第二十章 労賃の国民的相違
【感想】:150年ほど前はイギリスと大陸ヨーロッパでの賃金格差は数倍もあって、イギリスの労働者は高い賃金を貰っていた。しかし、イギリスの労働者の生活は、大陸の労働者に比べても悲惨で、資本家は低い賃金を支払って相対的に高い剰余利益を獲得していた。だが、この程度で済んでいたのは、世界市場が今より閉鎖的だったからかもしれない。
第十五章で取り扱った、労働価値と剰余価値の相対的配分に関する諸法則とそれを規定する諸変動は、諸国民間での労賃の相違に関しても現れる。従って、諸国民の労賃を比較するときには、労働力の価値の大きさの変動を規定するすべての契機、すなわち、自然的な、歴史的に発達した一次生活必需品の価格と範囲、労働者の養成費、婦人・児童労働の役割、労働の生産性、労働の外延的(労働時間)及び内包的(労働強度)大きさ、を考慮しなければならない。先ず、表面的な労賃の比較をするには、同一産業の平均日賃金を同じ労働日に還元し(=時間賃金)、次に時間賃金を出来高賃金に換算しなければならない(諸国の同一商品は同一価格であるように労賃が決まるはずだから?)。
どの国も一定の中位(=平均的な)の労働強度があり、その国においてはより高い労働強度が単位時間あたりの労働価値を変えうる。しかし、諸国間においては中位の労働強度が違っているので、労働強度のより高い国の労働が同一時間により大きい価値を生産することから、この国の労働の価値(国民的労働)はより多くの貨幣で表現される。
世界市場での競争が商品価格の低下を強制しないかぎり、価格法則はそのままでは成立せずに、より強度の高い国民的労働がそのまま価値のある労働として通用する。
資本主義的生産が発達しているほど国民的労働の価値は高く、貨幣の相対的価値はより小さく、名目労賃は高いであろう。しかし、名目労賃が高くても実質賃金が高いとは限らない。
しかし、諸国間での貨幣価値の相対的相違とは別に、労働の価値の剰余価値に対する相対的な比率は、資本主義的生産が発達している国の方がそうではない国よりも低いのである。
1833年の工場調査委員会の一員が研究した事例では、「イギリスでは賃金が大陸よりも、労働者にとっては高いかもしれないが、工場主にとっては事実上低い。」と述べられている。
イギリスの工場監督官の1866年の報告書では、諸大陸諸国との比較統計によって、大陸の労働は、イギリスの労働に比べて、賃金は低く労働時間は長いが、生産物に対する賃金の割合から見れば高い、と記されていて、いくつか事例も語られている(事例は省略するが、要するに第十五章で述べられたことが、賃金の視点から見ても妥当であることが示される)。
H・ケアリの批判(省略)。
第七編 資本の蓄積過程
はじめにある貨幣額が流通部面において生産手段と労働力へ転化する。次に生産過程において商品へ転化されて剰余価値も生む[1]。商品は流通部面に再び投げ込まれて貨幣となり、その貨幣を資本に転化させる[2]。これが繰り返され資本の流通をなす[3]。以下では、資本はその流通過程を正常な仕方で通過することが前提される。
資本家は剰余価値の最初の取得者であっても最後の所有者ではない。剰余価値の断片は、いろいろな人々の手には入って、利潤や利子や地代等の種々独立な形態を受け取る[4]。
資本の蓄積過程は、現実に基づいて説明されるのであるが、その基本形態を明確にするには、まずは蓄積を単に直接的生産過程の一契機として(抽象的に)考察することで、純粋な蓄積過程の分析を行なわねばならない。
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