第十三章 機械と大工業
【感想】:資本主義的生産体制は、いよいよ経済・社会構造の歴史的発展の最終段階、機械と大工業の時代を迎える。そこにおいては、西欧近代の科学と技術の力が強大な役割を演じ、そのことで内包する矛盾が益々顕著になる一方で、同じく西欧の自由と人権の思想がそのような経済・社会の構造に徐々に反撃を加えていく、というマルクスの見立てが語られている。因みにそのような大工業は歴史必然的に崩壊して、働くものが報われる社会が到来することが予告されているが、それがどのようなものなのかは語られていない。この章は、第八章の労働日と並んでマルクスの社会観察の具体例が沢山記述されている。これらの多くの事例の記述から、弱いものの味方マルクスのモチーフがよく感じ取れるとともに、そこからマルクスが導き出した経済・社会の理論の根底にある哲学的思考(ヘーゲル弁証法)も見えてくる。
第一節 機械の発達
資本主義的に使用される機械の目的は、J.S.ミルが『経済学原理』で言及しているような、人間の労苦を軽減するものではない。機械は剰余価値を生産するための手段である。
「生産様式の変革は、マニュファクチュアでは労働力を出発点とし、大工業では労働手段を出発点とする。だから第一に究明しなければならないのは、なにによって労働手段は道具から機械に転化されるのか、または、なにによって機械は手工業用具と区別されるのか、である。」
道具と機械の区分は、人間の社会的生活関係の歴史的理解の上に立ってはじめて意味を持つ(マルクスの注:ダーウインは、自然的技術の歴史に、すなわち動植物の生活のための生産用具としての動植物の諸器官の形成に、関心を向けた。社会的人間の生産的諸器官の形成史、それぞれの特殊な社会組織の物質的基礎の形成史も、同じ注意に値するのではないか?そして、このほうがもっと容易に提供されるのではないか?・・・技術学は、自然に対する人間の能動的な態度をあらわに示しており、人間の生活の、したがってまた人間の社会的生活関係やそこから生ずる精神的諸観念の直接的生産過程をあらわに示している。)
機械は本質的に異なる三つの部分から成っている。原動機、伝動機構、道具機または作業機がそれである。この中で道具機こそ、産業革命がそこから出発するものであり、手工業経営やマニュファクチュア経営が機械経営に移るたびに出発点となるものである。
道具機は、手工業者やマニュファクチュア労働者の作業に用いられる道具が、人間の道具としてではなく、一つの機構の道具として再現する。
例えば、一つの道具機は、人間とは違って、沢山の道具を同時に動かすことができる一つの機構である。
手工業的道具は、人間の能力のうちの単なる原動力の部分と何かの操作をする部分は感覚的に区別された作りになっている。例えば紡ぎ車の場合には、足は動力の部分を、手は紡錘を操作して糸をつくるという本来の作業部分を行うようになっている。産業革命は第一にこの手の部分をとらえたのである。動力の部分は、人間の代わりに動物や水力や風を用いるとか、マニュファクチュア時代には機械となるまで成長することもありはするが、しかしこれらは生産様式を変革することはなかった。17世紀末に発明されて1880年台初めまで存続していた単動蒸気機関は、どんな産業革命も呼び起こさず、初めの目的であったくみ上げポンプとしてしか使われなかった。逆に、道具機の創造こそ蒸気機関の革命を必然的にしたのである。
産業革命の出発点になる機械は、道具を使う労働者に代わり、一つの機構をもってくる。この機構は多数の道具を単一な原動力によって同時に動かすものであった。作業機の規模の拡大や道具の数の増大は、大規模な運動機構と強力な動力を要求し、それらの要求に応える様々なことが行われた。たとえば、水力に代わる動力源としての蒸気機関の革命を起こし、大掛かりとなった伝達機構は摩擦の法則の精密な研究を促し、動力の作用が均等であることを要求する製粉機は後の大工業で重要な役割を演じる節動機(フライホイール、弾み車)の理論と応用を促進した。「このようにして、マニュファクチュア時代には、大工業の最初の科学的な、または技術的な諸要素を発展させた。」アークライトのスロッスル紡績機は、最初は水力で動かされたので局地的なものにとどまった。ウォット(=ワット)の複動蒸気機関は、動力の大きさの制御が可能で、可動的でしかも移動手段に利用でき、都市的(水流源がなくても水と石炭があれば使えるから、人が集まり従って工場立地に優れた都市に設置できる)であるなど、技術的応用という点で普遍的であった。
機械の協業と機械体系とは区別されなければならない。この区別は、すでに述べたようにマニュファクチュアにおける基本的な二つの区分と対応する。つまり、部品を組み立てて作られる製品と多くの工程を経て作られる製品という、製品の性質に基づいて区別されるものである(この二つの区分を、思い切って現代風な例で言ってみれば、自動車産業と石油化学産業に例えられよう。現代ではこのような区分はあまり意味をもたないと思うが、マルクスの理論を構築するための、歴史的必然性を裏付けるために必要な区分なのだろう)。
分業による協業という固有の特性を持っているマニュファクチュアは、機械体系(だけではなく機械体系の総合とも言える大工業そのものに対しても)に自然発生的基礎を与えるのだが、マニュファクチュアと大工業には本質的な違いがある。それを一言で言えば、生産過程の基礎として、前者では主観的で偶然的な人間が置かれているのに対して、後者では客観的で科学的(力学や化学の原理基づいて作用する)な機械や装置が置かれていることである。
「かのマニュファクチュアが機械を生産し、その機械を用いてこの大工業は、それがまず最初にとらえた生産部面で、手工業的経営やマニュファクチュア的経営をなくしたのである。こうして、機械経営は自分にふさわしくない、物質的基礎のうえに自然発生的に立ち現れたのである。・・・個々の機械が、人力だけで動かされているかぎり、いつまでも矮小であるように、また機械体系が、既存の動力に―――動物や風やそして水にさえ―――蒸気機関がとって代わるまでは、自由に発展することができなかったように、大工業も、それを特徴付ける生産手段としての機械そのものが個人の力や熟練のおかげで存在しているあいだには、・・・十分な発展を遂げる力を麻痺させられていた。」
一つの産業部面での生産様式の変革は他の産業部面の変革を引き起こす。ことに工業や農業の生産様式に起きた革命は、社会的生産過程の一般的な条件すなわち交通・運輸機関の革命をも必要にした。
(マニュファクチュアによっては、質・量ともに大工業に必要な道具や部品が供給されることができなくなったから)やがて大工業は機械によって機械をつくらなければならなくなった。またそうすることで自身にふさわしい技術的基礎をつくって自分の足で立つようになった。そのためにもっとも重要な生産条件は、大きな出力を持ち制御可能な原動機であった。同時に、頑強かつ幾何学的に精密に加工することができる材料(例えば木材の代替しての鉄)や、その材料加工して部品に仕上げる道具や機械(工作機械その他について述べられるが省略する)をつくることが必要であった。
「マニュファクチュアでは社会的労働過程の編成は純粋に主観的であり、部分労働者の組み合わせである。機械体系では大工業は一つの全く客観的な生産有機体を持つのであって、これを労働者は既成の物質的生産条件として自分の前に見出すのである。・・・労働過程の協業的性格は、今では、労働手段そのものの性質によって命ぜられた技術的必然となるのである。」
第二節 機械から生産物への価値移転
