2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第7篇 資本の蓄積過程 第23章 資本主義的蓄積の一般的法則

第二十三章 資本主義的蓄積の一般的法則

【感想】資本主義的生産体制の社会が進んでくると、生産は増大し、社会的富は蓄積され、働く人の数も増えてくる。しかし、労働人口は常に過剰となるようになっており、従って、労働者の生活は最低限のまま向上しない。なぜならば、労働人口は資本と独立ではなく資本によって制御されているからであり、それが可能なのは労働が資本の支配下にあるからである。資本主義的蓄積の一般法則は、蓄積が進めば相対的過剰人口が増えるということである。マルクスがこう考えざるを得ない根拠は、歴史も含めた現実の観察と経験にあるのだろう。その部分については、第8章(労働日)や第13章(機械と大工業)に続いて、本章の第五節(資本主義的蓄積の一般法則の例解)にも沢山書いてある。だが、資本が労働を支配するということを制御して、支配ではなく納得の構造をもった社会とはどのようなものなのだろうか。そのような社会を創るのにマルクスの理論を生かせたら良いと思う。

第一節 資本構成の不変な場合に蓄積に伴う労働力需要の増加
「この研究での最も重要な要因は資本の構成であり、またそれが蓄積過程の進行途上で受けるいろいろな変化である。」
「資本の構成」には、価値の側面と素材の側面がある。価値の側面から見た資本の構成を資本の価値構成、素材の側面から見た資本の構成を資本の技術的構成と呼ぶ。資本の価値構成は不変資本と可変資本のことであり、資本の技術的構成は生産手段と生きている労働のことである。前者が後者に規定される限りにおいて、前者を資本の有機的構成と呼び[1]、また簡単に資本の構成という時には資本の有機的構成のことを言う。
資本の構成は、個別資本、産業部門、一国の社会資本へと順次括られていって、結局はただ一国の社会資本だけが問題にされる。
資本の構成が変わらないとすれば、資本の増大は、労働に対する需要と労働者の生計財源を増大させる。この増大関係は比例関係であり、増大率の変化も比例的であり、しかも特別に致富欲を刺激するものが現れることになる。従って、この前提のもとでも資本の蓄積欲望が労働力増大(=供給)を上回り、結局労賃は上がる。労賃が上がることに対する嘆きは、イギリスでは、15世紀全体を通じて、また18世紀の前半にも大きく聞こえてくる。しかし、労賃の上昇は資本主義的生産の根本性格を少しも変えるものではない。「単純再生産が資本関係そのものを、一方に資本家を、他方に賃金労働者を、絶えず再生産するように、拡大された規模での再生産、すなわち蓄積は、拡大された規模での資本関係を、一方の極により多くの資本家またはより大きな資本家を、他方の極により多くの賃金労働者を、再生産する。労働力は絶えず資本に価値増殖手段として合体されなければならず、資本から離れることができず、資本への労働力の隷属は、ただ労働力が売られていく個々の資本家が入れ替わることによって隠されているだけで、このような労働力の再生産は、事実上、資本そのものの再生産の一契機をなしているのである。つまり、資本の蓄積はプロレタリアートの増殖なのである。」
古典派経済学はこの点については十分に理解していた[2]。例えば1696年のジョン・ベラーズ[3]は『産業専門学校設立提案』にて「そして、労働者が人々を富ませるのだから、労働者が多ければ多いほどそれだけ富者も多くなる。・・・貧者の労働は富者の宝庫である。」と述べ、バーナード・ド・マンデヴィル[4]18世紀初めに『蜜蜂物語』にて「これ(=貧民の欲望)を満たしてしまうことは愚かであろう。働くものを勤勉にすることのできる唯一のものは、適度な労賃である。・・・奴隷が認められていない自由な国では最も確実な富は勤勉な貧民が多いことだということになる。・・・社会(=富者の社会)を幸福にし、人民を困窮状態にも満足させておくためには、大多数のものがいつまでも無知で貧乏であるということが必要である。知識は我々の望みを大きくし何倍にもする。そして、人の望むところが少なければ少ないほど、その人の欲望はたやすく満たされうるのである。」と述べている。
だが、正直者で頭の良いマンデヴィルでさえ、貯蓄過程そのものの機構が資本と一緒に「勤勉な貧民」も増やすということは理解していなかった。「彼ら(=貧民=賃金労働者)は自分の労働力を、増大する資本の増大する価値増殖力に転化させるよりほかはないのであり、またまさにそうすることによって、資本家として人格化されている自分自身の生産物への自分の従属関係を永久化するほかはないのである。」この従属関係について、アダム・スミスの弟子の中で18世紀になにか有意義な仕事をしたただ一人の人である[5]、サー・FM・イーデンは『貧民の状態、または、イギリス労働者階級の歴史』(1797)において、「欲望の充足のためには労働が必要である。それゆえ少なくとも社会の一部分はたゆまず労働しなければならない。・・・いくらかの人々は、労働はしないのに、勤勉の産物を自由に処分することができる。しかし、それは、これらの財産所有者たちにとって、ただ文明と秩序とのおかげであって、彼らは市民制度の純粋な被造物である[6]。・・・富者を貧者から区別するものは、土地や貨幣の所有ではなく、労働に対する支配力である。・・・貧者にふさわしいものは、劣悪なまたは奴隷的な状態ではなく、安楽で自由な状態であり、また財産のある人々にとって(ふさわしいもの)は、自分たちのために働く人々に対する十分な影響力と権威である。・・・このような従属関係は、人間の本性を知っている人なら誰でも知っているように、労働者自身の安楽のために必要なのである。」と述べている(つまり資本主義的生産関係の構造についてのマルクスの考えを支持するものと言うことになる)。
このように、労働者が資本の支配下にあるということは、資本の蓄積と賃金との関係は、一方には資本の大きさがあり、他方にはそれと独立に労働者人口があるという関係から導かれるようなものではなくて、労働者に対する不払労働と支払労働との関係に過ぎないのである。このことは、労働の価格の上昇があっても実際には資本は増加するとか、一般に大資本は、利潤が減少する場合にも、利潤が大きい場合の小資本よりも急速に増大する(アダム・スミス『諸国民の富』)とか、労働の価格の上昇が利潤の減少をもたらして貯蓄が衰えても、それが結局賃金の低下となる(はじめの賃金より高いか低いかは別として)とかの現象として現れてくる。「だから、一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則が実際に表しているのは、ただ、資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与える恐れのあるような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、すべて、資本主義的蓄積の本性によって排除されている、ということでしかないのである。」

