2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第1篇 商品と貨幣 第1章 商品

第一章     商品

ブルームーン
【感想】:一章と二章が『資本論』という本の基本的な思考の枠組みをなしていると思う。つまり、人間の営みの基本には経済活動があり、経済活動を考察するときのキーワードは「商品」である、とマルクスは言う。では「商品」とはなんだろう?この章はこの問いに対するマルクスによる回答だ(小生はフッサールが好きなので、「商品」の現象学的本質観取だと思う)。「商品」という歴史的現象から先入観を除いてその本質を取りだした。商品は人間の労働による価値生産物であるが、その価値は使用価値と交換価値という、価値についての二重性を持っているという。その意味は次第に分かってくるはず。だが、その意味がわかったとしても、その意味するところのものは本当か?それはわれわれ読者が自分で試してみるほかはない。

第一節 商品の二つの要因 使用価値と交換価値(価値実体 価値量)
「資本主義的生産様式[1]が支配的に行われている社会の富は、一つの「巨大な商品の集まり」として現れ、一つ一つの商品は、その富の基本形態として現れる。それゆえ、われわれの研究は商品の分析から始まる。」
商品は人間の欲望を満たす、ある物[2]である。ある物の有用性が、その物を使用価値にする。有用物(有用性をもったある物)は質と量の二重の観点から考察される。有用性は、物の属性と使用方法により生じる。物の属性や使用方法や有用物の量を計るための社会的尺度を見出すことは歴史的行為(発見、発明、慣習)である。有用性は商品体(鉄や小麦やダイヤモンド等々)なしには存在せず、したがって商品体はそれ自体が使用価値または財である。商品体の性格は、その使用属性の取得に費やされる労働量には無関係である[3]。使用価値は消費(=使用)によってのみ実現されるもので、富の素材的[4]な内容をなすものである。
交換価値は、使用価値と交換される比率関係として現象する。(このような)交換価値は時と所で変動する相対的で偶然的なものである。また使用価値は有用性に基づいて、商品体に属する(個別的な)ものである。だが、商品自体に何らかの価値が(普遍的なものとして)内在しないものなのだろうか。
内実の異なる商品が交換可能であると言うことは、次の二つのことを意味する。一つは、交換価値は同一なあるものを表現すること、二つ目は、交換価値はそれとは区別される[5]ある内実の表現様式(=現象形態)でしかあり得ないこと、である[6]。交換価値である限りは、交換対象商品とは違う第三者、一つの共通なもの[7]に還元されなければならない。この一つの共通なものには、自然科学的属性は含まれ得ない[8]
交換関係あるいは交換価値には使用価値が捨象されている。商品から使用価値を捨象したら、商品自体の価値としては何が残るのだろうか、(別の言い方をすると)商品の自然科学的属性を捨象すると、残る属性は何だろうか。それは労働諸生産物だという属性であり、それに由来する価値である。それが諸商品価値である[9]
商品体から使用価値が捨象された労働諸生産物に含まれている労働には有用的性格は消し去られている。したがって、その労働は、(何かを作る目的ごとに異なっている)労働内容の)相違を消失し、抽象的・人間的労働に還元されている。
労働諸生産物から使用価値が捨象されて残ったものは、抽象的・人間的労働が堆積されていることを表示するに過ぎないものであって、社会的実体の結晶であるとも言え、即ちこれらのものは、諸価値、諸商品価値[10]である。
「研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値に連れ戻すことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。」(これは三節で扱うから)
商品の価値の大きさは労働の分量、労働時間で計られる。すると労働者が怠惰で熟練していないほど商品価値が大きいかのようだが、諸価値の実体をなす労働は同等な人間的労働(=社会的な平均的労働)であると考えるのが本質的考察である。社会的条件が変われば、例えば機械が導入されれば労働時間が減って諸価値は低下する。
「使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである」。「価値としては、すべての商品は、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない」。
「つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。」