協業や分業から生じる生産力は、資本にとっては、無料で使える社会的労働の自然力ともいえる。人間が呼吸するためには肺が必要なように、自然力を生産的に消費するためには、水車や蒸気機関のような「人間の手の形成物」が必要であるが、科学は一旦自然の法則があきらかにされた後では自然力と同じように費用はかからない。資本家は、いまや(自己再生産費用が必要で偶然性や限界を持った)労働者が使う手工業的道具の代わりに(無料で自然法則による必然性に従い原則無制限な科学を利用した)機械をもって労働者に作業させるのだから、大工業は自然力や自然科学を大規模に生産過程へ取り入れて、労働の生産性を非常に高くする。だが、このことは、機械の価値を生産物へ移転していくことによって、生産物の価値に占める機械の価値の部分を増大させる。「この高められた生産性が別の労働支出の増加によってあがなわれるのではないということは、けっしてそれほど明らかなではないのである。」
機械も(従来用いられていた)本来の労働手段または生産用具と同様に、労働過程には全体として入り(=不変資本として使われているかぎりいつでも労働過程で機能している)価値増殖過程には一部分ずつ入っていく(=不変資本としては少しずつ消耗劣化して行く分だけ生産物価値へ自身の価値を転移していく)のだが、機械は生産用具よりもはるかに寿命が長く、かつ高価ではあっても非常に大量かつ高速に自身の価値を生産物に引き渡し続ける。したがって「大工業においてはじめて人間は、自分の過去のすでに対象化されている労働の生産物を大きな規模で自然力と同じように無償で作用させるようになるのである。」(現代風には、都市建設、交通網、通信網、エネルギー供給設備、環境保全設備などのイメージか。とすればこれらは資本家が剰余価値を労働者から盗むためのツールである、と断言しにくいであろう)
機械は非常に大量の生産物を生産するから、生産物の価値全体に占める機械の価値は極めて少なくなる(事例省略)。
機械によって労働者が置き換えられるのは、機械の労働費用、すなわち労働者が機械を用いることで生産物に付け加わる価値が、労働者が自分の道具で労働対象に付け加える価値よりも小さいからである(つまり生産物を安く作ることが出来る)。別の言い方をすれば、機械自身の生産に必要な労働が、機械の充用によって代わられる労働よりも少ないからである。
しかし、生産物を安くするための手段としての機械を使用する限界は、機械自身の生産に必要な労働と、機械の充用によって代わられる労働との差よりも狭い(実際に資本家を競争の強制法則によって動かすものは、労働量ではなくて労働力の価値量すなわち支払われる貨幣量だから)。労働力の価値量は国や時期や事業部門などによって異なってくるから、実際に機械がどこに充用されるかも異なってくる。例えば18世紀にフランスでなされた多くの発明はただイギリスで利用され、古くから発達した諸国ではある事業部門での機械の採用が他の諸部門での労働過剰と機械の使用を妨げ、イギリスの工場法は児童労働を非常に減少させ、鉱山での女や子供の労働禁止はそこでの機械の採用を促し、同じイギリスでも川船を引くために今でも機械どころか馬のかわりに過剰人口の女が使われる。
第三節 機械経営が労働者に及ぼす直接的影響
大工業の出発点となるものは労働手段の革命である。これによって大工業と人間がどのようにして合体するのかを考えるまえに、この革命が労働者そのものに及ぼす一般的な反作用を考察しよう。
a 資本による補助労働力の取得 婦人・児童労働
機械は筋力が足りなくても利用することができる。「それだからこそ、婦人・児童労働は機械の資本主義的充用の最初の言葉だったのだ!」
労働力の価値は、個々の成年労働者の生活維持に必要な労働時間だけではなく、労働者家族全員の生活維持に必要な労働時間によっても規定されていた。機械は、労働者家族の全員を労働市場に投ずることによって、成年労働者の労働力も減価させる。「こうして、機械は、はじめから、人間的搾取材料、つまり資本の最も固有な搾取領域を拡張すると同時に、搾取度をも拡張するのである。」
機械は資本家と労働者との契約を根底から変革する。つまり、以前は、一方は貨幣と生産手段を持つ人として、他方は自分の労働力を売る自由を獲得した人として相対し、労働力と貨幣を等価交換するという対等な契約であった。「ところが、今では資本家は未成年者または半成年者を買う。以前は、労働者は彼独自の労働力を売ったのであり、これを彼は形式的には自由な人として処分することができた。彼は今では妻子を売る。彼は奴隷商人になる。」
マルクスが記載した事例のうち、いくつかの概要を下記した。
・不十分な法をかいくぐる行為などで、子供が大人並みに働かされていた。工場法の規定により13歳未満の子供の労働日が6時間以下と定められていた。しかし、現実に対象となる産業は限られ、対象となる産業においても医師による年齢偽装で、13歳未満の子供が大人と同様に働かされていた。しかも、親がピンハネする場合も多かった。
・幼児死亡率が異常に高かった。イングランドの戸籍管区毎に調べた一歳未満の幼児死亡率を比較すると、母親の家庭外就業の世帯では、そうではない世帯に比べて3~4倍高かった。
・子供の教育が著しく阻害されていた。例えば、1844年の改正工場法が制定されるまでは、字の書けない教師が珍しくなかった。それ以降でも、通学証明書に記入する数字と教師の名前は教師自ら書くと規定された程度であった。スコットランドでは通学義務のある子どもをできるだけ排除しようとしていた。
b 労働日の延長
機械は、資本家にとって剰余価値の生産手段として魅力的なものであった。そのことは労働日の延長の動機としても現れる。機械は、生産力を向上させることで同じ剰余労働時間内に生み出す価値を増大させ、その耐用年数の延長は速く資金を回収することによる利益の程度を増大させるとともに、競合する機械に駆逐される危険を増大させ、全資本に対する自機械の割合の増大も、速く資金を回収することによる利益の程度を増大させた。これらのことは、機械の稼働率を上げることによって利益の増大やリスクの減少をもたらすものとするから、資本家にとって労働日をますます延長したくなる動機は十分にある。
また、機械による生産を最初に始めた資本家にとっては、特別剰余価値の時間あたりの利益を異常に大きくするから、資本家は労働日の延長によってそれを徹底的に利用しようとする。
やがて同じ生産部門においては機械による生産物の社会的価値はその個別的な価値まで下がる(特別剰余価値は次第なくなってくる)。このときには、剰余価値は機械によって不必要にされた労働力から生じるのではなく逆に機械に付けて働かされる労働力から生じるという法則が貫かれる。機械が労働者にとって代わるといいうことは、資本のうちの可変資本が不変資本に代わることである。資本家が増大をめざす剰余価値量は剰余価値率と可変資本総量(労働総量)の積である。機械の採用によって労働者数は減少するから、剰余価値率はそれ以上に向上しなければならないが、労働の生産力を高めるには限度がある[1]。ここに一つの内在的矛盾がある。「そして、この矛盾こそは、またもや資本を駆り立てて、おそらく自分では意識することなしに、搾取される労働者の相対数の減少を相対的剰余価値労働の増加によるだけではなく絶対的剰余労働の増加によっても埋め合わせるために、無理矢理な労働日の延長をやらせるのである。」
機械の資本主義的充用は、一方では、動労日の無制限な延長への新たな動機を作り出し、他方では、資本の命じる法則に従わざるを得ない過剰な労働人口を生み出すことになる(一部の労働者は所謂中間層となるが、彼らも資本の命じる法則下にある)。「こうして、機械は労働日の慣習的制限も自然的制限もことごとく取り払ってしまうという近代産業史上の注目に値する現象が生ずるのである。こうして、労働時間を短縮するための最も強力な手段が、労働者とその家族との全生活時間を資本の価値増殖に利用できる労働時間に変えてしまうための最も確実な手段に一変する、という経済学的逆説が生ずるのである。古代最大の思想家、アリストテレスは次のように夢想した。(以下略)」
c 労働の強化