第二節 蓄積とそれに伴う集積との進行途上での可変資本の相対的減少
経済学者(古典派、主にアダム・スミス)が言うように、賃金の上昇は社会の富の大きさではなく、蓄積の持続的増大(速度)に依る。これまでは資本の技術的構成が変わらずに資本が増大する局面を見てきたが、過程はこの局面を超えて進む(蓄積が増大すれば賃金は上昇、労働の生産性は上昇、労働量は減少、生産手段の量はその価値の減少を上回って増大するから)。
アダム・スミスも言うように[7]、賃金を高くする原因である資本の増加が労働の生産能力の上昇を可能とする。労働の社会的生産度は、労働者が生産物に転化させる生産手段の相対量として表されるが、生産手段の増大は、労働の生産性の増大の結果であるとともにその条件でもあって、結局、労働の生産性の増加は生産手段量に対する労働量の減少となって現れる。
このように、資本の増加(蓄積)によって可変資本に対して不変資本は増加していく(これは法則であるとマルクスは言う)。このことは商品の比較分析によって、同じ国についての違う時代の比較においても、ちがう国についての同時代の比較においても確証される。労働の生産性の上昇につれて、生産手段の規模は増大するがその価値は低下するから、不変資本と可変資本との価値についての差異は量についてのそれよりもはるかに小さい。
第四篇で明らかにしたように、労働の社会的生産力の発展は大規模の協業を前提にするが、この前提は資本主義的生産様式に基づく商品生産という基礎の上に成り立つものであり、資本主義的生産様式は、個々の商品生産者のある程度の資本の蓄積を前提としている。このような、ある程度の蓄積は本源的蓄積と呼ばれるものであって、そう呼ばれるのは、独自な資本主義的生産の歴史的な結果ではなく、その歴史的な基礎だからである。また本源的蓄積そのものがどうして生じるかは、ここではまだ研究しなくて良いが、とにかくそれが出発点なのである。それから、労働の社会的生産力を増大させるための方法は、剰余価値を増加させる方法であり、資本による資本の生産の方法であり、資本の加速度的蓄積の方法と同じである。こうして「(資本の蓄積と独自な資本主義的生産様式という)二つの経済的要因は、互いに与え合う刺激に複比例して資本の技術的構成を生み出すのであって、この変化によって可変成分は不変成分に比べてますます小さくなって行くのである。」
個々の資本は生産手段が個々に集積したものである。その集積の増大は社会的総資本の部分をなしている割合に応じて増大すると同時に、元の資本から枝分かれしてその数を増加する。このような集積は、蓄積とも言えるが、その増大は次の二つの点において特徴付けられる。一つは社会的富の増大の程度によって制限されるという点において、もう一つは、社会的資本のある生産部面に定着している個別資本家同士は、独立して競争する商品生産者として相対しているという点においてである。「それゆえ、蓄積は、一方では生産手段と労働指揮との集積の増大として現れるが、他方では多数の個別資本の相互反発として現れるのである。」
多数の個別資本の反発はまた、この諸部分の吸収が反対に作用する。このような吸収は、既に形成されている諸資本の集積であり、資本家による資本家からの集積である。この過程は既に存在している資本の配分の変化だけであって、それが行われる範囲は社会的富の増加または限界によって制限されない。「これは、蓄積及び集積とは区別される本来の集中である。」
諸資本の集中または資本による資本の吸収の諸法則については、ここではまだ展開できないから事実を簡単に述べておく。競争は商品の価格によって戦われ、商品の安さは労働の生産性によって定まり、この生産性は生産規模によって定まる。従って競争は多数の小資本家の没落で終わり、かれらの資本は一部の勝利者の手に入ることになる。そして資本主義的生産の発展につれて、一つの全く新しい力、信用制度が形成されてくる。資本主義的生産と資本主義的蓄積とが発展するにつれて、競争と信用とが、この二つの最も強力な集中の槓杆(=テコ)が、発展する。蓄積の発展は集中されうる個別資本を増加させ、生産の拡大は一方では社会的欲望を作り出し、他方では資本集中がなければ出来ないような巨大な産業企業、例えば鉄道などの技術的手段を作り出す。集中の限界は、社会的総資本が単一の資本に合一された瞬間に到達するであろう。
集中は蓄積の作用を強くまた速くし、同時に資本の可変部分を減らして不変部分を大きくし、従って労働に対する相対的な需要を減らす。蓄積の進行中に形成される追加資本だけでなく、古い資本も次第に古い皮を脱ぎ捨て技術的に改良された姿で生き返るようになり、必然的に労働需要は減少する。
「要するに、一方では、蓄積の進行中に形成される追加資本は、その大きさに比べればますます少ない労働者を引き寄せるようになる、他方では、周期的に新たな構成で再生産される古い資本は、それまで使用していた労働者をますます多くはじき出すようになるのである。」

第三節 相対的過剰人口または産業予備軍の累積的生産
資本の蓄積は単なる拡大から、資本の構成の不断の質的変化を伴ったものとなってきた。資本の構成の変化は社会的富の増大よりもずっと速く進むのは、資本の集中と追加資本に基づく技術的変革の原資本への波及効果のためである。「労働者人口は、それ自身が生み出す資本蓄積につれて、ますます大量にそれ自身の相対的過剰化の手段を生み出すのである。これこそは、資本主義的生産様式に特有な人口法則なのであって、じっさい、どの特殊な歴史的生産様式にも、それぞれ特殊な歴史的に妥当する人口法則があるのである。抽象的な人口法則というものは、ただ動植物にとって、人間が歴史的に干渉しないかぎりで、存在するだけである。」
過剰労働者人口が蓄積の必然的産物であるならば、逆にこの過剰人口は蓄積の一つの条件でもある。過剰労働者人口は産業予備軍と呼ばれ、資本家によって自由に利用されうるもの、まるで資本が自分の費用で育て上げたものででもあるかのように絶対的に資本に従属しているものなのである。追加資本が必要になった時には、それが緊急にまた大量であっても、必要な人間の大軍をいつでも決定的な点に投入できるようになっていなければならない。近代産業の生活過程は、中位の活況、生産の繁忙、恐慌、沈滞の各時期が、より小さい諸変動に中断されながら、(今までのところ)10年ごとの循環をなすという特徴的な形態をなしている。そのことは、産業予備軍の不断の形成、その大小の吸収、その再形成に基づいている。「この産業循環の変転する諸局面は、またそれ自身、過剰人口を補充するのであって、過剰人口の最も精力的な再生産動因の一つになるのである。」