第二節 商品に表される労働の二重性
商品は使用価値と交換価値という二面的なものとして現れた。同様に労働も価値として表される限りでは二面性を持っている。使用価値に対応する有用労働とすべての商品に共通する人間労働一般である。
  • 生産物の有用性に表れた労働を有用労働と呼ぶ。
  • 同じ使用価値が同じ使用価値と交換されることはない(上着は上着とは交換されない)。
  • 有用労働の総体には、社会的分業が現れている(分業が生産の存在条件、その逆では無い)。
  • 労働は有用労働として永遠の自然必然性である(社会形態から独立した、人間の存在条件)。
  • 商品の価値は人間労働一般の支出を表す(資本主義社会では)。
  • 資本主義社会では労働の形態転換が行われ、また行われなければならない。異なる労働(例えば裁縫と織布)は形態が違うだけで、何れも人間の肉体の生産的支出である。より小さい量の複雑労働がより大きい量の単純労働に等しいだけである。複雑な労働の生産物であってもその商品の価値は単純労働の生産物と同じにすることができる。

第三節 価値形態または交換価値
商品であるということは、それが使用対象(=商品体)であると同時に価値の担い手であるということである。換言すると、商品であるのは、現物形態と価値形態という二重形態を持つ限りにおいてである。
商品の価値対象性には自然素材は全然含まれず、社会的なものだけがふくまれる。諸商品は、ただそれらが人間労働という同じ社会的な単位の諸表現であるかぎりでのみ価値対象性を持っている。だから、商品の価値対象性は商品と商品との社会的な関係のうちにしか現れない。
「われわれも、じっさい、諸商品の交換価値または交換関係から出発して、そこに隠されている価値を追跡したのである。いま、われわれは再び価値のこの現象形態に帰らなければならない」。
さまざまな商品の現物形態に共通な価値形態があり、それは貨幣形態である[11]。このことは誰でも知っているが、ここでなさなければならないことは、この貨幣形態の生成を示すことである。まず、最も単純な価値関係として、二つの商品の価値関係について考察する。

A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態
x量の商品Aはy量の商品Bに値する(xA=yB[12]
一 価値表現の両極 相対的価値形態と等価形態
「すべての価値形態の秘密は、この単純な価値形態のうちにひそんでいる。それゆえ、この価値形態の分析には固有な困難がある」
A=yB は相対的価値形態(A)と等価形態(B)を表している。(商品は)価値を表現されたもの(=相対的価値形態にあるもの)か、表現するもの(=等価形態にあるもの)か、のどちらかであって、同時に両方であることはできない(リンネルの価値をリンネルで表現することは出来ない)。

二 相対的価値形態
まず、xA=yBの左辺の話から入る
a 相対的価値形態の内実
商品の価値表現は、異なった使用価値を持つ商品同士が交換されているということ、言い換えると、異なるものが等置関係に置かれていることによってのみ可能となる。ここに何が潜んでいるのかをみつけだすには、さしあたり量的な面から離れて考察しなければならない。
A=yBであるには、まずA=Bでなければならない[13]AがリンネルでBが上着の場合で考えてみると、リンネルは上着と交換できるという関係において自身の価値が表現され、上着は価値の存在形態として価値物である。他面では、リンネルそれ自身の価値存在が現れてくる。なぜならば、ただ価値(=抽象的労働)としてのみリンネルは等価物としての上着に関係することができるからである。Aが酪酸でBがギ酸プロピルの例は省略(この二つは異なるものであるが、両方とも化学式=記号は同じ)。
ここで、ABの商品の価値は人間労働の凝固物(前出)であっても、それらの現物形態とは違った価値形態を与えるわけではない。しかし、A=Bを可能にしているそのABの商品の生産に要した労働について考察してみれば[14]、そこには異種の諸人間労働が共通の等式(A=B)として表現できる理由(=抽象的労働が商品価値の源泉である)があることに気付く[15]
「ただ異種の諸商品の等価表現だけが価値形成労働の独自な性格を顕わにするのである。というのは、この等価表現は、異種の諸商品の内に潜んでいる異種の諸労働を、実際に、それらに共通なものに、人間労働一般に、還元するのだからである。」
「しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは、十分ではない。<中略>労働の凝固として表現するためには、それを、リンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。課題はすでに解決されている。」[16]
ここで、以上の内容の理解を深めるためのマルクスの表現を列記してみる。適切な比喩かどうか?
「・・・上着商品の身体は、たしかに一つの使用価値である。・・・このことは、ただ上着がリンネルとの価値関係の中ではその外でよりもより多くのを意味していることを示しているだけである。ちょうど、多くの人間は金モールのついた上着の中ではその外でよりもより多くを意味しているように。」[17]

