 剰余価値率と剰余価値量
 第四篇 相対的剰余価値の生産
第十章 相対的剰余価値の概念
第十一章 協業
第十二章 分業とマニュファクチュア
第十三章 機械と大工業
第五篇 絶対的及び相対的剰余価値の生産
第十四章 絶対的及び相対的剰余価値
第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
第十六章 剰余価値率を表す種々の定式
第六篇 労賃
第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
第十八章 時間賃金
第十九章 出来高賃金
第二十章 労賃の国民的相違
第七篇 資本の蓄積過程
第二十一章 単純再生産
第二十二章 剰余価値の資本への転化
第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則
第二十四章 いわゆる本源的蓄積
第二十五章 近代植民理論
第一巻終の目次おわり
【注記】

●原則「 」は本文引用、( )は小生補記です。ブログには、各章ごとに分けて25回(25章分)掲載しました。脚注は各章の末に掲載してあります。
●この第1巻だけが、すべてマルクス自身が叙述し、また出版に際して校正したものだそうです。だから、第1巻だけをこのブログに掲載する予定です(予定を変更して、第二巻以降は一巻との重複部を除き、かつ簡易な内容として別のブログ(爺~じの「本の要約・メモ」)に掲載することにしました)。

資本論(第1巻)第7篇 資本の蓄積過程 第25章 近代植民理論

第二十五章 近代植民理論




【感想】本国とは歴史の経験が違っている植民地であるからこそ、そこで生じている経
あゆみ
済状況が、己の理論の正しさとそれまでの経済学の誤りを浮き彫りにしている、というマルクスの言い分はなかなか説得力があるなー。

ここで問題にされている植民地とは、自由な移住者によって植民される処女地のことで、例えば今日の(マルクスの時代の)アメリカ合衆国などのことである。
経済学は二つの異なった私有について原理的な混同をしている。ひとつは生産者自身の労働に基づく私有で、もう一つは他人の労働の搾取に基づく私有である。後者は前者の正反対であるだけではなく、ただ前者の墳墓の上でのみ成長するものである。
資本主義的支配体制が完成した世界では、国民的生産全体を直接に従属させている。この世界においては、事態が経済学のイデオロギーを非難すればするほど、経済学者は前資本主義的世界の法律概念や所有観念を適用しようとする[1]
植民地での資本主義的支配体制は、実際、自分自身を富ませる生産者という障害にぶつかる。この時に、資本家の背後に本国の権力があるところでは、資本家は、自分の労働にもとづく生産・取得様式を暴力によって一掃しようとする。経済学者は、本国においてそれを説明する任務を負わされている利害関係、つまり資本主義的生産様式が、実は他人の労働の搾取に基づいているのでなくて、それとは反対に、自分の労働の基づいているものであると説明する任務を負わされた利害関係が、「その同じ利害関係が、植民地では彼(=経済学者)をそそのかして「事情を打ち明け」させ、二つの生産様式の対立を声高く宣言させるのである。」
(経済学者は利害関係の説明を行うのだが、その説明は植民地と本国とでは矛盾しており、その矛盾が二つの生産様式、つまり本章で前述した二つの私有に基づく二つの生産様式、の対立を声高く宣言させている。つまり、資本主義的支配体制が内包する矛盾は、そのような体制が整っていない植民地において明確な現実として暴露されているのだが、そのことを自覚できない経済学者が、二つの生産様式の対立や回避策などを言えば言うほど、自ら無自覚的に資本主義的諸関係についての本質を暴露することになる)。
EG・ウェークフィールド[2]の大きな功績は、植民地で本国の資本主義的関係についての真理を発見したことである。彼の植民理論は、植民地での賃金労働者の製造に努めるものであった。彼はこの理論を組織的植民と呼んでいる。
ウェークフィールドの第一の発見は、資本は物ではなくて、物によって媒介された人と人との間の社会的関係だと言うことである。彼の嘆き話によれば、ピール氏というイギリス人が、5万ポンドの物資と男女と子供を併せて3千人を伴いオーストラリアに行ってしまったが、「ピール氏には、彼のために寝床を用意したり河から水を汲んだりしてくれる召使いは一人もいなかった。」
これから述べるウェークフィールドの諸意見を理解するために、二つの前置きが語られる。一つは、資本の概念の相違であり、もう一つは資本の蓄積に対する理解の相違である。
資本というのは、生産手段や生活手段の素材的実体とその所有という関係だけではなくて、それらが労働者の搾取や支配という関係が満たされ場合にのみ成立するのであるが、ウェークフィールドは経済学者一般と同じく、資本主義的な魂と素材的実体とを区別することが出来ず、生産手段や生活手段が例え資本の正反対物であってもそれらをみんな資本と名付けている。ウェークフィールドはそれに加えて、独立な自営労働者の個人的所有物としての生産手段が分散されている事態を、まるで封建的法学者が貨幣関係に封建的な法律的レッテルを貼るように[3]、資本の均分と呼んでいる。
資本主義的蓄積も資本主義的生産様式も、労働者が自分自身で富を蓄積できる限り、あるいは賃金労働者階級がない限り、あるいは労働条件の収奪がない限り、あるいは資本と賃労働の分離がない限り、不可能である。ウェークフィールドは、この資本の蓄積を可能にしたのは労働条件の収奪ではなくて、独特な種類の社会契約であるという。この社会契約はアダムの時代から人類の念頭に浮かんでいたもので、資本の所有者と労働の所有者とに分割されることを自由意志によって了解していることに基づいている、というのである。
資本主義的蓄積も資本主義的生産様式も、民衆からの土地の収奪、工業からの農業の分離や農村家内工業の絶滅によって発生する国内市場、賃金労働者の再生産、賃金の変動が資本主義的搾取の適合する限度内に制限されること、そして最後に資本家への労働者の社会的従属あるいは絶対的従属関係、を基礎としている。しかし、自由な植民地ではそれらのすべてが欠けている。「ウェークフィールドが、植民地には賃金労働者の従属関係も従属感情もないということを嘆いているのも、少しも不思議ではない。彼の弟子のメリヴェールは次のように言っている。古い文明国では労働者は、自由であるとはいえ、自然法則的に資本家に従属している。だから植民地ではこの従属が人工の手段によってつくりだされなければならないのである、と。
ウェークフィールドに言わせれば、植民地におけるこのような弊害の結果は、生産者と国民財産との「分散の野蛮な制度」ということになる。無数の自営的所有者のあいだへの生産手段の分散は、資本の集中を破壊し結合労働の基礎を破壊するからである。
「では、植民地の反資本主義的な癌腫はどのようにすれば治るだろうか?」政府には一石二鳥の方法がある(とウェークフィールドは考えた)。それは、一方では、政府の力で処女地に人為的な価格を付けて移住者に販売し、他方では、その利益を資本家に提供するための貧民を輸入する費用に当てることである。ただし、その土地の価格は、移住者が独立農民になれるだけの額を稼ぐのに必要な時間よりも長い賃労働の期間を必要とすると同時に、その賃金は、代わりの労働者達がやってくるまでは独立農民になることを妨げる程度には高いものでなければならないし、その土地の販売額の増加は貧民の輸入増に比例するようにしなければならない。つまり(当然ながら移住者と貧民の労働搾取を政府の政策として実施するから)価格の設定も貧民の輸入も神聖な需要供給の法則を侵害することになる。「こういう事情のもとでは、最善の世界では万事が最善の状態にあるということになるであろう。これが「組織的植民」の大きな秘密なのである。」
(この一石二鳥の方法を裏から見れば次のようになる)「労働者は、まず資本家さまのためにもっと多くの労働者を搾取することができるように「資本」をつくってやっておいて、それから労働市場に自分の「身代わり」を立てなければならない。そして、この身代わりを、政府は、この労働者の費用でそれまで彼の主人だった資本家のために海の向こうから送ってよこすのである。」
このウェークフィールド氏の処方箋による植民地用「本源的蓄積」方法はイギリス政府が多年にわたって実行してきたものだが、それは失敗であった。移民の流れは、ただイギリスの植民地から合衆国の方にその方向を変えただけであった。そしてその間に、ヨーロッパでの資本主義的生産の進展は、ウェークフィールド氏の処方を不要なものとしてしまった。合衆国では、一方では東部に向けて追い出される移民の流れが西部へと流れる量を上回ることで過剰労働人口が生み出され、他方では南北戦争がもたらした莫大な国債や租税の重圧や金融貴族の製造や鉄道・鉱山開発会社への公有地の贈与など、要するに急激な資本の集中が出現した。アメリカにおける資本主義的生産は急激に進展しているのである。オーストラリアでは、金鉱やイギリス商品の輸入などによって既に十分な「相対的過剰労働人口」を生み出している。
「ただ一つわれわれの関心を引くものは、新しい世界で古い世界の経済学によって発見されて声高く告げ知らされたあの秘密、すなわち、資本主義的生産・蓄積様式は、従ってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく私有の絶滅、すなわち労働者の収奪を条件とするということである。」