このような近代産業の特徴的な生活過程は、人類の過去のどの時代にも見られないものであり、資本主義的生産の幼年期にも現れることは出来なかった。なぜなら、労働者人口というものが、自然的限度として資本蓄積の妨げとなっていたからである。近代産業は、生産規模の突発的で発作的な膨張に対応する労働者人口の急な増大を、自然的な増大ではなくて、労働者の一部分を絶えず「遊離させる」過程によって作り出した。「だから、近代産業の全運動形態は、労働者人口の一部分が絶えず失業者または半失業者に転化することから生ずるのである。」経済学は、産業循環の局面転換の単なる兆候(かつ現象)でしかない信用の膨張や収縮をこの転換の原因にしているが、浅薄で本質を捉えていない考えである。あたかも、(力学の自然法則に基づく)天体の運動と同じように、社会的生産も、ひとたびあの交互に起きる膨張と収縮という(社会的な法則に基づく)運動に投げ込まれれば、絶えずこの運動を繰り返す。結果がまた原因となり、それ自身の諸条件を絶えず再生産する全過程の変転する諸局面は周期性の形態を取るのである[8]。「ひとたびこの形態が固まれば、経済学でさえも、相対的な、すなわち資本の平均的な増殖欲求から見ての、過剰人口の生産を、近代産業の生活条件として理解するのである。」
一人一人の労働者がより多くの労働を供給することが資本家にとっての最大の関心事である。なぜなら、不変資本の投下は、労働量の増大に対しては緩慢的に増大し、労働者数に対しては比例的に増大するからである。だから生産の規模が大きいほど可変資本の増加の割には、労賃の増大はあったとしても労働者数の増加は少ない。
蓄積の原因でもあり結果でもある資本主義的生産様式と労働の生産力との発展につれて、資本家は多くの労働を流動させることが出来るようになる(その理由はすでに本書において種々述べられている)。また、蓄積の進行につれて資本の構成の変化も速くなるから、相対的過剰人口の生産(=労働者の遊離=産業予備軍の創出)もより速く進み、資本は労働供給を労働需要よりももっと速く大きくする。産業予備軍が競争によって就業部分に加える圧力の増大は、過度労働や資本への屈従を強制し、労働者階級の一方の部分が他方の部分の過度労働によって強制怠惰という罰を加えることになると同時に、個々の資本家の致富手段となる。社会的蓄積の進展に対応する規模での産業予備軍の生産を速くするという契機が、相対的過剰人口の形成においてどんなに重要であるかを示す好例はイギリスである(イギリスでは資本主義的生産様式と労働の生産力が発展しているから)。
労賃の一般的な運動は、ただ、産業予備軍の膨張・収縮、言い換えれば過剰人口の相対的な大きさの増減によって規定されているのであって、労働者人口の絶対数の運動によって規定されているのではない。労働の需要供給は資本の膨張・収縮(=資本の運動)によって、つまり資本のその都度の増殖欲求に従って規制されているのであって、人口の運動に依存するという考えは経済学の独断である。
(例えば)1849年~1859年に、穀物価格の下落と同時にイギリスの農業地帯の賃金の上昇と農業労働人口の増大が起こったが、これは戦争の需要による鉄道や工場や鉱山などの大拡張(およびもともと低い労賃)によって引き起こされたものであった。この時、借地農業者達は先の経済学の独断に従って農業労働者の人口が増えて賃金が下がるまで待っているのではなく、(例え労賃が上がろうとも)機械を導入してより生産的な形で資本を投入した。こうして、労働に対する需要は相対的に過剰となるだけではなく絶対的にも減少したのである。
(また別の視点から見ても)経済学は、労賃の一般的な運動を規制する諸法則、または総労働力と社会的総資本との関係を規制する諸法則を、労働者人口を特殊な諸生産部門のあいだに配分する諸法則と混同している。経済学者は、どこで(例えば好景気な生産部面で)、どうして(例えば資本が追加され)賃金の増加につれて労働者が増加するか、等々の現象だけを見ているのであって、労働の需要供給の法則による運動の本質を見ていない。(繰り返しになるが)労働の需要供給は資本の膨張・収縮(=資本の運動)によって、つまり資本のその都度の増殖欲求に従って運動する、というのがその本質である。従って、この法則の作用範囲は、資本の搾取欲と支配欲とに絶対的に適合している限界の中に押し込まれるのである。ここで経済学的弁護論に立ち帰り考える必要がある。(第13章 機械と大工業、第六節 機械によって駆逐される労働者に関する補償説、で既に説明したように)経済学的弁護論者は、新しい機械の採用などによって可変資本の一部分が不変資本に転化される場合、労働者を「遊離させる」操作を、労働者のために資本を遊離させるというように説明するのだが、これはあり得ないことである(それどころか、恥知らずな説明であることがここではじめて分かるとマルクスは言っている)。遊離された資本が(巡りめぐって)、機械の導入によって市場に投げ出される労働者を吸収出来ても出来なくても、どのような場合でも、資本が遊離されずに労働者に与えられることによる労働需要の活況は中和される。言い換えれば、(すでに述べたように)資本主義的生産の機構は、資本の絶対的増大に伴ってそれに対応する一般的な労働需要の増大が生じることのないようになっているのである。「そして、これを弁護論者たちは、失業労働者達を産業予備軍の中に封じ込めておく過渡期の間に彼らを襲う窮乏や苦悩や場合によっては破滅やの埋め合わせと呼ぶのである!労働に対する需要は資本の増大と同じことではなく、労働の供給は労働者階級の増大と同じことではなく、したがって、互いに独立な二つの力が互いに作用し合うのではない。さいころはいかさまだ。資本は両方の側で同時に作用するのである。・・・この基礎の上で行われる労働の需給の法則の運動は、資本の専制を完成する。」それだからこそ、労働の需要供給の法則が運動する、その本質が見破られるや否や、資本とその追従者である経済学者とは、就業者と失業者との連結は、労働の需要供給の「神聖な」法則を侵害するものと叫び立てるのである。他方、植民地では、(資本主義的生産様式が進展していないという事情に基づく)反対に作用する諸事情が、産業予備軍の創出を妨げ、また資本家階級への労働者階級の絶対的な従属を妨げるや否や「資本は、そのぼんくらなサンチョ・パンサといっしょに「神聖な」需給の法則に反逆して、強制手段によってそれを押さえ込もうとするのである。」

第四節 相対的過剰人口の種々の存在形態 資本主義的蓄積の一般的法則
相対的過剰人口には、産業循環の局面転換の時期を除いて、流動的、潜在的、停滞的という三つの形態がある。