「たとえば、個人Aが個人Bにたいして王位にたいする態度をとるということは、同時にAにとっては王位がBの姿をとり、したがって顔つきや髪の毛の色やその他なお多くのものを国王が替わるごとに取り替えることなしには、できない(態度をとることが)のである。」[18]

「リンネルの価値存在が上着とのその同等性に現れることは、キリスト教徒の羊的性質が神の仔羊とのその同等性に現れるようなものである。」[19]
「要するに、さきに商品の分析がわれわれに語った一切のことを、いまやリンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶや否や、リンネル自身が語るのである。<中略>労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいとされるかぎり、つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働から成り立っている、と言うのである。」[20]
「こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態となる。言い換えれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料とする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。」

b 相対的価値形態の量的規定性
価値形態は、価値一般だけではなく量的に規定された価値(=価値量)をも表現しなければならない[21]
ある商品の価値の源泉である人間労働の必要な時間は、生産力の変動[22]によって変動するから、この変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響をもっと調べねばならない。
Ⅰ リンネルの価値は変動するが、上着の価値は不変な場合
Ⅱ リンネルの価値は不変なままであるが、上着の価値は変動する場合
Ⅲ リンネルと上着との生産に必要な労働量が、同時に同じ方向に、同じ割合で変動することもあり得る。
Ⅳ リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、従ってそれらの価値が、同時に、同じ方向にではあるがしかし同じではない程度でとか、または反対の方向にとか、その他色々な仕方で変動することがあり得る。
つまり、商品Aの価値量は、商品Aの商品Bで規定される相対的価値量とは無関係であることが示された。
「こういうわけで、価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にも完全にも反映しないのである。一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても、不変のままでありうる。そして最後に、その商品の価値量とこの価値量の相対的表現とに同時に生ずる変動がお互いに一致する必要は少しもないのである。」[23]

三 等価形態
A=yBの、今度は右辺の話に入る。
商品Bの現物形態が商品Aの価値形態となっている場合、換言すると商品Aの価値は、商品Bの使用価値で表現されて、Aが相対的価値の形態を持っている場合、ここではまだ、x/yの値は決して与えられていない。x/yの値は商品Bの価値量によって定まるのだが、いまのところ商品Bの価値量はxA=yB という関係の中における、ただ或る物の一定量として現れるだけである。
「一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。」
等価形態の第一特徴は、使用価値が、対極にある(商品)価値の現象形態となる、ということである。具体的に見てみると「鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルに対してただ価値だけを代表しているのである。」ということである。
だがしかし、重量尺度は自然属性であり(かつ、それを利用したxA=yB という関係は等価形態ではなく、一方が他方を規定しているだけであり)、商品価値は社会的関係を包蔵していることを暗示しており、(一方が他方を規定しているという関係ではなくて)等価形態の表現なのである。「等価形態は、ある商品体、例えば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。」
商品体は、物質が質料を持っているのと同じように等価形態を生まれながらにもっているように見える。このことは不可解な事かもしれない。しかし「この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、初めて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。」
等価形態の第二特徴は、具体的労働が、対極にある抽象的人間労働の現象形態となる、ということである。人間労働についても、言い換えると生産の側から商品を見ても事情は同じである。「裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が出される。それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。」
等価形態の第三特徴は、私的労働が、対極にある社会的な労働になる、ということである。「裁縫、織布等々の具体的労働が、無差別な人間労働の単なる表現として認められることによって、<中略>この労働は、他の商品と直接交換されうる生産物となって現れるのである。」
第二と第三の特徴についての理解は、アリストテレスの価値形態分析に遡るとよく分かる。アリストテレスは、交換という行為の中に(社会的)価値概念を持っていなかった[24]。「彼は言う、「交換は同等性なしにはあり得ない。同等性は通約可能でなければあり得ない」と。ところが、ここでにわかに彼は立ち止まって、価値形態のそれ以上の分析をやめてしまう。「しかしこのように種類の違う諸物が通約可能だと言うこと」すなわち、質的に等しいということは、「本当は不可能なのだ」と。このような等量は、ただ、諸物の真の性質には無縁なものでしかありえない、つまり、ただ「実際上の必要のための応急手段」でしかありえない、というのである。」
「すべての労働の同等性および同等な妥当性は、人間の同等性の概念がすでに民衆の先入見としての強固さを持つようになったときに、はじめてその謎を解かれることができるのである。しかし、そのようなことは、商品形態が労働生産物の一般的な形態であり、したがってまた商品所有者としての人間相互の関係が支配的な社会的関係であるような社会において、はじめて可能なのである」[25]