第一巻 完





[1] この適用例はここではあまり語られていない
[2] イギリスの政治家、植民政策家、経済学者(17961852)で、アダム・スミスの『国富論』の編集者。彼の考えについては、本章では殆ど『イギリスとアメリカ』(ロンドン、1833年、EG・ウェークフィールド)から引用されている
[3] 封建的法学者が貨幣関係に貼る封建的なレッテルとは何か?

資本論(第1巻)第7篇 資本の蓄積過程 第24章 いわゆる本源的蓄積

第二十四章 いわゆる本源的蓄積

【感想】富の搾取の本質は労働支配であるから、資本主義的蓄積の前史としての本源的蓄積も他人の支配に基づくということになるのだが、その歴史の実に悲惨なこと。それに比べれば19世紀のヨーロッパに花咲いた資本主義的生産様式の社会はまだマシと考えるのは誤りであって、事実はもっと悲惨ですらある。なによりそこでの主役(搾取するもの)は個々の人としては見えてこない、つまり血の通わない「資本」であり、更に前史の不自由から解放された(搾取される人も)自由の形式を取引の対等関係として持っているので、具体的に敵対する他者を意識しにくのだ。だから始末が悪い。結末は歴史的必然性によって私有の否定の否定が起こり、従ってはじめの私有はみんなの所有となるような新しい社会が到来することを暗示している。この最後のくだりは素晴らしいマルクスの推定、あるいは理念にすぎない。率直に言えば、この最後のくだりは資本論第一巻のいわば付録のようなものだと捉える方が良いのではと思う。なぜなら、本書での一番大事な部分は、相反して対立する性質を抱えている人の欲望を根底に据えた、経済と社会に関する本質的洞察であると思えるからである。

