2015年10月19日月曜日

資本論(第1巻)第2篇 貨幣の資本への転化 第4章 貨幣の資本への転化

第四章 貨幣の資本への転化

【感想】:段々と「資本」の話へと進む。ここで「資本」は悪だと思い始めてはいけない。そういう感じ方は宗教等々での対立と同根であり、すべての物事を良い方へは進めない。

第一節 資本の一般的定式
商品流通は資本の出発点である。商品流通の直接形態は、WGWである。しかし、この形態と並んで、われわれは第二の独自に区別される形態、すなわち、GWGという形態を見いだす。
GWGをもっと詳しく見よう。この全過程が消えてしまっている結果は貨幣と貨幣の交換、GGである。例えば100ポンドで買った綿花を再び日110ポンドで売ろうと、場合によっては50ポンドでさえも手放さざるを得なくなろうと、それは一つの独自な運動を描いたのであり、その運動は、単純な商品流通での運動とはまったく種類の違うものである。
そのことを理解するには、GWGWGWとの形態的相違の特徴付けをしなければならない。そうすれば、これらの形態的相違の背後に隠れている内容的相違も明らかになるであろう。まず両方の形態に共通なものを見よう。どちらの循環も同じ二つの反対の段階、WG、売りと、GW、買いとに分かれる。二つの循環のどちらの場合にも三人の当事者が登場する。一人はただ売るだけ、もう一人はただ買うだけであるが、第三の一人は買いと売りとを交互に行う。
二つの循環WGWGWGにおいて、第一の形態では貨幣が、他方では逆に商品が、全過程を媒介している。WGWでは貨幣は最後に商品に転化され、この商品は使用価値として役立つ。だから、貨幣は最終的に支出されている。これに反して、GWGでは、彼が貨幣を手放すのは、再びそれを手に入れる(しかも以前より増やして)という底意があってのことにほかならない。それだから、貨幣はただ前貸しされるだけである。
ひとたび価値の増殖が問題となれば、GWG´(ここでG´G+⊿G)という貨幣の運動は一つの自動的な主体に転化する。この運動は、いまでは資本と改名したその貨幣を果てしなく増殖する運動となる。
WGWで両極のWWとが量的に違った価値量であることもありうる。しかし、このような価値量の相違はこの流通過程そのものにとっては偶然である。この流通形態は、その両極、たとえば穀物と衣服とが互いに等価物であっても、けっして過程GWGのように無意味になりはしない。両極が等価だと言うことは、ここではむしろ正常な経過の条件なのである。
一方、GWG´(ここでG´=G+G)は、直接に流通部面に現れているとおりの資本の一般的な定式なのである。
以下、本節に対するマルクスの表現を抜粋する。
「循環WGWは、・・・一言で言えば使用価値が、この循環の最終目的である。これに反して、GWGは、・・・この循環の起動的動機も規定的目的も交換価値そのものである。」
「単純な商品流通では両方の極が同じ経済的形態を持っている。それはどちらも商品である。それらはまた同じ価値量の商品である。しかし、それらは質的に違う使用価値、たとえば穀物と衣服である。生産物交換、社会的労働がそこに現れているいろいろな素材の変換が、ここでは運動の内容をなしている。流通GWGではそうではない。この流通は一見無内容に見える。というのは同義反復的だからである。どちらの極も同じ経済的形態をもっている。それは両方とも貨幣であり、したがって質的に違う使用価値ではない。・・・およそある貨幣額を他の貨幣額と区別することができるのは、ただその大きさの相違によってである。それゆえ、過程GWGは、・・・ただ両極の量的な相違によってのみ内容をもつのである。・・・それゆえ、この過程の完全な形態は、GWG´であって、ここではG´G+⊿Gである。すなわちは、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・ある増加分に等しい。この増加分、または最初の価値(量)を超える超過分を、私は剰余価値と呼ぶ。それゆえ、最初に前貸しされた価値は、流通のなかで、・・・自分の価値量を変え・・・言い換えれば自分を価値増殖するのである。そして、この運動がこの価値を資本に転化させるのである。」