四 単純な価値形態の全体[26]
「つまり、商品Aが他のどんな商品種類に対して価値関係にはいるかにしたがって、同じ一つの商品のいろいろな単純な価値表現が生じるのである。商品Aの可能な価値表現の数は、ただ商品Aとは違った商品種類の数によって制限されているだけである。それゆえ、商品Aの個別的価値表現は商品Aのいろいろな単純な価値表現のいくらでも引き延ばせる列に転化するのである。」
いままで説明したように、商品の価値形態は商品価値の本性から出てくるのであって、交換価値として表現様式から出てくるのではない。このことは従来理解されてこなかった。そのわけは、単純に価値形態全体から論じれば、商品の価値(この価値は等価形態の最終完成形態としての貨幣という意味)も価値量(貨幣と数量の積という意味)も、ただ交換関係による表現でしか理解できなかったからである。このことを別の表現で言ってみれば、「一商品の単純な価値形態は、その商品に含まれている使用価値と価値との対立の単純な現象形態なのである。」
また労働生産物は、歴史的に見てどのような社会状態でも使用対象だが、それが商品であるのは、労働をその物の「対象的」な属性(=価値)として表されるような、歴史的に規定された発展段階においてだけだから、「商品の単純な価値形態は同時に労働生産物の単純な商品形態だと言うことになる。」

B 全体的な、または展開された価値形態
AuBまたは=vCまたは=wDまたは=xEまたはetc
一 展開された相対的価値形態
二つ商品間の価値形態を第一の価値形態指(形態と、無数の商品間の価値形態を第二の価値形態(形態)と呼ぶことにする。形態では、二つの商品が一定の割合で交換されることは偶然的であり得る。形態では本質的にそうではなくなっている。「こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固物として現れる。<中略>それゆえ、いままではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類に対してだけではなく、商品世界に対して社会的な関係に立つのである。」

二 特殊的等価形態
無数の商品がそれぞれ等価物としての役割を果たすことを、特殊的等価形態[27]と呼ぶことにする。それに対応して特定の(具体的な有用な)労働種類も、人間労働そのものの特殊な実現形態と呼ぶことにする。

三 全体的な、または展開された価値形態の欠陥[28]
商品の相対的価値表現は、無数かついくらでも追加が出来るような等式が繋がって作る連鎖を形成しているから、完結することはない。また、この連鎖はばらばらな価値表現の集まりである。更には、どの商品もこの展開された形態で表現されるので、どの商品の相対的価値形態とも違ったものとなるはずである。このことを、展開された相対的価値形態の欠陥と呼ぶ。等価形態(この場合には特殊的等価形態)についても、更には人間労働(この場合には人間労働そのものの特殊的な実現形態)についても言えることである。
展開された相対的価値形態は、形態の諸等式(xA=yB)の総計からなっている。この諸等式を逆にすれば(yB=A)、この等式の右辺はいつも同一の等価形態となっている。そこで次のCへと話が移る。

