2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第4篇 相対的剰余価値の生産 第12章 分業とマニュファクチュア

第十二章 分業とマニュファクチュア

【感想】:分業が進み専門化と高度化と機械化が進ん行って、人間の部品化が進み従って人間性が失われていく、ということは誰でも嫌なことだと思う。どうしてそうなってくるのかといういきさつ知れば、みんなで知恵を出して先手を打てるかもしれない。マルクスの理論はその一つの手助けになりそう。

第一節 マニュファクチュアの二重の起源
「分業(労働の分割)に基づく協業(という生産方法)は、マニュファクチュア(工場制手工業)においてその古典的な姿を身につける。」マニュファクチュアは、16世紀半ばから18世紀の最後の三分の一期まで続く本来のマニュファクチュア時代において、次第に資本主義的生産過程の特徴的な形態となっていく。
マニュファクチュアは二重の仕方で発生する。一つはいろいろな種類の独立手工業の労働者たちが、同じ資本家の下にある作業場に結合されることにもとづいて、もうひとつは、同じような種類の多数の手工業者が同じ資本家の下で同時に同じ作業場で働くことにもとづいて。歴史的発生は違っても、マニュファクチュアの最終の姿は同じものとなる。つまり、同じ資本家の作業場における分業と協業の更なる発展によって、作業の分割と細分化が進み、それに対応する労働者の機能も細分化され、「人間をその諸器官とする一つの生産機構」という姿になるのである。
マニュファクチュアでは、生産過程におけるそれぞれの部分過程が、細分化された労働者の熟練に基づいた、手工業的な部分労働として行われる。したがってそれは、生産過程の真に科学的な分解を排除し、また労働力をこの部分労働機能の終生変わらない器官にする。

第二節 部分労働者とその道具
部分労働は、限られた同じ行為の反復と注意の集中という経験によって、有用効果を最小の力で達成する。獲得された技術上の手練はやがて固定化され、堆積され、伝達される。
マニュファクチュアの部分労働が一人の人間の終生の職業にしてしまうことは、マニュファクチュア以前の社会におけるカスト制(インド)や同業者組合に対応するものである。「カストも同業者組合も、動植物の種や亜種への分化を規制するのとおなじ自然法則から発生するのであって、ただ、ある発展段階に達すればカストの世襲性や同業組合の排他性は社会的法則として制定されるという点が違うだけである。」
労働のいろいろな部分過程を一人で行う労働者は、場所の移動や用具の交換や作業の中断などの無駄な時間を費やす。一方、一様な労働の連続は活気の緊張力や高揚を破壊する。
労働の生産性は道具の完全性にも依存するから、労働用具の専門化も進む。分化と専門化がマニュファクチュアを特徴付ける。
「細部労働者とその道具とは、マニュファクチュアの単純な諸要素をなすものである。」次にマニュファクチュアの全体の姿に目を向けることにしよう。