労働日の無限度な延長は社会の反作用を招き、それとともに法律によって制限された標準労働日を招く。ここで再び一つの現象が、今度は決定的に重要なものに発展する。労働強化である。機械の進歩によって労働の速度が問われるようになり、言い換えれば労働時間と並んで労働の密度という尺度が現れる。
機械の役割が小さければ、単なる労働日の短縮によっても労働の密度は高まることはわかっていた。1844年に労働日を12時間より短縮することが(議会で)討議されはじめると、工場経営者は労働密度の向上がこれ以上望めないとしてこれに反対した。これは機械の速度が発達していた当時としては無理もないことであろう。労働日の短縮は労働者の能力をつくりだす(=労働者が労働の密度を高める)のだが、労働日の短縮が法律によって強制されるということになれば、機械を導入している資本家は二つの方法を採る。一つは機械の速度を大きくするかこと、もう一つは労働者が見張る機械の範囲を広げることである。例えば、1844年になされた下院での陳述からも、著しい機械の速度の向上や労働強化の実態を知ることができる。
1847年以降、すなわちイギリスの綿・羊毛・絹・麻工場に十時間法が適用されることになってからも事情は加速された。例えば、イギリスの綿工場やその他の工場の年平均増加量は、1838年から1850年までは32であったのに対して、1850年から1856年には86であった。また、イギリスの絹工場における紡錘量や紡錘や織機の速度や蒸気機関の数や従業員数及びその内の子供の数について、1856年と1862年を比較してみても、機械の導入は進み従業員数は減少するがその内の子供の数は増加していることがわかる。
「少しも疑う余地のないことであるが、資本に対して労働日の延長が法律によって最終的に禁止されてしまえば、労働の強度の系統的な引き上げによってその埋め合わせをつけ、機械の改良はすべて労働力のより以上の搾取のための手段に変えてしまうという資本の傾向は、やがてまた一つの転換点に向かって進まざるをえなくなり、この点に達すれば労働時間の再度の減少が避けられなくなる。他方では、1848年から現代(1867年頃)までの時代すなわち10時間労働日の時代のイギリス工業の激しい前進が、1833年から1847年までの時代すなわち12時間労働日の時代を凌駕していることは、後者が工場制度の開始以来の半世紀すなわち無制限労働日の時代を凌駕しているよりもずっと甚だしいのである。」マルクスが、わずかばかりと断って引用している、1848年以来のイギリス連合王国における本来の工場の前進を示した繊維工場別の表は省略する。
第四節 工場
これまでは機械体系の編成を考察してきたが、ここでは最も完成された工場全体について目を向けてみよう。すると、社会的労働体が支配的な主体としてあるのではなく、自動装置そのものが客体から主体となり、労働者はただこの自動装置と一緒に中心的動力に従属させられているという状況になっていることがわかる。
作業道具と共に労働者の手練も機械に移り、道具の仕事能力は人間の労働力の限界から解放され、マニュファクチュアの分業における技術的基礎が廃棄される。自動的な工場では、人工的に作り出されていた部分労働者たちの区別に代わって、年齢や性の自然的な区別の方が主要なものとなる(=労働の均等化または水平化)。
自動的な工場における分業では、専門化された機械への労働者の配分が第一となり、そこで労働者たちは単純な協業を行うだけとなる。マニュファクチュアとは違って、労働者の本質的区分は、専門化された機械で働く主要労働者とその手伝い(少数で殆どが子供)であって、そのほかには、工場労働者のなかに混じっている程度に少数の、かなり高級な、一部は科学的教育を受けた、純粋に技術的分業に基づいている者たち(技師や機械工や指物工など)となる。そうすると、労働過程を中断せずに絶えず人員交替が可能となり、マニュファクチュアの時には幼少時から一つの部分道具を扱うことが終生の専門だった事態が、今度は一つの部分機械に使えることが終生の専門となる。
生産力の向上によって、労働者自身の再生産に必要な費用が著しく減らされるだけではなく、同時にまた工場の従って資本家への、労働者の絶望的な従属が完成される。社会的生産過程の発展による生産性の増大と、社会的生産過程の資本主義的利用による生産性の増大とを区別しなければならない。
マニュファクチュアや手工業では、労働者は自分に道具を奉仕させて、生きている機構の手足になっている。工場では、労働者は機械に奉仕して、死んでいる機構に生きている付属物として合体される。
機械は労働者を労働から解放するのではなく、彼の労働を内容から解放するのである。そうすることで機械労働は、身心のいっさいの自由な活動を封じてしまう。資本主義的生産がただ労働過程であるだけではなく同時に資本の価値増殖過程でもあるかぎり、労働者が労働条件を使うのではなく逆に労働条件が労働者を使うことになる。この転倒は機械によってはじめて技術的に明瞭な現実性を受け取るのである。生産過程の精神的な諸力が手の労働から分離して資本の権力に変わるのは、機械の基礎のうえに築かれた大工業において完成される。
労働者の技術的隷属と、性別と様々な年齢層の個人からなる労働体の独特な構成は、一つの兵営的な規律を作り出し、この規律は筋肉労働者と労働監督者とへの、産業兵卒と産業下士官とへの分離を十分に発展させる。
資本は自分の専制を工場法典のなかで定式化しているが、これは、大規模な協業が始まり共同的労働手段が使用されるようになれば必要になってくる労働過程の社会的規制の資本主義的な戯画でしかない。マルクスはエンゲルスの著書『イギリスにおける労働者階級の状態(1845年)』から「ブルジョアジーがプロレタリアートを縛り付けている奴隷状態が工場制度ほどあからさまにさらけだしているところはほかにはない。」と引用して、当時の状況の一例を注に載せている。
工場における労働条件は、物質的な面だけを採り上げてみても劣悪であった。「四季の移り変わりにも似た規則正しさでその産業死傷報告を生み出している密集した機械設備のなかでの生命の危険は別としても、人工的に高められた温度や、原料のくずでいっぱいになった空気や、耳を聾するばかりの騒音などによって、すべての感覚器官は一様に傷つけられる。工場制度の下ではじめて温室的に成熟した社会的生産手段の節約は、資本の手の中で、同時に、作業時における労働者の生活条件、すなわち空間や空気や光線の組織的な強奪となり、また、労働者の慰安設備などはまったく論外としても、生命に危険な、または健康に有害な生産過程の諸事情にたいする人体保護手段の強奪となる。」
第五節 労働者と機械との闘争
資本家と賃金労働者との闘争は、資本関係そのものとともに始まるが、機械が採用されてからはじめて労働者は労働手段そのものに「資本主義的生産様式の物質的基礎としての、生産手段のこの特定の形態に対して、反逆するのである。」
機械の導入は失業を生み、労働者の反逆が始まった。ヨーロッパにおいて、それは17世紀には始まり、「19世紀の最初の15年間にイギリスの工業地区で行われた機械の大量破壊、ことに蒸気織機を利用したために起きたそれは、ラダイト運動という名のもとに、シドマスやカスルレーなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた。機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者が覚えるまでには、時間と経験が必要だったのである。」