C 一般的価値形態
一着の上着     =20エレのリンネル
10ポンドの茶    =20エレのリンネル  
40ポンドのコーヒー =20エレのリンネル
以下略

一 価値形態の変化した性格
商品の価値を単純に表しているというのは、一つの等式(xA=yB)で表される(物々交換の時代)。統一的に表しているというのは、右辺が同じである沢山の等式で表表される(習慣的に、労働生産物、例えば家畜が多くの商品共通に使われた時代)。「それだからこそ、この形態がはじめて現実に諸商品を互いに価値として関係させるのであり、言い換えれば諸商品を互いに交換価値として現れさせるのである。」
価値形態は更に進み、一般的価値形態となる。ここでは「一つ商品が一般的価値表現を得るのは、同時に他のすべての商品が自分たちの価値を同じ価値物で表現するからに他ならない。<中略>こうして、諸商品の価値対象性は、それがこれらの物の純粋に「一般的定在」であるからこそ、ただ諸商品の全面的な社会関係によってのみ表現される得るのであり、・・・」
ことの本質はこういうことである「諸労働生産物を無差別な人間労働の単なる凝固として表す一般的価値形態は、それ自身の構造によって、それが商品世界の社会的表現であることを示している。こうして、一般的価値形態は、この世界の中では労働の一般的な人間的性格が労働の独自な社会的性格となっていくと言うことを明らかに示しているのである。」

二 相対的価値形態と等価形態との発展関係
相対的価値形態の発展の程度には等価形態の発展の程度が対応するが、注意しなければならないのは、等価形態の発展はただ相対的価値形態の発展の表現と結果でしかないことである[29]。「しかし、価値形態一般が発展するのと同じ程度で、その二つの極の対立[30]、相対的価値形態と等価形態との対立もまた発展する。
形態、形態に続いて、形態が現れる。形態は形態の「二つの辺を置き換えることであり、このことはこの等式の全性格を変えることであり、全体的価値形態から一般的価値形態に転化させることなしには不可能である。」[31]
「すなわち形態Ⅲが最後に商品世界に一般的な社会的な相対的価値形態を与えるのであるが、それは、ただ一つの例外だけを除いて、商品世界に属する全商品が一般的等価形態から排除されているからであり、またそのかぎりでのことである。」

三 一般的価値形態から貨幣形態への移行
ここまで来れば、形態から貨幣が出現するのは不思議ではないが)形態にある一つの商品が他のすべての商品により等価物として排除された瞬間から「はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。」。この一商品は、形態では例えばリンネルであったが、歴史的にかちとったのは金である。

D 貨幣形態
20エレのリンネル
一着の上着     =2オンスの金
10ポンドの茶    =2オンスの金
40ポンドのコーヒー =2オンスの金
以下略

形態から或いは形態からへの移行では本質的な変化が生じているが、形態はリンネルに代わって金が一般的等価形態をもっているところを除けば形態と違わない。それは社会的習慣[32]にすぎない。