第三節 マニュファクチュアの二つの基本形態―――異業種的マニュファクチュアと有機的マニュファクチュア
マニュファクチュアの編成には二つの基本形態がある。それらは本質的に違う種類であって、後にマニュファクチュアが大工業に転化するときにもまったく違う役割を演じる。この二重性は、部品を組み立てて作られる製品と多くの工程を経て作られる製品という、製品の性質に基づいている。
部品を組み立てて作られる製品の例としては時計がある。この場合には、細部労働者が作った部品が一カ所に集められて組み立てられる。この細部労働者は、一人に資本家のために労働するのであって、自分の顧客のために労働する独立の手工業者とは違っている。
多くの工程を経て作られる製品の例には、縫針マニュファクチュアの針金がある。この場合には、針金は72から92種にも及ぶ独自の部分労働者の手を経て作られるから、手工業的生産がマニュファクチュアに結合されることで生産力が増大する。
生産段階ごとに見てみれば、各々の生産段階にとっての原料は、各々の生産段階にとって同時に見出されることになる。したがって生産段階が一つの作業場にあれば、いろいろな段階的過程の時間的継起が空間的並列に変えられたことになる。したがって一番はじめの原料の供給と完成商品の供給が同時となり、時間あたりの生産力の増大をもたらす。
このような、生産過程における時間的継起の空間的並列への変更は、労働の連続性や一様性や規則性や秩序について、ことに労働の強度について、独立手工業の場合と比べて、また単純な協業の場合とくらべても、まったく違った厳しさを生み出す。
商品の生産には社会的必要な労働時間だけが費やされる。そのことは、商品生産一般においては競争の外的強制として現れる(価格競争)。マニュファクチュアでは、一定の労働時間で一定量の生産物を供給するということが生産過程そのものの技術上の法則になる(イマイチ意味不明だが、商品の製造に費やすべき時間を制御する要因には異質な二要因がある、と言いたいのかもしれない。つまり、一つは資本家にとっての外的強制としての競争=価格、もう一つは、まだ物理や化学などの自然科学的法則だけには基づいてはいないが、細分化され熟練した部分労働力を資本家自身で計画的に総合して制御する生産力=内的時間制御である、と)。
マニュファクチュア的分業は、社会的労働過程における個々の過程が同じ速さで進むような量的調和、均衡を発展させる(分業が目的に沿って総合される場合には、各々の分業による生産速度が同じであることが有用だから当然だろう)。
「各個の群、すなわち同じ部分機能を行う何人かの労働者の一団は、同質の諸要素から成っていて、全体機構の一つの特殊器官となっている。しかし、いろいろなマニュファクチュアでは、この群そのものが一つの編成された労働体であって、全体機構はこれらの生産的基本有機体の重複または倍加によって形成されるのである。」(別に難しいこといっているのではない。ガラスマニュファクチュアの例が述べられているのでそれを読んだほうがよくわかる。説明省略)。
マニュファクチュア同士が結合して結合マニュファクチュアに発展することがあり得る。しかし、結合マニュファクチュアは、自身では技術的統一を達成せず、それはマニュファクチュアが機械経営に転化するときにはじめて生じる。
マニュファクチュア時代においては、労働時間の短縮に機械を使うようになる。ローマ帝国はあらゆる機械の基本的な形態を水車において伝えていたし、手工業時代にも羅針盤や火薬や印刷術や自動時計など偉大な発明があったが、だいたいにおいて機械は脇役であった。「17世紀にまばらに現れる機械の応用が非常に重要なものになったのは、それが当時の大数学者たちに近代的力学の創造のための実際上の手がかりと刺激とを提供したからである。」(マルクスの科学史観の一端のようだが、この結論には説明がないし、結論自体から言いたいことも明確ではない。しかし暗々裏に、人間の経済の営みについての経験と観察に基づいた経済学の普遍的な理論が世界を変えると言いたいのかもしれない)。
マニュファクチュア時代の独自な機械は、多数の部分労働者の結合された全体労働者そのものである。全体労働者の機能は色々あってその難易度も異なる。したがってマニュファクチュアは労働力の等級制を発展させ、熟練労働者とは別の、手工業経営が厳格に排除していた不熟練労働者という部類も生み出す。