流動的形態とは、近代産業において、生産規模に対する割合では絶えず減り続けるとしても絶対的就業者数としては増加し続ける過剰労働人口の存在形態を指す。少年期を過ぎて解雇される成人男子労働者、移民、その結果増大する女子労働者など、これらの例は、労働者が自然的増加をしていたとしても、資本の蓄積欲求を満足させずに過剰人口となるという、資本の運動そのものの一つの矛盾を含んでいる例として挙げられる。労働者が一定の事業部門につながれているために、失業と人手不足が同時に発生している場合には、資本の運動そのものの、さらに大きな矛盾である。資本による労働力の激しい消耗によって老朽化した中年労働者、とくに大工業の労働者こそ最も寿命が短い[9]。これらの事情の下では、労働者世代の急速な交替が社会的要求であるということとなり、これは大工業労働者の生活事情の必然的な結果である早婚によってみたされ、それがまた労働者の子供の搾取というプレミアムとなる。
農村人口の一部分は絶えず都市プロレタリアートまたはマニュファクチュアープロレタリアートに移行しようとしているから、相対的過剰人口のこの源泉は絶えず流れている。これが相対的過剰人口の潜在的形態である。この形態の過剰人口量は多い割には見えにくいので、賃金は最低限度に押し下げられている。
停滞的過剰人口は、現役労働者軍の一部をなしているが、その就業は全く不規則で、生活状態は労働者階級の平均水準より低く、労働時間の最大限と賃金の最小限とをなしている。(これらの事情は)停滞的過剰人口が資本の固有な搾取部門の広大な基礎であることを特徴付けている。われわれは家内労働という項の中で既にその主な姿を知っているが、この過剰人口は絶えず大工業や大農業の過剰労働者から補充され、ことに資本主義的生産様式の進展に伴って滅びつつある産業部門からも補充され、それ自身を再生産し永久化する要素(あるいは法則)を持っている。すなわち、労賃が低いほど出生率と死亡率が高く、しかも家族の絶対的な大きさが小さい。この法則は、個体としては弱くて迫害を受けることの多い動植物の大量的再生産を思い出させる。
最後に、相対的過剰人口の一番底の沈殿物が住んでいるのは、受救貧民の領域である。浮浪者や犯罪者や売春婦などを除いて、この社会層は三つの部類からなっている。第一は労働能力のあるもの、第二は孤児や貧児、第三は堕落したもの、零落したもの、労働能力のないものである。特に、分業によって転業が出来なくなって没落した人々、労働者としての適正年齢を超えた人々、最後に、近代産業の発達とともに増加している(劣悪な労働環境や労働条件による)産業犠牲者、すなわち不具者や罹病者や寡婦などである。「受救貧民は、現役労働者軍の廃兵院、産業予備軍の死重(重し)をなしている。受救貧民の生産は相対的過剰人口の生産のうちに含まれており、その必然性は相対的過剰人口の必然性のうちに含まれているのであって、受救貧民は相対的過剰人口とともに富の資本主義的な生産及び発展の一つの存在条件になっている。」
産業予備軍の相対的な大きさは、富の諸力の増大とともに増大する。これが資本主義的蓄積の絶対的な一般的な法則である。(この法則が支配する社会においては)資本の規模とその増大速度、プロレタリアートの大きさと生産力などが大きくなればなるほど、産業予備軍が現役労働者軍に比べて大きくなり、固定した過剰人口はますます大量となり、労働者階級の極貧層と公認の受救貧民層もますます大きくなる。
(本書においてすでに述べられている経済社会的法則の形態を、本節のテーマの視点から改めて記述されているマルクスの文章を以下に抜粋しておく)
「ますます増大する生産手段量が、社会的労働の生産性の増進のお陰で、ますますひどく減っていく人力支出によって動かされるという法則―――この法則は、労働の生産力が高くなればなるほど<中略>労働者の生存条件は<中略>ますます不安定になるということのうちに表されている。」
「われわれは第四篇で相対的剰余価値の生産を分析した時に次のようなことを知った。<中略>剰余価値を生産するための方法はすべて同時に蓄積の方法なのであって、蓄積の拡大はすべて逆にかの諸方法の発展のための手段になるのである。だから、資本が蓄積されるにつれて、労働者の状態は、彼の受ける支払がどうであろうと、高かろうと安かろうと、悪化せざるをえないということになるのである。」
「一方の極での富の蓄積は、同時に反対の極での、即ち自分の生産物を資本として生産する階級の側での、貧困、労働苦、奴隷状態、無知、粗暴、道徳的堕落の蓄積なのである。」
このような、資本主義的蓄積の敵対的な性格は[10]、いろいろな形で言い表されてきたが、前資本主義的な生産様式の諸現象と混同されている。
(その混同された考えの事例)
18世紀の偉大な経済学著述家でヴェネツィアの僧オルテスは、資本主義的生産の敵対関係を社会的な富の一般的な自然法則と考えている。「・・・ある人々の大きな富は、常にはるかに多くの他の人々の必要物の絶対的な略奪を伴う。一国の富はその国の人口に対応しており、その貧困はその富に対応している。ある人の勤勉は他の人びとの怠惰を強要する。貧者と怠惰者とは、富者と勤勉者との必然的は果実である。」
オルテスよりおよそ10年後に、プロテスタント牧師タウンゼントは、全く粗野なやり方で、貧困を富の必然的な条件、またその条件は貧民に関する自然法則的人口原理によるものだと考えていた。「飢餓は<中略>勤勉と労働とへの最も自然な動機として最大の努力を呼び起こす。『国民経済について(1777)』」「・・・公共社会の最も下賤で不潔で劣等な役目を果たす人々が常に絶えないということは、一つの自然法則であるように思われる。人類の幸福のもとはこれによって大いに増大し、もっと上品な人々は、労苦から解放されて、なににも煩わされないでもっと高尚な職務に携わることができる。・・・救貧法は、神と自然とによってこの世に設けられたこの制度の調和と美、均斉と秩序を破壊しようとするものである。『救貧法論(1786)[11]
シュトルヒは1851年の『経済学講義』で、「社会的な富の進展は、あの有用な社会階級を生み出す。・・・この階級は<中略>一言で言えば、人生のいっさいの不快なものと下賤なものを自分の肩に背負い、そして、まさにそうすることによって、ほかの諸階級のために余暇と精神の明朗と伝統的な(マルクスの挿入→そのとおり!)品格とをつくりだすのである。」シュトリヒが見出した、民衆の貧困や堕落を伴ったこの資本主義的文明が野蛮に優るところはただ一つ、安全!ということだけである。
シスモンディは1819年の『新経済学原理』で、「産業や科学の進歩によって、どの労働者も毎日自分の消費に必要であるよりもずっと多くの物を生産することができる。<中略>努力は今日ではその報酬から分離されている。<中略>だから、労働の生産力の無限の増大も、その結果は、ひまな金持ちの奢侈や享楽の増加でしかあり得ないのである。」
