第八章 労働日
【感想】:この章に記述されている当時の悲惨な労働状況にマルクスは怒っている。実にまっとうな怒りである。その原因は「資本」による労働の搾取であり、資本主義生産体制において絞り込んで考察すれば、人間から時間を盗むことである。ここで怒りにまかせて「資本主義」を倒せば良いと考えてはマルクスも浮かばれない。現代にも受け継がれているこの不正義の是正にマルクスの理論を役立てることこそ、みんな(あえてみんなと言っておこう)に負わされた役割だよね。
第一節 労働日の限界
労働日=必要労働時間+剰余労働時間。労働日は可変量である。
必要労働時間=労働者が自分を再生産するのに必要な労働時間
=自分の労働力を売って受け取る価値を再生産する時間
労働日は、資本主義生産様式の基礎の上では、その最小限度(=必要労働時間)までは短縮され得ない。
労働日には最大限度がある。なぜなら、人間には肉体的及び精神的限界があるからである。労働日の延長は肉体的限界だけではなく精神的限界にもぶつかる。労働者は精神的および社会的な諸欲望を満たすための時間を必要とするからである。これらの諸欲望は一般的な文化水準によって規定されている。
労働日の変化はきわめて大きな変動の余地を残すものである。なぜなら、労働日の肉体的及び社会的な限界は非常に弾力性があるからである。
資本家は労働力をその「日価値」で買ったから、その商品から使用価値を引き出す権利を持っていると考える。そして最大の使用価値を引き出すには労働日を最大に延長しようとする。その時資本家は、この極限、労働日の必然的限界については独特の見解を持っている。「資本家としては、彼はただ人格化された資本でしかない。彼の魂は資本の魂である。ところが、資本にはただ一つの生活衝動があるだけである。すなわち、自分を価値増殖し、剰余価値を創造し、自分の不変部分、生産手段でできるだけ多量の剰余労働を吸収しようとする衝動である。資本はすでに死んだ労働であって、この労働は吸血鬼のようにただ生きている労働の吸収によってのみ活気づき、そしてそれを吸収すればするほどますます活気づくのである。労働者が労働する時間は、資本家が自分の買った労働力を消費する時間である。もし労働者が自分の処理しうる時間を自分自身のために消費するならば、彼は資本家のものを盗むわけである。」
それに対して労働者は、「ぼくの労働力としての利用とその強奪とは全く別のことだ。」と異議を申し立てる。「ぼくがきみに売った商品は、その使用が価値を創造し、しかもそれ自身が値するよりも大きい価値を創造するということによって、他の商品庶民とは区別される。これが、きみがそれを買った理由だった。きみの方で資本の価値増殖として現れるものは、ぼくの方では労働力の余分な支出だ。・・・そこで、ぼくは正常な長さの労働日を要求する、・・・ぼくに対してきみが代表しているもの(資本)には、胸のなかに鼓動する心臓がない。そこで打っているように思われるのは、ぼく自身の心臓の鼓動なのだ。ぼくは標準労働日を要求する。なぜならば、ほかの売り手がみなやるように、ぼくも自分の商品の価値を要求するからだ。」
等価交換という商品交換そのものの性質からは、労働日の限界は出てこない。資本家が労働日をできるだけ延長しようとするとき、それは買い手としての権利の主張である。しかし、労働日は肉体的および社会的に限界があるから、労働者が、労働日を一定の正常な長さに制限しようとするとき、彼は売り手としての自分の権利を主張する。
「だから、ここでは一つの二律背反が生ずるのである。つまり、どちらも等しく商品交換の法則によって保障されている権利対権利である。同等な権利と権利の間では力がことを決する。こういうわけで、資本主義的生産の歴史では、労働日の標準化は、労働日の限界を巡る闘争―――総資本家すなわち資本主義階級と総労働者すなわち労働者階級との間の闘争―――として現れるのである。」(ここでの権利は、商品交換の法則によって保証されたものにすぎない。逆に言うと、この二律背反を止揚して「正常な長さの労働日」を規定するものは、商品交換の法則には含まれていない別の法則に基づかねばならぬことになる。マルクスが、それは「力」であると言っているとすれば、法則を探し出すこと自体を放棄することになるであろう。なぜならば、権利という言葉を用いるかぎり、それは公正とか正義とかいうというものに基づいていなければならず、力の行使はそのようなものに基づいてはならないからである)
第二節 剰余労働への渇望 工場主とボヤール
剰余労働は、どのような社会においても、社会の一部の者が生産手段を独占していれは生じるものである。
生産物の交換価値ではなくて使用価値のほうが重きをなしている社会においては、生産手段を持っている人が抱く剰余労働に対する欲望には制限がある。言い換えると、生産そのものからは剰余価値に対する無制限の渇望は生まれない。だから古代においても金銀の生産では、恐ろしいまでに過度労働が現れるのである。
生産物の使用価値よりも交換価値のほうが重きをなしている社会においては、生産手段を持っている人が抱く剰余労働に対する欲望は無制限である。
そのことは、その生産がまだ奴隷労働や夫役などという低級な形態で行われている諸民族が、資本主義的生産様式の支配する世界市場に引き込まれ、世界市場が彼らの生産物の外国への販売を主要な関心事にまで発達させるようになれば、そこでは奴隷制や農奴制などの野蛮な残虐の上に過度労働の文明化された残虐が接ぎ木されるのである。例えば、アメリカ合衆国の南部諸州における黒人奴隷やドナウ諸候国における夫役の過度労働はその事例である。
夫役における剰余労働は、一つの独立した、感覚的に知覚することのできる形態を持っている。それに対して、資本主義生産体制における剰余労働はそのような形態をもっていない。というのは、夫役においては、自分の農地で働く日数と領主の農地で働く日数の区別がはっきりしているから、必要労働時間と剰余労働時間の区別が意識の上で明確であるのに対して、資本主義生産体制における労働においては、一労働日の内で、それらの区別を意識の上で区別することができないからである。前者の例で言えば、ワラキア(現代ルーマニアの南部)の農民がボヤール(領主)のためにおこなう夫役がそうである。
「資本家の場合には剰余労働への渇望は労働日の無際限な延長への衝動に現れ、ボヤールの場合にはもっと単純に夫役日の直接的追求に現れるのである[1]。」
ドナウ諸候国(モルダヴィアとワラキア)やルーマニア諸州においては、更にはドイツにも、特にエルベ川以東のプロイセンにおいても、夫役は支配階級への決定的な貢祖となっておいた。ほとんどの場合この夫役から農奴制が発生したのであり、その逆ではない。これらの諸州の元来の生産方式は共同所有を基礎としており、土地の一部分は自由な私的所有として共同体の諸政院によって独立に管理され、他の部分は共同に耕作された。この共同労働の生産物は災害や戦費や宗教費などの財源として国庫とし役立てられた。時が経つにつれて、軍事関係や教会関係の高職者たちは共有財産と一緒に共有財産のための仕事を横領した。
