第五章 労働過程と価値増殖過程
【感想】:富を生む源泉は働くことにある。このこと自体は疑えない。その富がどうしてみんなに行き渡らないのだろう?富を公正に分配するという正義を達成する方策を、マルクスの理論を参考にして生み出すことができるのだろうか
第一節 労働過程
この節では、人間生活のあらゆる社会状態に共通するものとしての労働(人間の経済活動における一つの過程と捉えれば、労働過程)そのものについて考察している。「単純な・・・労働過程は、使用価値をつくるための合目的活動であり、人間の欲望を満足させるための自然的な物の取得であり、人間と自然とのあいだの物質代謝の一般的な条件であり、人間生活の永久的な自然条件であり、したがって、この生活のどの形態にも関わりなく、むしろ人間生活のあらゆる社会状態に等しく共通なものである。」
そして、労働が資本に従属することによって、生産様式そのものの変化をもたらすであろうことを予言する。
労働過程には、労働、労働対象、労働手段という三つの契機が属している。労働対象は、天然に存在するものとしては、土地や魚や樹木や鉱物などであるが、労働によって原料と呼ばれるものにもなる。労働手段は、肉体の延長としての道具として現れるが、労働過程を可能とする場(建物や運河や道路など)も含まれる。土地や作業場なども広義には労働手段に含められる。
労働過程を、その結果である生産物の立場から見れば、労働手段と労働対象は併せて生産手段として現れ、労働そのものは生産的労働として現れる(マルクスの注:この生産的労働の規定は単純な労働過程の立場から出てくるものであって、資本主義的生産過程についてはけっして十分なものではない(この点については第十四章で詳しく展開される))。
生産物は労働過程の結果だけではなくその条件でもあり、産業部門における労働対象は既にそれ自身労働生産物であり、原料だけでなく燃料のような補助材料もあり、補助材料があれば当然主要材料もあり、半製品、中間品、等々呼ばれるものも含めて、それらは労働対象でもあり生産手段でもあり生産物でもあり得る。要するにどう区分されようが、(そう名づけられて区分されていること自体)それらは労働過程において生じる使用価値の現れである。それだけではない。例えば道具や機械は自然現象等々により劣化したり壊れたりするが、それを直して使用価値を生み出すのも労働である。
「要するに、ある使用価値が原料か労働手段か生産物かのうちのどれとして現れるかは、まったくただ、それが労働過程で行う特定の機能、それがそこで占める位置によるのであってこの位置が変わればかの諸規定も変わるのである。」
労働は労働対象と労働手段および自分自身を消費する。従って労働過程は消費過程でもある。しかしここで、生産的消費と個人的消費とを区分しなければならない(この意味も次節で明らかになる)。
「労働はその素材的要素を、その対象と手段とを消費し、それらを食い尽くすのであり、したがって、それは消費過程である。この生産的消費が個人的消費から区別されるのは、後者は生産物を生きている個人の生活手段として消費し、前者はそれを・・・働きつつある労働力の生活手段として消費するということによってである。それゆえ、個人的消費の生産物は消費者自身であるが、生産的消費の結果は消費者とは別な生産物である。」
「われわれの将来の資本家のところに帰ることにしよう。われわれが彼と別れたのは、彼が商品市場で労働過程のために必要なすべての要因を・・・買ってからのことだった。・・・そこで、われわれの資本家は、自分の買った商品、労働力を消費することに取りかかる。・・・労働過程の一般的性質は・・・変わるわけではない。労働が資本に従属することによって起きる生産様式そのものの変化は、もっと後になってから始めておきることができる」
「労働者は資本家の監督のもとに労働し、彼の労働はこの資本家に属している。・・・また、第二に、生産物は資本家の所有物であって、・・・労働力の使用は・・・その一日は彼のものである。・・・彼は、ただそれに生産手段を付け加えることによってのみ、それ(労働力)を消費することができるのである。」
第二節 価値増殖過程
商品の等価交換という交換法則を保ちながらG-W-G´(=G+⊿G)の循環が現実に可能となっている根拠が示される。結論は、労働過程における労働時間は、労働者自身を再生産するのに必要な時間を超えるからである。なぜかと言えば、そうでなければ資本家は市場で生産手段と労働力という商品を買い、それを用いて別の商品を作って再び市場において売る、という行為をする意思を持つはずがなく、また、その意思が現実において可能となっているからである。