第一節 本源的蓄積の秘密
資本主義的生産形態おける生産と蓄積との全運動は一つの悪循環に見える。この悪循環から逃げ出すためには、資本主義的蓄積に先行する「本源的」蓄積(=アダム・スミスの言う「先行的蓄積」)を想定するほかはない[1]
本源的蓄積は神学の原罪に似ている。「神学上の原罪の伝説は、われわれに、どうして人間が額に汗して食うように定められたかを語ってくれるのであるが、経済学上の原罪の物語は、どうして少しもそんなことをする必要のない人々がいるのかを明かしてくれるのである。」ひとたび所有権の問題が舞台に現れれば、経済学上の原罪の物語というこの子供じみた立場は、唯一の正しい立場として、これを守ることが神聖な義務となる。(このような)おだやかな経済学では正義と労働が唯一の致富手段であるような牧歌調がみなぎっているが、現実の歴史では暴力が大きな役割を演じて来た。「本源的蓄積の諸方法は、他のありとあらゆるものではあっても、どうしても牧歌的ではないのである。」
(復習してみれば分かるように)本源的蓄積は、生産者と生産手段との歴史的分離過程において創り出されてきたものであるが、歴史を辿れば、資本主義社会の経済構造は封建社会の経済構造から生まれてきたのであって、後者の解体が前者の諸要素を解き放したのだと言える。
生産者たちを賃金労働者に転化させる歴史的運動は、一面では農奴的隷属や同職組合の強制からの解放として現れるが、他面ではすべての生産手段を奪われて、封建的な諸制度によって与えられていた生存の保証を奪われて、自分自身の自由な売り手となった人々からの、収奪として現れる。
産業資本家たちは、同職組合の手工業親方だけでなく、富の源泉を握っている封建領主も駆逐しなければならなかった。「産業の騎士たちが剣の騎士たちを駆逐する」ということは、ただ自分たちの全く与り知らない諸事件を利用することによってのみ成就された。
賃金労働者及び資本家を生み出す発展の出発点は、労働者の隷属状態であり、そこからの前進はこの隷属の形態変化、すなわち封建的搾取から資本主義的搾取への転化にあった。資本主義的生産の萌芽は既に1415世紀の地中海沿岸都市において散在的に見られるが、資本主義時代が始まるのは、やっと16世紀からのことである。
本源的蓄積の歴史の中でもとりわけ画期的なものは、人間の大群が突然暴力的にその生活維持手段から引きはなされて無保護なプロレタリアとして労働市場に投げ出される瞬間である。農民からの土地収奪は、この全過程の基礎をなしている。この収奪の歴史が典型的な形で現れるのはただイギリスだけであって、それだからこそわれわれもイギリスを例にとるのである。