マニュファクチュアの時代には、労賃のための闘争は体制自体には向けられていなかった。体制自体ではないがその形成に向けられた闘争を行ったのは同職組合の親方や特権都市であった。そのことは、同時代の著述家が、分業は可能的に労働者に取って代わる手段と考えてはいたが現実に労働者を駆逐する手段とは考えられていなかったことからも覗える。また当時は、市場が新しい植民地によって拡大し、労働者は封建制の解体に伴って土地から追い出された農村民によって補われていたから、作業場における分業や協業は労働者を一層生産的にするものと思われていた。協業や少数者(資本主義生産体制の場合には資本家)の手の中での労働手段の結合が農業において行われていたならば、大工業の始まるはるか以前に生活様式の強力な革命と闘争が引き起こされただろう。しかし闘争は資本と賃労働のあいだではなくて、大きな土地所有者と小さな土地所有者との間で行われた。まず労働者が土地から追い出され、それから羊がやって来た(資本主義生産体制では、労働者は機械によって追い出される)。それだから農業の変革は政治革命の外観を持つ。
資本主義的生産の全体性は、労働者が自分の労働力を商品として売ることを基礎としている。分業は、労働力を部分道具の取り扱い技能へと変質させ、機械はこの労働力より高い生産力を持って現れることによって労働力にとって代わりうるものとなった。その結果労働力の使用価値と同時に交換価値も消えてなくなる。こうして、もはや資本の自己増殖に直接必要でない部分になった労働者は、一方では機械経営に対する手工業的経営やマニュファクチュア的経営における闘争において破滅し、他方ではまだ機械経営の浸透が遅れている他の産業部門に押し寄せて労働力の価値を更に押し下げる[2]。こうして、労働者は貧民化していく。貧民化した労働者の苦悩を和らげる慰めとしては、一方には一時的救済策、他方には機械の浸透が遅いことがあるが、一方の慰めは他方の慰めをあだとする。イギリスの綿布手織工の没落は数十年かけて徐々に進行し1835年に休止符が打たれたが、世界史上これ以上に恐ろしい光景はなく、多くの者が飢え死にした。1833年の救貧法以前のイギリスでは、最低賃金を遙かに下回る賃金が教区救済金によって補われたものの、かえって慢性的な貧民を生み出し続けた。東インドにおいては、イギリスの綿業機械が急激に作用して、東インド総督は1834-1835年に次のことを確認した。「困窮は商業史上に殆ど無い比類のないものでる。綿織物工の骨はインドの野をまっ白にしている。」
機械は絶えず新たな生産領域をとらえてゆくから、貧民の発生は一時的なものではなく慢性的なものであり、「およそ資本主義的生産様式は労働条件にも労働生産物にも労働者にたいして独立化された疎外された姿を与えるのであるが、この姿はこうして機械に対する完全な対立に発展するのである。それゆえ、機械とともにはじめて労働手段に対する労働者の狂暴な反逆が始まるのである。」
労働手段が労働者を打ち殺すというこの直接的な対立は、機械が手工業経営やマニュファクチュア経営と競争するたびに最も明瞭に現れるのだが、大工業そのもののなかでも、絶えず行われる機械の改良や自動的体系の発達は同じような作用をする。
アメリカの南北戦争のおかげでイギリスの綿工業で行われた機械改良は、少数の資本家への大規模で生産性の高い機械の集中と労働者の減少をもたらした。
また、機械は賃金労働者に対して競争者としてだけではなく、資本の専制に対する労働者の周期的な反逆、たとえばストライキに対抗する強力な武器となった(その証拠となる多くの事例は省略する)。
第六節 機械によって駆逐される労働者に関する補償説
ブルジョワ経済学者[3]たちは、労働者を駆逐する機械設備は、常にそれと同時にまた必然的に、駆逐された労働者と同数の労働者を働かせるのに十分な資本を遊離させる(=駆逐した労働者の賃金分を新たな資本として投資する)、と言う。だが、導入する機械設備の価値の中で占める労働力の価値は一部でしかないからそれは不可能である。それどころか、駆逐された労働者が働くために必要な資本を遊離しようとすれば、それが遊離であるかぎり新たな機械の導入が必要となるから労働者が駆逐されることになる。
だが、かの経済学者たちが言っていることは、資本の遊離ではなくて、労働者を遊離させて自由に利用されるようにすることであり、同時に駆逐された労働者とその生活手段を遊離させることである。生活手段の労働者からの遊離は、生活手段を製造している部門の需要が減ることだから、ある部門への機械の導入は他の部門の労働者も街頭に投げ出す。一つの産業部門から投げ出された労働者はいずれ新しい追加投資によって他の労働部門に吸収されたとしても、その過渡期の間に大部分の労働者落ちぶれて萎縮してしまう。
だが、かの経済学者たちが言っていることは、資本の遊離ではなくて、労働者を遊離させて自由に利用されるようにすることであり、同時に駆逐された労働者とその生活手段を遊離させることである。生活手段の労働者からの遊離は、生活手段を製造している部門の需要が減ることだから、ある部門への機械の導入は他の部門の労働者も街頭に投げ出す。一つの産業部門から投げ出された労働者はいずれ新しい追加投資によって他の労働部門に吸収されたとしても、その過渡期の間に大部分の労働者落ちぶれて萎縮してしまう。
ブルジョア経済学者は、生産手段からの労働者の遊離は機械の責任ではないし、機械はそれが導入された産業部門の生産物を安くし増加させるのであって、他の産業部門で生産される生活手段量を直接変化させない、と考えている。彼らには要するに「機械の資本主義的充用と不可分な矛盾や敵対関係などは存在しないのである!なぜならば、そのようなものは機械そのものから生ずるのではなく、その資本主義的充用から生じるのだからである!」ブルジョア経済学者たちは機械の資本主義的充用と言うこと自体認めていない、あるいは理解していない。
「機械は、それ自体としてみれば労働時間を短縮するが、資本主義的に充用されれば労働日を延長し、それ自体としては労働を軽くするが、資本主義的に充用されれば労働の強度を高くし、それ自体としては自然力に対する人間の勝利であるが、資本主義的に充用されれば人間を自然力によって抑圧し、それ自体としては生産者の富を増やすが、資本主義的に充用されれば生産者と貧民化するなどの理由によって、ブルジョア経済学者は簡単に次のように断言する。それ自体としての機械の考察が明確に示すように、すべてのかの明白な矛盾は、日常のただの外観であって、それ自体としては、したがってまた理論においては、全然存在しないのだ、と。」しかし、(資本主義的生産様式においては)資本主義的利用以外の機械の利用は不可能である。「だから機械の資本主義的充用が現実にどんなありさまであるかを暴露するものは、およそ機械の充用一般を欲しないもので、社会的進歩の敵なのだ!」
一つの産業部門における機械経営の拡張に伴って、第一に、この部門に生産手段を供給する他の諸部門での生産は増大する。それによって従業労働者数や労働条件がどう変化するのかは、不変資本と可変資本との割合によって定まる。例えば、炭鉱や金属鉱山で働く労働者数はイギリスにおける機械の使用が進むにつれて非常に増大してきたが、鉱山機械の使用によって緩慢化されてきた。例えば、綿紡績業の急激な発展はアメリカの奴隷人口を1790年の697,000人から1861年には約四百万人に増大させた。機械羊毛工業の繁栄は、ますます耕地を牧羊場に変えるとともに、農村労働者の大量駆逐と過剰化を引き起こした。例えば、機械紡績業による安い糸が豊富に供給されたために手織工たちの収入が増え、綿織物業へ労働者流入し、イギリスではジェニー、スロットル、ミュールという三つの紡績機によって生み出された800,000人の綿織物工がついに再び蒸気織機によって打ち倒されるまで続いた。
機械経営が、相対的に少ない労働者と多種多様な製品を大量に供給するようになったことは、マニュファクチュアとは比較にならないほどの社会的分業を推進する。