第四節 商品の呪物的性格とその秘密
商品は、一見、自明な平凡な物に見える[33]。商品の使用価値から見ても、人間の労働生産物として見ても商品には少しも神秘的なところはない。しかし、たとえば、材木で机を作って商品とした場合、「それは一つの感覚的であると同時に超感覚的であるものになってしまうのである。」[34]
(もう少し詳しく説明すれば)商品の神秘的な性格は、使用価値からは出てこないことは明らかだが、生産活動がどんなに違っていても、それらが人間の肉体を用いたものであり、諸価値量が人間の労働時間の支出量であり、なんらかの仕方で相互のために労働するようになれば、労働そのものもまた社会的な形態をもつものであるから、それらは人間の感覚として捉えられるものである。だから、商品が超感覚的なもの(=神秘的なもの)になってしまう謎は、商品が、労働生産物が商品形態をとるという、この形態そのものから生じる。この形態そのものが商品を感覚的なものから超感覚的・神秘的なものに置き換えるのだ。この形態は、価値対象性という物的形態であり、労働時間で計られる価値量という形態であり、生産者たちの社会的関係という形態である。人間労働の同等性は価値対象性という形態を、労働量は価値量という形態を、生産者たちの諸関係は社会的関係という形態を受け取るのである。そのような形態の受け取りが反映された置き換えが、労働生産物を商品にする。「このような置き換えによって、労働生産物は商品になり、感覚的であると同時に超感覚的である物、または社会的なものになるのである。」
商品形態は(形態としては)労働生産物の物理的な性質や関係とは無関係であって、「ここで人間にとって諸物の関係という幻想的な形態をとるものは、ただ人間自身の特定の社会的関係でしかないのである。それゆえ、その類例を見いだすためには、われわれは宗教的世界の夢幻鏡に逃げ込まなければならない。ここでは、人間の頭の産物が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界は人間の手の生産物がそう見える。これをわたしは呪物崇拝と呼ぶのであるが、それは労働生産物が商品として生産されるやいなやこれに付着するものであり、したがって商品生産と不可分なものである。」
使用対象が商品となるのは、それらが互いに独立な私的労働[35]の生産物であるからだが、彼らの私的諸労働は労働生産物の交換によってはじめて社会的総労働の諸環として実証される。「(私的諸労働の諸関係は)諸個人が自分たちの労働そのものにおいて結ぶ直接に社会的な諸関係としてではなく、むしろ諸個人の物的な諸関係および諸物の社会的な諸関係として、現れるのである。」
労働生産物も、交換の中で有用物と価値物へと分裂していく。そしてこの瞬間に、私的諸労働は二重の社会的性格を受け取る。有用労働として一定の社会的欲望を満たすという性格と、生産者たちの欲望を満たすという性格である。「有用物と価値物とへの労働生産物の分裂は、交換がすでに十分な広がりと重要さを持つようになり、従って有用な諸物が交換のために生産され、従って諸物の価値性格がすでにそれらの生産その物に際して考慮されるようになったときに、はじめて実際に実証されるのである。」、「私的諸労働がそれら自身の生産者たちの様々な欲望を満足させるのは、ただ、特殊な有用な私的労働のそれぞれが別の種類の有用な私的労働のそれぞれと交換可能であり、したがってこれと同等と認められるかぎりのことである。」[36]
労働生産物の価値は、それぞれの労働生産物を一つの社会的な象形文字にする。「なぜならば、使用対象の価値としての規定は、言語と同じように、人間の社会的な産物だからである。」[37]。互いに独立した私的諸労働の独自な社会的性格は、単に人間労働としての同等性と言う視点だけから、言い換えれば商品生産の諸関係の視点だけからしか捉えられない人にとっては、「科学によって空気がその諸要素に分解されてもなお空気形態は一つの物理的な物体形態として存続しているようなものである。」[38]
労働生産物の価値量についても同様に考えられる。「(労働時間による価値量の規定の)発見は、労働生産物の価値量の単に偶然的な規定という外観を解消させるが、しかし決してその物的な形態を解消させはしない。」。
人間が作る社会の諸形態は、それが分析される前にすでに存在している。だから、価値量を規定していたものは商品価値の分析で、価値性格を確定していたものは貨幣表現であったのだ。貨幣形態こそは私的労働の社会的性格を露わに示さないで、かえって被い隠すのである。
「このような(貨幣に象徴される社会の)諸形態こそはまさにブルジョア経済学の諸範疇をなしているのである。それらの形態こそは、歴史的に規定された社会的生産様式の、商品生産の、生産関係についての社会的に認められた、つまり客観的な思想形態なのである。それ故、商品世界の一切の神秘、商品生産の基礎の上で労働生産物を霧のなかに包み込む一切の奇怪事は、われわれが他の生産形態に逃げ込めば、たちまち消えてしまうのである。」[39]
ロビンソン・クルーソーの話においては、彼と自製の諸物との関係は簡単明瞭で、かつその中には価値のすべての本質的な規定が含まれている。
ヨーロッパ中世においては、人間的従属関係が社会の基礎をなしている。まさにそのことが、労働も生産物も、現実の生活とは違った幻想的な姿を取る必要をなくしている。労働における人と人との社会的関係は、どんな場合にも彼ら自身の人的関係として現れるのであって、物と物との、労働生産物と労働生産物との、社会的関係に変装されてはいない。
共同体的な生活における労働を考察するために、民族の歴史の発端にまで遡らずとも、身近な農民家族の例を見れば良い。自給自足的で素朴な家長的な勤労においては、家族労働の生産物は商品ではないし、個人的労働ははじめからただ家族の共同的労働の一部であるだけである。
(現実には存在しないが)ロビンソン・クルーソーのような自由な人々の集団を考えてみよう。「最後に、気分を変えるために、共同の生産手段で労働し自分たちの沢山の個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体を考えてみよう。<中略>人々が彼らの労働や労働生産物に対して持つ社会的関係は、ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である。」[40]
商品生産者の社会にとっては、抽象的人間に対する礼拝を含むキリスト教、とくにプロテスタントや理神論などとしてのキリスト教は最も適当は宗教形態である。古代アジア的とか古代的(ギリシャ、ローマ)[41]とかでは人間の商品生産者としての定在はひとつの従属的な役割を演じている。本来の商業民族は、エピクロスの神々などのように、古代世界の穴[42]に存在するだけである[43]。「あの古い社会的生産有機体は、ブルジョワ的生産有機体よりもずっと単純で透明ではあるが、それらは、他の人間との自然的な隷属関係の臍帯からまだ離れていない個人的人間の未成熟か、または直接的な支配関係かに基づいている。」。このような古代諸社会から抜け出すには、物質的存在条件が必要なのである。
人間が生産過程を支配しているのに、古典派経済学はその逆であると考えている。だから間違っているのだ。「ところで、経済学は、不完全ながらも、価値と価値量とを分析し、これらの形態のうちに隠されている内容を発見した。しかし、経済学は、なぜその内容があの形態をとるのか、つまり、なぜ価値が労働にあり、価値量が労働時間にあるのか、という問題は、いまだかって提起したことさえなかったのである。<中略>それだから、社会的生産有機体の前ブルジョワ的諸形態は、<中略>経済学によって取り扱われるのである」
「商品形態は、ブルジョア的生産の最も一般的で最も未発展な形態であり、<中略>その呪術的性格はまだ比較的容易に見抜かれるように見えるのである。」。
商品世界には呪詛崇拝が付着している。商品には価値の二重性が属している(現物形態と価値形態)。商品には(交換されているという事実によって証明されているように)価値が備わっており、使用価値は(物としての商品にではなく)人間のほうに備わっており、商品自体は交換価値として他の商品と関係し合っているだけである[44]