「自分たちの公共地での自由な農民の労働は、公共地盗人たちのための夫役に変わった。それと同時に農奴制諸関係が発展した。といっても、世界を開放するロシアが農奴制を廃止するという口実のもとに農奴制を法律にまで高めるまでは、ただ事実的に発展しただけで、法律的に発展したのではなかった。」
ドナウ諸国国における最初の憲法に見られる、剰余労働に対する渇望状況の事例は大略以下の通り。
1828-1829年の露土戦争に勝利したロシアは1829年のアドリアノーブルの講和条約によって、ドナウ諸国国はロシアの軍隊に占領された。ロシアの将軍の草案に基づいて、1831年に憲法「レグルマン・オルガニク」が定められた。この憲法では、各候国の立法権は、大地主によって選出された議会に引き渡され、行政権は、大地主と僧侶と都市との代表者によって選出された終身の国主に任された。旧来の封建的秩序は、夫役をも含めて、維持された。同時に、一連のブルジョワ的諸改革が実行された。すなわち、国内関税障壁の除去、商業の自由化、司法の行政からの分離が行われた。農民には地主を変えることが許され、拷問が廃止された。1848年のヨーロッパ諸地域に発生した革命の時に、この憲法は廃止された。
「レグルマン・オルガニク」によると、ワラキアの農民に対して法規で定められた夫役日は一年間に14日であるが、この1日の定義は3日のことと明記されるとともに、通常の夫役とは別に領主に対する義務として14日が加算され、結局、規定された夫役日は一年間に56労働日となる。ワラキアでの年間農耕日数は210日しかなく、日曜日と祭日とで40日、悪天候のために平均30日、合計70日を引くと残りは140日となる。従って必要労働に対する夫役の比率は56/(140-56)=66.66%となる。これはイギリスの農業労働者や工場労働者の労働を規制する剰余価値率よりずっと小さい。しかし、これは法律で規定された夫役日であって、実際の労働日はもっと多い。というのは、この法律は、夫役によっては一日では終わらない仕事も一日に数えることができるような解釈が可能となっているからである。
「ドナウ諸候国のレグマン・オルガニクは剰余労働に対する渇望の積極的な表現であったのであり、それを各条項が合法化しているのだとすれば、イギリスの工場法は同じ渇望の消極的な表現である。この法律は、国家の側からの、しかも資本家と大地主との支配する国家の側からの、労働日の強制的制限によって、労働力の無際限な搾取への資本の衝動を制御する。日々に脅威を増してふくれあがる労働運動を別とすれば、工場法の制限は、イギリスの耕地にグワノ肥料[南米の海鳥の糞]を注がせたのと同じ必然性の命ずるところだった。一方の場合には土地を疲弊させたその同じ盲目的な略奪欲が、他方の場合には国民の生命力の根源を侵してしまったのである。」
1867年現在も有効な、1850年に制定された工場法は、朝食や昼食の時間を除いた労働時間は週平均10時間となっている(平日は12時間の拘束時間となる)。この法律の特別な番人として内務大臣直属の工場監督官が任命されていて、その報告書は半年ごとに議会から公表される。だから、それは剰余労働に対する資本家の渇望について継続的な公式の統計を提供する。しばらく、工場監督官の言うところを聞こう[2]。
工場監督官報告書などに基づいて、マルクスが採り上げている事例の概要を下表にまとめた。ただし、当時のリアルな実態を感じ取るには本文を参照する方が良い。
項目
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発生場所
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発生時期
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出典
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概要
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労働超過(年間27日)
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工場一般
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1859年頃
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工場取締法改定案1859年印刷
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食事時間など毎日の労働時間搾取が実態
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労働超過(年間1月)
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工場一般
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1856-1858年頃
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工場監督官報告書1856,1858年
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同上
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恐慌時も労働超過
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工場一般
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1857-1858年
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工場監督官報告書1858,1861,1862年
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他工場の廃業や閉鎖にも関わらす
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恐慌時も労働超過
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綿工場など
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1861-1865年
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工場監督官報告書1861,1862年
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子供の過度で劣悪な労働(12~15歳)
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パトリ付近の八つの大工場
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1836年
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工場監督官報告書1861年
