2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第7篇 資本の蓄積過程 第21章 単純再生産

第二十一章 単純再生産

【感想】:経済社会の歴史がここまで進むと、労働者自身が資本に合体してしまい、資本の増殖が果てしなく続くというステージに入る。単純再生産は剰余価値を資本家が全部消費する場合を指しているのだが、それは事態が変化しないのではなくて、資本の大きさは変わらなくても内容つまり出所は労働者の生み出した価値によって刷新されていくこと、また再生産自体が資本主義的生産様式の社会においても果てしなく、しかも自動的に続きうるということを意味している。すると、大小いろいろな場面で再生産の方法を変えていくことで、社会を良い方向に変えることが出来るかもしれないね。

どのような社会的形態であっても、生産も消費も絶えることがないから、生産過程は同時に再生産過程である。
どんな社会も、生産物は個人的消費とは別に、その一部は生産手段に再転化するから、生産の諸条件は同時に再生産の諸条件である。
生産が資本主義的形態であれば、再生産もそうである。だから再生産においても労働過程は価値増殖過程の一手段として現れる。従って資本価値の周期的増加分(例えば年間)すなわち周期的な剰余価値増加分は資本から生じる収入という形態を受け取る。
収入が資本家にとって消費財源だけである場合は、再生産は単純再生産である。単純再生産は、同規模の生産の繰り返しである。しかしこの繰り返しの連続が、この過程に新しい性格を押印する、というよりはこの過程が単なる個別的な過程のように見せる外観上の性格を解消させる[1]
労働者は、彼の賃金を彼の労働の後払いとして受け取る。労働者は、資本家の消費財源である剰余価値だけではなく、自身への支払財源である可変資本が彼に環流する前に生産をしているのである。「貨幣形態が生み出す幻想[2]は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば[3]、たちまち消え去ってしまう。」
可変資本は、どのような社会的生産体制のもとでも、労働者が自己維持あるいは自己の再生産に必要な生活手段財源または労働財源の一つの特殊な歴史的現象形態でしかない。労働財源が生活手段財源として労働者の元へ環流してくるのだが、この環流は彼自身の生産物が絶えず資本という形で彼から遠ざかる[4]ことによってのみ実現される。この現象形態は、資本家が労働者に賃金を前貸しすることによってではなくて、労働者の対象化された労働が資本家に前貸しされることにより可能になっている。資本主義生産体制でなくても、例えば夫役についても同様である。領主が生産手段を自分のものにしてしまえばそれ以降農民は自分の労働を領主に売るほかはないからである。「ブルジョア経済学者の狭小な頭脳は、現象形態を、それに包まれて現れるもの[5]と区分することが出来ないので、彼は、今日でもまだ労働財源は地球上でただ例外的に資本というかたちで現れるだけだという事実に対しては目を閉じているのである。」
可変資本が資本家自身の財源から前貸しされる[6]という意味を失うのは、資本主義的生産過程をその更新の不断の流れの中で考察する場合においてである。資本家が不払い労働と賃金後払いで工面したのではない本源的蓄積によって貨幣保持者になった、従ってそれはいつどこでなのか?などと考えがちだが、それはともかく[7]「単純再生産は、まだそのほかにも、ただ可変資本部分だけではなく総資本をも捉える奇妙な変化を引き起こすのである。」
はじめにある資本額(例えば1000ポンド)を何らかの方法で用意して、それをもって周期的に(例えば一年)ある額の剰余価値(例えば200ポンド)が生産されて、その剰余価値の、全部(単純再生産なら)或いは一部が資本家によって消費されれば、ある年月が経過した後(単純再生産なら5年後)に資本家が保持している資本額は、はじめに用意した資本額(例えば1000ポンド)と同じである。このことは、はじめに資本家が用意した資本額に借金を含めようと、その資本で作った建物や設備がまだ存在しようと、その資本の等価分を食い尽くしたと考えようと、事実である。「この資本の価値はもはやただ彼が無償で取得した剰余価値の総額を代表しているだけである。彼の元の資本の価値はもはやひとかけらも存在しないのである。」
つまり、資本の運動というものは、例え資本の蓄積のない単純再生産の場合においても、ある期間が過ぎた後には、「どの資本も必然的に蓄積された資本または資本化された剰余価値に転化させるのである。」
第四章(貨幣の資本への転化)で述べたように、貨幣が資本に転化するには、商品生産と商品流通が存在するだけでは足りず、労働の商品としての存在が必要であった。「労働生産物と労働そのものとの分離、客体的な労働条件と主体的な労働力との分離が、資本主義的生産過程の事実的に与えられた基礎であり出発点だったのである。」
この出発点に存在したものが資本主義的生産過程の繰り返しによって永久化される。それは次のようなことである。素材的富が資本に転化し、資本家の価値増殖手段と享楽手段に転化する。富の人的資源である労働者はこの富を自分のものにする手段を失い、彼自身の労働は、資本に合体される。労働者の生産物は商品に転化するだけではなく資本に転化するのだから、労働者自身は彼を搾取する力として生産する。資本家は労働力を、抽象的[8]かつ富の源泉[9]として生産する、簡単に言えば労働者を賃金労働者として生産する。「このような、労働者の不断の再生産または永久化が、資本主義的生産の不可欠の条件なのである。」