「・・・これに反して、売りのための買いでは、始めも終わりも同じもの、貨幣、交換価値であり、すでにこのことによってもこの運動は無限である。たしかに、・・100ポンドスターリングは100・プラス・10ポンドになっている。しかし、単に質的に見れば、110ポンドは100ポンドと同じもの、すなわち貨幣である[1]。また量的に見ても、110ポンドは、100ポンドと同じに一つの限定された価値量である[2]。もし110ポンドが貨幣として支出されるならば、・・・それは資本ではなくなる、・・・流通から引き上げられれば、それは蓄蔵貨幣に化石して、・・・びた一文もふえはしない。つまり、ひとたび価値の増殖が問題となれば、増殖の欲求は110ポンドの場合も100ポンドの場合も同じことである。・・・売りのための買いが行われる各個の循環の終わりは、おのずから一つの新しい循環の始めをなしているのである。単純な商品流通――買いのための売り――は、流通の外にある最終目的、使用価値の取得、欲望の充足のための手段として役立つ。これに反して、資本としての貨幣は自己目的である。というのは、価値の増殖は、ただこの絶えず更新される運動のなかだけに存在するのだからである。それだから、資本の運動には限度がないのである[3]。」
「諸商品の価値が単純な流通の中でとる独立な形態、貨幣形態は、・・・運動の最後の結果では消えてしまっている。これに反して、流通GWGでは、両方とも、商品も貨幣も、ただ価値そのものの別々の存在様式として、・・・機能するだけである。価値は、この運動のなかで消えてしまわないで絶えず一方の形態から他方の形態に移って行き、その様にして、一つの自動的な主体に転化する。・・・そこで得られるのは、資本は貨幣である、資本は商品である、という説明である[4]。しかし、実際には、価値はここでは一つの過程の主体になるのであって、この過程の中で絶えず貨幣と商品とに形態を変換しながらその大きさそのものを変え、原価値としての自分自身から剰余価値としての自分を突き放し、自分自身を増殖するのである。・・・価値は、それが価値だから価値を生む、という神秘な性質を受け取った。・・・」
「このような過程の中で価値は・・・自分を維持し自分を拡大するのであるが、このような過程の全面を覆う主体として価値は何よりのまず一つの独立な形態を必要とするのであって、この形態によって価値の自分自身との同一性が確認されなければならないのである。そして、このような形態を、価値はただ貨幣においてのみもっているのである。・・・資本家は、すべての商品が、・・・貨幣をより多くの貨幣にするための奇跡を行う手段であると言うことを知っているのである。」
「単純な流通では、商品の価値は、せいぜい商品の使用価値に対立して貨幣という独立な形態を受け取るだけであるが、その価値がここでは、突然、過程を進行しつつある、自分自身で運動する実体として現れるのであって、この実体にとっては商品や貨幣は両方ともただの形態でしかないのである。だが、それだけではない。いまや、価値は、諸商品の関係を表しているのではなく、いわば自分自身に対する私的な関係に入るのである。・・・」
「つまり、価値は、流通の中で自分自身を維持し自分を何倍にもし、大きくなって流通から帰ってくるのであり、・・・GG´貨幣を生む貨幣―――money which begets money―――、これが資本の最初の通訳、重商主義者たちの口から出た資本の描写である。」
「売るために買うこと、・・・GWG´は、・・・商人資本だけに、特有の形態のように見える。しかし、産業資本もまた、・・・貨幣に再転化する貨幣である。・・・最後に、利子生み資本では、流通GWG´は・・・GG´として、・・・現れる。」

第二節 一般的定式の矛盾
いままでは「交換」が等価であることが経済循環を可能にすると考えてきたのに、剰余価値を発生しながら経済循環が可能になるとはどういうことであろうか。結論を言えば、価値の増殖は労働によるほかはなく、労働は生産の部面でしか生ぜず、資本の増殖は流通部面でしか生ぜず、商品の交換が等価交換であったとしても、労働力が商品となることによって剰余価値が発生し、それを原動力として経済循環が可能となるが、この剰余価値は資本だけを増殖させる。このことは歴史的必然である、というのがマルクスの見立てとなっている。
二節では、剰余価値は流通部面で生じてはならず、同時に流通過程で生じるほかはないことが述べられ、労働の商品化については三節で述べられる。「彼(資本家の幼虫)の蝶への成長は、流通過程で行われなければならないし、また流通部面で行われてはならない。これが問題の条件である。ここがロドスだ、さあ跳んでみろ!」
