第十五章 労働力の価格と剰余価値との量的変動
【感想】:みんなが互いに働いて生み出された結果である物やサービス、つまり富は結局どこにいくのだろう?公平に配分されているのだろうか、と言う素朴な疑問をしつこく忘れないでおこう。富の総量は、剰余価値と労働価値の合計で、それは三つの要因、働く時間の長さ、働きの強度、働く能率で決まる(これは既に説明済み)。どれがどう動いたらどんな結果となるかという理論とか、それと史実との整合などが述べられているが、結局それを考えるのは、冒頭の疑問に対する答えを求めるかぎり意味をなすのだろう。マルクスの理論を手がかりにすれば、それまでの経済理論よりも、よりよい社会を構想できるはずで、例えば資本主義生産様式の社会ではそれは難しい、とまでは述べられている。
労働力の価値は、生活手段の価値によって規定される。生活手段の量は不変量とみなせるがその価値は変動する。労働力の育成費と男女差などの自然的相違も労働力の価値の規定に参加する。
今まで通り、商品が価値通りに売られること、労働力の価格はその価値より低くなることはないこと、この二つが前提される。そうすると、労働力の価格と剰余価値との相対的な大きさは、(独立した)以下の三つの事情で制約される。①労働日の長さ(=労働の外延量)、②労働の強度(=労働の内包量)、③労働の生産力。以下にこれらの組み合わせについて主要なものについて述べる。
第一節 労働日の長さと労働の強度とが不変で(与えられていて)労働の生産力が可変である場合
この場合には、労働量の価値と剰余価値とは以下の三つの法則で規定される。①一労働日で生産される価値は不変(生産量は可変、生産物単位あたりの価値が変動する)。②剰余価値と労働力の価値の増減は、逆方向に変化する(この二つの量の合計は不変だから)。③剰余価値の変動は労働力の価値の変動の結果であって原因ではない。
労働力の価値は生活手段の価値によって規定されている。労働の生産力が高くなると生活手段の価値は低くなるから労働力の価値は低くなり従って剰余価値が増える。だから、労働の生産力が高くなると労働者と資本家との生活状態の隔たりは拡大していく。
リカードは前記三つの法則をはじめて厳密に規定した。しかし、説明の仕方に欠陥があった。一つは労働日と労働の強度はいつも不変で、可変なのは労働の生産性だけであると考えていたこと。もう一つは、他の経済学者達と同じく分析をもっと間違えたものにしているもので、剰余価値の諸法則を利潤率の諸法則と混同していたことである(既に第七章の剰余価値のところでも指摘されていたことだが)。剰余価値率と利潤率の関係については第三部で取り上げる。
第二節 労働日と労働生産力とが不変で労働の強度が可変である場合
この場合には次のことが生じる。価値は不変なまま量は変動し、価値総量が変動する。労働日の価値生産物の価値の総量は、労働の強度が社会的標準からどれだけずれるかによって異なってくる。労働力の価格と剰余価値とが同時に増大しうるが、労働力の価格の上昇がその価値よりも上に行くのではなく下へ行く方がありうる。
労働の強度が全ての産業部門で同じ程度に高くなれば、その新たな高い強度が普通の社会的標準度となるが、それでも労働の平均強度は国により違うから一労働日の貨幣表現は各国で異なることになる。
第三節 労働の生産力と強度とが不変で労働日が可変である場合
労働日は短縮されるか延長されるかのどちらかである。
(1)短縮される場合。剰余労働が減少し、労働力の価値は変わらず、必要労働時間は変化せず、剰余価値が減少する。ただ、資本家は労働力の価格をその価値より低くして損害を免れることが出来るであろう。
現実には、労働日の短縮より、労働の強度の増大か労働の生産力の向上が先行するか、またはそれらが労働日の短縮直後に起きる。
(2)延長される場合。労働力の価値は変わらず剰余価値は増大する。従って剰余価値の労働力の価値に対する相対的比率は増大する。労働力の価格が増大する可能性はある。労働日の延長には限りがあり、その限度を超えると労働力の全ての再生産条件と活動条件は破壊され、労働力の価格と労働力の搾取度は互いに通約できなくなる。
第四節 労働の持続と生産力と強度とが同時に変動する場合
この場合は、同時に変動する要因が二つの場合と三つの場合があって、かつ各要因には増大と減少の二つがあるのでそれらの組み合わせは多岐にわたる。しかし前の三節での解明を基にすればそれらの分析は容易である。ここでは重要な場合についての二例を簡単に取り上げる。
(1)労働の生産力が低下して同時に労働日が延長される場合。ここでの労働の生産力の低下とは、例えば凶作で労働の生産力が低下し穀物価格が高騰した場合など、労働の価値を規定する労働部門についてのことである。この場合には、労働日の延長程度によっては、剰余価値の労働量の価値に対する比率は減少しても、剰余価値は増大し得る(計算例省略)。実際、1799年から1815年までにイギリスでは生活手段の価格騰貴は、実質の賃金低下と名目賃金の増大を伴ったが、ここからリカード等が引き出した結論とは反対に、「高められた労働の強度と強制された労働時間の延長とのおかげで、剰余価値は当時は絶対的にも相対的にも増大したのであり、この時代こそは、無限度な労働日の延長が市民権を獲得した時代だったのであり、一方では資本の、他方では極貧の、加速度的な増加によって特別に特徴付けられた時代だったのである。」
(マルクスは注などにおいて、リカード等は眼前にある歴然とした事実を見ることが出来ずに、空想的な仮定の上に立って、労働日を不変として理論を組み立て、マルサスは賃金の低落を引き起こす物価高騰の折に労働者を苦しめている労働日の延長という事実を認めてはいるが、保守的利益の下僕になっていたためそれに妨げられて、労働日の無限度な延長が労働者を過剰にするということを見ることが出来なかった、と批判している。見る目や考える頭は、見たり考えたりする動機によって鋭くも鈍くもなると批判しているとも思える)。
(2)労働の強度と生産力とが増大して同時に労働日が短縮される場合。(これはあり得ることではあるが、資本主義的生産様式における社会では限りがある)。労働の強度と生産力とが増大すれば労働日は短縮され得る。労働日の最小限界においては、剰余価値労働は消滅し、従って剰余価値も消滅するから資本の支配体制のうちではあり得ないことである。「資本主義的生産形態の廃止は、労働日を必要労働だけに限ることを許す。とはいえ、必要労働は、その他の事情が変わらなければ、その範囲を拡大するであろう。なぜならば、一方では、労働者の生活条件がもっと豊かになり、彼の生活上の諸要求がもっと大きくなるからである。また、他方では、今日の剰余労働の一部分は必要労働に、即ち社会的予備財源と蓄積財源との獲得に必要な労働に、数えられるようになるであろう。」
労働の生産性は無駄な労働を節約することでも高められる。しかし、資本主義的生産様式は無政府的競争体制でもあるから、各個の事業では節約を強制するが、社会全体の生産手段と労働力との無限度な浪費と余計な無数の機能を生み出す。
労働の強度と生産力とが与えられていれば、労働が全ての労働能力のある社会成員のあいだに、労働の自然必然性にしたがって均等に配分されていればいるほど、社会的労働日のうちの物質的生産に必要な部分は短くなり、従って個人の自由な精神的・社会的活動のために利用できる時間は大きくなる。「労働日の短縮の絶対的限界は、この面から見れば、労働の普遍性である。資本主義社会では、ある一つの階級のための自由な時間が、大衆のすべての生活時間が労働時間に転化されることによって、つくりだされるのである。」
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