機械のもたらす直接の結果は、剰余価値の増大と生産物量の増大、したがって「資本家階級とその付属物」という社会層の増大である。彼らの富の増大は奢侈品の生産を増大させ、それらは大工業によって作り出される新たな世界市場からも生ずる。世界市場の増大は運輸業も多様化する。
労働者数の相対的減少とそれに伴って発生する生産手段や生活手段の増加は、運河やトンネルや橋などのように遠い将来にはじめて実を結ぶような産業部門での労働の拡張をし、また関連した生産部門と労働分野が形成される。この種の主要産業は、現在では、ガス製造業、電信業、写真業、汽船航海業、鉄道業である(1861年の国勢調査結果が引用されている)。
大工業で異常に高められた生産力はまた労働者階級の格差を拡大し「不生産的に使用する」ことを可能とした。「したがってまたことに昔の家内奴隷を召使いとか下女とか従僕とかいうような「僕婢階級」という名でますます大量に再生産することを可能にする。」1861年の人口調査結果によれば、イングランド及びウエールズの総人口は、約2000万人で、その内で労働者と商業や金融などで何らかの機能を果たしている資本家は800万人程であるが、この800万人のうちで15%強が「僕婢階級」を占めている。この数字は、繊維工業と石炭・金属鉱山の労働者の合計15%、農業労働者14%、繊維工業と金属工場と金属加工業の従業者数の合計13%を上回る。「機械の資本主義的利用の成果のなんというすばらしさだろう!」(現代の先進国では資本主義生産体制の大工業化はますます進みかつ核家族化が進んでいるから、必然的に発生されるとされる貧民階級は「僕婢階級」になることもできない)。
第七節 機械経営の発展に伴う労働者の排出と吸引 綿業恐慌
機械の新たな採用は、競争相手となる手工業やマニュファクチュア労働者に疫病のように作用する。機械は、その導入期及び発展期の恐怖の後では、労働奴隷を最終的に減らすのではなく、結局は増やすのである[4]。
機械経営の発展過程における諸状況によって、工場労働者数の相対的(資本に対し)なおよび絶対的な増減が生じる。労働者の相対的減少と絶対的減少が同時に起こる場合もあるし(イギリスランカシャとヨークシャの綿工業工場における1860~1865年の事例)、相対的には現象しても絶対的には増加する場合もある(機械経営の導入による工場労働者の増加が、それによって駆逐された手工業やマニュファクチュア経営の労働者の減少より大きくなる場合の試算例)。
大工業に適合した一般的生産条件が確立されると、機械経営は「一つの突発的飛躍的な拡大能力」を獲得し、この拡大能力はただ原料と販売市場とにしかその制限を見出さない。機械経営は、外国市場を強制的に原料の生産場面に変え、過剰となった大工業国の労働者の促成的な国外移住と諸外国の植民地化を促進する(東インド、オーストラリア、アメリカの例)。
「工場制度の巨大な突発的な拡張可能性と、その市場への依存性とは、必然的に、熱病的な生産とそれに続く市場の過充とを生み出し、市場が収縮すれば麻痺状態が現れる。産業の生活は、中位の活況、繁栄、過剰生産、恐慌、停滞という諸時期の一系列に転化する。」機械経営は労働者の就業に、したがって生活状態に不確実性と不安定を与え、資本家のあいだには市場を巡って激烈な闘争が荒れ狂う。この激烈さは生産物の安さに比例するから、機械の改良などの競争も激化し、労賃を無理矢理低くする努力がなされる。
「このように、工場労働者数は、工場に投ぜられる総資本がそれよりもずっと早い割合で増大することを条件とする。しかし、この過程は産業循環の干潮期と満潮期との交替の中でしか実現されない。・・・労働者達は絶えずはじき出されては引き寄せられ、あちこちに振りまわされ、しかもそのさい召集されるものの性別や年齢や熟練度は絶えず変わるのである。」
「工場労働者の運命は、イギリスの綿工業の運命をすばやく概観することによって、最も明らかにされる。」
イギリスの綿工業の景気状況に関するマルクスの調査結果の概要を下記の表にまとめた。
綿花飢饉の歴史は特徴的なものである。特徴的というのは、好況が続いて儲かるとなれば、投機師達が多くの小工場を設立して、以前は作業監督などをしていた者などの無資力者に糸や機械や建物などを貸し付けて経営させるのだが、ひとたび不況となると彼らは没落すること、まだ同時に、これらの小工場の没落は好都合である大工場においても、労働者は失業や様々な形の賃下げや労働環境の悪化等々に見舞われるということである。(マルクスが記載している綿花飢饉において生じたこのような事態の具体例は省くが、一つだけ引用すると)「綿花飢饉で職を失った不幸な婦人達は社会の廃物となり、そしてそうなったままだった。・・・若い売春婦の数は、最近25年間に類のない増加を示した。『工場監督官報告書。1865年。警察庁の手紙から』」
時期 | 景気 | 状況 |
1770年~1815年 | この間の不況または停滞状況は5年間 | イギリス綿工業の第一期、機械と市場を独占 |
1815年~1821年 | 不況 | |
1822年~1823年 | 好況 | |
1824年 | 団結禁止法の廃止。工場の一般的大拡張 | |
1825年 | 恐慌 | |
1826年 | 綿業労働者のひどい困窮と暴動 | |
1827年 | やや好転 | |
1828年 | 蒸気機関及び輸出の大増加 | |
1829年 | 輸出、特にインド向けが過去最大 | |
1830年 | 市場過充、大窮境 | |
1831年~1833年 | 持続的不況 | 対東アジア(インドとシナ)貿易の独占が東インド会社から分離される |
1834年 | 工場と機械の大増加、人手不足。新しい救貧法が工場地帯への農村労働者の移住を促進。田園諸州からの子供の一掃。白色奴隷売買。 | |
1835年 | 大好況 |
綿布手織工の餓死 |
1836年 | ||
1837年~1838年 | 不況と好況 | |
1839年 | 景気回復 | |
1840年 | 大不況 | 暴動、軍隊の介入 |
1841年~1842年 | 工場労働者の恐ろしい苦悩。1842年には工場主が穀物法[1]の廃止を強要するために労働者を工場から閉め出す。労働者の大群がヨークシャに流れ込み、軍隊に追い返され、その指導者はランカスターで裁判にかけられる | |
1843年 | 大窮乏 | |
1844年 | 回復 | |
1845年 | 大好況 | |
1846年 | はじめは持続的な好況、次いで反動の兆候 | 穀物法の廃止 |
1847年 | 恐慌 | 「大きなパン」[2]を祝って一般的な賃金の引き下げ10%以上 |
1848年 | 持続的な不況 | マンチェスターは軍隊に警護される |
1849年 | 回復 |
[1] 外国からの穀物の輸入規制を目的としたイギリスの法律(1815年~1846年)。穀物価格の高値を維持し大地主貴族階級の利益を図るために制定された。大地主貴族階級の政治・経済的力をそぐことを目的として穀物法に反対する自由貿易論者は「穀物法反対同盟」を結成して大地主貴族階級戦い勝利した。穀物価格は労働者の最低賃金の基準となっていたから、穀物法撤廃は労働者の賃金引き下げを目的としたものでもあった
[2] 「大きなパン」は、穀物法反対同盟による労働者一般に対する偽りの煽動を象徴する言葉。彼らは労働者に、穀物法が撤廃されて自由貿易が実現すれば実質賃金が上がりパンの大きさが二倍になると信じ込ませようとし、大小二つのパンを持って街頭を練り歩いたが、実際に穀物法が撤廃されると当然にも反対に賃金は引き下げられた。