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塵芥に満ちた劣悪環境で30時間労働。当時の告発状引用
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過度労働の実証困難性の証言
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工場一般
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1856年頃
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工場監督官報告書1856年
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しかも、罰金払っても得をする
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時間泥棒は公然の秘密
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立派な工場
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1860年頃
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工場監督官報告書1860年
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時々刻々が利得の要素
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第三節 搾取の法的制限のないイギリスの諸産業部門
19世紀半ばにおけるイギリスにおいて、労働力の搾取が無拘束であるか、つい昨日まで無拘束であったいくつかの生産部門について目を向けてみる。
事例は、レース製造、陶器製造、マッチ製造、壁紙工場、製パン業、鉄道業、婦人服製造業、鍛冶業、などに及ぶ。その内容は、劣悪な環境の中で長時間の労働を強いられている労働者の実体、とくに子供や婦人の労働状況の例は驚くべきものがある。その結果、労働者の肉体や教育が著しく毀損され、生産物の品質が劣化し、環境が破壊されていた事実を知ることができる。
本節には、イギリス議会に設置された児童労働調査委員会の報告書などに基づいて、マルクスは多くの事例が採り上げている。それぞれ重要であるので、そのすべての概要を下表にまとめた。ただし、当時のリアルな実態を感じ取るには本文を参照する方が良い。
項目
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発生場所
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発生時期
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出典
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概要
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子供の過剰労働(9~10歳が20時間労働)
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レース製造工場
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1860年頃
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ロンドン『デーリー・テレグラフ1860年1月17日』
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州治安判事の証言。やせ衰えて、人間性は無感覚状態
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子供の過剰労働。以下の例参照
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スタフォード社製陶工場
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1840-1862年頃
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児童労働調査委員会への1841年の報告
『公衆衛生。第三次報告書1860年』
『児童労働調査委員会。第一次報告書1863年』
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最近の22年間に3度議会の調査対象。
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子供の過剰労働。
7歳の子供が一日15時間労働
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製陶工場
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同上
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『児童労働調査委員会。第一次報告書1863年』
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9歳の少年の証言。
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短命や体格の著しい低下や陶工の疾患が顕著
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製陶工場
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同上
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『公衆衛生。第三次報告書1860年』
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肺病による死者の半数が陶工の例など。25年間に体格の著しい低下等々
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長時間労働が陶工の病気の最大要因
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世界で卓越した製陶工場
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同上
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『児童労働調査委員会。第一次報告書1863年』
