第九章 剰余価値率と剰余価値量
【感想】:資本主義生産体制に移っていくと動かすお金が大きくなってくる。するとできることも大きくなって、利益総額も増え、資本家にとってはよいことだ。だが同時に、すべての人間の意識のなかで価値の逆転が起こっていることには気付いていない。やがてこれが牙をむくことに・・・。
資本家は剰余価値量の増大を目指し、剰余価値量は下記の式で表現されるから、この等式の右辺のどの項を変化させればその目的が達成されるかが分かる。要するにそれは、労働時間を長くして、労働力の価値を向上させ、多くの労働者の労働力を吸収するために必要な生産手段を増やすことである。
剰余価値量は可変資本総量に比例するのであって、不変資本の量には無関係ではあるが、不変資本には、労働力を吸収して剰余価値を生み出す生産手段が含まれているから、充用労働者数を増大させる。とくに近代工業は生産手段を飛躍的に増大させ、ひいては資本の意欲をかき立てることになった。
M=(m/v)×V=k ×(a´/a)×n
M:剰余価値量、m:剰余価値、v:可変資本、V:可変資本の総額
k:平均労働力の価値、a´:剰余労働、a:必要労働、n:充用労働者数
m/v:剰余価値率(既出)
一定量以上の貨幣がないと、それを資本に転化することはできない。一人の労働者が生産手段を持っていて、自身の生活をするのに必要な労働時間が一日8時間とすると、資本家が労働者と同じ生活をする場合には、剰余労働4時間とすれば二人の労働者が必要となり、労働者より二倍良い生活をしようと思えば、四人の労働者を雇い、更に剰余価値の半分を資本に再転化しようとすれば8倍の前貸資本が必要となる。
もちろん資本家は自身で労働することはできるが、それをすれば彼は資本家と労働者の中間物、小親方でしかない。「資本主義的生産のある程度の高さは、資本家が資本家としてすなわち人格化された資本として機能する全時間を、他人の労働の取得、従ってまたその監督のために、またこの労働の生産物の販売のために、使用できるということを条件とする。」中世の同業組合は一人の親方が使用できる労働者数を強制的に制限することで、手工業親方が資本家になることを阻止しようとした。現実に資本家が出現するのは、生産のために前貸しされる資本の最少額が中世的最大限を遙かに超えたときである。
資本家と労働者との関係が生産過程の経過中に受けた諸変化と資本そのものの諸規定の詳細はここではかかわらないことにするが、要点は次のようなものである。資本は労働に対する指揮権を持つようになった。資本は、労働者階級に対して、自分の生活に必要な範囲よりも多くの労働をさせる強制力を持ち、その体制はそれ以前の直接的強制労働に基づくどんな生産体制よりもエネルギーと無限度と効果において凌駕している。
生産過程が労働者の合目的過程から資本の価値増殖過程になっていくと、生産手段は単なる労働対象から労働吸収手段となり、もはや労働者が生産手段を使うのではなく、生産手段が労働者を使うようになる。「貨幣が生産過程の対象的諸要因すなわち生産手段に転化されるというただそれだけのことによって、生産手段は他人の労働および剰余労働に対する権原および強制力原に転化されるのである。」
資本主義的生産様式が、「死んでいる労働(=生産手段)と生きている労働(=労働力)との、価値(=貨幣)と価値創造力(=労働)との関係の逆転」であることは、当時の資本家にはあまり理解されていなかった。事例として、労働日を12時間から10時間に短縮することによる資本家の損害は、紡錘や機械の二割が使用されなくなることによって、これらの売価が二割減ることにある、という1849年の資本家の書簡を、『工場監督官報告書1849年4月30日』から引用している。
0 件のコメント:
コメントを投稿