2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産 第14章 絶対的および相対的剰余価値

第十四章 絶対的および相対的剰余価値

【感想】:絶対的だろうが相対的だろうが、とにかく、剰余生産物は人間の生まれつきの性質からは生じないが現実には生じている。理由は、人間は他人の剰余生産物なくしては生きていけないからである。もっと広くいえば人間は一人では生きられないのだ。問題は、そこにつけ込んで剰余生産物を掠め取ることを可能とする社会の構造(資本主義的生産体制)にある、とのご指摘はもっともだ。しかし、マルクスはその根源に欲望の充足手段の発展とともに増大する人間の欲望の存在を認めている。社会構造の理論とともに欲望の構造の理論が面白そうだ。

第五章で労働過程を考察した時に、生産的労働の本源的規定として、次のように述べた。「労働過程全体をその結果の立場から見れば、二つのもの、労働手段と労働対象とは生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる。」しかし、それは資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない、と付け加えておいた。生産的労働の本源的規定は、物質的生産の性質そのものから導き出されたもので、ここでは資本主義的生産過程における生産的労働について詳しく展開される。
およそ生産物は、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一人の全体的労働者の共同生産物に転化する。労働過程そのものの協業的な性格によって、必然的に、生産的労働の概念も生産的労働者の概念も拡張される。資本主義的生産過程においては、生産的に労働するためには、個々の労働者はもはや全体労働者の器官であるということだけで十分であるから、生産的労働の本源的規定は全体労働者については相変わらず真実であるが、個別の労働者にとってはもはや当てはまらない。
他方で、資本主義的生産は単に商品の生産であるだけではなく、それは本質的に剰余価値の生産である。従って、生産的労働者の概念は、単に物質的生産の性質そのものから導き出されたものだけではなく、労働者自身が資本の増殖手段となるような、歴史的に成立してきた生産関係をも包括する。剰余価値の生産を生産的労働者の決定的性格として捉えていたのは古典派経済学も同様である。剰余価値の性格の把握の仕方によって生産的労働者の定義も違ってくる(詳しくは、理論の歴史を取り扱う第四部で述べる)。
(以降しばらく復習)。
相対的剰余価値の生産は資本主義的生産様式を前提する。資本主義的生産様式は、労働の形式的従属を基礎として自然発生的に出現する。やがて、労働の形式的従属に代わって労働の実質的従属が現れる。
剰余労働の中間的形態は、資本がまだ直接的には労働過程を征服していない場合に現れる。そこにおいては手工業や農業を営む独立生産者と並んで高利資本や商業資本が現れ、最後に大工業の背後において近代的家内労働などが現れる。
絶対的剰余価値の生産には、資本のもとへの労働の形式的従属だけで十分である。相対的剰余価値の生産が可能なのは、資本のもとへの労働の形式的従属だけではなく、資本主義的生産様式が社会の支配的形式として剰余価値生産の手段となる場合である。そのような場合とは、諸産業部門に対する資本主義的生産様式の普及期及び変革期である。
剰余価値率を向上させるには、現実には二つの場合が考えられる。一つは、労働の生産性も労働の強度も変わらない場合には労働日を増大させること。もう一つは、労働日が変わらない場合には、必要労働と剰余労働の比率を変えること、即ち労働の生産性を向上させるか労働の強度をたかめることである。
労働の生産性についていえば、それがある程度なければ、つまり自分自身や子孫の維持に全ての時間を費やしてしまうなら、どんな有産階級もない。
労働がある程度社会化されたときにはじめて、ある人の剰余労働が他の人の生存条件になるような諸関係が現れる。文化の初期には労働の生産力は小さいが欲望も小さい。欲望はその充足手段とともに発達する。他人の余剰労働が自分の生存条件となる割合は労働の社会的生産力が増大するほど増大する。「資本関係がそこから出発する基礎となる労働の生産性は、自然の賜ではなく、何千もの世紀を包括する歴史の所産なのである。」
労働の生産性は自然条件に関係している。自然条件は生活手段としての自然の富と、労働手段としての自然の富に区分できる。文化の初期には前者が、後には後者が決定的となる(現代ではイギリスとインド、古代世界ではアテナイとコリントの比較)。
豊かな自然に恵まれているほど剰余労働の量は大きくなりうる(ディオドロスの古代エジプト人についての記述)。
資本主義的生産様式においても、剰余労働の大きさは、労働の自然条件や土地の豊度により異なるであろうが、最も豊饒な土地が資本主義的生産様式の成長に最も適している土地であるということにはならない。人間による自然の支配を前提する。自然は、人間自身の発達を自然必然性にするものではない。植物が繁茂する熱帯ではなく温帯こそ資本の母国である、というのは、土地の豊かさではなくて多様性こそ社会的分業の基礎をなし、人間自身の欲望や能力や労働手段や労働様式を多様化するからである(エジプト、インド、ペルシャ、オランダ等々における治水、運河などの例)。
労働の自然条件の相違は、同量の労働によってみたされる欲望の量が国によって違う、言い換えれば必要労働時間が違うからである。
自然の恩恵が直接与える多くの暇な時間を、自分のために生産的に使うようになるには、いろいろな歴史的事情が必要であり、この時間を他人のために剰余労働に費やすようになるには外的な強制が必要である。とにかく、剰余生産物は、人間の生まれつきの神秘な性質からは生じないであろう。

剰余価値の発生原因についての、リカード及びリカード学派批判及びJ.Sミル批判(省略)

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