第四節 マニュファクチュアの中での分業と社会の中での分業
労働自体に注目して分業を区分すれば、分業は、農業や工業など社会的生産の分割としての一般的分業、一般的分業の中における種(業種など)を区分した特殊的分業、一つの作業場の中での分業としての個別的分業、に区分される。
社会的分業は、マニュファクチュアの発展と同様に、相反する出発点から発展する。一つは共同体の内部における分業であり、もう一つは異なる共同体間における交換に基づいた分業である。前者は、以前は独立していなかったものの独立化が行われ、後者は、以前は独立していたものの非独立化が行われるのである。
商品交換によって媒介されている分業の基礎は、都市と農村との分業であり、社会の全経済史はこの対立の運動に要約される。しかし、ここではそれ以上立ち入らない。
マニュファクチュアの中での分業は、同時に充用される労働者数とその密度(空間あるいは時間的)が物質的前提となる。
商品生産と商品流通が資本主義的生産様式の一般的前提だから、マニュファクチュア的分業は社会的分業がある程度進んでいることが前提される。逆にマニュファクチュア的分業が社会的分業を発展させ、また複雑化する。労働用具の分化につれて用具を生産する産業も分化するし、部品の生産に携わる部分労働自体も独立手工業となりうるし、原料自体あるいはその形態の相違に応じて別のマニュファクチュアに分離もし得る。「こうして、すでに十八世紀の前半にフランスだけで百種類以上の絹織物が織られており、たとえばアヴィニョンでは、「どの徒弟も常に一種類の製造だけに従事するべきで、幾種類もの織物の製造を同時に修行してはならない」というのが常則だった。」社会的分業に対して豊富な材料を提供した世界市場の拡大と植民制度は、マニュファクチュア時代の一般的な存在条件の一つである。ここではこれ以上詳しく述べないが、「分業は経済的部面だけではなくそのほかにも社会のあらゆる部面をとらえて、どこでもあのような専門や事業の形成と人間の細分とのための基礎を置くのであって、この人間細分こそは、すでにA・スミスの師のA・ファーガソンに、「われわれは奴隷ばかりの国民になった、われわれのなかに自由な人間はいない」とまで叫ばせたのである。」
社会のなかでの分業と、一つの作業場のなかでの分業とは、その程度だけではなく本質においても違っている。例えば、飼畜業者が皮を生産し、製革業者が皮を革に変え、製靴業者が革を靴に変えるのだが、この社会的分業は、A・スミスのように、ただ観察者にとっての、つまり主観的(部分労働の関連が空間的等において感覚的に認識できるか否か、という主観)にマニュファクチュア的分業と区別されるのではない。
社会的分業における部分労働の関連をつくり出すのは「それぞれの生産物の商品としての定在である。」それに対してマニュファクチュア的分業を特徴付けるものは、部分労働者は商品を生産しないということである。
マニュファクチュア的分業は、一人の資本家の手中における生産手段の集積を前提にしているのに対して、社会的分業では、相互に独立した多数の商品生産者への生産手段の分散が前提されている。
マニュファクチュアでは「比例数または比例関係の鉄則が一定の労働者を一定の機能のもとに包摂する」が、いろいろな社会的労働部門のあいだへの商品生産者と彼らの生産手段との配分では偶然と恣意とが複雑に作用する。
確かにいろいろな生産部面は絶えず均衡を保とうとしているが、「この不断の傾向は、ただこの均衡の不断の解消に対する反作用として働くだけである。」(生産物の使用価値は社会的欲望の満足を旨とする。生産物に対する欲望は人それぞれである。だから一般的使用価値は自然発生的な欲望の体系に即したものである。一方、個々人がどれだけの価値を支出するかを判断する、その価値は商品の価値法則で定まる。商品の価値法則で定まる価値は自然発生的なそれより常に大きく且つその差は不断に拡大する傾向を持つ。これは資本主義的生産体制の本性に由来する、ということか。だがこれは、人間の欲望の本性にも由来するのではないだろうか)。
作業場の中での分業における規則は自然必然性として作用する。「作業場の中での分業ではア・プリオリに[はじめから]計画的に守られる規則が、社会のなかでの分業では、ただア・ポステリオリに[あとから]、・・・商品生産者たちの無規律な恣意を圧倒する自然必然性として、作用するだけである。」
マニュファクチュア的分業は、資本家のもとで働く人に対する資本家の持つ無条件的な権威を前提する。社会的分業においては、独立の商品生産者たちにとっては、競争という権威の他はどんな権威も認めないのであって、ちょうどそれは動物界における(ホッブズの言うように)万人の万人に対する戦いと同じである。それだからこそ、ブルジョア的意識は、社会的生産過程のいっさいの意識的社会的な統御や規制を、個別資本家の不可侵の所有権や自由や自立的「独創性」の侵害として非難する。「工場制度の熱狂的な弁護者たちが、社会的労働のどんな一般的な組織に向かっても、それは全社会を一つの工場にしてしまうだろう、という以上にひどい呪いの言葉を知らないということは、まことに特徴的なことである。」
資本主義的生産様式の社会では社会的分業の無政府とマニュファクチュア的分業の専制とが、互いに条件となっている。それ以前の諸社会形態では、社会的労働の計画的で権威的な姿を示しながら、作業場の中での分業は排除されるか矮小な規模とか散在的偶然的にしか発展させない。
例えばインドの太古的な小共同体がそうである。ここでは土地の共有と、農業と手工業との直接的結合と、固定した分業とを基礎としている。このような共同体は自給自足的な生産的全体をなしていて、生産そのものは商品交換によって媒介されるインド社会の全体としての分業からは独立していて、生産物の余剰だけが商品となる。<中略>このような、自給自足的な共同体の簡単な生産体制は、アジア的諸社会の不変性の秘密を解く鍵を与えるものである。
同業者組合規制は、一人の同職組合の親方が使用できる職人の数を制限することによって、親方が資本家になることを阻止していた。また親方は自分が親方であった手工業種だけでしか職人を使うことができなかった。同業組合は商品資本と対立していた。商品はどんな商品でも買うことができたが、労働力は買うことができなかった。商人は手工業生産物の費用立替人として容認されただけだった。外的事情が分業を促しても、同業組合が更に細分化するか新しく別の同業組合が作られはしたが、いろいろな手工業が一つの作業場にまとめられることはなかった。「だいたいにおいて、労働者とその生産手段とは、カタツムリとその殻とのように、互いに結びつけられたままになっていた。したがって、マニュファクチュアの第一の基礎、すなわち労働者に対して生産手段が資本として独立化されるということは、なかったのである。」
「一つの社会のなかでの分業は、商品交換によって媒介されているかどうかは別として、非常に様々な経済的社会構成体に属するのであるが、マニュファクチュア的分業は、資本主義的生産様式の全く独自な創造物なのである。」

