2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第3篇 絶対的剰余価値の生産 第6章 不変資本と可変資本

第六章 不変資本と可変資本

【感想】:「物」ならともかく労働力が「商品」であるということが、「元凶」ではなく「原因」なのだ。そのことは「資本」というものをこの二つ、不変資本と可変資本に分解して考察してみるとよりはっきりするという理論の力はたいしたものだ。

「労働過程のいろいろな要因は、それぞれ違った仕方で生産物価値の形成に参加する。」
労働は労働対象に新たな価値量を付け加えると同時に、生産手段の価値を生産物に移転して保存する。同じ時間内で同じ労働が二つの異なる結果をもたらしている。これは労働が本質的に異なる二つの性質をもっていることを現している。
労働の二面的作用はいろいろな現象のうち見ることができる。たとえばある発明によって、綿花から糸を紡ぐ時間が6分の1に短縮されたとすると、糸の単位量に付け加わる労働量は6分の1となり、単位時間あたりの糸の消費量、つまり生産手段の価値が生産物へ移動して保存される速さは6倍となる。これは質と量に関わる労働の二面性の現れであり、労働が価値を移動し保存することと、労働が価値を創造することとが本質的に異なることの現れである(と考えざるを得ない、とマルクスは言う)。
価値は、使用価値が属しているあるものの内にしか存在しないから、そのあるものが消滅すれば価値も消滅する。従って生産手段が消滅すれば価値も消滅する。しかし、その価値は生産物に移動して保存され、別の使用価値となっている。
労働過程のいろいろな要因はそれぞれ事情を異にしている。たとえば石炭はあとかたもなく消え、染料は生産物の性質のうちに現れ、原料は生産物の実体となるがその形を変えている。用具や機械や工場建物や容器などは、それが役立つ全期間にわたって労働によって消費される(=原価償却。マルクスの表現では「ある生産手段が、労働過程には全体としてはいるが価値形成の要素としては一部分ずつ数えられる」)。歩留まりや廃棄物処理も考慮される(マルクスの表現では「ある生産手段が、労働過程には一部分ずつしか入らないのに、価値増殖過程には全体としてはいる」)。
生産手段は、労働過程でそれ自身の使用価値の消滅によって失うものより多くの価値を生産物に引き渡すものではない。「生産手段が労働過程にあるあいだにその元の姿での価値を失うかぎりでのみ、それは生産物の新たな姿に価値を移すのである。それが労働過程で蒙ることのできる価値喪失の最大限度は、明らかに、それが労働過程に入るときにもっていた元の価値量によって、すなわち自身の生産に必要な労働時間によって、制限されているのである。」
労働力というものは、既に生産されたものに含まれている使用価値を用いて、新たに生産される生産物に価値量を付け加える。この場合、前段の作用は人間が行う労働であるがゆえに可能となるもので、生きている労働の天資ともいえるものなのである。
「生産的労働が生産手段を新たな生産物の形成要素に変えることによって、生産手段の価値には一つの転生が起きる。それは、消費された肉体から、新しく形作られた肉体に移る。しかし、この転生は、いわば、現実の労働の背後で行われる。」
「だから、価値を付け加えながら価値を保存するということは、活動している労働力の、生きている労働の、一つの天資なのである。そして、この天資は、労働者にとっては何の費用もかからず、しかも資本家には現にある資本価値の保存という多大の利益をもたらすのである。」(人間の経済活動というものは、先人の知恵の上に発展していくのだが、この知恵の蓄積の基づく恩恵は公正ではなく、労働者には自身の再生産に必要な分だけ、残りはすべて資本家が入手している、というマルクスの見立ての表現であろう)
労働過程の諸要因の分析は、資本のいろいろな成分が果たす機能を特徴付けた。剰余価値が生じる過程である生産過程において、その価値量が変化しない資本と変化する資本がある。前者を不変資本、後者を可変資本と名づける。不変資本は生産手段(原料、補助材料、機械など)で、可変資本は労働力のことである。「労働過程の立場からは客体的な要因と主体的な要因として、生産手段と労働力として区別されるその同じ資本部分が、価値増殖過程の立場からは不変資本と可変資本として区別されるのである。」
「不変資本の概念は、その諸成分の価値革命をけっして排除するものではない。」(これは念押しであるが、マルクスの考えからすれば当然であろう。不変とは、労働過程において価値が変わらない資本のことなのだから)。


0 件のコメント:

コメントを投稿