以降は上記説明に関する本文の抜粋。
「貨幣が繭を破って資本に成長する場合の流通形態は、商品や価値や貨幣や流通そのものの性質についての以前に展開されたすべての法則に矛盾している。・・・」[5]
「それだけではない。このような逆転(商品流通は「売り」から始まり「買い」に終わるという順序とは逆転していること)が存在するのは、互いに取引する三人の取引仲間のうちのただ一人だけにとってのことである。・・・だから、われわれは順序の逆転によっては単純な商品流通の部面から抜け出てはいないのであって、むしろ、われわれは、流通に入ってくる価値の増殖、したがってまた剰余価値の形成を商品流通がその性質上許すものかどうかを、見きわめなければならないのである。」
「流通過程が単なる商品交換として現れるような形態にある場合をとってみよう。・・・貨幣はこの場合には計算貨幣として、・・・役だってはいるが、商品そのものにものとして相対してはいない。使用価値に関するかぎりでは、交換者は両方との利益を得ることができるということは、明らかである。(なぜなら)・・・葡萄酒を売って穀物を買うAは、おそらく、穀作農民Bが同じ労働時間で生産することができるよりも多くの葡萄酒を生産するであろう。また、穀作農民Bは、同じ労働時間で葡萄栽培者Aが生産することができるよりも多くの穀物を生産するであろう。だから、この二人のそれぞれが、交換なしで、葡萄酒や穀物を自分自身で生産しなければならない場合に比べれば、同じ交換価値と引き換えに、Aはより多くの穀物を、Bはより多くの葡萄酒を手に入れるのである。だから、使用価値に関しては、「交換は両方が得をする取引である」[6]とも言えるのである。交換価値の方はそうではない。」
「貨幣が流通手段として商品と商品の間に入り、・・・商品の価値は、商品が流通に入る前に、その価格に表されているのであり、したがって流通の前提であって結果ではないのである。」
「抽象的に考察すれば、・・・単純な商品流通の中で行われるのは、商品の変態、単なる形態変換の他にはなにもない。・・・だから、使用価値に関しては交換者が両方とも得をすることがあり得るとしても、両方が交換価値で得をすることはあり得ないのである。・・・その(商品交換の)純粋な姿では、商品交換は等価物同士の交換であり、したがって、価値を増やす手段ではないのである。」
「それだから、商品流通を剰余価値の源泉として説明しようとする試みの背後には、大抵は一つの取り違えが、つまり使用価値と交換価値との混同が、隠れているのである。たとえばコンディヤックの場合には次のようにである。「・・・われわれは、自分に必要なものを手に入れるために自分にとって無用なものを手放そうとする。・・・交換された諸物のおのおのが価値において同量の貨幣に等しかったときには、交換では等しい価値が等しい価値と引き換えに与えられると判断するのは、当然だった。・・・しかし、もう一つの別な考慮が加えられなければならない。われわれは、両方とも、余分なものを必要なものと交換するのではないか、ということが問題になる」[7]
「これでもわかるように、コンディヤックは、使用価値と交換価値とを混同しているだけではなく、・・・商品生産の行われる社会とすり替えて、生産者が自分の生活手段を自分で生産して、ただ自分の欲望を超える超過分、余剰分だけを流通に投ずるという状態をもちだしているのである。・・・コンディヤックの議論はしばしば近代の経済学者たちによっても繰り返されている。ことに、商品交換の発展した姿である商業を、剰余価値を生産するものとして説明しようとする場合がそれである。たとえば、次のように言う。「商業は生産物に価値を付け加える。なぜならば、生産者の手にあるよりも消費者の手にあるほうが多くの価値を持つことになるからである。したがって、商業は文字通りに生産行為とみなさなければならない。」[8]
「しかし、人々は商品に二重に、一度はその使用価値に、もう一度はその価値に、支払うのではない[9]。また、もし商品の使用価値が売り手にとってよりも買い手にとっての方がもっと有用とすれば、その貨幣形態は買い手にとってよりも売り手にとっての方がもっと有用である。そうでなければ、売り手がそれを売るはずがあろうか?[10]また、それと同じように、買い手は、たとえば商人の靴下を貨幣に転化させることによって、文字通り一つの「生産行為」を行うのだ、とも言えるであろう[11]。」[12]