イギリス綿工業の第一期の45年間(1770年~1815年)は、綿工業が不況または停滞状態にあったのは5年間しかなかったが、しかし、これはイギリス綿工業の世界独占の時期だった。第二期の48年間(1815年~1863年)には、不況と停滞の時期が28年間であるのに対して回復と公共の時期は20年しかない。1815年から1830年には大陸ヨーロッパ及び合衆国との競争が始まり、1833年からはアジア諸市場の拡張が「人類の破壊」によって強行された。綿工業の成年男子労働者の状態は、好況時においても不断の労働過剰であった。「・・・最近25年間に600万人がこの国を去った(移民)にもかかわらず、生産物を安くするために引き続き労働の駆逐が行われるので、大きな割合の成年男子が、最高の好況期にさえも、工場ではどんな条件のどんな種類の仕事も見つけることが出来ないという状態にあるのである(『工場監督官報告書。1863年』より)。」
第八節 大工業によるマニュファクチュア、手工業、家内労働の変革
a 手工業と分業とにもとづく協業の廃業
草刈り機は手工業的協業の廃棄の適例、縫針製造機は手工業的分業の適例である。後者についてアダム・スミスによれば、その時代では10人の男が分業によって一日に48,000本以上の縫い針を作り上げたが、今では機械を使って女一人で一日に600,000本以上を作り上げる。単一の作業機が協業やマニュファクチュア(的分業)に代わって現れるかぎりではこの作業機そのものがまた手工業的経営の基礎になるにとどまるのだが、この状態は工場経営の過渡期に過ぎず、機械的動力(この時代はまだ蒸気や水)が導入されればいつでも工場経営が現れる。
b マニュファクチュアと家内労働とへの工場制度の反作用
工場制度が発展し、またそれに伴う農業の変革につれて、全ての産業部門でも生産規模の拡大とその部門の性格が変わってくる。
家内工業も、労働者家族の家を前提とした古い型の家内工業とは全然違ったもの、工場やマニュファクチュアや問屋の外業部となってくる。
安価で未熟な労働力の搾取は、近代的マニュファクチュアでは、本来の工場で行われるよりももっと露骨になるが、近代的家内工業では更に露骨になる。なぜなら、労働者達の分散が彼らの抵抗能力を弱め、雇い主と労働者との間に盗人的寄生者が押し入り、機械経営やマニュファクチュア経営との競合にさらされ、最後に大工業と大農業とによって「過剰」にされた人々のこの最後の逃げ場では労働者同士の競争が必然的に最高度に達するからである。
c 近代的マニュファクチュア
近代的マニュファクチュア(ここでは本来の工場以外の全ての大規模な作業場を意味する)における労働者達の状況がどのようなものであったかについては、既に労働日に関する章において多数例証されているが、ここでも更に付け加えられている(『児童労働調査委員会。第五次報告書1866年』、『公衆衛生。第六次報告書1864年』、『同左。第八次報告書1866年』、など)。事例省略。
d 近代的家内労働
大工業の背後に作り上げられた、資本による家内労働の搾取状況を理解するには、『児童労働調査委員会。第三次報告書1864年』に記載されているイギリスのへんぴな村の釘製造業を見ればよい。
ここではレース製造業についての例が記載されている。イギリスのレース生産に従事する労働者は15万人だが、1861年の工場法の適用を受けるのはその内の1万人であり、残りの14万人(大体女性で、しかも少女も含まれている)は家内労働従業員として劣悪な環境と低賃金で長時間働いていた(マルクスの挙げている事例は省略する)。その結果の一例として、一般施設院の医師のデータが紹介されている(『児童労働調査委員会。第二次報告書1864年』)。この報告書によればレース製造女工、大部分は17~24歳までの患者686人のうち、肺病患者の割合の年次変化は次のようなものである。
1852年 45人中1人
1853年 28人中1人
1854年 17人中1人
1855年 18人中1人
1856年 15人中1人
1857年 13人中1人
1859年 9人中1人
1860年 8人中1人
1861年 8人中1人
家内労働は過酷なものであった。子供は6歳頃から仕事を始め、労働時間は不規則な食事時間を含めて朝八時から夜八時だが時に夜中まで続き、穴のような不潔な作業場は極めて狭く一人あたりの体積は軍の病院規定の1/10(120立方フィート)~1/50(24立方フィート)で、絶えられない臭気の中は火を焚く場所もなく換気も不十分であった。「資本家的パリサイ人が、彼の賃金奴隷の一人をつうじてこの仕事を渡すときには、もちろん、「それはお母さんのぶんだ」というもっともらしい言葉を添えるのであるが、哀れな子供が寝ずに手伝わなければならないということは十分承知の上なのである(『児童労働調査委員会。第二次報告書1864年』)。事例の更なる詳細は本文参照。
e 近代的マニュファクチュアと近代的家内工業との大工業への移行 これらの経営様式への工場法の適用によるこの革命の推進
「女性や未成年者の労働力の単なる乱用、いっさいの正常な労働条件と生活条件との単なる強奪、過度労働と夜間労働との単なる残虐、このようなことによって労働力を安くすることは、結局は、もはや超えられない一定の自然的限界にぶつかり、またそれとともに、このような基礎の上に立つ商品の低廉化も資本主義的搾取一般も同じ限界にぶつかる。ついにこの点に来てしまえば、と言ってもそれまでには長くかかるのであるが、機械の採用が告げられ、また、分散していた家内労働(あるいはまたマニュファクチュア)の工場経営への急速な転化の時が告げられる。」そのことのよい事例はイギリスの衣料品製造産業であり、象徴的な機械はミシンである(事例の詳細は省略)。
「社会的経営様式の変革、この生産手段の変化の必然的産物は、種々雑多な過渡形態の入り交じる中で実現される。」ミシンの導入に際しても同様であったが、最後に、動力(当時は蒸気力)が決着を付けた。
イギリスの衣料品製造部門における工業経営への変革は、既にその変革の前に大工業の影響下においてそれらの経営形態は、全く変形され、分解され、歪められ、とっくに工場制度のあらゆる奇怪事をあたかも自然に起こったかのように再生産していた。
この自然発生的に起きる産業革命は、工業法の拡張によって、人為的なされる。マニュファクチュアから家内工業に至る全て形態においては、安い労働力の無制限な搾取こそが競争力の唯一の基礎をなしている。マニュファクチュアであろうと大工業であろうと工場の経営者は工場法の強化には、(その実施は不可能であると)反対するが、現実には全て可能であった。
「おそらくイギリス議会の独創性を非難するような人はないであろうが、要するに、この議会は、経験によって、労働日の制限や規制に対するいわゆる生産上の自然障害は全て一つの強制法によって簡単に一掃できると言う見解に到達したのである。・・・このようにして工場法がマニュファクチュア経営から工場経営への転化に必要な物質的諸要素を温室的に(実施可能なやり方で)成熟させるとすれば、それはまた同時に、資本投下の増大の必要によって、小親方の没落と資本の集積とを促進するのである。」
労働日の規制は労働者達自身による、労働力支出の不規則な習慣とも衝突する。労働力支出上の不規則は、長い単調な労働の苦痛に対する自然発生的な粗暴な反動でもあるが、もっと大きな理由は、労働力の無拘束な搾取を前提とした生産の無政府性(注文の生産が整合するように制御できないこと)による。技術上の障害と同じように、いわゆる「営業慣習」も
生産の「自然制限」であると主張されてきた。これは工場法がはじめて綿業貴族を脅かしたときに彼らが好んであげた叫びであったが、経験はそれが偽りであったこと示した。
労働量を、一年中をつうじてもっと均等に配分させるには労働日の規制によるほかはない。このことは、「児童労働調査委員会」の徹底的に良心的な調査結果も示している。
第九節 工場立法(保健・教育条項)イギリスにおけるその一般化
工場法の中で労働日の時間数には関係のない条項、保健・教育条項にも簡単に触れておく。保健条項は貧弱なものである(事例省略)。「ここでもまた、利害の対立する社会では各人はその私利を追求することによって公益を推進する、という自由貿易の信条が輝かしく示される。」