労働者の行う消費には二つの種類がある。一つは商品を生産する時に消費する生産的消費である。もう一つは、労働力の代償として支払われた貨幣を生活手段に使って消費する個人的消費である。労働者の個人的消費は生産過程の単なる付随事にすることを強制されている。この場合には個人的消費は直接に生活的消費となっている。
「われわれが、個々の資本家と個々の労働者とにではなく、資本家階級と労働者階級とに目を向け、個別生産過程ではなく、資本主義的生産過程をその流れとその社会的な広がりとのなかで見るならば、事態は別の様相を呈してくる。」資本家は自分が労働者から受け取るものからだけではなく、自分が労働者に与えるものからも利得する。「彼は一石で二鳥を落とす」。労働力と引き換えに労働者に与えられる資本の部分が、労働者の個人的消費になり、これが労働者そのものの生産と再生産になる。労働者階級の不断の維持と再生産も、資本の再生産の恒常的な条件であり、この条件の充足は労働者の自己維持本能と生殖本能とでなされる。
資本家も、その理論的代弁者である経済学者も、労働者の個人的消費のうち、資本家が労働力を消費する部分だけを生産的と見なし、それ以外の例えば彼の快楽のための消費は不生産的と見なす(ジェームス・ミル)。もし、資本の蓄積が労賃の引き上げを起こし、それが資本による労働力の消費なしに労働者の消費を増やしても、その追加資本は不生産的である(リカード)。労働者の個人的消費は、実際には貧困な個人を再生産することになるから、労働者にとっては不生産的[10]であるのだが、しかしそれは他人の富を生産する力なので、資本家や国家にとっては生産的である(マルサス)。
社会的立場から見れば、労働者階級は資本の付属物であり、その不断の維持と再生産は、資本の再生産の恒常的な条件だから、彼らの個人的消費は、一方では彼ら自身の維持と再生産が行われるようにし、他方では、彼らが生産手段を失っていることにより絶えず繰り返し市場に現れるようにする。「ローマの奴隷は鎖によって、賃金労働者は見えない糸によって、その所有者につながれている。賃金労働者の独立という外観は、個々の雇い主が絶えず替わることによって、また契約という擬制によって、維持されるのである。」
機械労働者の移住はイギリスでは1815年に至るまでは重刑により罰せられた[11]。熟練労働者階級は資本家が所有する重要な生産条件の一つである。このことは恐慌にさいして顕著となる。たとえば南北戦争とそれに伴って起きた綿花飢饉によって路上に投げ出された「過剰者」を、イギリスの植民地や合衆国へ移住させることを可能とするための国家援助や民間寄付を求める声が上がったとき、『タイムズ』(1863324日号)は、マンチェスター商業会議所の前会頭エドマンド・ポッター氏の一つの書簡を公表した(この書簡は、適切にも、イギリス下院で「工場主宣言」と呼ばれた)が、そこには労働者に対する資本の所有権があからさまに表明されている。曰く、所有する労働力がそのような移住によって奪われることは不正で不法だから工場主はそれに抗議する権利があり、熟練労働者は綿業に有益であるばかりでなく、彼らを失うことは一国全ての階級にとっての自殺行為であり云々・・・(だが、労賃を引き下げる話の場合には、これとは反対のことをいっている。例えば第四編、注188を見よ)。要するにポッター氏は工場主を代表して、労働者を機械と同じ所有物と見なし、不況が終了して彼らが必要になるまでは暴力と施しによって綿業地帯に閉じ込めておくために、労働力の移住を奨励したり許可したりしないように、と希望していた。同じ日付の『タイムズ』の論調は、一見このポッター氏の考えに批判的に見えるが「ただの知恵比べでしかなかった」。「・・・「この労働力」を、石炭や鉄や綿花を扱うのと同じようにこれを扱おうとする人々の手から救うためにこの島国の大きな世論がなにかをしなければならないときが来たのだ。」と。しかし、この「大きな世論」とは、工場労働者は工場の付属動産[12]だというポッター氏の考えと同じであった。彼らの移住は阻止され、「議会は移民のためには一文の支出も可決しないで、ただ、労働者を生死の境におく権限、すなわち正常な賃金を支払わないで彼らを搾取する権限を自治体当局に与える法律を可決しただけだった(マルクスの注)。」
「こうして、資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離[13]を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。」資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として(互いに独立した立場で)向かい合わせるという状況はすでに失われている。「じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。そして、このことは、資本主義的生産様式の社会の特質[14]において覆い隠されている。
資本主義的生産過程は、商品と剰余価値だけではなく、資本関係[15]そのもの自体も生産する[16]。そして、その再生産過程はそれらを永久化するのである。