最後に、(フランスの哲学者で)冷血なブルジョワ理論家デステュット・ド・ドラシ(17541836)は無常にも次のように宣告する。「貧国とは人民が安楽に暮らしている国であり、富国とは人民が概して貧しい国である。」

第五節 資本主義的蓄積の一般法則の例解
詳細・ニュアンスは本文参照。ここではできる限り箇条書きにて概要を記す。
a 18461866年のイギリス
l  最近の半世紀間のイギリスの人口の絶対的増加は非常に大きかったが増加率は次第に減少した(人口増加率は、181118211.533%185118611.141%)。
l  人口増を上回って富は非常に増加した。1853年~1864年の大ブリテンの概略所得データによれば、人口が10年で12%増加したのに対して課税利益は50%増加した。
l  農業資本は集中してきた。イングランドの10州から任意で提出されたデータに依れば、100エーカー未満の借地農家数は、1861年までの10年で16%減少した。
l  資本の集中は進んでいた。1865年頃のイングランド、ウエールズ、スコットランドの総人口は2400万人程で、その内所得税支払対象者の割合は、1.31.4%、その中で7~8%の人々が総所得の半分以上を占めていた。
l  産業の発展も急激であった。石炭と銑鉄の生産量は10年間で約50%増加して、1864年にはそれぞれ約9300万トン、480万トンとなった。
l  貿易も急拡大した。輸出総額は1866年までの20年間で3倍以上となり、総輸出入額は1865年までの11年間で3倍近くなった。
l  貧富の格差をグラッドストーン大臣も認めた(1843年)。しかし20年後には彼はそれを誤魔化した(マルクス曰く、「なんという竜頭蛇尾!」)。
l  貧民はますます増加した。公認の貧民名簿に記載された人数は、イングランドでは、1855年から1865年の間に15%ほど増加している(1863年と1864年には、綿花危機の結果2030%程増加している)。
l  貧民の増加は、恐慌時には著しい。1866年の恐慌の時には、ロンドンの貧民増加率は1864年に比べて24.4%、1867年前半の増加率はこれを上回った。

b イギリスの工場労働者階級の低賃金層
l  労働者の栄養摂取は生きるための最低限だけ。
Ø  枢密院は、1862年の綿業危機の時に、ランカシャとチェシャの綿業労働者の栄養状態の調査をドクター・スミスに委託した。その結果、労働者の栄養状態は飢餓病を免れる最低栄養摂取量と同じかそれ以下であった。
Ø  枢密院の命により1863年のイギリス労働者階級の栄養調査が行われた。枢密院の医務官ドクター・サイモンは調査の実行を前出のドクター・スミスに依頼した。農業労働者と都市労働者に対し詳細に行われた調査の結果、彼らの栄養状態は飢餓病を免れる最低栄養摂取量以下であった。農業労働者は、最も豊かなイングランドが最も栄養状態が悪く、一般には男よりも女と子供の栄養状態が悪く、都市労働者は、よりひどい不足が見られた。
Ø  ドクター・サイモンの一般的衛生報告から、食物が欠乏するのは最後であって、その前に、衣料、燃料、住居、設備、衛生、等々は既にひどい状態であることが読み取れる。
l  労働者層の住居の状態は劣悪。なかでもロンドンは最悪。
Ø  これは経済的諸法則だけでは理解できない。「偏見のない観察者ならだれでも認めるように、生産手段の集中が大量であればあるほど、それに応じて同じ空間での労働者の密集もますます甚だしく、したがって、資本主義的蓄積が急速であればあるほど、労働者の住居の状態はますます惨めになる。」
Ø  枢密院の命により、1864年に農村労働者の、1865年に諸都市の下層貧民階級の住居事情調査が行われ、それらはドクター・ジュリアン・ハンターによって『公衆衛生』第七次、八次報告書に掲載された。「ロンドンにはおよそ20の大きな貧民窟があって、それぞれに一万人の人間が住んでいるが、その惨状は、これまでにイングランドのどの地方でも見られたことのないほどひどいものである。・・・これらの貧民窟の家屋の詰め込みすぎたぼろぼろになった状態は、20年前よりもずっとひどくなっている。」
l  所有権が人権に優先する都市労働者の住居事情について、マルクスはこう述べる。「なんという感心な資本家的な正義だろうか!地主や家主や事業家は、鉄道施設や道路新設などの「諸改良」によって収用を受けても、ただ単に十分な保証を与えられるだけではない。なおそのうえに、彼は、自分の強制された「禁欲」[12]にたいして神と法とによって莫大な利潤で慰められなければならない。労働者は妻子や持ち物と一緒に街頭に投げ出され、そして―――市当局が礼儀をやかましく言う地区にあまり大勢で押しかければ、そこでは衛生警察の名でいじめられるのだ!」
l  人々は都市に集まり、都市の住環境は劣化し、金持ちは劣悪な都市環境から逃れて郊外に住む。
Ø  19世紀初めにはイングランドには10万人ほどの人口を抱える都市はロンドンだけであったが、今では(19世紀中頃)人口5万人以上の都市が28ある。
Ø  工業都市または商業都市でも事情は同じ。採炭採鉱地方の中心地のニューカースル・アポン・タインはロンドンに次いで劣悪な住宅事情であった。
l  景気の良し悪しにしたがって、資本と労働はあちこちに移動する。それに従い急に変動する都市環境は住居事情を更に悪化させ、疫病も蔓延させる。
Ø  たとえばブラッドフォードでは、1861年には1751件の空き家があったが好景気によって「相対的過剰人口」の波による氾濫が押し寄せた。
Ø  ブラッドフォードの救貧医ドクター・ベルは、自分の管区の熱病患者の恐ろしい死亡率を住宅事情によって説明している。「1500立方フィート(810畳くらいか)の一つの地下室に10人が住んでいる。・・・若い男も女も既婚者も未婚者も、みなごちゃ混ぜになって、着物のままでベッドなしで直に床板の上に寝るものも多く、これらの住居がたいていは薄暗い、湿っぽい、汚い、臭い穴で、・・・それは病気と死が出てくる中心であり、そしてその犠牲は、・・・良い環境の人々の間からもでるのである。」

c 移動民
その起源は農村だが、移動しながら工業に従事する人々がいた。「移動労働はいろいろな建築工事や排水工事や煉瓦製造や石灰焼や鉄道建設などに利用される。」彼らの住居は急造部落で地方官庁の取り締まりも及ばないから、劣悪な環境で、天然痘などの疫病の感染をもたらす。
炭鉱や鉱山の労働者は高給取りだが労働環境は劣悪であった。その劣悪振りは既に第十三章(機械と大工業、原ページ519-525)で述べられていたが、ここではその劣悪な住居について述べられている(内容省略)

d 恐慌が労働者階級の最高部分に及ぼす影響