[1] 資本とか資本主義とか、したがって資本主義的生産様式とかが、何であるのかは不明だが、それはこの本が読み終わる頃に明確になるはず
[2] 「物」はここでは物質・身体性を指している。「物」が「情報」であっても、多分本質は変わらない、が、生産と消費の逆転関係はあるかもしれない
[3] これの意味をいまは分からなくてもおいおい分かってくるはず
[4] 「素材的」は、長谷部訳では「質料的」とも訳されているが、要するに物質にのみ属する本質という意味合い
[5] 区別されるからこそ、交換をする個々人は交換に応じるから
[6] いまのところ、この意味は分からないがおいおい分かってくるはず。このことの意味の解明が、マルクスの経済思想の基礎を構成しているという予感がする
[7] この共通なものとは、現象や表現様式ではなく、ある実体であるはず
[8] もし、自然科学的属性があれば有用性が伴うこととなり使用価値が生じるから
[9] この結論の根拠は今のところ示されていない。敢えて言えばマルクスの感性である。この感性は、現実の経済現象をよく見て、商品の本質を問うことで、マルクス自身の中から立ち現れてきたのだろう。第一章は、マルクスが行った、商品についての現象学的本質観取だとおもう(逆に言えば、経済現象が変化すれば変わってくるかもしれない)
[10] ここで、抽象的労働が商品価値(=価値)の核として浮かび上がってくる。商品の「価値」とは何を意味するのか、それが社会を営む人間にとっての「価値」とどれだけ深く関わっているのか、この辺から現代におけるマルクス思想の有効性と限界が見えてくるかもしれない
[11] 理論ではなく現実であって、ここから考察が始まる
[12] xA=yBという書き方は小生が便宜上導入した記号
[13] 等置できるのは同質のものだから(長さと重さは等置できない)
[14] 価値を論じ得るもう一つの要素である「使用価値」はこの等式に含まれ得ないし、「交換価値」は関係なのでそれ自体が等式の源泉にはなり得ない、と考えればよいと思う
[15] あんまり分からないが少し分かってきた
[16] ここで言われている「課題」とは「貨幣の謎」かしら?
[17] 物の値付けはこう決まるが、本当の商品価値は普遍的な交換関係のなか決まる、ということ(?)
[18] 王位=価値、B=価値物、Bの姿形=価値形態、国王が入れ替わる=いろんな商品との交換関係、という具合(?)。これは、ヘーゲルの『精神の現象学』主奴論の思想か。
[19] キリスト教徒は「羊」と聞けば、神(≒利益)を媒介して、なにかの同等性=価値(≒抽象的労働)をうけとる、ということか(?)
[20] 商品が貨幣を媒介として交換され得るという、この歴史的現実としての社会現象には、関係性の中においてのみ可能となる、みんなが共通に信頼(≒信仰)し得る抽象的な何かがあり、人間の経済活動においては、それは(抽象的)労働である、ということ(?)
[21] 実際に商品が交換されるには数量が必要なので、A=BではなくxA=yBという話へ進む
[22] 例えば気候変動など自然条件の変化や技術革新や政治情勢などの社会的変化により
[23] 結局ここでマルクスが言いたかったことは何だろうか。リンネル(A)や上着(B)の生産に必要な労働時間が増減すると、ABの価値(=価値量)はそれに応じて変動する。これは、x/yが労働時間の変動によって(線形的に)変動し、xA=yBという等式は常に成立している、ということだけではないだろう。ここでマルクスが言いたいのは、現実の価値量の変動は労働時間の変動の反映なのであり、現実に取引される価格、つまり価値量の相対的表現の反映ではない、ということだろうと思う