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医師の証言。胸の奇形、遅鈍、肺炎、陶工の2/3が病気
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劣悪環境下の過剰労働(12~15時間)。18歳未満が半数。
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マッチ製造業
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1863年頃
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『児童労働調査委員会。第一次報告書1863年』
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零細業で不衛生と燐毒の中、飢え死にしそうな寡婦がぼろを着た子供を引き渡す・・
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過剰労働(朝6時から深夜まで)
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壁紙工場
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1862年頃
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『児童労働調査委員会。第一次報告書1863年』
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母親が付き添った7歳の子供の、冬場16時間労働の例など
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ロンドンのパンの不純製造
材料に日常的に不純物が混入
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製パン業
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1855年頃
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「食料品の不純製造に関する下院委員会1855~1856年』等
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1860年に制定された法律は無効果。
自由商業は本質的には不純品の取引を意味した
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過剰労働
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製パン業
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1862年頃
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『製パン職人の苦情に関する報告書ロンドン、1862年』、及び『第二次報告書1863年』等
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製パン職人に関する法規制(18歳未満のは夜9時~朝5時までの労働禁止)
過剰労働振りは実際寝る暇がない程
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短寿命(42歳まで生きるのは希)
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製パン業
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1858~1860年頃
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同上
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ロンドンの職人の供給元は、農業地帯やスコットランドやドイツなので、困らない
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アイルランドの製パン業者による組織的運動で、一部地区における夜間労働禁止が実現
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製パン業
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1858~1860年
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『1861年のアイルランド製パン業調査委員会報告書』
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「12時間を超える労働は、労働者の健康を破壊する傾向があり、・・・」
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アイルランド農業労働者過剰労働に対する訴訟
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農業
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1866年頃
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『ワークマンズ・アドヴォケート紙1866年1月13日』
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1865年以来、まずスコットランドで、農業労働者のあいだに労働組合が結成されたことは、一つの歴史的事件である。
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鉄道労働者の過剰労働(13~14時間)による鉄道事故
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鉄道
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1866年
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『レノルズ・[ニューズ]ペーパー」1866年1月21日~』
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10年~12年前までは8時間労働だったが、最近の5~6年の間には、時期によって50時間連続労働も・・・
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女工の過労死(平均16時間半、社交の季節には30時間の連続労働)