教育条項は全体として貧弱ではあるが、初等教育を労働の強制条件として宣言した。その成果は教育及び体育を筋肉労働と結びつけることの可能性をはじめて実証した。教育条項から未来の教育の萌芽が出てきた。教育は単に社会的生産を増大するための一方法であるだけではなく、全面的に発達した人間の生み出すための唯一の方法でもある(事例省略)。
作業場の中でのマニュファクチュア的分業について言えることは、社会の中での分業についても言える。従って、手工業やマニュファクチュア的分業が社会的生産の一般的な基礎になっているあいだは、人間に対する生産者自身の社会的生産過程は覆い隠され、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他に対して謎にしていた。しかし、そのような社会は大工業によって引き裂かれた。大工業の原理は技術学という全く近代的な科学を作り出した。近代工業は自身の形態をけっして最終的なものとは見なさず、その技術的基礎は革命的である。それに反して以前の全ての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的である。大工業の本性は、労働の転換、(労働者の)機能の流動、労働者の全面的可動性を必然にする一方、資本主義的形態において、古い分業をその骨化した分枝をつけたままで再生産し、ここに絶対的矛盾を発生させた。われわれはすでに、労働者の悲惨な状況や労働力の無制限な乱費や社会的無政府の荒廃など、この絶対的矛盾がもたらす消極面を見てきた。だがここでマルクスは、大工業のもたらすこの絶対的矛盾の積極的な面を、大工業の破局という歴史的過程の後に見霽かして次のように言う。「しかし、いまや労働の転換が、ただ圧倒的な自然法則としてのみ、また、至るとこで障害にぶつかる自然法則の盲目的な破壊作用を伴ってのみ、実現されるとすれば、大工業は、いろいろな労働の転換、したがってまた労働者のできるだけの多面性を一般的な社会的生産法則として承認し、この法則の正常な実現に諸法則を適合させることを、大工業の破局そのものをつうじて、生死の問題にする。大工業は、変転する資本の搾取欲求のために予備として保有され自由に利用される惨めな労働者人口という奇怪事の代わりに、変転する労働要求のための人間の絶対的な利用可能性をもってくることを、すなわち、一つの社会的細部機能の担い手でしかない部分個人の代わりに、いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活動様式としてかわるがわる行うような全体に発達した個人をもってくることを、一つの死活問題にする。」
教育の問題を取り上げたマルクスは、この段落の最後で「工場立法は、資本からやっともぎ取った最初の譲歩として、ただ初等教育を工場労働と結びつけるだけとしても、少しも疑う余地のないことは、労働者階級による不可避的な政権獲得は理論的及び実際的な技術教育のためにも労働者学校の中にその席を取ってやるであろうということである。」と述べて、労働者学校という労働者のための教育機関が作られるのが必然であることを言おうとしているかのようであるが、しかし続けて「また同様に疑う余地のないことは、資本主義的生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的とに真正面から矛盾するということである。とはいえ、一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は、その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である。」と述べ、労働者や更には社会を構成するすべての人々の自由が、大工業の絶対的矛盾をヘーゲル弁証法的に止揚することによってのみ可能であると指摘しているのではないか、と思う。
工場立法が工場やマニュファクチュアなどでの労働を規制するかぎりでは、当初はただ資本の搾取権への干渉として現れるだけである。ところが家内労働の規制は直ちに父権あるいは親権の直接的侵害として現れるのである。とはいえ事実の力は、ついに大工業は古い家族制度、それに対応する家族労働との経済的基礎、そして古い家族関係そのものをも崩壊させるということを否応なしに認めさせた。
親の権力の乱用が、子供の労働力の搾取を作り出したのではなく、資本主義的搾取様式が、親の経済的基礎を廃棄することによって、親の権力を一つの乱用にしてきたのである。家族制度の崩壊がどんなに恐ろしく厭わしいもの見えようとも、大工業は、家事の領域の彼方にある社会的に組織された生産過程で、女性や子供達家族や両性関係のより高い形態のための新しい経済的基礎を作り出すのである。(弁証法的に展開する)歴史的発展系列の各段階は絶対的なものではないから、キリスト教的ゲルマン的家族形態を絶対的と考えることは愚かなことである。同様に、男女両性の様々な年齢層の諸個人から結合労働人員が構成されているということは、労働人員の構成自体が退廃や奴隷状態の源泉であるとはいえ、その構成に相応する諸関係のもとでは逆に人間的発展の源泉に一変するに違いないのである。
工場法を全ての社会的生産の法律に一般化する必要は、大工業の歴史的発展行程から生じる。そこで、二つの事情が最後の決着をつける。一つは、資本は個々の点だけで国家統制を受けると必ず抜け道を見つけることを繰り返し来た、という経験である。もう一つは、労働搾取の制限を平等にするという資本家達の叫びである。工場法が具体的にどのような道筋によって一般化してきたのか、についての概要は下記のようなものである。
l 1833年。工場法の制定。但し、四つの工業部門(綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場)で13歳から18歳までの少年の労働時間を一日12時間に引き下げた(18歳以上の男子には労働時間制限はない。また法定の「日」は15時間)等の事実は、労働時間を減らすための強制法が役だってはいないことを示している(第八章 労働日 第五~六節参照)。
l 1840年。(議会の)調査委員会が鉱山業のおそろしくけしからぬ実態を暴露をする
l 1842年。鉱山法制定。女と10歳未満の子供との地下労働の禁止だけにとどまる
l 1842年。議会が議会に設置された委員会の要求を拒否
l 1844年。工場法の改訂。この改訂がされるまでは、字の書けない教師が珍しくなかった。それ以降でも、通学証明書に記入する数字と教師の名前は教師自ら書くと規定された程度であった(第13章 機械と大工業 第3節a参照)。
l 1850年。工場法の改訂。朝食や昼食の時間を除いた労働時間は週平均10時間(平日は12時間の拘束時間となる)。この法律の特別な番人として内務大臣直属の工場監督官が任命されていて、その報告書は半年ごとに議会から公表される(第八章 労働日 第二節参照)。
l 1860年。鉱山監督法制定。官吏の監督を受けることになる。10~12歳までの男児の修学証明書が必要となる。しかし死文(任命された監督官の人数がおかしいほど少数など)
l 1862年。調査委員会が鉱山業の新たな規制を提案。しかし規制化は遅延
l 1864年頃。議会が議会に設置された委員会(産業調査委員会)の要求を認め、土器工業(製陶業を含む)、製紙・マッチ・雷管・弾薬筒製造、びろうど剪毛業が、繊維工業に適用されている法律の下に置かれた。
l 1866年7月23日。『鉱山特別委員会報告書。付・・・証言資料』公表。報告は五行、後は証人尋問の記述
l 1866年9月。ジュネーブで開かれた「国際労働者大会」で、8時間労働を労働日の法定限度として提案された(第八章 労働日 第七節参照)。