[24] 奴隷が生産を担っている社会では、商品の中に労働の価値という概念は含まれ得ない
[25] この結論は論理的に出されたものではない。現象学的視点から見れば、資本主義的な社会における「商品」というものの現実を良く観察して、従来の経済学説をエポケーして、その本質を看取しているのだろう。もっといえば、そこから社会の構造を取り出そうとした。かなり説得性があるが、今の時代経済学において、もう一度それをやって見ると面白そうだ。
[26] ここでの結論は、はじめの「 」内なので、その後の二段落はこの結論とあまり関係がないように見える。想像するにマルクスは、歴史的発展段階を経て、単純な価値形態に含まれる等価関係が、最終形態として「貨幣」となる、と繋げたかったのかもしれない
[27] 特殊的等価形態も、次ぎに述べられている人間労働そのものの特殊な実現形態も、果てしない(個々の)現象形態であり、何れも別々で一致し得ないことを意味することになる
[28] 「欠陥」との表現から独特のニュアンスが感じ取れる。それはここでの表立った問題ではないが、人間の経済的営みはこのような数列の発展過程にあるがゆえに、原理的にはこの等式は成り立たないこと、換言すると、xAyBであり、この差額がつねに発生していることをマルクスが暗示しているのだと
[29] このことはいままでの考察からして当然なのだが、念を押している
[30] 等式の両辺が「対立」することの意味を汲み取ることが重要なのだろう。
[31] この理解は、論理的な方法では難しく、マルクスの文章をよく読んで次第に納得してくる性格のもの、ヘーゲル弁証法的理解或いはカットンデみて現象学的理解が必要だろう
[32] この「習慣」には、当然利便性や美醜などが含まれるだろう。
[33] 労働生産物の視点から見るとこうなる、といえるかも
[34] 消費者の消費物という視点から見るとこうなる、といえるかも
[35] そもそも使用価値があり、かつ独立に営まれているから交換する価値が出てくる
[36] 同一の個人が生産者と消費者という両方の顔をもつ
[37] これが真実であるかどうかは分からないが、このマルクスの感覚は分かるような気がする。つまり、自然必然的労働から生み出される労働生産物が商品価値という価値形態を取るという現象は、人間社会において、自然必然的に言語が生み出されるように本質的なことである、と言う感覚
[38] 生産の視点だけではなく、消費の視点からみると理解できるような気がする
[39] この文章は何か深い意味を持っているように見えるが、この表現だけではその内容は不明
[40] この社会がどのような社会なのか、いま一歩分からなかったが?
[41] 長谷部訳
[42] エピクロスによれば、そこに永世不死の神々が住んでいる穴(長谷部訳より)
[43] この文章の意味は分からない
[44] いままでのお復習い

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