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婦人服製造
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1863年
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ロンドンのすべての日刊紙。
リチャードソン博士『労働と過度労働」。『ソーシャル・サイエンス・レヴュ―1863年7月18日号』掲載
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必要な空気容量の1/3燃えられないほどの一室に30人入れられて、・・・
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過剰労働による鍛冶工の死亡率向上
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鍛冶工場
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1863年頃
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リチャードソン博士『労働と過度労働」。『ソーシャル・サイエンス・レヴュ―1863年7月18日号』掲載
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もともと強靱な体格を持っている鍛冶工の平均死亡率は、ロンドンの成年男子のそれよりも1000年につき11人も多い31人である
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生産手段の稼働率を向上させることは、資本の増殖を増大させることだから、子供や女性を含む労働者を交替制であろうとも昼夜ともに働かせるようになる。このことは労働者を更なる過酷な労働へと導き、肉体と精神を蝕むだけではなく、子供の教育の機会をも奪う。
「この交替制、輪作制は、イギリスの綿工場の血気盛んな少壮期に優勢に行われたし、またことに現在もモスクワ県の紡績工場で盛んに行われている。この24時間生産過程は、今日も尚、大ブリテンの現在に至るまで「自由な」多くの産業部門に、ことにイングランドやウェ―ルズやスコットランドの溶鉱炉や鍛治工場やその他の金属工場に、制度として存在している。」
本節には、イギリス議会に設置された児童労働調査委員会の報告書や個別に設置された下院委員会の報告書などに基づいて、マルクスは多くの事例を採り上げている。それぞれ重要であるので、そのすべての概要を下表にまとめた。ただし、当時のリアルな実態を感じ取るには本文を参照する方が良い。
項目
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発生場所
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発生時期
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出典
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概要
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子供の過剰労働
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溶鉱炉、鍛治工場等の金属工場
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1864年頃
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『児童労働調査委員会。第三次報告書1864年』
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男女の大人と子供(6歳~18歳)で労働単位を作り、交替制の24時間労働。多くは日曜も労働
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少女を含む婦人の過剰労働
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炭鉱、コークス置き場、ガラス工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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埃と煙で汚れた服を着て、男と一緒に昼夜労働の結果、自尊心が喪失
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夜間労働による子供達の一般的健康被害
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製鋼業
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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製鋼業者の証言「夜間労働する少年が、昼は休まず翌日休まず走り回るのは当たり前」
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夜間労働による子供達の一般的健康被害
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ランカシャの工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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医師の証言「自分の観察から、夜間労働で子どもたちの健康が害されると断言する」
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昼夜労働による過度労働(公認の労働日12時間を超える)
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溶鉱炉、鍛治工場等の金属工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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調査報告書の叙述「過重労働は、本当に恐ろしい」
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子供の過重労働(交替者の欠勤分の穴埋め)