「・・・交換価値の等しい商品どうしが、・・・次に互いに等価ではないものどうしの交換を想定してみよう。」
「商品市場ではただ商品所有者が商品所有者に相対するだけであり、・・・めいめいが他人の欲望をもっている・・・諸商品の使用価値の素材的相違のほかには、・・・もう一つの区別があるだけである。すなわち・・・商品と貨幣の区別である。したがって、商品所有者たちは、ただ、一方は売り手すなわち商品の所持者として、他方は買い手すなわち貨幣の所持者として、区別されるだけである。」
「なにかわけのわからない特権によって、売り手には、商品をその価値よりも高くること・・・が許されるとしよう。・・・しかし、彼は、売り手だった後では買い手になる。・・・今度は、逆に、・・・要するに、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への転化は、売り手が商品をその価値よりも高く売るということによっても、また、買い手が商品を・・・・によっても、説明することはできないのである。」
「剰余価値は名目上の値上げから生じるとか、商品を高すぎる価格で売るという売り手の特権から生じるとか言う幻想を徹底的に主張する人々は、売ることなしにただ買うだけの、したがってまた生産することなしにただ消費するだけの、一つの階級を想定しているのである。・・・」
「そこで、われわれは、売り手は買い手であり買い手はまた売り手であると言う商品交換の限界の中に留まることにしよう。・・・商品所持者Aは非常にずるい男で、仲間のBCのほうはどうしても仕返しができないということにしよう。・・・流通する価値は少しも大きくなっていないが、ABとへのその分配は変わっている。・・・同じ変化は、Aが・・・Bから・・盗んだとしても、起きたであろう。・・・一国の資本家階級の全体が自分で自分からだまし取ることはできないのである。」
「・・・剰余価値の形成を流通そのものから説明することは不可能なのだから、・・・この意味で、フランクリンは、「戦争は略奪であり、商業は詐欺である」[13]と言うのである。商業資本の価値増殖が単なる商品生産者の詐取からではなく説明されるべきだとすれば、そのためには長い列の中間項が必要なのであるが、それは、商品流通とその単純な諸契機とがわれわれの唯一の前提になっているここでは、まだまったく欠けているのである。」
「商業資本にあてはまることは、高利資本にはもっと良く当てはまる。・・・高利資本では、形態GWが、無媒介(流通の運動という媒介なしに)の両極Gに、・・・貨幣の性質と矛盾しておりしたがって商品交換の立場からは説明することのできない形態に、短縮されている。それだからアリストテレスも次のように言うのである。「貨殖術は二重のものであって、一方は商業に属し、他方は家政術に属している。後者は必要なもので称賛に値するが、前者は流通に基づいていて、当然非難される(というのは、それは自然に基づいていないで相互の詐取にもとづいているからである)。・・・利子は貨幣から生まれた貨幣であり、したがって、すべての営利部門のうちでこれが最も反自然的なものである。」[14]
「商業資本と同様に利子生み資本もわれわれの研究の途上で派生的な形態として見いだされるであろう。また同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的形態よりも先に現れるかということもわかるであろう。」
「これまでに明らかにしたように、剰余価値は流通から発生することはできないのだから、それが形成されるときには、流通そのものの中では目に見えないなにごとかが流通の背後で起きるのでなければならない。・・・流通の外では、商品所持者はもはやただ彼自身の商品との関係にあるだけである。その商品の価値について言えば、関係は、その商品が彼自身の労働の一定の社会的法則に従って計られた量を含んでいると言うことに限られている。この労働の量は、かの労働量は、彼の商品の価値量に表現される。・・・商品所持者は彼の労働によって価値を形成することができるが、しかし、自分を増殖する価値を形成することはできない。・・・つまり、商品生産者が、流通部面の外で、ほかの商品所有者と接触することなしに、価値を増殖し。したがって貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能なのである。」
「つまり、・・・資本は、流通の中で発生しなければならないと同時に流通の中で発生してはならないのである。」