[1] 単純再生産という過程を想定すると、資本関係一般の永久化という概念を理解できるようになる
[2] 価値もその価値を創造するのも労働なのだが、価値が貨幣にあるという転倒した感覚が生み出す幻想
[3] 労働者が賃金を貰うという個別の感覚では無く資本関係一般を考察するなら
[4] 労働と価値の分離、労働者と労働生産物の分離
[5] 現象形態に包まれているのは純粋なもの、抽象的なもの、ここでは「資本」、他には「抽象的労働」「使用価値」「交換価値」もそうだろうが「資本」の理解は困難
[6] マニュファクチュアにおいては、雇い主は労働者に前貸しするが損はしないのは生み出される利益で補えるから、とアダム・スミスは『国富論』で述べている
[7] この辺については後述されるが、本源的蓄積の起源を問うことではなく、再生産過程が資本家のみに蓄積を可能にするメカニズムを問うことに意味がある、ということだろう
[8] この抽象的とは、労働力を使用価値ではなく交換価値として捉えていること
[9] 富の源泉としての労働力は、抽象的なそれとは別に価値創造力と価値移動力をもつ
[10] この意味は、労働者は個人的消費のうちで生活に必要な部分を削って享楽などに消費するから?
[11] 資本は自分の都合に合わせて強制法を発動させる現実の力があったということ
[12] 「動産」とは不動産以外の物、「土地に付着していても定着物でない物 (仮植中の樹木など)」も動産(ブリタニカ国際大百科事典より)
[13] 労働者は労働の条件を選べず、資本家の決めたそれに従わなければ生きていけない
[14] 雇用の定期的更新、雇用主の交替、労働市場価格の変化など
[15] 資本関係とは、資本主義的生産様式の社会における、生産過程や労働過程だけではなく、もっと広く、実際は全生活における資本家と労働者の諸関係を指す概念なのだろう
[16] これが歴史的事実である、とマルクスは考えていたことはすでに述べられている

0 件のコメント:

コメントを投稿