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圧延工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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交替の少年が欠勤すると、その分は他の出勤している少年が労働時間延長で補う
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子供の過重労働(名目上の労働日は朝6時~夕方5時半を遙かに超える)
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圧延工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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ある少年は、毎週四晩は朝6時~少なくとも翌日の晩の8時半まで働き、これは6ヶ月続いた
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子供の過重労働(9~10歳)
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圧延工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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ある少年は、9歳の時には12時間/回の労働を引き続き3回たびたび行い、10歳の時にはこれを2日2晩続けた
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子供の過重労働(10歳)
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圧延工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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ある10歳の少年は、三晩は朝6時から深夜12時まで、他の夜は9時まで就業
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子供の過重労働(13歳)
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圧延工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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まる一週間午後6時から翌日正午12時まで労働し、また時には3回続けて、例えば月曜の朝から火曜の夜まで働いた
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子供の過重労働(12歳)
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ステーヴリの鋳鉄工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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14日間朝6時から夜12時まで労働し、もうそれ以上続けることができなくなった
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子供の過重労働(9歳。家に帰って寝ることもできない)
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ステーヴリの鋳鉄工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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朝の3時からの就業時には5マイル離れた自宅で寝ることできず、暑い現場で寝る他はない。
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子供の過重労働(9歳)
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溶鉱炉工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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土曜の朝は3時から就業、他の日は朝6時~晩6時か7時まで就労
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子供の過重労働による教育機会の喪失
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溶鉱炉、鍛治工場等の金属工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
『児童労働調査委員会。第五次報告書1866年』
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例えば、12歳での子供で四かける四は八、王女は男だ、・・・等々10歳~17歳まで6人の子供の事例が調査委員との問答の中で示されている
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子供の過重労働
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ガラス工場、製紙工場
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1865年頃
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『児童労働調査委員会。第四次報告書1865年』
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溶鉱炉、鍛治工場等の金属工場と同様な状況であることが示されている
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「そこで次に、この二十四時間制度を資本家自身はどう考えるか、を聞くことにしよう。この制度の行き過ぎ、労働日の「残酷で信じられないほどの」延長になるまでその乱用を、資本はもちろん黙って見逃す。資本はただ「正常な」形態にあるこの制度を語るだけである。」
『児童労働調査委員会。第四次報告書』1865年に基づいて、資本家の考えが語られている事例には次のようなものがある。
・製鋼工場主ネーラー・エンド・ヴィカーズ会社の例
600から700人の人員を使用し、うち10%が18歳未満であり、更にその内20人だけが夜業員。この会社は下記のような発言をしている。