第三節 労働力の売買
労働力が商品として貨幣保持者によって買われた後、それは貨幣保持者の保有する生産部面において消費される(=働かされる)。言い換えれば使用価値を生む。生み出された使用価値の中で、労働者自身の再生産に必要な価値は貨幣所持者が購入した商品価値(=労働力)に等しく、残りは剰余価値となる。
労働力が商品となって、上記が実現するのにはいくつかの条件がある。資本主義生産体制においてのその本質は、労働者が自身の労働力を売ることにおいて自由であり、且つ売るものが自分の労働力しかないことである。
貨幣保持者(=労働力という商品の購入者。資本の保持者つまり資本家へと至る人)と労働力の保持者(=労働力という商品の販売者。生産者、使用価値創造者、つまり労働者へと至る人)が相対峙するようになったのは、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、沢山の過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。
以降は上記説明に関する本文の抜粋。
「資本に転化するべき貨幣の価値変化はこの貨幣そのものには起きえない。・・・同様に、商品の再販売からも変化(変化=貨幣の価値変化、以下同様)は生じ得ない。・・・変化は第一の行為GWで買われる商品に起きるのでなければならないが、しかしその商品の価値に起きるのではない。・・・変化はその商品の使用価値そのものから、すなわちその商品の消費から生ずるよりほかはない。ある商品の消費から価値を引き出すためには、われわれの貨幣所持者は、価値の源泉であると言う独特な性質をその(=一商品の)使用価値そのものがもっているような一商品を、つまり現実の消費そのものが(一商品として)労働の対象化であり、したがって価値創造であるような一商品を、・・・流通部面のなかで、市場で、見つけ出さなければならないであろう。そして、貨幣所持者は市場でこのような独自の商品に出会うのである―――労働能力または労働力に。」[15]
「しかし、貨幣所持者が市場で商品としての労働力に出会うためには、いろいろな条件が満たされていなければならない。商品交換は、それ自体としては、それ自身の性質から生じるものの他にはどんな従属関係も含んでいない。この前提のもとで労働力が商品として市場に現れることができるのは、ただ、それ自身の所有者が、それを自分の労働力として持っている人が、・・・(その)労働力を自由に処分することができなければならず、・・・彼の一身の自由な所有者でなければならない。・・・労働力の所持者と貨幣所持者とは、市場で出会って互いに対等な商品所持者として関係を結ぶのであり、・・・この関係の持続は、労働力の所有者がつねにただ一定の時間を限ってのみ労働力を売るということを必要とする。・・・したがって、ただ、労働力を手放してもそれに対する自分の所有権は放棄しないというかぎりでのことである。」
「貨幣保持者が労働力を市場で商品として見いだすための第二の本質的な条件は、労働力保持者が自分の対象化されている商品を売ることができないで、ただ自分の生きている肉体のうちにだけ存在する自分の労働力そのものを商品として売りださなければならないと言うことである。」
「ある人が自分の労働力とは別な商品を売るためには、もちろん彼は生産手段たとえば原料や労働用具などをもっていなければならない。・・・彼はその他に生活手段も必要である。未来の生産物では・・・食ってゆくことはできない。・・・生産物は生産されてから売られなければならないのであって、・・・販売のために必要な時間が加わってくるのである。」
「なぜこの自由な労働者が流通部面で自分の前に立ち現れるかという問題には、しばらくはわれわれの関心事でもない。・・・とはいえ、一つのことは明らかである。自然が一方の側に貨幣または商品の所持者を生み出し、他方の側にただ自分の労働力の所有者を生み出すのでは無い。この関係は、自然史的な関係ではないし、また、歴史上のあらゆる時代に共通な社会的な関係でもない。それは、明らかに、それ自体が、先行の歴史的発展の結果なのであり、多くの経済的変革の産物、沢山の過去の社会的生産構成体の没落の産物なのである。」