第二節 農村住民からの土地の収奪
結論は、この節の最後の文章に集約されている。「・・・横領と容赦ない暴行とによって行われた封建的所有や氏族的所有の近代的私有への転化、これらはみなそれぞれ本源的蓄積の牧歌的な方法だった。それらは、資本主義的農業のために領域を占領し、土地を資本に合体させ、都市工業のためにそれが必要とする無保護なプロレタリアートの供給をつくりだしたのである。」
以下は、上記の結論に至るまでの歴史、マルクスの歴史観となっている。要点をなるべく箇条書きにしてまとめた。
l  イギリスの農奴制は14世紀の末頃にはなくなっていた。15世紀の大半は、人口の非常に多数[2]が、4エーカー以上の耕作地と小屋とをあてがわれ、家畜の放牧や燃料となる木や泥炭を供給する共同地の用益権を与えられた自営農民であった。理由は以下。
Ø  封建的な生産は、家臣への土地の分割で成り立ち、封建領主の権力は家臣の数に依存し、家臣の数は自営農民の数にかかっていた。
Ø  ノルマン人による征服(1066年)の後も、イギリスの土地は一面にばらまかれていた小農民と、点在するいくらか大きい領主の直轄地及び都市からなっていた。
Ø  マルクスは注で、「日本は、土地所有の封建的な組織と発達した小農民経営とを持っていた」とのべているがその出典は記載されておらず、理解の程度も不明。
l  15世紀の最後の1/3から16世紀の最初の数十年間に、資本主義的生産様式の基礎となる序曲が始まった。
Ø  封建家臣団の解体が、労働者の大群が市場に投げ出される契機となったが、なかでも大封建領主による農民からの暴力的土地の収奪による影響が最も大きかった。
Ø  羊毛マニュファクチュアの興隆と羊毛価格が上昇する中、封建戦争による古い貴族の衰退と、貨幣が権力となった時代の子であった新しい貴族が台頭してきた。
Ø  王権は臣民強化の目的で、農民の収奪に抗する法(例えばヘンリー七世の1489年の立法)をつくるが効果はなかった。このような王権の努力は、資本主義体制の要求とは逆であった(だからそのような王権の立法は効果を持たなかった)。
l  15世紀末から18世紀前半くらいまでは、統治者による農民の住居と土地の維持努力がなされたが、19世紀半ばにはそれもなくなった(19世紀は、16世紀半ばから18世紀の最後の1/3期までの本来のマニュファクチュア時代から、大工業の時代に移っていた)。
l  16世紀には宗教改革が起こったが、その結果として封建的所有者の一大部分であった教会領の横領が始まった。
Ø  横領するのは、国王の寵臣、投機的借地農業者や都市ブルジョワ。横領されるのは、修道院の住人から旧来の世襲領民。
Ø  その結果、領民は貧困農民になり、土地は集約され、更に古来より貧困農民に法律で保証されていた教会十分の一税の分配を受ける権利も没収された。
Ø  16世紀末には、エリザベス女王により救貧税が立法され(この理法により貧民の存在が公認されたことになる)、チャールズ一世でこれが永久化されたが、1834年になって一層厳格な形(要するに資本家に好都合な形で)が与えられた。
l  17世紀の最後の数十年間にも借地農業者の階級よりも多かったヨーマンリ(独立農民層)は1750年頃には殆どなくなった。
l  スチュアート王朝復位(1660年。クロムウェル死後の王政復古)のもとで、土地所有者は法律によって土地の横領を遂行し封建的土地制度を廃止した。
Ø  国家に対する土地の義務を放棄し、その償いに農民などへ課税した(税の一部を国家へ納めることで)
Ø  土地の封建的権利の近代的私有権への転換が起こり、(農民を土地に縛り付ける)定住関係諸法律の要求がなされた。
l  1688年の名誉革命は、地主的及び資本家的利殖者たちを支配者の地位に就け、彼らは国有地の横領を巨大な規模で遂行した。
Ø  国有地の横領は、慣習と法の無視の下、贈与、捨て値売却、または直接的に行われた。これらの土地は、共和革命(ピューリタン革命)後も残っていた教会領の盗奪地と一緒に今日の王侯的所領の基礎をなしている。
Ø  ブルジョワ的資本家の目的は、土地の純粋な取引への転化、農業的大経営領域の拡大、農村からの無保護な労働力の供給であった。
l  共同地は国有地とは異なり一つのゲルマン的制度であった。この共同地の暴力的横領が15世紀末に始まった。
Ø  16世紀までは個人的暴行として行われ、これに対して立法は150年にわたって抗したが無駄であった。
Ø  18世紀になると、法律自体が共有地の盗奪手段となった(共同地囲い込み法案)。国有地の横領と並んで共同地の組織的横領は、大借地農場の膨張と、農村民を工業プロレタリアートとして「遊離させる」ことを助長した。
l  18世紀には、共同地の横領とそれに伴う農業革命(耕地の集約、耕地の牧場化、土地の囲い込み)とは農業労働者を極めて急激に貧困へと追いやった。
Ø  国の富と人民の貧との同一性を19世紀と同じ程度には把握していなかったから、「共同地の囲い込み」に関する非常に激しい論戦が見られ、そこから当時の状況が覗える(生き生きとした内容の文献例がいくつか挙げられている)。
Ø  要するに、囲い込みによって、農民は自分の土地から追い出され、大借地農場の独占が生活手段の価格を高め、したがって都市や工場の賃金労働者となった人々の生活はどんどん悪化した。イーデン自身の言うところによっても、1765年から1780年までに彼らの賃金は、公共の貧民救済により補充されるようになった[3]
Ø  だがこの状況に対して、サー・FM・イーデンは「耕地と牧地との適当な割合が設けられなければならなかった。・・・最後に耕地1エーカーにたいして牧地3エーカーという適当な割合が出来上がった。」と述べている。マルクスはイーデンを、第23章第一節で、「アダム・スミスの弟子の中で18世紀になにか有意義な仕事をしたただ一人の人である」と評価しているが、ここでは逆に脚注に記したような強烈な皮肉[4]で評価している。
l  19世紀には、農耕者と共同地との関連の記憶さえなくなってしまった。農耕者から土地を取り上げる最後の大掛かりな収奪過程は、いわゆる地所の清掃(土地からの人間の掃き捨て)である。「地所の清掃」が何を意味するのかは、スコットランド高地ではじめて知ることが出来る。
Ø  スコットランド高地のケルト人は氏族からなっていて、その首長(=グレートマン)は王位僭称者反乱(174546年)の後に、それまでこの地の名目的所有権を私有権に変え、氏族員たちは公然の暴力で追い払われた。
Ø  18世紀には農村から追い出されたゲール人(=ケルト人の一派)は、同時に国外移住も禁止されたが、それは、彼らを無理矢理にグラスゴーやその他の工業都市に追い込むためであった。
Ø  19世紀に支配的であった方法の実例。(スコットランドの)サザランド女候は、1814年から1820年にかけて、すでに15,000人に減っていた全州の住民を組織的に追い立てて根絶やしにし、いつともない昔から氏族のものとなっていた794,000エーカーの土地を横領した。イギリスの兵士がその執行を命じられた。女候は横領した土地を29に分割してすべて賃貸牧羊場にし、イングランド人の農僕をそこに一家族ずつ住まわせた。追い出された土着民の一部(3,000人程)には海浜の荒れ地6,000エーカーをあてがい地代を徴収した。
Ø  海浜に追い出された土着民(ゲール人)は、漁業だけでは生きていけず、水陸合わせても半人分の暮らししか出来なかった。それに加えて首長たちは、海浜をロンドンの魚商人たちに賃貸したので、ゲール人は二度目の追い出しにあった。
Ø  最後に牧羊場の一部分は狩猟場に再転化された。「(スコットランドの)高地の地主たちの間に進行しているこの運動は、一部は流行や貴族的な欲情や狩猟道楽などのせいであるが、他面では彼らはもっぱら利潤に目をつけて鹿の取引を営むのである。・・・狩猟場を求める道楽者は自分の財布の大きさが許すかぎりの値をつける。」[5]
第三節 十八世紀世紀末以後の被収奪者にたいする血の立法 労賃引き下げのための諸法律
十五世紀末に資本主義的生産様式の基礎となる序曲が始まって以来、十六世紀の全体を通じて、西ヨーロッパ全体にわたって浮浪に対する血の立法が行われた。
なぜか?マルクスは言う「封建家臣団の解体や継続的な暴力的な土地収奪によって追い払われた人々、このような無保護なプロレタリアートは、それが生み出されたのと同じような速さでは、新たに起きてくるマニュファクチュアによって吸収されることが出来なかった。他方、自分たちの歩き慣れた生活の軌道から突然投げ出された人々も、にわかに新しい状態の規律に慣れることは出来なかった。彼らは群をなして乞食になり、盗賊になり、浮浪人になった。それは、一部は性向からでもあったが、たいていは事情の強制によるものだった。こういうわけで、十五世紀の末と十六世紀の全体とを通じて、西ヨーロッパ全体にわたって浮浪に対する血の立法が行われたのである。今日の労働者階級の父祖たちは、まず第一に、彼らに強要された浮浪民化と窮民化とに対する罰を受けたのである。立法は彼らを「自由意志による」犯罪者として取り扱った。そして、もはや存在しない古い諸関係のもとで労働を続けるかどうかも彼らの善意によって定まるものと想定したのである。」
以下は関連する立法についての、主としてイギリスの歴史である。
l  この立法はヘンリ七世の治下で始まった。ヘンリ八世の時代には、強健な浮浪人にはむち打ちと拘禁が与えられ(1530年)、後に累犯2回目でむち打ちと半分の耳そぎ、3回目で死刑となった。
l  エドワード六世。1547年の一法規は、労働拒否者は告発者の奴隷となり、14日間仕事を離れると終身奴隷として額か背中にS字の焼き付け、逃亡3回目には国家の反逆者として死刑、など。
l  エリザベス一世。1572年。鑑札を持っていない14歳以上の乞食は、二年間彼らを使おうとする人がいなければ、むち打ちと左耳たぶに焼き印。再犯の場合には18歳以上なら、二年間彼らを使おうとする人がなければ死刑、3回目は国家の反逆者として死刑、など。1597年にも類似の法規がある。
l  ジェームズ一世(在位1567-1625年)小治安裁判所の治安判事がむち打ちと期限つき投獄の権限を持ち、矯正不可能な危険浮浪者は左肩にR字の焼き印と強制労働で再犯は死刑、など。これらの規定は十八世紀初期まで有効。
l  フランスにも類似法規があった(十七世紀中頃)。ルイ十六世(1754年生まれ、1793年刑死)の初期でも、16歳から60歳までの強健な無職の男はすべてガリー船に送られることになっていた。
「こうして、暴力的に土地を収奪され追い払われ浮浪人にされた農村民は、奇怪な恐ろしい法律によって、賃労働の制度に必要な訓練を受けるためにむち打たれ、焼き印を押され、拷問されたのである。」
完成した資本主義的生産過程の組織では、経済外的な直接的な強力は例外的でしかないが、経済的諸関係の無言の強制が労働者に対する資本家の支配を確定する。そして事態が普通に進行するかぎり、労働者は「生産の自然法則」[6]に従っている状態が実現している。しかし、資本主義的生産の歴史的生成期にはそうはいかなかった。「興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を「調節する」ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押し込んでおくために、労働日を延長して労働者自身を(資本家にとって)正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する。これこそは、いわゆる本源的蓄積の一つの本質的な契機なのである。」
以下は労働法に関連する立法についての、主としてイギリスの歴史である。
l  賃労働に関する立法は、もともと労働者の搾取を狙ったものであった。
l  イギリスでは1349年のエドワード三世の労働法から始まる。フランスでも同時進行的にジャン王の名で布告された1350年の勅令である。これらの労働法が労働日の延長を強制するという点については既に第8章(労働日)で述べた。
l  労働者の団結が禁止される立法は十四世紀から始まり、団結禁止法が廃止された1825年まで重罪であった。
l  1349年の労働法やそれに続く諸法では、労賃の最高限度は国家により規定されるが(違反は違法だから罰せられる)最低限はけっして規定されない。
l  十六世紀には労働者の状態は非常に悪化した。名目賃金は上がり貨幣は減価し物価は上昇し、従って実質の賃金は低下した。それでも賃金切りさげのための諸法が存続し、治安判事は、賃金を変更する権限も持ち、労働者の団結権を禁止する程度も拡大した。
l  本来のマニュファクチュア時代(16C中頃から18C後半まで)には、資本主義生産様式は労賃の上限法規制が不要なほどに強くなっていたが、賃労働に関する従来からの立法の精神は継続された(400年も!)。
l  1796年に、農業日雇労働者のための法定最低賃金が下院に提案され、1813年に賃金規制(上限の)に関する諸法律が廃止された。救貧税が行われている状態での賃金規制法(上限の)は滑稽ですらあったのである。だが、契約や期限付き解約予告などに関する労働法規は今日でも公平ではない。
l  「団結を禁止する残酷な諸法律は、1825年にプロレタリアートの威嚇的態度[7]の前に屈した。といっても、屈したのはただ一部分だけだった。古い諸法規のいくつかの美しい残片は、1859年になってやっとなくなった。最後に、1871629日の法律は、労働組合の法的承認によってこの階級立法の最後の痕跡を消し去るのだと称した。ところが、同じ日付の一立法は、事実上、以前の状態を新しい形で再現するものだった。」
l  「要するに、イギリスの議会は、まったく嫌々ながら民衆の圧力に屈して、ストライキや労働組合を禁圧する法律を放棄したのであるが、それは、すでにこの議会そのものが、五世紀の長きにわたって、労働者に対抗する恒常的な資本家組合の地位を恥知らずの利己主義で維持してきてからあとのことだったのである。」
l  フランスにおいては、革命の後に労働者がやっと手に入れたばかりの団結権が取り上げられた。「1791614日の布告によって、ブルジョアジーは、いっさいの労働者団結を「自由と人権宣言との侵害」だと宣言し、・・・処罰されるべきものとした。・・・この法律は、いくつもの革命や王朝交換を乗り超えて存続した。・・・それは最近やっと刑法典から抹消されたばかりである。」(マルクスはこの立法をブルジョワ的クーデターと言う)
l  「このブルジョワ的クーデターの口実以上に特徴的なものはない。」その口実とは、(ピュシェおよびルー『議会史』、第10巻、193195ページの所々に書かれているように)労働者の団結権は「自分たちの以前の親方である今の企業家の自由」を侵害し、フランス憲法によって廃止された同職組合の再建だからである、というものである。