少年たちが高温に苦しむことはない。温度は86度から90度である(摂氏に直すと、30~32度)。鍛鉄工場や圧延工場では昼夜交替労働で、鍛鉄工場の労働時間は12時から12時まで、何人かの職工は昼の時間と夜の時間の交代なしに、いつも夜間に働いている。他の作業は昼間だけで、労働時間は朝6時から晩6時まで。昼の労働と夜の労働とで何か健康上の違いがあるとは認めないし、職工たちはおそらく同じ休息時間を貰う方が、それが変わるよりもよく眠れるだろう(昼夜交替勤務の方が健康に悪い、と思っている)。少年の夜間労働なしではやっていけない。熟練工や部署の頭はなかなか得られないが、少年ならいくらでも得られる。
・ジョンブラウン会社の製鋼製鉄工場の例
3000人の大人と子供を使用。18歳未満の少年は500人程、その内1/3程が13歳未満。製鋼製鉄の重労働の一部で昼夜交替。重製鋼作業では大人二人に少年一人か二人で組む。この会社の経営者は、提案された法律案に対して、次のような発言をしている。
18歳未満の従業員を12時間より長く労働させないということが非常にけしからぬことだとは思わない。しかし、少年たちが夜間労働を免除されうるという線を12歳以上のどこかに引くことができるとは考えない。・・・身体を壊すから大人はいつも夜間労働をしているということもできない。だから、昼の組で労働する少年は、交替で夜の組でも労働しなければならない。夜間労働も、一週間おきにすれば害はない(夜間労働だけをしている健康に支障があると認識している。これはネーラー・エンド・ヴィカーズ会社とは逆である)。交替の夜間労働をしている人々は、昼だけ労働している人々と全く同じに健康である。
・キャメル会社の「巨人製鋼製鉄工場」の例
ジョンブラウン会社と同規模の会社。業務担当重役は、自分の証言を文書にして政府委員のホワイト氏に手渡した後、修正のために自分の手に返された草稿をかくしてしまうのが適当だと考えた。だが、ホワイト氏は物覚えがよい。彼が全く正確に思い出すところによれば、この巨人会社にとって児童や少年の夜間労働の禁止は「不可能事である。それは、会社の工場を休止させるのと同じことであろう」、といっても、この会社では18歳未満の少年は6%よりもほんのわずか多いだけであり、13歳未満はたった1%なのだが!」
・サンダソン兄弟商会アッタクリフの製鋼圧延鍛鉄工場の例
同じく、提案された法律案に対してこの会社の経営者は次のような発言をしている。
18歳未満の少年に夜間労働をさせることの禁止からは大きな困難が生じる。最大の困難は、少年に変わり大人の労働を使うことによる費用の増加である(子供ができる仕事を大人がすれば会社の出費が増えるし、子供の方が大人より言うことを聞くから都合がよい)。そのうえ、少年は仕事を覚えるには小さいときから始めなければならないので、少年を昼間労働だけに制限することは、この目的を果たさせない(これは本当の理由ではなく、本当の理由は夜間労働に少年を使うことで安上がりになった分を会社が負担すれば、その分損するからである)。
要するに溶鉱炉等の設備を一日24時間止めないのは、剰余労働を最大限吸収するためである。八歳の子供の睡眠時間の損失もサンダソン一族にとっては利益となる。
「正規の食事を保証することになればいまよりもいくらか余計に(設備の)熱量が浪費されるかもしれないが、しかしそれも、ガラス工場に使われている発育盛りの子供が気持ちよく食事を摂取し消化する暇さえないということのためにいま王国に起きている生命力の浪費に比べれば、貨幣価値から見ても、なんでもないことである。」(注103で、溶鉱炉などと類似の例としてのガラス工場における実態について、『児童労働調査委員会。第四次報告書』1865年の調査委員であるホワイト氏の叙述)
第五節 標準労働日のための闘争 14世紀半ばから17世紀末までの労働日延長のための強制法
資本は、労働日一日24時間から労働者の再生産に絶対に必要な最小限の時間を差し引いた時間と考える。
「従ってまた、彼の処分しうる時間はすべて自然的にも法的にも労働時間であり、従って資本の自己増殖のためのものだというのである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的諸機能の遂行のための、社交のための、肉体的および精神的生命力の自由な営みのための時間などは、日曜の安息時間でさえも―――そしてたとえ安息日厳守の国においてであろうと―――ただふざけたことでしかない!ところが、資本は剰余労働を求めるその無際限な盲目的な衝動を持って、労働日の精神的な最大限度だけではなく、純粋に肉体的最大限度をも踏み越える。」
「資本が関心を持つのは、ただただ、一労働日に流動化されうる労働力の最大限度だけである。資本が労働力の寿命の短縮によってこの目標に到達するのは、ちょうど、貪欲な農業者が土地の豊度の略奪によって収穫の増大に成功するようなものである。」
「つまり、本質的に剰余労働の生産であり剰余労働の吸収である資本主義的生産は労働日の延長によって人間労働力の萎縮を生産し、そのためにこの労働力はその正常な精神的および肉体的な発達と活動との諸条件を奪われるのであるが、それだけではない。資本主義的生産は労働力そのものの早すぎる消耗と死滅を生産する。それは、労働者の生活時間を短縮することによって、ある与えられた期間の中での労働者の生活時間を延長するのである。」
過酷な労働によって消耗される労働者の生命は、アメリカで働かされている黒人奴隷に対する奴隷貿易と同じように、「過剰人口」の農村地帯やドイツなどの後進地域の労働者の生命によって補充された。また、救貧当局による救貧院児童の工場主にたいする斡旋は、法の網の目をかいくぐり実施されていた。
経験が資本家に一般的に示すものは恒常的な過剰人口である。だが経験は、賢明な観察者には、歴史的にいえばやっと昨日始まったばかりの資本主義的生産がどんなに速くどんなに深く人民の生活根源をとらえてきたかを示している。
資本は、労働者の健康や寿命には、社会よって顧慮を強制されないかぎり、顧慮を払わない。「自由競争が資本主義的生産の内在的な諸法則をここの資本家に対しては外的な強制法則として作用させるのである。」
標準労働日の制定は、資本家と労働者との何世紀にもわたる闘争の結果である。だが、現代のイギリスの工場立法と、14世紀からずっと18世紀の半ばに至るまでのイギリスの労働取締法と比較してみると、現代の工場法が労働日を強制的に短縮するのに、以前の諸法令はそれを強制的に延長しようとしている。それは、資本がやっと生成してきたばかりの時代には、国家権力によって剰余労働確保するような状態であったからである。資本主義的生産様式の発展結果、「自由な」労働者が、彼の習慣的な生活手段の価格で、彼の能動的な生活時間の全体を、実に彼の労働能力そのものを売ることに自由意志で同意するまでには、すなわち社会的にそれを強制されるまでには、数世紀の年月が必要だった。「それゆえ、14世紀半ばから17世紀末まで資本が国家権力によって成年労働者に押しつけようとする労働日の延長が、19世紀の後半に子供の血の資本への転化に対して時折国家によって設けられる労働時間の制限とほぼ一致するのは、当然のことである。」