「あるいはまた貨幣に眼を向けるならば、・・・商品流通の比較的わずかな発達で十分である。資本はそうではない。資本は、生産手段や生活手段の所持者が市場で自分の労働力の売り手としての自由な労働者に出会うときにはじめて発生するのであり、そして、この一つの歴史的な条件が一つの世界史を包括しているのである。それだから、資本は、はじめから社会的生産過程の一時代を告げ知らせているのである。」
「そこで、この特殊な商品、労働力が、もっと詳しく考察されなければならない。ほかのすべての商品と同じに、この商品もある価値を持っている。この商品はどのように規定されるであろうか。」[16]
「労働力の価値は、他のどの商品の価値とも同じに、この独自な商品の生産に、したがってまた再生産に必要な労働時間によって規定されている。・・・労働力生産は彼自身の再生産または維持である。・・・だから、労働力の生産に必要な労働時間は、この生活手段の生産に必要な労働時間に帰着する。・・・人間の筋肉や神経や脳などの一定量が支出されるのであって、それが再び補充されなければならない。・・・食物や衣服や採暖や住居などのような自然的欲望そのもの・・・いわゆる必要欲望の範囲も・・・だいたいにおいて一国の文化段階によって定まるものであり、・・・だから、労働力の価値規定は、他の諸商品の場合と違って、ある歴史的な精神的な要素を含んでいる。」
「・・・労働力の売り手は、・・・生殖によって永久化されなければならない。・・・
教育が必要であり、・・・(これは)労働力の生産のために支出される価値の中に入るのである。」
「労働力の価値は、一定の総額の生活手段の価値に帰着する。・・・すなわちこの生活手段の生産に必要な労働時間の大きさにつれて変動するのである。」
「生活手段の一部分、たとえば食糧や燃料などは、・・・この一平均日に必要な商品量に六時間の社会的労働が含まれているとすれば、毎日の労働力には半日の社会的平均労働が対象化されていることになる。・・・(これが)一ターレルと言う金量で表されるとすれば、一ターレルは労働力の日価値に相当する価値である。・・・そして、われわれの前提によれば、自分のターレルの資本への転化を熱望する貨幣所有者は、この価値を支払うのである。」
「労働力の価値の最後の限界または最低限をなすものは、・・・その商品の正常な品質で供給されるためには必要な労働時間によって規定されているのである。」
「(労働力を流通部面で購入した)この価値と引き換えに貨幣所持者の方が受け取る使用価値は、・・・労働力の消費過程[17]で、はじめて現れる。・・・労働力の消費過程は同時に商品の生産過程であり、また剰余価値の生産過程である。・・・(生産の場所では)どのようにして資本が生産するかということだけではなく、どのようにして資本そのものが生産されるかということもわかるであろう。貨幣の秘密もついに暴き出されるに違いない。」
「労働力の売買が、その限界の中で行われる流通または商品交換の部面は、実際、天賦の人権の本当の楽園だった。・・・ベンサム・・・。そして、このように各人がただ自分のことだけを考え、誰も他人のことは考えないからこそ、皆が、事物の予定調和の結果として、またはまったく抜け目のない摂理のおかげで、ただ彼らの相互の利益の、公益の、全体の利益の、事業を成し遂げるのである。」
「この、単純な流通または商品交換の部面から、・・・いまこの部面を去るにあたって、われわれの登場人物たちの顔つきは、見受けるところ、すでにいくらか変わっている。・・・貨幣所持者は資本家として・・・労働力保持者は・・・一方は意味ありげにほくそえみながら、せわしげに、他方はおずおずと渋りがちに、まるで自分の皮をうってしまってもはや革になめされる他には何の望みもない人のように。」





[1] 商品の使用価値は質的に異なるが、貨幣の交換価値には質的区分はない
[2] 110ポンドも100ポンドも、交換価値だけが意味を持っている流通世界という、限定された世界の中における単なる表現にすぎないから
[3] マルクスの注:アリストテレスは貨殖術と家政術を対立させている。家政術が生計術であるかぎりでは有用な財貨の調達に限られる。「貨殖術にとっては、流通が富の源泉である。・・・貨殖術が追求する富にも限界はない・・・互いに重なり合う面を持つこの二つ形態の混同は、ある人々に、無限に貨幣を保持し増殖することが家政術の最終目標だと考えさせている。」(アリストテレス『政治学』)
[4] マルクスの注:「生産的目的のために使用される通貨(!)は資本である・」(マクラウド『銀行家の理論と実際』、ロンドン、1851年、第一巻、第一章、55ページ。)「資本は商品である・」(ジェームズ・ミル『経済学綱要』、ロンドン、1821年、74ページ。)