第四節 資本家的借地農業者の生成
もともと資本家はどこから出てきただろうか。農村民の収奪によって大きな土地所有者がつくられても、それだけでは資本家の出現を説明できない。彼らは幾世紀もの緩慢な過程を経て借地農業者から出現してきたのだ。その歴史的経緯は以下のようなものである。
l  農奴も自由な小土地所有者も様々な所有関係に置かれていた。したがって様々な経済的諸条件のもとで解放されていった。
l  イギリスでは、最初の借地農業者の形態は、自分も農奴であったベリーフ(領主の土地管理人)であった。ベリーフは地主と共同で農業資本を提供する半借地農業者、メテイェになる。地主とメテイェは契約で定めた割合で総生産物を分け合う。この形態はイギリスでは急速になくなって、本来の借地農業者となっていく。
l  本来の借地農業者とは、自身の資本を賃金労働者の使用によって増殖し、剰余生産物の一部を貨幣か現物で地主に地代として支払う農業者。十五世紀の最後の三分の一期の農業革命は、十六世紀のほとんどにわたり続き、この間に農村民が貧しくなるのと同じ速さで借地農業者が富んでいった。
l  十六世紀には借地農業者が富むための決定的に重要な契機が加わった。それは貨幣価値の低落と物価の上昇による実質賃金の低下と、契約期間が長く(99年とか)しかも地代の改訂のない借地契約であった。
l  十六世紀末のイギリスには富裕な「資本家借地農業者」という一階級があった。