最初の「労働者取締法」(1349年)は、ペストの大流行による人口減による労働力供給不足に対する処方であり、適度な労賃が、労働日の限界と同じように命令された。1496年に出された労働日についての法律では、労働は朝の5時から晩の7時と8時の間まで続くことになっていた。その間、朝昼夕の休息時間の合計が3時間というものであったが、これは現行の工場法の二倍である。
17世紀末頃の状況でも、一日の労働時間は10時間で毎週20回の食事と毎日2時間の昼食を採っていた農業労働者から更に10%増税可能な剰余労働が可能であるとか、イギリスはドイツに比べて児童労働が少ないから、もっと早くから子供を働かせるのが道徳的である(これはアダム・スミスの時代まで続くのだが)とか、生来人間は安楽と怠惰に傾くから受救貧民を「理想的な救貧院(1770年に実在)=恐怖の家」で一日実働12時間働かせるのが良いとか言う考えが存在した。一方、奴隷状態で過剰な労働を強いることはイギリス人の独創力を鈍らせ俊敏ではなく愚鈍にするし、イギリス国民が戦場で武勇を奮えるのは十分な食糧と立憲的な自由の精神のおかげである、という考えも存在した。
その後、1833年にイギリス議会の制定した工場法によって、四つの工業部門(綿工場、羊毛工場、亜麻工場、絹工場)で13歳から18歳までの少年の労働時間を一日12時間に引き下げた(18歳以上の男子には労働時間制限はない。また法定の「日」は15時間)等の事実は、労働時間を減らすための強制法が役だってはいないことを示している。「資本の魂が1770年にはまだ夢に描いていた受救貧民のための「恐怖の家」が、数年後にはマニファクチュア労働者自身のための巨大な「救貧院」としてそびえ立った。それは工場と呼ばれた。そして、このたび理想は現実の前に色あせたのである。」
第六節 標準労働日のための闘争 法律による労働時間の強制的制限 1833-1864年のイギリスの工場立法
イギリスにおいて工場法が定められた1833年以来、近代産業にとっての標準労働日が現れ始めるが、その工場法の1864年までの変遷の歴史は、資本の精神をよく特徴付けていた。つまり、労働時間の短縮を含めた労働環境の改善に関する法の規制に対する資本の抵抗は強く、法の不備を突くことが巧みで(法の整備も、政治的力関係がもたらす実効性も不十分)、その結果、労働時間を含めた労働環境の改善は遅々たるものであった。
産業の発展は資本の意欲をますます高め、不況による労働需要の減少は労働環境を悪化させ、政情の不安定化は労働者の抵抗を抑制し、国制の不備は権力者と資本家と結びつけ、資本も権力も持たないものはただ自身が消耗することが権力者と資本家にとって不利になることだけによってその消耗に歯止めがかけられる他はないように見える。
当時のイギリス資本主義生産体制下における、資本家の取った行動、労働環境の劣悪さ、およびそれらを規制する法の実体が詳細に検証されている。何故そうであったのか、それは資本による労働の搾取およびそれを規制できない国家の無力ということになるのだが、ともあれ、マルクスは、産業革命後に大工業が発展したことが資本の精神を著しく強化し、労働者は「風習と自然、年齢と性、昼と夜という限界は、ことごとく粉砕された。」状況に落とし込まれ、子供の命さえ資本の増殖のためにその過酷な工場労働によって消耗させられていた、そのことを資料によって明らかにしている[3]。
詳細は本文参照。
第七節 標準労働日のための闘争 イギリスの工場立法が諸外国に起こした反応
冒頭において、三節~六節で述べられているイギリスにおける14世紀~19世紀後半に至るまでの、とくに19世紀前半に、それまでのマニュファクチャー的産業から産業革命を経た後に出現してきた大工業における、資本の強烈な意欲と労働者に対する労働搾取(それは未成人者に対する悲惨なそれを代表して語られている)という歴史的事実が、整理して述べられている。
「これまでに展開された立場では、ただ独立な、したがって法定の成年に達した労働者だけが、商品の売り手として、資本家と契約を結ぶのである。」(ということは、その契約なるものが、資本家と労働者が現実に事を運ぶための同じ力を持っている限りにおいて正統性を持つのだが、現実にはそうではなかったから、その理論的解析はさておいたとしても)。「単に歴史的事実(イギリスにおける)の関連だけからでも、次のようなことが出てくる。」
第一に、近代的生産様式であるがゆえに、悲惨な労働環境に例外的法規制として適用されている間に、旧来の生産様式の分野では(家内工業に至るまで)資本の労働搾取は浸透していた。従って立法は例外法的な考えを捨てるか、工場の範囲を拡大するか、の選択を余儀なくされた。
第二に、労働日の規制の歴史が明白に示しているように、「標準労働日の創造は、長い期間にわたって資本家階級と労働者階級との間に多かれ少なかれ隠然と行われていた内乱の産物なのである。この闘争は近代的産業の領域で開始されるのだから、それはまず近代的産業の祖国、イギリスで演ぜられる。」
ベルギー(大陸的自由主義の天国)では、(労働者と資本家の闘争という)運動の痕跡はない。過酷な労働環境のもとで、1863年には1850年に比べて石炭や鉄の輸出量も価格もほぼ二倍となった。
フランスはイギリスの後からゆっくりびっこを引いてくる。12時間法の誕生のためには2月革命が必要だった。それはイギリスの法よりも欠陥が多いものであったが、(フランス革命風に)すべての作用場や工場に対して一挙に適用するものであった。
北アメリカ合衆国では奴隷制度があるうちは、独立な労働運動はありえなかったが、南北戦争(1861~1865年)後に開かれたボルティモアの全国労働者大会(1866年8月)で標準労働日を8時間とする法律の制定に全力を尽くすと宣言した。
1866年9月にジュネーブで開かれた「国際労働者大会(第一インタナショナル)」で、8時間労働を労働日の法定限度として提案された。
「・・・労働者達は団結しなければならない。そして、彼らは階級として、彼ら自身が資本との自由意思契約によって自分たちと同族とを死と奴隷状態とに売り渡すことを妨げる国法を、超強力な社会的産物を、強要しなければならない。「売り渡すことのできない人権」の派手な目標に代わって、法律によって制限された労働日という地味な大憲章が現れて、それは「ついに、労働者が売り渡す時間はいつ終わるのか、また、彼自身のものである時間はいつ始まるのか、を明らかにする」のである。」
[1] クリミア戦争(1853-1856年)後の改革以前に形成されていたルーマニア諸州の状態に関するものである
[2] 例示の資料はおもに1848以降の自由貿易時代のものである。イギリスにおける大工業の発展から1854年までの時期の事情は、1845年以来公刊されている工場報告書や鉱山報告書、20年ほど後に公表された「児童労働調査委員会」の公式の報告書(1863-1867年)を参照した
[3] マルクスはどうすれば良いと考えたのだろうか?まだそこには言及していない。資本家ではなく労働する人々の国家を樹立すること、暗示はされてはいるが。短絡した結論を出す前に、マルクスの考えをじっくり聞こう。この巨人を21世紀に生かすために。
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