l  1857年には産業循環による大恐慌が起こり、次の大恐慌は金融的な性格を帯びて1866年に終わった。引き金は18665月にロンドンのある巨大銀行の破産であったが、ロンドンの大事業部門の一つである鉄船建造業(その所在はロンドン東部)も、過剰生産と信用に基づいた巨額の注文引き受けの反動によって破局に追い込まれた。この反動はロンドンの諸産業でも現在つまり18673月末まで続いている。
l  その時の労働者の状態を現地の取材に基づいて伝えた『モーニングスター』一通信員の報道は、恐慌時には、労働者階級の貴族さえ短時間で救貧院へと追いやられてしまうことをよく伝えている。
Ø  ロンドン東部の諸地区では、少なくとも15,000人以上の労働者がその家族を含めて窮乏状態にあり、そのうちには3,000人以上は熟練機械工がいる。彼らの蓄えも6ヶ月から8ヶ月の失業のためになくなった。
Ø  (ポプラーと言う町の)一つの救貧院だけで7,000人が救助を受けていたが、その内の何百人かは、6ヶ月から8ヶ月前には熟練労働の最高の賃金を取っていた人々であった。
Ø  この通信員の案内役を務めた、失業者救済委員会の一員(失業して27週目)の家を訪ねた。そこでは、小さな子供達の素足の凍傷を防ぐための火の気はまだあって、家具がなにもないと言うほどでもないが、火の向こうにはひとかたまりの「まいはだ」(それは救貧院から貰うパンのお礼として子供達がほぐした古い綱)があった。
Ø  毎日1回の貧しい食事を救貧院から受けて暮らしている家庭の中年の婦人は言った。『子供たちの稼ぎがなくなってから26週にもなるので、不景気の時の用意にと思って私と父親とで景気の良い時にためておいた金(かね)もすっかりなくなりました。』見せて貰った預金通帳にはその事実が記載されていた。
Ø  造船所で働いていたことのあるアイルランド人の妻は着物のまま寝具もなくマットレスの上に横たわっていた。彼女は栄養不足からの病気であった。彼女に寄り添っていた子供たちは、逆に母親に世話をして貰う必要がありそうに見えた。強制された怠惰(失業)の19週間が彼らをこんなに衰弱させたのだ。
Ø  「この家を出ると一人の若者がわれわれを追いかけてきて、自分の家に来てなんとかならないものか見てくれというのだった。若い妻、二人の可愛い子供、一束の質札、そしてまったくからっぽな部屋、これが彼が見せることの出来たすべてだった。」
l  ロンドンの東部は、鉄船建造業の所在地であるだけではなく、家内労働の所在地でもある。186745日のトーリ党系新聞記載記事から、この地域の労働者の苦しみが覗える。「昨日首都の一部で一つの恐ろしい光景が展開された。イースト・エンドの数千の失業者が、黒色の弔旗を持って大群をなして行進したわけではないが、人波は十分に威圧的なものだった。これらの人々がどんなに苦しんでいるかをおぼえておこう。彼らは飢えて死にかかっている。これは簡単で恐ろしい事実だ。彼らは四万もいる。・・・われわれの目の前で、このすばらしい首都の一地区で、世界に類のない莫大な富の蓄積のすぐそばで、四万の人が飢えて途方にくれているのだ!」
l  イギリスの資本家の間で、「労働の自由」と「資本自由」が満足されているベルギーは労働者の天国として描くことが流行しているが、それは全然違う。
Ø  ベルギーの監獄と慈善施設との総監督官でベルギー統計中央委員会の委員だった故デュクペシオ氏の著書には、ベルギーの標準的な労働者世帯の精確な年間収支と、その栄養状態比較が書かれている。それによると、ベルギーの標準的な労働者家庭の栄養状態は囚人よりやや劣る。これを兵卒並みにするには40%ほど、水兵並みにするには70%ほどの収入増が必要であった。
Ø  ベルギー全国93万家庭465万人のうち、9万が富者(選挙有権者)で39万が都市と農村との下層中間階級で45万が労働者家庭であった。人口はそれぞれ45万、195万、225万であった。労働者家庭のうち20万以上は貧民名簿に載っている。

e イギリスの農業プロレタリアート
資本主義的生産様式と産業労働者との関係は、農業労働者にも同様に当てはまる。また、農業労働者には、生産手段及び居住する手段としての土地から追放されるという事情がある。「資本主義的生産・蓄積の敵対的な性格が野蛮に現れているという点では、イギリス農業(牧畜を含む)の進歩とイギリス農業労働者の退歩とにまさるものはない。」
以下、イギリスの農業プロレタリアートの歴史的事実(事例)が述べられている。
l  近代的農業は18世紀中頃から始まり、半世紀後には、大借地農業者がほとんどジェントルマンの水準まで成り上がる一方、農業労働者は惨めな状況へ追いやられてくる。
Ø  14世紀末くらいまでは、農村労働者は「豊に暮らして富を蓄積することが出来た」(『イギリスにおける農業と物価の歴史』ジェームズ・ET・ロジャーズ、オックスフォード大学教授著、オックスフォード1866年)。
Ø  19世紀初めくらいまでの300年ほどで、一労働日の名目価格は45倍、穀物価格は7倍、肉類や衣料の価格は15倍となっている。従って、生活費に対する労働の価格の割合は半分にも満たないと思われる。(ドクター・リチャード・プライス『生残年金の考察』、W・モーガン編、ロンドン1803年)
Ø  農村での実質労賃は1737年から1777年までに25%低下した。(『生残年金の考察』W・モーガン編、ロンドン1803年)
Ø  「とはいえ17701780年までのイギリスの農村労働者の状態は、その食物や住居の状態から言っても、その自尊心や娯楽などの点から言っても、その後二度とは到達されなかった理想なのである。」
l  18世紀末から19世紀中頃まで、農村労働者の農奴化が進む。
Ø  平均的な州であるノーサンプトンシャにおいて、教区が補った労賃の不足分[13]の割合は、1795年には4分の1以下であったものが1814年には半分以上となった。
Ø  18301833年に、打穀機の使用反対と賃金増額を要求して農業労働者の運動が起きた(スウィング一揆)。
Ø  「南イングランドの農村労働者は奴隷ではなく、自由人でもなく、かれは受救貧民である。(『イギリスとアメリカ』、EG・ウェークフィールド著、ロンドン、1833年)
l  穀物法[14]廃止に伴い、科学の応用などで農業の生産性が向上し、土地の収益が急速に高まった。そして、耕作面積と集約的耕作の拡張、土地に合体された資本と土地耕作に投ぜられた資本との未曾有の蓄積、土地生産物の増加、地代収入の増大、資本家的借地農業者の富の拡張、が進んだ。「このことを都市の販売市場の不断の急速な拡張や自由貿易の支配とを一緒にしてみれば、幾多の曲折の後に最後に農村労働者がおかれた状態は、彼を幸福に酔わせるはずのものだったのである。」しかし、実際は違っていた。「彼は再び農奴になっており、しかも食物も住居も悪い農奴になっているのである。」(『公衆衛生。第七次報告書』、ロンドン、1865年)