第五節 農業革命の工業への反作用 産業資本のための国内市場の形成
農村民の収奪と駆逐により耕作者の数が減少しても、土地は以前と同量以上に多量の生産物を生み出した。それは土地の所有関係の革命が耕作方法の改良や協業の大規模化や生産手段の集積などを伴っていたからであり、また、農村賃金労働者の労働の強度が高められたからであるが、それだけではなく、商品の市場ができたからである。つまり、彼らが自分自身のために生産していた食料やそのための生産手段や生産材料も、貨幣で購入することになったからである。
「農村民の一部分が遊離させられるのにつれて、この部分の以前の食料もまた遊離させられるのである。この食料は今や可変資本の素材的要素に転化する。・・・国内で生産される農産工業原料についても、事情は生産手段の場合と同じだった。それは不変資本の一つの要素に転化した。」
「農村民の一部分を収奪し追い出すことは、労働者と一緒に彼らの生活手段や労働材料をも産業資本のために遊離させるだけではなく、それはまた国内市場をつくりだすのである。」
「・・・これらの原料や生活手段は今では商品になっている。大借地農業者がそれを売るのであり。彼はマニュファクチュアに自分の市場を見出すのである。」
「このようにして、以前の自営農民の収奪や彼らの生産手段からの分離と並んで、農村副業の破壊、マニュファクチュアと農業との分離過程が進行する。そして、ただ農村家内工業の破壊だけが、一国の国内市場に、資本主義生産様式の必要とする広さと強固な存立とを与えることができるのである。」
とはいえ、本来のマニュファクチュア時代には根本的変化は現れない。それが現れるのは大工業の時代になってからである(第13章参照)。「大工業がはじめて機械によって資本主義的農業の恒常的な基礎を与え、巨大な数の農村民を徹底的に収奪し、家内的・農村的工業―――紡績と織物―――の根を引き抜いてそれと農業との分離を完成するのである。したがってまた、大工業がはじめて産業資本のために国内市場の全体を征服するのである。」