l 1866年。『児童労働調査委員会。第五次報告書』にて、「児童労働調査委員会」は最終報告を行い、約半数が小経営や家内労働に搾取されている140万人以上の子供と少年と婦人を工場法の下におくことを提案している。次のような産業部門がこの処置を受けるべきものとされた。レース製造、靴下製造、麦藁細工、多くの種類を含む衣料品製造、造花製造、靴・帽子・手袋製造、裁縫、溶鉱炉から縫針製造までの全金属工業、製紙、硝子工業、煙草製造、インドゴム製造、撚糸(織物)製造、絨毯手織、雨傘・日傘製造、紡錘・糸巻製造、印刷、製本、文具製造(Stationeryこれには紙箱、カード、色紙などの製造が属する)、ロープ製造、黒玉装飾品製造、瓦製造、絹手織、コヴェント織り、製塩、ろうそく製造、セメント工業、精糖、ビスケット製造、木材加工その他雑工業。
l 1867年2月5日。トーリー党内閣が開院式の勅語の中で、産業調査委員会の提案を「法案」にしたと告げる。
l 1867年8月12日。工場法拡張法が議会通過。これは次の諸産業を規制する。全ての金属鋳造・鍛造・鍛冶・加工、それとともに機械製造、さらにガラス・紙・グッタベルゴム・弾性ゴム・煙草製造、印刷、製本、最後に従業員50人以上の全作業場。
l 1867年8月17日。労働時間規制法が議会通過。もっと小さい作業場いわゆる家内労働を規制する(第二巻でもう一度触れる)。
l 1867年8月21日。作業場規制法が勅裁を得る。これは小さな事業部門を規制する。
l 1867年。農業における児童、少年、婦人の従業状態を調査する勅命委員会報告の公表。工業立法の諸原則を農業に適用する試みだが、全て失敗。
l 1871年。議会は作業場規制法の施行権を都市や地方の官庁から工場監督官へ移し、法が現実に実施され始める
l 1872年。新しい鉱業法制定。これについては(第二巻でもう一度触れる)。
l 1878年。工場および作業場法。相互に矛盾する工場法、工場法拡張法、作業場法を統一して作られた。この法律は1877年3月23日のスイス連邦工場法と並んで、抜群の最良の法律であるが、残念なことに大部分は今なお死文である―――監督官が足りないために、とエンゲルスは述べている。
「要するに、この1867年のイギリス立法で目につくことは、一面では、資本主義的搾取の行き過ぎに対してあのような異常な広範囲な処置を原則的に採用する必要が支配階級の議会に強制されたということであり、他面では、次いで現実にこの処置を行うにあたって議会が示した不徹底、不本意、不誠実な態度である。」
『鉱山特別委員会報告書。付・・・証言資料』(Blue Books:イギリス議会の資料刊行物と外交文書との一般的名称)の報告そのものは5行で、あとは証人尋問。証人は鉱山労働者で法廷弁護人は鉱山所有者などが含まれている議会の尋問委員会自身。「このまったくの茶番は、あまりにもよく資本の精神を特徴付けているので、ここでいくつかの抜き書きを出さないわけにはいかないのである。」とマルクスは述べて6例ほど掲載してあるが省略する。
1872年の法律は、欠点だらけではあっても。鉱山で従業する児童の労働時間を規制し、資本側にある程度災害責任負わせる最初の法律であった。
工場立法の一般化は、資本集積と工場制度の単独支配とを一般化し促進する。「工場立法の一般化は、資本の支配をなお部分的に覆い隠している古風な形態や過渡形態をことごとく破壊して、その代わりに資本の直接の剥き出しの支配をもってくる。従ってまたそれはこの支配に対する直接の闘争をも一般化する。それは、個々の作業場では均等性、合則性、秩序、節約を強要するが、他方では、労働日の制限と規制とが技術に加える非常な刺激によって、全体としての資本主義的生産の無政府と破局、労働の強度、機械と労働者との競争を増大させる。それは、小経営や家内労働の諸部面を破壊するとともに、「過剰人口」の最後の逃げ場を、従ってまた社会機構全体の安全弁をも破壊する。それは、生産過程の物質的諸条件および社会的結合を成熟させるとともに、生産過程の資本主義的形態の矛盾と敵対関係とを、従ってまた同時に新たな社会の形成要素と古い社会の変革契機とを成熟させる。」
第十節 大工業と農業
大工業が農業に引き起こす革命については、もっと後でなければ述べられないが、ここではいくつか予想される結果を簡単に示唆しておく。
l 大工業は、農業では、労働者の「過剰化」に対して、反撃を受けることなく一層強く作用する。
l 農業の部面では、大工業は、古い社会の堡塁(守ル体制は、旧習に囚われた社会、原始的な家族紐帯が絡みついた幼稚で未発達な生産様式)である「農民」を滅ぼして賃金労働者をそれに替えるかぎりで、最も革命的に作用する。
l 資本主義的生産は、一方で社会の歴史的動力を集積し、他方で人間と土地とのあいだの物質対処を攪乱する。それは都市労働者の肉体的健康をも農村労働者の精神生活をも破壊する(都市労働者は既に精神生活が破壊されており、農村労働者は既に肉体的健康が損なわれているので、それにくわえて)。しかし、同時にそれは、自然発生的に生じたものの破壊をつうじて、その破壊されたものを再び「社会的生産の規制的法則として、また人間の十分な発展に適合する形態で、体系的に確立することを強制する。」
l 広い土地に分散している農村労働者は、相対的に市労働者よりも組織的抵抗力が弱い。
l 資本主義的農業のどのような進歩も、労働者からの労働力の略奪だけではなく土地からの略奪の進歩である。そして、その核となるのは技術の進歩である。
l 資本主義的農業による技術の進歩は、一定期間の土地の豊度を高めると同時に、この豊度の不断の源泉を破壊することの進歩である。
l 「資本主義的生産は、ただ、同時にいっさいの富の源泉を、土地をも労働者をも破壊することによってのみ、社会的生産過程の技術と結合とを発展させるのである。」
[1] 労働の生産力を1,000,000倍にして、労働者数を1/1,000,000にすれば剰余価値量は同じとなる。労働の生産力を1,000,000倍にする社会では、100,000,000倍以下の価格で寿命が100倍以上の機械が用いられ、働き場所としての事業が1,000,000倍になっている
[2] 同時に次のことが言えるだろう。高い生産性に支えられた大量の生産物を消費する部分が出現して、これが資本の増殖を可能にした。この消費の担い手は、当時としては植民地であり、現代においては途上国一般および先進国における中間層である
[3] ジェームズ・ミル、マカロック、トレンズ、シーニア、J・Sミル、等々があげられ、リカードはこの考えを後で訂正したマルクスはこの点を評価している
[4] マルクスの注:労働奴隷の絶対的減少を機械経営の最終結果と見なし、人類は自分を天才の最高作品にまで高め、自由と権力、服従と正義、義務と人道を保護するための法律を制定する、と述べている当時の経済学者、マルクスに言わせれば「白痴状態の立場に立つ」ガニル氏が、機械の採用は従業労働者を受救貧民にすることだけは感知していた
[5] 外国からの穀物の輸入規制を目的としたイギリスの法律(1815年~1846年)。穀物価格の高値を維持し大地主貴族階級の利益を図るために制定された。大地主貴族階級の政治・経済的力をそぐことを目的として穀物法に反対する自由貿易論者は「穀物法反対同盟」を結成して大地主貴族階級戦い勝利した。穀物価格は労働者の最低賃金の基準となっていたから、穀物法撤廃は労働者の賃金引き下げを目的としたものでもあった
[6] 「大きなパン」は、穀物法反対同盟による労働者一般に対する偽りの煽動を象徴する言葉。彼らは労働者に、穀物法が撤廃されて自由貿易が実現すれば実質賃金が上がりパンの大きさが二倍になると信じ込ませようとし、大小二つのパンを持って街頭を練り歩いたが、実際に穀物法が撤廃されると当然にも反対に賃金は引き下げられた。
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