l  農村労働者の栄養状態は(受救貧民同様)、監獄の囚人の栄養状態に劣っていた。また、イングランドの農村労働者が連合王国の他の著地位よりだいぶ粗悪な食物をとっていた。(『公衆衛生。第六次報告書』、ロンドン、1863年)
l  枢密院医務官のドクター・サイモンの報告書から、農業労働者の惨めな住居の状態が覗える。以下報告書の抜粋(『公衆衛生。第七次報告書。1864年』、ロンドン、1865年)
Ø  「ドクター・ハンターの報告のどのページにも、わが国の農村労働者の住居の不十分な量と惨めな質とについての証拠が見られる。・・・ことに最近の30年か20年の間に害悪は急激に大きくなってきて、農村民の住宅事情は今では極度に嘆かわしいものになっている。」
Ø  救貧法の下では、救貧税を節約するため各教区においてはそこに居住する農村労働者の数を最小限にしたいという動機が働く。「大地主に、土地の耕作者たちを外国人のように取り扱い彼らを自分の領地から駆逐することを許すこの種の無条件的な土地所有権が・・・この駆逐の権力はけっして単なる理論ではない。それは実際に非常に大きな規模で行使される。」
Ø  大地主の所有地に立てられていた農業労働者の住居は取り壊され、住人は駆逐される。このような大地主の村落を閉鎖村落と呼ぶ。駆逐された農業労働者は小地主が受け入れた。これを開放村落呼ぶ。このような事情から開放村落での農業労働者の立場は弱くなり居住条件は劣悪となる。
Ø  農業労働者は、開放村落の劣悪な住居から毎日34マイル離れた閉鎖村落へやってきて耕作することになる。
Ø  開放村落での農業労働者の居住条件は更に悪化する状況となる。「開放村落では建築投機師たちが小地片を買い入れて、およそ考えられるかぎりのあばら家のうちでも一番安いあばら家を、できるだけぎっしり詰めて建てる。そして、こんな惨めな住宅に、しかも広い空き地のある田園に接していながら最悪の都市住宅の最悪の特徴を備えている住宅に、イングランドの農業労働者はうずくまっているのである。」
Ø  農村労働者の劣悪な住環境は、衛生上、道徳・教育上の憂慮の的ではあった。「何年も前から、農村労働者の住宅の中の詰まりすぎは、衛生を重んずる人々にとってだけではなく、きちんとした道徳的な生活を重んずる人々のすべてにとって、深い憂慮の的だった。・・・」
l  ドクター・ハンターは、純粋な農業地方だけではなくイングランドのすべての州で5375戸の農村労働者の小屋を調査した。そのうちの12州について簡単に要点が述べられている。内容は省略する。
l  農村は「相対的過剰人口」であった。しかし同時に、同じ場所で同じ時期に労働過剰と労働不足が生じることとなった。そのことは、(急激な資本の運動がもたらす社会の崩壊現象の一例と言えるような)ガングシステム(=作業隊制度)を生み出した。「一時的または局地的な労働不足が引き起こすものは、けっして労賃の引き上げではなく、女や子供に農耕を強制することであり、この強制がますます低い年齢層に下がっていくことである。女や子供を搾取する範囲が大きくなれば、それがまた男の農村労働者の過剰化とその賃金の抑制とへの新たな手段となるのである。」
l  ガングシステム(=作業隊制度)とは、ガングマスター(=親方)に率いられて農場から農場に移り歩いて農作業を請け負う女や子供たちの作業隊制度。「雑草のない畑と人間雑草とは、資本主義的生産の極と対極なのである。」
Ø  作業隊制度はリンカンシャ等六つの地域とその隣接地の一部だけで行われていた。
Ø  人員は104050人で、女、1318歳の少年や少女(但し少年はたいてい13歳で除かれる)、6から13歳の男女の子供から成る。
Ø  親方は普通の農村労働者で、たいていは不良、ならずもので、だらしのない酒飲みではあるが、いくらかの企業心と手腕を持っている。
Ø  親方が作業隊を募集し、隊員は借地農業者ではなく親方のもとで働く。
Ø  親方の収入は普通の農村労働者より高くはない。しかし、その収入は、短い時間で沢山隊員を働かせる親方の腕にもかかっている。
Ø  借地農業者からは、男子労働者はなるべく生命力の支出を節約しようとするが、女は男の指図なら真面目に働き、女や子供は一度やり出せばよく働く、と見える。
Ø  作業隊は年間に68ヶ月働かされる。これは作業隊員の家庭にとって、たまにしか子供を使わない個々の借地農業者との取引より有利で確実なことであった。
Ø  この事情は開放村落での親方の勢力を強固にし、子供を雇う仲介は親方なしには出来ないほどとなった。そして、子供を隊とは別に貸すことが親方の副業となった。
Ø  (このような事情から)作業隊の子供や少年少女の置かれた状況は、過重労働、離れた農場への毎日の強行軍、そして風紀の悪さである。
Ø  「・・・隊の親方は、長い棒を持っているが、・・・民主的な皇帝・・・つまり彼には手下の中での人気が必要なのであって、自分の保護のもとで花開くジプシー風によって彼らを自分に引きつけておくのである。粗野な放埒や陽気な狂騒や猥雑きわまる無恥は作業隊に翼を与える。たいていの場合、親方は居酒屋の勘定を済ませると・・・よろめきながら行列の先頭に立って帰路につき、その後から子供や少年少女がひやかしたり淫らな歌を歌ってがやがや騒ぎながらついていく。帰り道では、・・・おおっぴらな性交が毎日のように行われる。・・・作業隊の兵員を供給する開放村落は、・・・王国内の他の地方の二倍もの私生児を産出する。」
l  作業隊制度は大借地農業者や大地主の致富のために存在する。つまり、労働人員を少なくしておいて臨時の人手を準備し、少ない貨幣で多くの労働を取り出すために、言い換えると成年男子労働者を「過剰」にするために、作業隊制度は必要なのである。

f アイルランド
l  アイルランドの人口は19世紀半ばから減り続けている。
Ø  1801年=530万人、1841年=822万人、1846年の飢饉で100万人ほど減少、1851年=662万人、1861年=585万人、1866年に=550万人。(2014年=461万人)。
Ø  国外移住者総数は1851年から1874年までに233万人、1861年から1865年まででは50万人(この間の人口減の絶対数は33万人)。移住地は主にアメリカ。
l  アイルランドはイングランドの一農業地帯、しかも農業革命が移民と同時に進んだ地域であった。そのことが、大地主、大借地農業者、産業資本家等の利益の増大と、農業労働者の一層の貧困を生じさせていた。
Ø  地代と借地農業利益は絶えず増大した。なぜなら、借地農場の合併や耕地の牧場化が、総産物の減少にもかかわらず、総生産物中の剰余生産物の割合を増大し、しかもイングランド市場価格の上昇に基づき剰余価値はさらに増大するから。
Ø  人口減とそれに伴う生産手段量が減少しても、農業資本は増大した。なぜなら、分散されていた生産手段の一部分が資本に転化されたから。最近20年間の総資本の蓄積はゆっくりであっても個々の構成部分の集積は急速に発展した。