第六節 産業資本家の生成
産業資本家(農業的に対して産業的と言っているだけ)の生成は、借地農業者のそれのようにだんだんに進行したのではなかった。それでも、十五世紀末の大発見(大航海時代)がつくりだした世界市場の需要には追いつけなかった。一方、資本一般としては中世以来の二つの形態、つまり高利資本と商人資本が継承されていた。これらの貨幣資本は、農村では封建制度によって、都市では同職組合制度によって産業資本への転化を妨げられていた。しかしこのような制限は、封建家臣団の解体と、同業者組合制度外にあった田舎や輸出海港での新たなマニュファクチュアによって取り払われた。
アメリカの金銀鉱山の発見や東インド(欧州以東は東インド)の征服と略奪、アフリカの商業的黒人狩猟場への転化などの牧歌的な過程が本源的蓄積の主要契機なのであるが、これに続いて全地球を舞台とするヨーロッパ諸国の商業戦が始まる。それはスペインからのネーデルランデの離脱(オランダ北部の独立宣言は1581年)から始まり、シナに対するアヘン戦争(184042年、アロー戦争185660年)などで今に続いている。
本源的蓄積の歴史におけるいろいろな契機は、とくにスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスに分配された。これらの契機は十七世紀末には植民制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的に総括される(一体となって本源的蓄積を促進する)。「どの方法も、国家権力、すなわち社会の集中され組織された暴力を利用して、封建的生産様式から資本主義的生産方式への転化過程を温室的に促進して過渡期を短縮しようとする。暴力は、古い社会が新たな社会をはらんだ時にはいつでもその助産婦になる。暴力はそれ自体が一つの経済的な潜在力なのである。」
「今日では産業覇権が商業覇権を伴ってゆく。これに反して、本来のマニュファクチュア時代には商業覇権が産業上の優勢を与えるのである。それだからこそ、当時は植民制度が主要な役割を演じたのである。植民制度は「異国の神」(ヨーロッパ人たちの新しい神として)だったのであって、この神はヨーロッパの古い神々と並んで祭壇に立っていたのであるが、それがある日これらの神々を一撃の下に残らず葬り去ったのである。それは、利殖を人類最後の唯一の目的として宣言したのである。」
以降、上記を説明する個別の事柄や歴史的出来事が述べられている。それらを出来るだけ箇条書きにしてまとめた。本節の末尾は「もしも貨幣は、オジエ(19世紀中頃のフランスのジャーナリスト)の言うように、「ほおに血のあざをつけてこの世に生まれてくる」のだとすれば、資本は、頭から爪先まで毛穴という毛穴から血と汚物をしたたらせながら生まれてくるのである。」と結ばれている。
l  オランダは、1648年には商業において頂点に立っていた。しかし、民衆は他のすべてのヨーロッパ諸国の民衆よりもひどく過度労働と貧困と残酷な抑圧の下にあった。
Ø  植民地経営の歴史は、「たぐいまれな、背信と買収と卑劣との絵巻を繰り広げている」(前ジャワ副総督トマス・スタンフォード・ラフルズ『ジャワ史』ロンドン、1817年。よりの抜粋)。
Ø  奴隷を手に入れるためにセレベス(インドネシアの一部)で用いた人間略奪の方法。主役は盗賊や通訳や売り手、主要な売り手は土着の王侯、商品は秘密の監獄で育てられた盗まれてきた少年たち。
Ø  1641年、マラッカを手に入れるためポルトガルの総督を買収。そのうえその総督を殺して21,875ポンドの買収費を「禁欲」(消費を禁欲して倹約・貯蓄する資本家精神で)した。
Ø  ジャワ(インドネシアの一部)の一州バニュワンギの住民は、1750年には8万人以上であったが1811年には8千人となった。
Ø  東インド貿易などの交通を独占し、漁業や海運のマニュファクチュアもどの他国より優れ、資本は他のすべてのヨーロッパ諸国の合計より優っていた(G・フォン・ギューリヒ『現代の最重要商業諸国の商業、工業、農業の史的叙述』、イエナ、1830年)
l  イギリス東インド会社(16001858年)では、本源的蓄積が一シリングの前貸も必要としないで進行した。
Ø  東インドでの政治的支配権のほかに、茶貿易やシナ貿易一般やヨーロッパとの貨物輸送で排他的独占権を与えられていた。
Ø  インドの沿岸航海と島嶼間の航海と内地の商業は、会社の高級職員の独占であった。塩やアヘンやきんま(噛む嗜好品)等々は富の山であった。思うように価格を決め、総督も参加してインド人の犠牲のもとに暴利をむさぼった。
Ø  会社とその職員は、17571766年にインド人から600万ポンド贈与させた(議会に提出された資料より)。
Ø  17691770年にかけて、イギリス人たちは米を全部買い占めて飢饉を製造した。また、1866年にはオリッサ一州だけで、100万人以上のインド人が飢え死にした。
l  公信用制度すなわち国債制度は本源的蓄積の重要な契機であった。
Ø  国債の起源は中世のジュノヴァやヴェネチアに見出すが、本来のマニュファクチュア時代には全ヨーロッパに普及していた。
Ø  国民の負債(=国家の債券)が大きいほど国民の富も大きくなる。「公信用は資本の信条となる。そして、国債制度の成立とともに、けっして赦されない精霊に対する罪に代わって、国債に対する不信が現れるのである。」
Ø  「それ(公債)は、魔法の杖で打つかのように、不妊の貨幣に生殖力を与えてそれを資本に転化させ、しかもその際この貨幣は、産業投資にも高利貸し的投資にさえもつきものの骨折り損や冒険をする必要がないのである。・・・国債は、株式会社や各種有価証券の取引や株式売買を、一口に言えば、証券投機と近代的銀行支配とを興隆させたのである。」
Ø  大銀行(国立という肩書きを持つ)は、はじめからただ私的投機業者たちの会社でしかなかった。彼らは与えられた特権で政府に貨幣を前貸しすることが出来た。
Ø  イングランド銀行は、自分の貨幣を8%の利息で政府に貸し、同時に貨幣を鋳造する権限を議会によって与えられ、銀行券という形で公衆に貸し付けた。「この銀行は片方の手で与えておいて片方の手でより多くを取り返しただけではない。それは、また、取り返しているあいだも、与えた最後の一銭に至るまで相変わらず国民の永久の債権者だった。それは、だんだんこの国の蓄蔵金属のなくてはならない貯蔵所になり、すべての商業信用の重心になってきた。」
Ø  国債とともに国際的な信用制度は本源的蓄積の隠れた源泉となった。それらは他国からの借金、例えば、滅び行くヴェネツィアからオランダへ、同じようにオランダからイギリスへ、そして今日ではイギリスから合衆国への貸出である。
Ø  近代租税制度は国債制度の必然的な補足物であった。臨時費に充てる国債は国庫収入によって賄われなければならないから、いずれ増税を必要とし、増税は次に政府が臨時費を必要とする時には国債の発行を余儀なくさせるからまた増税となる。
Ø  近代租税制度は小さな中間階級(農民や手工業者)に対する暴力的収奪であった。「生活手段に対する課税(したがってその騰貴)を回転軸とする近代的財政は、それ自体の内に自動的累進の萌芽をはらんでいるのである。過重課税は偶発事件ではなく、むしろ原則なのである。」
l  保護貿易制度は「近代的生産様式への移行を強制的に短縮するための、人工的な手段だった。」これが、ひとたび利殖家に奉仕するようになると、保護関税や輸出奨励金などによって、自国民からしぼりとるだけではなく、属領のあらゆる産業を根こそぎにした。「産業家の本源的資本はここでは一部分は直接に国庫から流れ出てくる。」
l  黒人奴隷制は、ヨーロッパでの賃金労働者の隠れた奴隷制[8]の脚台として、資本主義的生産体制を支えていた。
Ø  「マニュファクチュア時代に資本主義的生産が発展してくるにつれて、ヨーロッパの世論は羞恥心や良心の最後の残り物をも失ってしまった。」イギリスは、ユトレヒト講話(1713年)により黒人奴隷貿易拡大の権利をスペインから獲得したが、これを国策の勝利として吹聴した[9]
Ø  リヴァプールは奴隷貿易基礎の上で大きく成長した。「奴隷貿易は、本源的蓄積のリヴァプール的方法をなしている。」リヴァプールが奴隷貿易に使用した船の数は、1730年に15隻、1751年に53隻、1760年には74隻、1770年には96隻、1792年には132隻。