[5] どう矛盾しているのかというと、「等価」の関係を論じてきたのに、つまり等式を取り扱っていたのに剰余が発生して不等式になってしまった、とも表現できると思う
[6] マルクスの注:デステュット・ド・トラシ『意思および意思作用論』、パリ、1826年引用
[7] マルクスの注:コンディヤック『商業と政府』(1776年)、所収、デールおよびモリナリ編『経済学叢書』、パリ、1847年、267291ページ
[8] マルクスの注:SP・ニューマン『経済学綱要』、アンドゥヴァニューヨーク、1835年、175ページ
[9] 買い手は、交換価値に等しい価値形態としての貨幣を支払うのであって、生産物の使用価値+自分の手にある方がより沢山もつと感じ取った価値増加分、を支払うわけではない
[10] もし、ニューマンの言うように、商業において使用価値が付け加わり、買い手がその分得をするなら、売り手は商業において付け加わる前の使用価値で売らずに、その様な使用価値が付け加えたより高い値で売るはずである
[11] 靴下を買った人が、それを作った人よりも沢山の使用価値を持っていると考えると、ニューマンの言うように生産行為となるが(使用価値が増えるから)、この行為は単に靴下を買っただけなので生産行為ではないことは明らかであろう
[12] この段落までの三つの段落では、商品流通において剰余価値が発生する理由の説明の誤りが、使用価値と交換価値の混同にあることが述べられている
[13] マルクス注:ベンジャミン・フランクリン『著作集』、第二巻、スパークス編、『国民の富に関する検討されるべき諸見解』[376ページ。]
[14] マルクスの注:アリストテレス『政治学』、第一巻、第十章、[17ページ][山本訳『政治学』、57ページ]
[15] この段落の結論は、「貨幣の価値変化をもたらすものは労働力である」、またそれは、生産の部面ではなく流通の部面においてである、ということであるが、その理由の説明はとてもわかりにくい。商品は価値を持っているが、その価値すなわち商品価値は使用価値と交換価値の二重性をもつ。商品価値の源泉は労働力であり、商品価値は貨幣価値として表現される。交換価値は貨幣の価値変化をもたらし得ない。だから、もし貨幣の価値変化をもたらすものがあるとすればそれは使用価値しかない。ところで、使用価値は消費があってこそ生じるのだから、労働生産物が商品で、しかもその商品が労働力自体でもある場合には、労働力の消費があってこそ、使用価値が生じる。ここに、貨幣の価値変化があり得る、とマルクスは直観した。が、その説明はここまででは不十分だし、果たしてこの直観は不可疑的なものなのだろうか?そのこと自体もこれ以降考え続けなければならない。
[16] 商品は、労働によって使用価値を持った労働生産物のことではない。労働生産物が交換価値を持ち、すなわち流通部面に投入されることで商品となり、商品は貨幣形態で表現される。この瞬間に商品は、商品価値という抽象的労働を内在しつつ、使用価値と交換価値という二重性をもつことになる。だが、商品がものであるかぎり、それ自体では価値を創造することができない。また、交換過程すなわち流通部面における商品の運動自体も価値を創造することはできない。しかし、この労働力自体が商品になるということは、労働力自体が抽象的労働という(普遍的な)価値を内在しながら貨幣形態で表現される交換価値を持つということだが、ここにおいて、物としての商品自体や流通部面における商品の運動だけでは不可能であった価値の創出という可能性が、労働力の使用価値すなわち労働力の消費という部分において出来する。それはどういう事態をもたらすことになるのだろうか。
[17] 労働生産物が使用価値を持つのはそれが消費されるからだが、この場合においては消費される価値と使用価値は等量である。なぜなら、そこには参加しているすべての生産者と消費者に関してそれを不等量にする理由がない。労働力が使用価値を持つのはそれが消費されるからだが、この場合においては、消費される価値より使用価値が大きくなるという原理がある。なぜなら、そうでなければ貨幣保持者が市場で労働力保持者から労働力を購入しようとはしないし、また労働力保持者はそのことを許容せざるを得ない事情、すなわち他に方法がないからであろう

0 件のコメント:

コメントを投稿