第十一章 協業
【感想】:みんなで協力して働いた成果は、みんなが使えるようにしないとね。ただお金だけが増えてしかもそのお金を使うことができる人が特別な人たちだけだったら怒るよね。商品の価値の二重性、使用価値と交換価値という見立ては、そのことを考えるうえでやはり深い意味がありそう。
すでに見たように、資本主義的生産が実際に始まるのは、労働過程が規模を拡張して生産の規模が大きくなったときからである(これからこの現象をもう少し深く考察してみよう)。生産様式に関しては、同職組合的手工業と初期のマニュファクチュアとの違いは、同時に同じ資本によって働かされる労働者の数が多いことだけである。だから剰余価値量は増大しても剰余価値率は変わらない。
しかし、この量的拡大は質的変化をもたらしはじめる。個々の労働者の生産力には偏差がある。したがって小親方が雇う労働者の質にもばらつきがあって、小親方同士の剰余利益率にもばらつきがある。「だから、価値増殖一般の法則は、個々の生産者にとっては、彼が資本家として生産し多数の労働者を同時に充用し、したがってはじめから社会的平均労働を働かすようになったときにはじめて完全に実現されるのである。」(一つの条件が整えられる)
労働様式が変わらなくても、労働者を同時に充用することは、労働過程の対象的諸条件に一つの革命を引き起こす。まず、容器や用具や装置など生産手段の一部分が労働過程で共同に消費(使用)されるようになることで、その生産手段の使用価値の使用度が増大する。しかし、このこと自体はまだ、商品やその生産手段の交換価値を変えない。次に共同で使用される生産手段の規模が大きくなる。しかし、その価値の大きさは規模や有用効果に比例して増大はしない。その結果、それらが生産物の単位量あたりに引き渡す価値は減少し、不変資本のこの部分の価値成分は低下し、商品の単位量あたりの価値も低下する(だから剰余価値率も上昇する)。このような生産手段の節約は、ただ、それを多くの人々が労働過程で共同に消費することだけから生じるものである。「労働手段の一部分(生産過程から見れば生産手段の一部分)は、この社会的労働の条件または労働の社会的条件の性格を、労働過程そのものがそれを得るよりも先に、得るのである。」(資本家には労働者を同時に充用しようとする動機が発生する)
「生産手段の節約は、二重の観点から考察されなければならない。第一には、商品を安くし、またそうすることによって労働力の価値を低下させるかぎりで。第二には、それが、前貸総資本に対する、すなわち総資本の不変成分と可変成分との価値総額に対する剰余価値の割合を変化させるかぎりで。」この後の方の点は第三部の第一篇ではじめて論究されるので、ここでの問題に関係するところだけ述べておく。
(協業一般は次のように定義される)「同じ生産過程で、または同じではないが関連のあるいくつかの生産過程で、多くの人々が計画的に一緒に協力して労働するという労働の形態を、協業という。」
多くの力が合わさって生じる効果とは別に、たいていの生産的労働では、単なる社会的接触が競争心や活力の独特な刺激を生み出して、それらが各人の個別的作業能力を高める。これは、人間は生来、社会的な動物であるということからきているのである。
協業の有効性はいくつかの事例から理解できる。例えば煉瓦積み作業の場合に、一人一人の作業者がそれぞれ煉瓦をもって積みに行くよりも、作業者が一列に並んで煉瓦を順繰りに手渡して積む方が、速く積むことができる(必要時間の短縮)。農業や漁業の収穫期や収穫時の協業は、労働時間の短さが、決定的な瞬間に生産場面に投ぜられる労働量の大きさによって埋め合わされる。
一方、協業は労働の空間範囲の拡大を許す(要求する、可能にする)から、土地の干拓とか築堤とか灌漑とか運河や道路や鉄道の建設等における協業が必要とされる。同時に、協業は生産規模に比べて生産領域の空間的縮小を可能にする。「このように労働の作用範囲を拡大すると同時に労働の空間範囲を制限するということは、多額の空費を節約させるのであるが、この空間範囲の制限は労働者の密集、いろいろな労働過程の近接、生産手段の集中から生ずるものである。」
「個々別々のいくつもの労働日の総計と、それと同じ大きさの一つの結合労働日とを比べれば、後者はより大量の使用価値を生産し、したがって一定の有用効果の生産のために必要な労働時間を減少させる。・・・(協業の効果を発現させる)どんな事情のもとでも、結合労働日の独自な生産力は、労働の社会的生産力または社会的労働の生産力なのである。この生産力は協業そのものから生ずる。他人との計画的な協業の中では、労働者は彼の個体的な限界を抜け出て彼の種属能力を発揮するのである。」