第五節 マニュファクチュアの資本主義的性格
協業は協業一般と同様にマニュファクチュアの基礎をなし、マニュファクチュア的分業は生産力を増大し、それは労働者と生産手段の増大を加速させ、資本家同士は競争する。したがって資本の最小規模は増大し、社会の生活手段と生産手段とが益々資本に転化していく。これは「マニュファクチュアの技術的性格から生ずる一つの法則なのである。」本来のマニュファクチュア(16世紀半ばから18世紀の三分の二くらいまでのマニュファクチュア)は、以前は独立していた労働者を資本の指揮と規律の下におくだけでなく、労働者のあいだにも一つの等級制的編成をつくり出し、単純な協業においては変化しない個々人の労働様式を歪めて一つの奇形物にする。「というのは、諸々の生産的な本能と素質との一世界をなしている人間を抑圧することによって、労働者の細部的技能を温室的に助成するからである。」特殊な部分労働が別々の個人に割り当てられ、そのことで個人そのものも分割されて一つの部分労働の自動装置に転化する。
マニュファクチュアにおいては、知識や分別や意思などの労働者の精神的な部分も資本に集積され、それらは他人所有するものとして部分労働者たちに対立する。精神的諸能力の分離過程は単純な協業に始まるのだが、この過程はマニュファクチュアにおいて発展し、大工業において完了する(現代の21世紀においては、マルクスの時代とは労働の意味が変化しつつあるのではないか。そのことを組み込んだ経済理論の構築が必要とされている)。
いくつかの文献を引用して、マニュファクチュアの資本主義的性質について述べられている。その内容は、大体において上記のマルクスの見解を補強するものなので省略する。
本来のマニュファクチュア(前出)に特有な分業も、やがて同業組合的手工業と同じように、ひとたび見出された形態を伝統的に固守しようと、時には数百年もそれを固守するのである。この形態が変わるのは、いつでも労働用具の革命の結果にほかならない。
「マニュファクチュア的分業は、手工業的活動の分解、労働用具の専門化、部分労働者の形成、一つの全体機構のなかでの彼らの組分けと組合わせによって、いくつもの社会的生産過程の質的編成と量的比例性、つまり一定の社会的労働の組織を作り出し、同時にまた労働の新たな社会的生産力を発展させる。社会的生産過程の独自な資本主義的形態としては・・・マニュファクチュア的分業は、ただ、相対的剰余価値を生み出すための、または資本・・・の自己増殖を労働者の犠牲において高めるための、一つの特殊な方法でしかない。それは、労働の社会的生産力を、労働者のためにではなく資本家のために、しかも各個の労働者を不具にすることによって、発展させる。それは、資本が労働を支配するための新たな諸条件を生み出す。したがって、それは、一方では歴史的進歩及び社会の経済的形成過程における必然的発展契機として現れ、同時に他方では文明化され洗練された搾取の一方法として現れるのである。」
マニュファクチュア時代になってはじめて独自な科学として現れる経済学は、社会的分業一般を労働量と交換価値を強調して考察する(同量の労働で多くの商品を生産するための、言い換えれば商品を安くつくり資本蓄積を速くする手段として考察する。)のに対して、古典的古代の著述家たちはただ質と使用価値だけにしがみついている。以降、ギリシャ以来16世紀中頃までの経済学的思考についての解説が述べられるが省略する。
マニュファクチュアの基礎には、人間の労働としての手工業的熟練があり、その全体機構も労働者そのものから独立した客観的な骨組み(科学技術に基づき労働者の意思によらない生産手段や産業システム)は持っていなかった。マニュファクチュアの最も完成された姿の一つは労働用具自体を生産する作業場であったが、この作業場は高度に分業化され、専門化され、技能別に等級化した労働者を持っていた。そしてこの作業場自体がそれ自身の産物として機械(機械の構成要素である精密な材料や部品を作り出す機械や装置など)を生み出し、機械は社会的生産の規制原理としての手工業活動を廃棄する。「こうして、一方では、労働者を一つの部分機能に一生涯縛り付けておく技術上の根拠は除かれてしまう。他方では、同じ原理がそれまではまだ資本の支配に加えていた制限もなくなる。」


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