第十七章 労働力の価値または価格の労賃への転化
【感想】:資本主義的生産様式は、労働の搾取の上に立ってはじめて成り立つというマルクスの理論は、労賃は働きに見合った分がお金で支払われるのだ、と思ってしまうカラクリを暴露する。商品自体に備わっている使用価値と交換価値という二重性(従って通約不可能)に加えて、労働も商品であるという意識の勘違いが加わって、そのカラクリを見えないものにしている、というマルクスの看取はお見事。だが、その二重性や勘違いを生じさせるものは、やはり人間の意識だから、ナゾの解明はまだ先にありそう。
労賃は労働の価格として現れる。そこでは労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では、労働の市場価格が論ぜられる。
商品は市場で売ることができる前に存在しなければならない。労働は市場で売られるまえには独立した存在ではないから、労働が商品であるというのは矛盾する。対象化された労働(=商品)と生きている労働(=価値創造力)が直接交換されるなら、現実に生じている剰余労働は存在しなくなり、またそうであるなら資本主義的生産の基礎は消滅し、また価値法則も成立しない。(労働が商品であることには、価値法則には従わないある社会関係が潜んでいる、と言えるだろう)。
商品市場で労働者が資本家に売るのは彼の労働力である。この売買が成立した後には、つまり労働が現実に始まった後には、彼の労働は彼のものではない。従ってもはや彼は売る労働を持っていない(だから資本家は労働力を購入する必要もなく、生産関係あるいはもっと広く社会関係に基づいて労働者を使用して剰余価値を得ることができる)。「労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は価値を持ってはいない。」と言わなければならない。
古典派経済学では、労働の価格は他の商品と同様に需要と供給とが一致したときの価格としか説明することが出来ない。これはアダム・スミスの言う自然価格、重農学派が言う必要価格のことであり、ただ貨幣で表現された労働の価格で、偶然的な価格をつうじて労働の価値に到達することを目指したものであった。古典派経済学は「労働の価格」という範疇を無批判に借りてきて、その価格がどのように規定されるかという問題を立てて分析をし、労働の市場価格からいわゆる労働の価値にまで進行したものの、この労働の価値そのものをさらに労働力の価値に帰着させるにいたったということを、ついに発見できなかった。このように自分自身の分析の成果を意識していなかったということ、「労働の価値」とか「労働の自然価格」とかいう範疇の問題を無批判に採用したということは、あとで見るように、古典派経済学を解決できない混乱や矛盾に巻き込んだのである。
「そこで、われわれは、まず第一に、労働力の価値と価格が労賃というそれらの転化形態にどのように現れるか、を見ることにしよう。」
一般的認識としての労働力の日価値というものは、労働者の一定の寿命を確保するために一日当たりに必要な価値、具体的には一日の生活に必要な貨幣額(=労賃)である。(一方、ある時間内における労働の価値を表す貨幣表現は、剰余時間において生産された商品の価格である)。一労働日が12時間、労働力の日価値が3シリングで、この3シリングが6時間の労働を表す価値の貨幣表現である場合(12時間で6シリングの商品が生産される)、もし労働力の日価値が一日の労働の価値として言い表されるならば、12時間の労働の価値は3シリングとなって、3シリングは6時間の労働ではなく12時間の労働を表す価値の貨幣表現となり、はじめの設定と矛盾する。「こうして、6シリングという価値を創り出す労働は3シリングという価値をもっている、という一見してばかげた結論が出てくるのである。」
一般的認識としての労賃(例えば一日3シリング)は、一労働日の価値(=価格)として現れる(実際は12時間働いて6シリングの価値を生み出していても、これが一労働日の価値としては認識されないで、3シリングつまり6時間分の労賃がそれであると認識されている)。「つまり、労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。」
「このような、現実の関係(=労賃は労働の価値ではない)を目に見えなくしてその正反対を示す現象形態(=労賃が労働の価値である)こそ、労働者にも資本家にも共通ないっさいの法律観念、資本主義的生産様式のいっさいの欺瞞、この生産様式のすべての自由幻想、俗流経済学のいっさいの弁護論的空論はもとづいているのである。」
「労賃の秘密を見破るためには世界史は多大の時間を必要とするのであるが、これに反して、この現象形態の必然性、その存在理由を理解することよりたやすいことはないのである。(ここで言われている現象形態とは、しつこいようだが、実際に支払われる労賃が実際の労働の価値であると誤って認識されるという現象形態)」
資本家と労働者の間で行われる、貨幣と労働の交換は、人間の知覚には他のすべての商品の売買とまったく同じ仕方で現れる。買い手はある貨幣額を与え、売り手は貨幣とは違ったある物品、すなわちここでは労働を与える。法的意識はせいぜい素材の相違を認めるだけである。
価値と価格の相違についての感覚も、労働は他の商品に比べて格別の差異は感じさせない。というのは、もともと使用価値(=労働の価値)と交換価値(=労働力の価格)とは通約不能なのだから、「労働の価値」が「労働力の価格」と同一であると現象すること自体の不合理性は、「綿花の価値」と「綿花の価格」の違い程度にしか認識されない。
さらに、価値の実現時期の相違も現象からの本質の区別を困難にする。つまり、労賃は労働を提供した後に支払われ、支払われた労賃が生活のための物資になるのはそのまた後なのである。最後に、労働者が資本家に提供する「使用価値」は、新たな価値を創出するという性質を持った機能(=有用労働)であるが、それは普通の意識の領域の外にあるのである。
労働者のほうから見れば、同じ一労働日の賃金である3シリングが、労働の需要と供給の関係によって変動しても、それは労働の価値が変動したのではなくて生活手段の価値が変動したように見える(アダム・スミスもそう考えた)。
資本家の方から見れば、いつでも自分の利潤は価値より安く買って高く得るという単純な搾取から生じるのだと考えているから、労働の価値というものが存在して、もしその価値を現実に支払うならば彼の貨幣も資本に転化しないなどと言うことは考えられもしない。そのうえ、労賃は労働そのものの価値に支払われるように見える。というのは、労賃が労働日の長さや労働者個人の差異によって違うからである。
「とにかく、「労働の価値及び価格」または「労賃」という現象形態は、現象となって現れる本質的な関係としての労働力の価値及び価格とは区別されるのであって、このような現象形態については、すべての現象形態とその背後に隠されているものとについて言えるのと同じことが言えるのである。現象形態の方は普通の思考形態として直接にひとりでに再生産されるが、その背後にあるものは科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は真実の事情にかなり近く迫ってはいるが、それを意識的に定式化することはしていない。古典派経済学は、ブルジョアの皮にくるまれているかぎり、それができないのである。」
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