協業の規模は、一人の資本家が労働力の買入に投ずることのできる資本の大きさ(可変資本)と、その資本家が集積した生産手段(不変資本)の大きさによって定まる。
資本主義的生産の始まりを顧みると、最初は、個別資本のある最小限度の大きさが必要なものとして現れたが、今では、「多数に分散している相互に独立な個別的労働過程が一つの結合された社会的労働過程に転化するための物質的条件(協業を可能とする物質的条件=インフラ、都市など)として現れるのである。」
同じように、最初は、労働に対する資本の指揮も、ただ資本家のもとで労働するということの形態的結果として現れただけだったが、協業が発展するにつれて、資本の指揮は、一つの現実の生産条件に発展してくる。「生産場面での資本家の命令は、今では戦場での将軍の命令のようになくてはならないものになるのである。」
「この指揮や監督や(個別的諸活動の調和という)媒介の機能は、資本に従属する労働が協業的になれば、資本の機能になる。資本の独自な機能として、指揮の機能は独自な性格を持つことになるのである。」(資本の指揮の機能の独自性が持つ一番本質的な性質は、労働者が生きているすべての時間を支配することかもしれない)
資本は労働により創出される価値のうち、労働者の再生産に必要な分以外の価値を搾取するものであるから、資本家と労働者は敵対関係におかれる。したがって、資本家の指揮は「搾取者と搾取材料との不可避的な敵対によって必然的にされている。」また、「労働の関連は、観念的には資本家の計画として、実際的には資本家の権威として、彼らの行為を自分の目的に従わせようとする他人の意思の力として、彼らに相対するのである。」
資本家の指揮は生産過程を対象としている。その生産過程は、社会的労働過程であると同時に価値生産過程でもある。したがって、資本家の指揮は社会的労働過程に対するものと価値生産過程に対するものという二重性をもっており、また、資本家の指揮は形態から見れば専制的である。資本家は、最初は手の労働から解放されたが、今では監督という機能を特別な種類の賃金労働者(=産業下士官)に譲り渡す。「産業における最高指令が資本の属性になるのは、封建時代に戦争や裁判における最高指令が土地所有の属性だったのと同じことである。」(ならば近代国家としては、資本の統治は国家統治の重要問題ということになろう)
協業は労働過程に入ってから始まるのだが、労働過程に入ると同時に彼らは資本に合体されており、協業者としての彼らは資本の一つの特殊な存在様式でしかない。労働者が一定の諸条件の下におかれれば、労働の社会的生産力は無償で発揮され、そして資本は彼らをこのような諸条件のもとにおくのである。「この生産力は、資本が生来持っている生産力として、現れるのである。」
協業は、人類の文化の発端以来行われている。大規模な協業の応用は古代世界や中世や近代植民地にも現れているが、これは直接的な支配隷属関係に、たいていは奴隷制に、基づいている。これに反して、資本主義的形態は、自分の労働力を資本に売る自由な賃金労働者を前提している。「とはいえ、歴史的には、それ(資本主義的形態)は、農民経営に対して、また同業組合的形態をそなえているかどうかにかかわりなく独立手工業経営に対立して発展する。これらのものにたいして資本主義的協業が協業の一つの歴史的な形態として現れるのではなく、協業そのものが、資本主義的生産過程に特有な、そしてこの生産過程を独自なものとして区別する歴史的な形態として現れるのである。」
協業は、現実の労働過程が資本への従属によって受ける最初の変化として、資本主義的生産過程の独自な形態として現れるが、この変化は自然発生的に起きる。また、協業は、労働過程での比較的多数の賃金労働者の同時的使用という点において、資本主義的生産の出発点をなしているが、この出発点は資本そのものの出現と一致する。だから、一方では、資本主義的生産様式は、労働過程が一つの社会的過程に転化するための歴史的必然性として現れるのであるが、他方では、労働過程のこの社会的形態は、労働過程を一層有利に搾取するために資本が利用する方法として現れる(マルクスの言う歴史的必然には人間の意思は反映されないのだろうか?)。
「協業の単純な姿そのものはそのいっそう発展した諸形態と並んで特殊な形態として現れるとはいえ、協業はつねに資本主義的生産様式の基本形態なのである。」
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