Ø  アイルランドでは、貧困は全体的な人口過剰から生じ、人口の減少によって均衡が回復されるという、正統派経済学の主張と逆の現象が生じている。
Ø  1846年にアイルランドでは飢饉が100万人以上の人間を殺し、その後20年間に亘る人口流出が続いても、この国の富には少しも損害をもたらさなかった。それどころか、合衆国への移民が本国の残留者に送る毎年の旅費は輸出業の一部門となり、移民という組織的過程は継続的に人口水準を低減させ(以上の循環を繰り返すことになった)。
Ø  国内に残った、過剰人口から解放された労働者たちの境遇は改善されなかった。1846年当時に比べて相対的過剰人口の程度は変わらず、従ってその賃金も低く生活も苦しく住居も惨めであった。
Ø  唯一の大工業であったリンネル製造業は、相対的過剰人口を生み出すとともに家内労働体制を組織的手段としていたため、労働者の状態を更に悪化させた。
Ø  農村日雇労働者の、過去20年間の賃金上昇(5060%)は実質を伴っておらず、生活はかえって苦しくなっていた。なぜなら賃金が現物支給から貨幣支給への変化し、必要生活手段の価格が二倍となっていたから。
Ø  住宅状態は、1846年時点においてもイングランド農村地帯に比べてひどいものであったが、農業革命によって作業農地にあった小屋を追われてから後は更に悪化した。
Ø  イングランドの農村プロレタリアートとの違いは、工業国であるイングランドの場合には産業予備軍は農村で補充されるが、農業国であるアイルランドの場合には農業予備軍が都市で、すなわち駆逐された農村労働者の避難所で、補充されると言うことである。
Ø  現実に進んでいたのは、人口の減少、土地の集中、地代額の増大であった。巨大地主の一人は断言する。アイルランドは今なお人口過剰であると。100エーカー以下という土地の広さは、イングランドの実績から、資本主義的穀物栽培には小さすぎるし、牧羊のためには殆どないに等しい。農業革命による100エーカー以下の借地農場の消滅は、それによって追い出される農業者のうちの4分の1が再吸収されたとしても、170万人の人口減をもたらすと予想される。「食欲は食っているうちに起きるものだから、地代帳の目はまもなく次のことを発見するであろう。すなわち・・・イングランドの牧羊場であり放牧場であるというアイルランドの真の使命を果たすためには、その人口減少はもっともっと進行しなければならないと言うことである。」(マルクスは注にて、アイルランドの人口希薄化については第三部の土地所有に関する篇で詳しく論証する、と述べている)
Ø  「アイルランドの地代の蓄積と同じ足並みでアメリカでのアイルランド人の蓄積が進む。羊と牛に押しのけられたアイルランド人は、大洋の彼方にフィニア会員[15]として立ち上がる。そして年老いた海の女王に向かって、若い巨大な共和国が威嚇的に、そしてますます威嚇的に、そびえ立ってくるのである。」





[1] この言い方には、資本の価値構成が資本の有機的構成をなさない場合があるというニュアンスが含まれている
[2] 但し、前章第二節で述べられているアダム・スミスの基本的誤謬「収入のうちから資本に付け加えられると言われる部分は生産的労働者によって消費される」を除き
[3] ジョン・ロックと同世代のイギリス商人出身のジェントルマンでクエーカー教徒、近世イギリス社会思想史における社会改良主義者として知られている
[4] 17世紀末~18世紀前半のイギリスの精神科医(ロッテルダムの名門の家出身)。思想史、経済史などで重要な位置を占める
[5] ここでマルクスは注において、アダム・スミスの弟子の中で有意義な仕事をした人に数えなかったマルサスについて痛烈に批判をしている。またそれに関連して、プロテスタント系学者達の経済学を批判している。
[6] マルクスの注:ここでイーデンは、それならば「市民的制度」はだれが作ったものか?と問うべきだったのであろう。法学的幻想の立場から、彼は、法律を物質的生産関係の産物とは見ないで、反対に生産関係を法律の産物としてみている。
[7] アダム・スミス『諸国民の富』(訳注で、岩波文庫版231ページと書いてあるが、これは本節の冒頭に記載された文言についてであって誤りである。正しくは岩波文庫版264ページ)
[8] ドイツ語全集版編集者の注の概要:著者認定のフランス語版(1873)では、この箇所に長い挿入文が見出される。そこでは、世界市場がアメリカ大陸からアジア等々に広がって最後に工業国数が十分の数になった時にこの循環が始まること、循環の周期は今までは10年であったが、資本主義的生産の諸法則からしてこの年数は次第に短縮されていくと推論せざるを得ないこと、が指摘されている。
[9] マルクスは、1875115日にバーミンガムで開かれた衛生会議で同市長が述べた開会の辞を引用して、マンチェスターやリヴァプールでは、労働者階級の平均寿命は有産階級のそれの半分ほどであることが分かる、と述べている
[10] マルクスの注:「(資本主義的)生産関係は、<中略>二重の性格のものだということ、富が生産されるのと同じ諸関係の中で貧困もまた生産されるのだということ、生産諸力がその中で発展するのと同じ諸関係の中には抑圧を生み出す力も存在するということ、この諸関係は、ただ、それらが同時に絶えずブルジョア階級の成員の富を破壊し、ますます増大するプロレタリアートを生み出すことによってのみ、ブルジョア的な富すなわちブルジョア階級の富を生産するのだということがそれである。カール・マルクス『哲学の貧困』、116ページ」
[11] マルクスは注において、『救貧法論』などタウンゼントの考えは、ジェームズ・ミルの著作から借りてきたもの、しかも歪めて、と酷評するともに、マルサスはこのタウンゼントの著作をしばしば引用している、とマルサスに対する評価も低い
[12] 資本家は蓄積を禁欲として理解できる(第二十二章、第三節)
[13] 1833年の救貧法以前のイギリスでは、最低賃金を遙かに下回る賃金が教区救済金によって補われた
[14] 穀物法(再掲):外国からの穀物の輸入規制を目的としたイギリスの法律(1815年~1846年)。穀物価格の高値を維持し大地主貴族階級の利益を図るために制定された。大地主貴族階級の政治・経済的力をそぐことを目的として穀物法に反対する自由貿易論者は「穀物法反対同盟」を結成して大地主貴族階級戦い勝利した。穀物価格は労働者の最低賃金の基準となっていたから、穀物法撤廃は労働者の賃金引き下げを目的としたものでもあった
[15] 小ブルジョア的なアイルランドの革命家たち。1860年代末に大規模な抑圧にさらされ、70年代には壊滅した。

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