マルクスは、「商品そのものが使用価値と価値との統一であるように、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一でなければならないのである。・・・そこで、今度は生産過程を価値形成過程としても考察してみることにしよう。」と述べ、価値増殖過程の存在とその内実をあきらかにしていく。そして、資本主義生産体制という、それまでとはいわば質的に違った生産体制の出現を次第にあきらかにしていく。
綿花を買って糸を紡いで売るという例が示されている。二十ポンドの綿花を20シリングで買い、二十ポンドの糸を製造して商品として30シリングで売る。この時、紡錘等の使用にさいして消耗する量は4シリング、労働力は一労働日分の3シリング、剰余価値が3シリングで辻褄が合うことになる。ここでなぜ3シリングの剰余価値が生まれるかというと、もともと一労働日が3シリングという交換価値を持っているのは、労働者自身が一日の再生産に必要なお金が市場での交換価値であり、それは時間に換算すれば6時間に相当するのだが、実際に働く時間は一日に12時間だからである(この例は当時現実に生じていた経済活動を考察するために有効なモデルであるはず)。
商品そのものが使用価値と価値との統一であった。経済社会の歴史的発展につれて、商品の生産過程も労働過程と価値形成過程との統一であることが次第に顕在化して資本主義生産体制が出現してくる、という考えなのだが、この箇所の説明として、もう少し本文からの引用してみる。
労働量は時間によって測られる。「われわれはこの労働を今度は労働過程の場合とはまったく別な観点から考察しなければならない。労働過程の場合には、・・・合目的活動が問題だった。・・・紡績工の労働は他の生産的労働とは独自な相違ある物だった。・・・これに反して、紡績工の労働が価値形成的であるかぎり、・・・ここで問題になるのは、もはや労働の質やその性状や内容ではなく、ただその量である。」
労働者自身の再生産と剰余価値分の時間以外には貨幣は支払われない。「綿花が糸に変えられてゆくあいだに、ただ社会的に必要な労働時間だけが費やされるということは、今や決定的に重要である。・・・ただ社会的に必要な労働時間だけが価値形成的として数えられる。」
価値形成過程の立場から見れば生産手段は労働の吸収物としてしか見なされない。「ここでは原料や生産物もまた本来の労働過程の立場から見るのとはまったく違った光の中に現れる。原料はここではただ一定量の労働の吸収物として認められるだけである。」
労働の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量、つまり前者は不変である交換価値を、後者は可変である使用価値を意味する量である。
「もっと詳しく見よう。労働力の日価値は三シリングだったが・・・それは、労働力の生産のために毎日必要な生活手段に半労働日かかるからである。しかし、労働力に含まれる過去の労働と労働することのできる生きている労働とは、つまり労働力の毎日の維持費と労働力の毎日の支出とは、二つのまったく違う量である。前者は労働力の交換価値を規定し、後者は労働力の使用価値をなしている。労働者を二十四時間生かしておくために半労働日が必要だと言うことは、けっして彼が丸一日労働するということを妨げはしない(資本の論理からは)。だから、労働の価値と、労働過程での労働力の価値増殖とは、二つの違う量なのである。」
「資本家は貨幣を新たな生産物の素材形成者または労働過程の諸要因として役立つ諸商品に転化させることによって、すなわちすでに対象化されて死んでいる過去の労働を、資本に、すなわち自分自身を増殖する価値に転化させるのであり、胸に恋でも抱いているかのように「働き」はじめる活気づけられた怪物に転化させるのである。」
資本主義生産体制においては、社会が必要とする商品(実際に売れることにより証明される)を作るという経済活動をコントロールするのは資本家であり労働者ではない。「しかし、労働は、ただ、使用価値の生産に費やされた時間が社会的に必要であるかぎりで数に入るだけである。これにはいろいろなことが含まれている。労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない。もし紡績機械が紡績業にとって社会的に支配的な労働手段であるならば、労働者の手に紡ぎ車が渡されてはならない。労働者は、正常な品質の代わりに耐えず切れる原綿を与えられてはならない。どちらの場合にも、かれは一ポンドの糸の生産に社会的に必要な労働時間よりも多くを費やすことになるであろう。しかし、この余分な時間は価値または貨幣を形成はしないであろう。とはいえ、労働の対象的諸要因の正常な性格は、労働者にではなく資本家に依存している。」
「労働過程と価値形成過程との統一としては、生産過程は商品の生産過程である。労働過程と価値増殖過程との統一としては、それは資本主義的生産過程であり、商品生産の資本主義的形態である。」
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