第七節 資本主義的蓄積の歴史的傾向
資本主義的蓄積の歴史的展開が内包するものは、私有の解消である。「資本の本源的蓄積、すなわち資本の歴史的生成は、それが奴隷や農奴から賃金労働者への直接の転化でない限り、つまり単なる形態変化でない限り、それが意味するものは、ただ直接的生産者の収奪、すなわち自分の労働にもとづく私有の解消でしかないのである。」
社会的、集団的所有の対立物としての私有は、労働手段と労働条件とが私人のものである場合だけにあり得るのだが、この私人が労働者か非労働者かにより私有の性格が異なっていて、私有の色合いは、この両極端の中間状態を反映しているだけである。
資本主義的生産様式の行き着く先では、労働の社会化も、土地やその他の生産手段も、私有者の収奪も、一つの新しい形態をとるようになる。今度収奪されるのは、労働者ではなくて、資本家である。それと同時に労働者階級の組織も強化され彼らの反抗も増大する。
「この転化過程のいっさいの利益を横領し独占する大資本家の数が絶えず減っていくのにつれて、貧困、抑圧、堕落、搾取はますます増大してゆくが、しかしまた、絶えず膨張しながら資本主義的生産過程そのものの機構によって訓練され組織される労働者階級の反抗もまた増大していく。独占資本は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される。」
(歴史的)自然過程の必然性によって、資本主義的取得様式に基づいた私有の否定がまた否定され[10]、今度は資本主義的所有から社会的所有へと転化する。「この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。」
分散的な私有から資本主義的な私有への転化よりも、既に社会的生産経営に基づいている資本主義的所有から社会的所有への転化の方が容易である(だから、歴史的必然性として、プロレタリアートが勝利してブルジョワジーが没落する革命はそう遠くないうちに起きるであろう)。「前には少数の横領者による民衆の収奪が行われたのであるが、今度は民衆による少数の横領者の収奪が行われるのである。」[11]




[1] 第二十一章の記述と併せ読めば、本源的蓄積を知る意味というは、再生産過程が資本家のみに蓄積を可能にする現在の経済構造を理解するには、その基盤としての人間の本質的社会関係から知らなければならない、と気づくことにあるのだと思う
[2] マルクスのこの判断は、マコーリ『イギリス史』1854年のデータかららしい。本文の記述から逆算すると当時のイングランド人口は200万人に満たないようだが、この倍程度であろうという現代の知見からは当たらずとも遠からずだろう
[3] ドクター・R・プライス『生残年金の考察』、第二巻
[4] 「神聖な所有権」に対するどんなにあつかましい冒瀆でも、人間に対するどんなにひどい暴行でも、それが資本主義的生産様式の基礎を築くために必要だとあれば、経済学者はストア派的な冷静さでそれを考察するのであるが、なかでも、この冷静さをわれわれに示しているのは、そのうえなおトーリ党(現代のイギリス保守党の前身)的に染めあげられており「博愛家」でもあるサー・FM・イーデンである。15世紀の最後の三分の一期から18世紀の末まで行われた暴力的な人民収奪に伴う数々の盗賊行為や残虐や人民の苦難も。ただ、彼を次のような「快適な」結論的省察に到達させるだけである。
[5] ロバート・サマーズ『高地からの手紙。または1847年の飢饉』、ロンドン、1848
[6] 「生産の自然法則」についてはすでに述べられている。ここでは、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属、と説明されている。
[7] 1825年に何が起こったのかは述べられていないが、綿業不況による恐慌時に、何か労働者の組織的抵抗が起こったのかもしれない
[8] 例えば綿工業における児童の酷使など(第8章労働日、等々で詳述されている)
[9] それまではアフリカと英領西インドのあいだだけで営んでいた黒人奴隷貿易をスペイン領アメリカに拡大する権利を、ユトレヒトの講話(1713年)でアシエント協約によってスペイン人に強引に認めさせた。アシエント協約とは、スペインが16世紀から18世紀までスペイン領アメリカ向けのアフリカ黒人奴隷貿易の権利を諸外国の政府と個人に譲渡した契約の呼称
[10] ヘーゲル弁証法を用いた説明
[11] ここで、カール・マルクス=フリードリヒ・エンゲルス『共産党宣言』ロンドン1848年、の一節がマルクスの注として引用される。「・・・ブルジョアジーの没落とプロレタリアートの勝利とは、どちらも避けられない。・・・今日ブルジョアジーに対立しているすべての階級の内では、ただプロレタリアートだけが真に革命的な階級である。・・・」